籠込め(カゴメ)ネコ『びー』の帰還

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名前は、「びー」

朝一番に病院に連れていった。尿道カテーテルでおしっこ30ミリリットルくらい吸引。自力で排尿できないみたいだから、あのままだったら、間違いなく腎不全で数日うちに死んだだろう。だから、現下の危機は去った。生き延びれるかどうかは、まだ五分五分、当分入院。



後ろ足に少しは反射がある。尻尾はダメみたいだけど。 ともかく元気だ。ごろごろ甘える。あの「ごろごろ」って音は、骨密度を高める振動数なんだって。だから弱ってるときは、さかんにごろごろする。

名前は「びー」、よかったかな?明日もお見舞い行く。
2008年11月6日(木)

「びー」入院二日目

レントゲン撮影の結果。やはり背骨が一回折れて、またつながっている。下半身につながる神経が切れて、麻痺が残っているのだ。



血液検査。BUN(尿素窒素、だったかな?)、正常値の2倍。「腎機能障害」だが、自力で排尿できないのだから、まずは当然、ということになる。

まだ、食欲もあんまり出ないって。うちに一晩泊まった夜も、あんまり食べなかったな。子猫なのに。 でも、「ご機嫌」はよさそう。鼻をつっついたり、しばらく遊んだ。

食欲が戻って、おしっこを出させる方法の目途かたつまで、入院てことになろう。

2008年11月7日(金)

緑色のバスケット

うちには交通事故にあったネコが三匹いて、みんなこの病院でお世話になった。お見舞いのときは、こんなカゴに入って診察室にやってくる。

後ろ足がきかないとジャンプできないから、「逃げる」おそれはないものの、歩き回ってどこかに引っ掛かったり挟まったりしやしないかと、気が気でない心配性なものだから、あ、うちでもこんなカゴがあったらいいな。ボンちゃん、て最初のネコなんだけど、やっぱり尿がたまって食欲が落ちて、しばらく入院して退院したとき、僕はポンがすっかりよくなるものと思い込んでたから、上機嫌で帰り道にペットショップに立ち寄った。



でもそんなカゴ、売ってなくって、だいぶ後になってジャスコのアウトドア用品売場みたいなところで見かけた。あれはピクニック用のバスケットだったんだね。

で、しかたないから段ボール箱もらって帰ってきて、その夜半、ボンちゃん、亡くなった。やっぱりおしっこの排出が不十分だったんだろうな、腎不全だったんだろうな。段ボール箱は棺桶になってしまった。

だから、あのバスケットを見ると、少し胸が痛む。ボンちゃんのは緑色だったけど・・・。

2008年11月7日(金)

「とっても人懐っこいネコ」



土曜日は一番忙しい日だからね、お見舞いに行けなかった。 今のところマヒしている下半身が、どのくらい回復できるものかは、事故から二週間くらいは様子を見ないとわからないんだ、と前のときにも言われていた。
だから、毎日お見舞いに行っても、「あらー、すっかりよくなったはねぇ」なんてわけにはいかない。
でも、毎日行かないと気掛かりなのは、別に「愛」とか「やさしさ」とかとは関係なくて、自分が傷したときでも、ほら、傷口ずっとみてないとなんか不安でしょ?あれと同じ・・・。
食欲は依然として戻らないって。身体を屈められないから、うまく食べれないのかも。口元まで持っていくと食べてくれるって。まだそんなに弱ってるのに、甘えること、甘えること・・・。
「とっても人懐っこいネコですね!」、これってほめられたんでしょ?「親バカ」はうれしくてしょうがない。

2008年11月10日

「ありあわせの」人生



月曜日もずいぶん忙しい。沖縄市まで出勤途中にお見舞いに行く。
今日の担当は院長先生。二回目の血液検査、BUNおよびクレアチニンが高め、腎臓のダメージが続いている。「腎機能の数値がもう少し下がったら、お帰ししようと思ってるんですよ」、ここの病院とは長い付き合いだからね、私かだらしなく「壊れかかった」ネコばかり拾ってきても、丁寧に診察してくださるし、こちらの懐事情も察して色々料金も割り引いてくださる。何といっても入院が長引けば費用もかさむから、可能なかぎり早期退院がありがたいのだ。
排尿、排便が自力ではできない。ということになると「飼い主」としては相当の覚悟が必要になる。同じ程度の障害のポンちゃんてネコ、結局は死んでしまったけど、しばらく面倒みてたから、なんとかなると思う。というか、いつものことながら、「覚悟」とかする余裕もなく、降って湧いたように引き取ってしまったわけだから、「なんとかなる」ということにせざるをえない。
「人生」は、お、大きく出たね!いつだって「不意打ち」で、ありあわせのもので、「間に合わせ」なければならない。私と、この「ビー」ちゃんも、そうやって、「ありあわせ」で生きていく。
「性格は、めっちゃいいですよ!」また、ほめられた!

2008年11月10日

「名付け得る」不幸について



ところでこのページのアドレスは↓だから・・・ http://plz.rakuten.co.jp/miyagawasusumu/

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ところで私の職業は予備校の講師で、この「びー」を拾うことになったのも、「自習室」の近くに車にひかれて歩けないネコがいる、と、困り果てた生徒さんが「通報」してくれたからだ。
ネコが「家畜」として、人類と「共生」の関係に入ったのは、古代エジプト文明にさかのぼる。ナイル流域の穀倉地帯、穀物を鼠の害から守るために野性種「リビヤヤマネコ」を飼い馴らした。
その数千年の歴史に比べれば、「取るに足りない」わずか二百年ほど前、産業革命を達成し「資本主義」を手にした人間は、20メートルほどしか視界のないネコにとっては、致命的な敵対者でしかない「自動車」と言うものを発明してしまった。
毎日どこかでネコが車にひかれる、人間だってひかれてるんだから、それは「仕方がない。」不幸はどこにでも転がっていて、でもそのほとんどは「他人事」であって、「いちいち、かかわってられない。」世界に普く存在し、日々生成する「不幸」が計数上の値でなく、他ならぬ「あなた」や「わたし」に関わりのあるものとして立ち現われてくるのは、「あなた」や「わたし」がそれに、「出会って」しまうからだ。「出会い」はありがたいことばかりとは、限らない。
不特定の、名前のない、抽象的な「不幸」に、私たちは共感できない。いや、共感していたら身がもたないから、共感できないようにできているんだ、と言うべきだろう。私たちが自らに「引き受け」、我がことのように「悲しむ」ことができるのは、ただ、特定の、名付け得る、そう、ほかならぬ「あなた」や「わたし」が、すでに「出会って」しまった「不幸」だけなのだ。

その生徒は、「自習室」のある建物に案内してくれる道すがら、「でも、出会っちゃったからね・・・」、と言った。 「また、拾っちゃうんだろうな・・・」、すでに出会う前から、私はそんな気がしていたかも・・・。

2008年11月11日

今日はこれだけ



夕方は病院も混んでいる。お医者さんも看護師さんも、忙しい。私だって、本当は、忙しい。 だから、今日はこれだけ。
2008年11月12日

「うんこ」談義



でも、不思議といえば不思議。先週の水曜日の夜、このネコを初めて見て、連れて帰って一晩預かって、翌朝一番に入院。だから私はこのネコのことを、「何も知らない」、そんな「ゆきずり」の「あかの他人」なのに、「はーい、お見舞いに来まちたよー、寂しかったでちゅかー?」みたいな、何年も飼い主してきたみたいな顔してる。
あと一週間もすれば、退院したこの子をうちに引き取ることになる。一日二回、下腹部を指で押して「圧迫排尿」させる。「こうして親指と人差し指でおなかをはさんで、探ってゆくと、おしっこが溜まっているときはわかるんですよ。そうね、軟式テニスのボールぐらいの硬さ・・・」と、先生は事もなげにおっしゃるのだが、前の「ポン」ちゃんていうネコのときも、結局私は膀胱がどこにあるかわからずじまいだった。
下半身の神経がだめになっているといっても言っても、生きものの身体ってうまくできているものね、内蔵の神経は別で、消化器もちゃんと働くから生きていける。肛門の括約筋も動くはずだ。でもうんこがうまくできないのは、後ろ足がきかないからなのね。人間だってきっとそう。そんなことちょっと考えればわかりそうなものなのに、私だって、たとえばこんなネコを引き取るまで、考えてもみなかった。 だからうんこの度に、汚れてしまったお尻を拭き、新聞紙の寝床を取り替える、などの仕事をすることになるだろう。うんこはいつ出るかわからないから、いかにひま人の私であっても、じっと待ってる訳には行かず、出掛けるときには多少汚れたまま我慢してもらうことになる。
あと、足が悪いとどうしても、エサや飲み水の入れ物をしばしばひっくり返してしまうのが、色々工夫はしてみるんだけど、悩みの種だね。
とまあ、ざっとこんな「苦労」を引き受けることになる。

2008年11月13日

エマージェンシー・コール



動物病院から留守番電話がはいってる。あたし、友達いないもんですから、めったに電話かかることなく、それだけでも緊張するのに、やっぱり入院中だから、「容体が急変しまして・・・」てことになるんじゃ、って心配もある。
先生の軽やかな声で、「ビーちゃん、血液検査、正常値になりましたから、退院できますよ!」
ともかく、よかった。ま、これから大変、てことでもあるんだが・・・。
2008年11月13日

「びー」退院



病院に着くと「びー」ちゃんもうカゴから出されて、看護師さんに前脚でぶら下げられて出てきた。
先生に教えていただいて「圧迫排尿」の練習。膀胱の位置なんてどのネコでも同じだろうと思いきや、意外に個体差があってね、「この子はわりとわかりやすいですよ」なんて言われて、あ、ほんとだ、軟式テニスボール的感触のものがある!
朝、排尿済んでるからもう出なかったけど、これから一日二回の日課になる訳で、場所がわかりやすい、だけでも前途は少し明るいぞ!! おちんちんのまわりに擦り傷があって、まだコンクリートの上をはい回っていたときのものかな、かさぶたになりかかってるけど、当分抗生剤投与が必要。

さ、「びー」ちゃん、帰るわよ!って、君のほとんど居たことのない家だけどな、それにびっくりするほど沢山の同居「ネコ」がいるけどな!ま、おいおい馴染んでくれ給え。「性格はとてもいいですよ!」と、また念を押された。
でも、うちには必ずしも「性格がいい」とは言えない先輩方もいる訳で・・・。
ペットショップに寄って、犬猫用ミルク、抗生剤を混ぜて飲ませる、と、ペット用おむつ、うんこ垂れ流しになるから念のため、でも高い!から常用はできないな、を買い求め、「意気揚揚」引き上げてきた。
夜まで仕事、とりあえずエサと水だけ出して出勤。
退院初日の続報はのちほど・・・。
2008年11月14日

第一回「圧迫排尿」・顛末



ちゃんと食欲も戻っているらしい、エサも水も空っぽになってる。小屋の床に敷き詰めた新聞紙は、元気よく這い回ったと見えて、便で汚れているが、予想されたほど、そう、いわゆる「酸鼻を極める」ってほどでもなかった。ま、私の感覚が麻痺してるんだろうけどな、私の住居自体、常識人が見たら失神するだろうから・・・。
退院して半日経過しているから、とるものもとりあえず第一回「圧迫排尿」。左手で首根っ子をつかみ、少し身体を持ち上げて、右手の親指と人差し指で下腹部をゆっくり撫で下ろし、昼間教わったようにして膀胱を探す。子猫はまだ膀胱の皮が薄いから、決して強く押し過ぎてはならない。
最初はちょびっ、やがて「ぴゅーっ」っと、もちろんそんな音はしないんだが、そんな音でもしそうなくらい、新聞紙の上に美しい弧を描いて、おしっこが飛んだ。
完璧じゃない?獣医さんの教科書に「圧迫排尿」って項目があって、絵入りで説明が載っている、のかどうかは知らないが、載っているとしたらこんな感じじゃない?って思えるくらい、うまくいった。
私は自慢ではないが、ほとんど自慢にしているが、「うつ病」患者で、毎日あることないことで果てしなく落ち込み、「死ぬの生きるの」のとのたうち回っているのだが、こんな些細なことが「うまくできた」だけのことで、もうすでに幸せな気持ちになれもし、「生きる希望」さえ湧いて来かねないのだから、そのあまりに衰弱しきったわが「精神」、ほとんどいとおしい、とも思う。

閑話休題、新聞紙を取り替え、水とエサを補充。ウエットティッシュでお尻のまわりと尻尾を拭く。そう言えば、このペット用ウエットティッシュ、「ポン」ちゃん退院したときに買ったんだ。3パックで安売りしてた。一パックも使わないうちに、ポンちゃん死んじゃったから・・・。無駄にならなくてよかったね!
と、それだけの作業が終わってしまったら、もう特にすることはない。明日からは薬を飲ませるのが付け加わるけどな。なんだ、やっていけるじゃない!もちろん、そう思ってたけどな!
2008年11月14日

「資本主義」のしくみ



人間は生きていくためには働かねばならず、だから私も働く。働くことが好きなわけではないし、働かないで済むものならそうしたいが、そうもいかないし、また、働かないで居たら居たで、こんどは「働いていないこと」がストレスになるのだろうからどっちみち「生きづらい」などとわめいて、結局、死にもせず、生き続けるのだろう。
飼い猫に、「一日二回、排尿させて小屋を掃除し、薬を飲ませてエサを出す」、等ということがちゃんとできてしまうほどのゆるーい勤務形態、それで二十数匹の犬猫と飼い主とが「食べていける」給料をいただけているのだから、有り難いことだ、もっと感謝して粉骨砕身とは言わぬまでも、明るく楽しく働かせていただければよいものを、私はやはり働くことが好きになれず、つらくてしょうがない。
「どうして働かなければならないんだろう?」とは言わない。何のためだかわからなくても、売れるものなら売って、「交換」し続けていなければ「資本主義」システムの中で生きていけない。私はたまたま「勉強」が好きだった、それしか能がなかったからそればかりしてたからできるようになっただけだから、そんなもの「販売」するのは「本意」じゃない。もっとまともなもの売りたいけど、差し当たりちゃんと値が付くのはこれしかないらしいから文句は言わない。
困るのは、人が「何のために生きている」のかよくわからないことだ。私は「何かになりたい」と思ったことがない。私が一番困惑させられる言葉は『夢』。眠ってるとき見るやつだろ?「現実」の対語だろ?実現しない、ってことだろ?だったらどうして「夢がかなう」とか、「夢を持ち続ける」なんて「誤用」が平気でできちゃうわけ?
『夢』を持っている人の傍にいることが、落ち着かない。未来を描いて見せることが自明であるような人々の間にいることが、苦痛だ。 私と、たとえば「びー」ちゃんとの暮らしに、「未来」は必要ではない。昨日はおしっこがうまくできたのに、今日はいまいちだったね。明日はうまく行くといいね。それだけだ。「未来」が必要でないからと言って、不幸なわけではない。
写真は、「ちょび」と「びー」
2008年11月20日

「連続性」の証明



入院費用の清算してきた。七泊八日で3万円弱。動物を飼ったことがない人にこの金額がどう感じられるのかはわからん。自分には無関係な事柄に金銭を支払うこと自体想像できんだろう。私だってできなかった。
沖縄に来てしばらくたって、いろいろあって、で、いろいろぼろぼろになってた七年前、私自身が弱ってたからだろう、死にかけた子猫がやたら目についたのは、そんなわけで動物を飼い始める前は、私だってわからなかった。
破格に割り引いていただいてるんだよ。「怪我をした可哀想な動物を保護した善意の人」だから、リスクは動物病院も一部負担しましょう、と言う趣旨だ。それは気恥ずかしいけど、有り難いことだ。
たとえば人間の場合だって、行き倒れになってる人がいたから救急車呼んだら、患者さんに支払い能力なかったから、救急車呼んだあなた払いなさいって、言われたら困るだろ?
近代国家においては、あくまで「建前」だけだとしても、国民が「生き延びる」ことに「国家」が責任をもつ。繰り返すが「建前」だけだったとしても、それが当たり前のように感じられるとして、歴史的にはたかだかここ数十年くらいのことに過ぎないということは注目に値する。
車にひかれたネコごとき、誰も「生きろ!」とは言わない。で、ほんとは私だって「生きろ!」とは言われてない。 実は私は年金保険料をしかるべき年数支払っていないため、年金の支給をほぼ受けることができない。国家が国民を「生き延び」させるために考案したシステムに、参加しなかったのだから、しょうがない。
でも、言い訳じゃないけどね、生き物が生きているのは別に理由や根拠や、ましてや「権利」があるからじゃない、って思うのよ。あたしたちは、ここに何の根拠もなく、ただ「投げ出されたように」生きているのよ。生き続ける「理由」があるとしたら、それはただ「生きてきたから」ってことだけなのよ。
2008年11月20日

「再入院・手術!」



一難去ってまた一難。難、と言うほどのものではないが、「びー」ちゃん再入院。後ろ足がきかなくても、「育ちざかり」の子猫だからとにかく落ち着きがなく、前足だけで器用に動き回るものだ。元気がいいのはありがたいことなんだけど、おかげで、お尻、おちんちん、尻尾の先が常時床に擦り付けられ、皮膚がむけて出血したりただれたりしている。このあたりの皮膚の神経は麻痺しちゃってるから傷ついてもはい回るのをやめない。
神経が麻痺してるから麻酔をかけなくても、軽く押さえ付けるくらいで縫合手術もできる。でもそうやって縫い合わせたところを、また擦り付けてしまい、傷口が開いてしまった。こう「生傷」が絶えないと細菌感染の恐れもある。と言うわけで、入院して全身麻酔かけて手術していただくこととなった。
麻酔薬というのは身体に相当負担をかける危険な薬物なんだろうから、これを解毒する肝機能や、すみやかに排出する腎機能が正常でないと実施できない。再度血液検査の上、手術、昨日の晩の予定だったから、特に電話もかかってきてないから、うまく行ったのだろう。明日午前中お見舞いに行く。
退院してから一週間もたってないから、排尿・そうじ・お尻拭き取り等という「日課」に「慣れた」と言うわけでもない。昨夜は、それもお休み、ぐっすり眠った。
2008年11月21日

明日退院のご予定



下腹部の毛がきれいに刈られて、おちんちんの下の方と尻尾の付け根にきれいな縫い目。腕(?)、あ、前右足だけど静脈点滴用の針が留置されているんだろう、白い包帯巻かれて、びーちゃん出てきた。
尻尾はどっちみち動かないから、排便の邪魔になるしいずれは切り取りましょうと言われていたんだが、これも今回の手術で同時にしてもらったのだ。それに去勢手術も。なにせ、傷口から睾丸がはみ出してる状態だったからね。
普通、去勢手術は一歳過ぎるまでやらない。尿道の発達が不完全になって病気になりやすいからなんだが、びーちゃんはどっちみち、「成人」したら尿道を拡張する手術するんだって。
ともかく、無事終了で、ご機嫌もよさそう。明日退院のご予定である。
2008年11月21日

三階の「クー」



でも、問題があるのだ。「びー」ちゃんの下半身は治ることはないのだから、これからも同じように身体を引きずって、同じ部位に傷を作ってしまうことは大いにありうる。
今うちでは、びーちゃんを木製の小屋に閉じ込めている。お手製の「三階建て」の「猫マンション」、ネコを拾い始めた七年前、ということは「うつ」発症直後のすごい状態のときだから、仕事は干されかかってたから暇だし「作業療法」のつもりだったんだろうが、正直、何でこんなもん作ろうと思いたったのか、思い出せない、というか、思い出すのがコワイ、のだが今となっては重宝している。
1m×2mのベニヤをそのまま使って三方を囲み、同じくベニヤで天井と床、「階」の仕切りをつくった。だから一部屋面積1平米、高さ70cm、結構豪華だろ?はじめは緑色の「チキンワイヤー」、あの針金ねじって六角形の編目にしたやつ、を貼りつけて窓や入り口にしていたが、固定の仕方が素人仕事で軟弱だったから、爪であっさり破られた。今は3cm×4cmの杉角材の「格子」だから、簡単には逃亡できまい。杉材は「爪研ぎ」に喜ばれている。
三階にはやはり交通事故ネコの「クー」ちゃん、下半身の麻痺は「びー」よりずっと軽く、おしっこをもらしてしまう以外に日常生活上の支障はないのだが、避妊前のメスで、なおうちには去勢未適齢の雄がいるので「隔離」している。
ちなみに病院で「びー」が「性格がいい」とことさらにほめられるのは、「クー」へのあてつけかも知れない、と思えるくらい、こいつは性格が悪かった。極端な臆病者だったということなんだろうが、エサや水を換えるために手を差し伸べるためにかわいげなく大声で威嚇する、のみならず、何度も噛み付かれた。入院中もそうだったんだろう。
写真は、三階の「クー」。今ではすっかり丸くなって、夜中に切ない声で呼び付ける。

2008年11月22日

オレンジ色のバスケット



で、相変わらず話が長いね、いや、明日の午前中「模擬テスト」だかなんだかで仕事休みなんだわ。うれしくてね。で、真ん中の二階は、「ストルバイト尿管結石」って、ネコにはものすごくポピュラーな病気があって、うちでも五匹に一匹くらい、一度はかかった事があるが、ココちゃんというのがとりわけかかりやすい体質で、この病気は尿中に、たしかリン酸マグネシウムが結晶作るのが原因だから食物のマグネシウム含有量をさげリン酸の電離を抑制するために尿のpH酸性側にしなきゃならない、そのための特別療法食、結構高いんだこれが、だから他のやつに食われないようにココちゃんだけ隔離して食べさせる、二階はそのための食事部屋。
最後に、一階か「びー」。もう一年近くになるか、「ポン」ちゃんが一月あまり暮らしたのもここだ。後ろ足がきかないのだから、落下事故だけは避けなきゃ、という配慮。
それにしても、傍目には同じくらいの障害に見えるが、ポンはこんな傷作らなかったのは、ほんの少しでも床からお尻が持ち上げられたからなんだろう。ともかく、このベニヤに新聞紙敷いただけの固い床の上を走り回らせておくわけにはいかない、ということだ。プラスチックのような、突起物のないすべすべの材質が好ましい、でも、糞尿を吸収させるには難点がある。
悩みは絶えない。お見舞いの帰りにDIYの店に立ち寄った。ネコの小屋の床の材質について真顔で悩みつつ、わたし、自分が今「ポジティブ」に生きていることに気が付いた。人は、具体的に悩むべきものを持っている間は、それが些末なものである方がなおよいが、なかなか死なないものであるらしい。
いい話じゃないか、「助けたネコに、助けられて・・・」って!
で、その同じ店で、動物病院で使ってるのと同じバスケット、見つけたの!前にジャスコの「アウトドア用品」コーナーで見かけたんだけど、季節が移ろうとともになくなっちゃってて、探してたんだ。よかった!これがあればとりあえず退院後しばらく、傷が固まるまで、ここに閉じ込めて、「安静」にしておける。病院と同じ「待遇」なんだから、「びー」にも文句言わせない。よかった!ひとつ解決。喜びのあまり写真撮影。「ポン」ちゃんのと同じ緑色にしたかったけど、オレンジとブルーしかなかったから、オレンジにした。

2008年11月22日

籠込(かごめ)ネコ「びー」の帰還



「♪♪かぁーごめ、かごめー、かーごのなーかのとーりーは、いついつでーりゃーるー?♪♪」
「びー」退院。おんなじバスケットからおんなじバスケットに移されて。「あら、色まで一緒ですね」、しまった、ブルーにすべきだったかな?
さあ、びー、帰るぞ。お前は当分カゴのなかのネコだ。抜糸は一週間後、でも土曜日はとうちゃん忙しいから日曜になる、それまで暴れてまたちんこやおけつすりむいたらあかんさかいにな、でりゃりゃんのだよ!

2008年11月22日

平凡な日々



びーちゃん、うちに戻ってきて三日目。一番の懸案はおしっこ。「圧迫排尿」一日二回、寝過ごして少し遅れることはあっても、なんとか続けている。こればかりは命にかかわることだからね。毎日「教科書通り」みたいにはいかない。膀胱の手触りは同じくらいなのに、勢いよく「ぴゅーっ」と弧を描いて飛んでくれるときもあれば、私の手のひらやズボンの上にぼたぼたしたたり落ちてしまうときもある。生きものの身体というのは、不思議だ。そして、人間の「ココロ」も。ズボンにおしっこかけられて怒らないんだもの。
「糞尿の世話ができる」ということと、「愛する」ということとの間には、どんな関係があるんだろうね?「近代」は、お、また大きく出たね、私たちの生活領域から「糞尿」というものをどんどん締め出していった。臭いウンコもボタン一つで流れていくし、だから私たちはまるでウンコなんてしたことがないみたいな澄ました顔をして暮らしていられる。
二十数匹も飼ってやっと気が付くほど私は愚かなんだが、生きものを飼うというのは、糞尿の世話に始まり糞尿の世話に終わると言ってもけだし過言ではない。正直、糞尿の世話はものすごく疲れる。精神的に疲れる。それは「ウンコ」や「しっこ」ってやつが、排泄物ってやつが、「死」とつながる象徴的な意味を担っているからとしか思えない。
でも、「びー」ちゃんの下半身を拭いているとき、ウンコがぽろりところがり出てくると、掛け値なしに「かわいい」と思ってしまい。きっと何かの錯覚なんだろうけどね。

2008年11月25日

「びー」様、お食事中



週末、私は十五六時間ほども眠る。三十年間、「欠かしたことのなかった」飲酒を、4ヵ月前にやめた。健康状態に不安を感じたからだ。当然、「健康」になる筈だった。何のことはない、「泥酔」が「昏睡」に置き換っただけだ。しゃれにもなりゃしない。
人間は言語を媒介とした「社会」で生きるしかない「社会的動物」だから、どこかで「社会」と「和解」しなければ生きていけない。ネコ26匹と「ひきこもり」どころか「寝たきり」暮らしを送っている私が言うのだから間違いない。
人間を社会に繋ぎ留めてくれるのは人間だけなのであって、いくらネコが「癒して」くれたって私の病気は治らない。「人間」を「回復・快復」させてくれる美しい出会い、慈愛に満ちた言葉、でもその何百倍、何千倍の勢いで押し寄せてくる「悪意」・「憎悪」、だからそれに恐れをなして人は「社会」から大挙して逃亡する。
「他者の『悪気』が人を狂気に追い込む」と田口ランディは言った。「悪気」は「悪意」とは違う。他者を害する「意思」を持っているかどうかは関係ない。
というわけで、何が「というわけ」か知らぬが・・・、疲れ果てた私はようやく日も落ちかけた頃に起きだす。まずは「びー」の状態、ウンコまみれで暴れて生傷つくってんじゃ?・・・が心配なのだが、こうまで長時間放っておいてしまうと、他の25匹が空腹のあまり暴動を起こしかねないので、衰弱しきった身体に鞭打って一通りトイレ、もちろんネコの、掃除などして飲み水を換え、エサを出す。この間三十分ばかり、びーちゃんは、バスケットの中から絶叫し続けている。
・・・あれ、タオルは少しも汚れていない。ということはウンコもしっこもまだなんだ!急いで首をつまみあげて「圧迫排尿」、おぉ、膀胱がはっきりそれとわかるほど膨れ上がっている。上の方からゆっくりと、そう、「搾り出す」ように。最初はあらぬ方向へ、やがて弧を描き、最後には私の手のひらの中に生暖かい液体が流れてくる。すばらしい!ほとんど「しあわせ」そのもの、と言っていいような「生暖かさ」。
術後の傷口が汚れないよう消毒液を流す。冷蔵庫で冷やしてあるから「超」冷たかろう。これが刺激になって、肛門からウンコが「めりめり」出始めた。黒くてコロコロの、完璧健康うんちだ。すばらしい。タオルもバスケットも少しも汚さずに一日の仕事の半分が済んでしまったぞ!すばらしい!
写真は、その後のお食事中の「びー」様。

2008年11月26日

「コロコロうんちの秘訣はヨーグルト」



☆★☆★☆★☆★コノぶろぐノかてごりー、キメズニイタラ、「ぺっと」ト「びょうき」トイウコトニナッタヨウダ。ソンナコウコクガツイテイタゾ。オモシロイ。オモイッキリカワイイネコチャンノシャシント、オモイッキリぐろイびょうきネタデ、あんばらんすサヲエンシュツシテミヨウ。双方向コミュニケーション、のー・さんくす。他者からの「悪意」の流入を全力で防がなければならない。私はときどき、スーパーやコンビニで、有線の音楽を「無理矢理聴かされる」のがいやで、耳を塞いだりしている。それでも文章を書こうとするのは、書くこと自体がリハビリなのであって、一方で「社会」から「逃亡」しつつ「社会」と「和解」する最後の手段、みたいなコノぶろぐハソウイウりょうぎせいヲニナッテイル。☆★☆★☆★☆★

「コロコロうんちの秘訣はヨーグルト」
人間の食物をネコに与えてはならない。たとえば牛乳もその一つで、牛乳に含まれる「乳糖・ラクトース」と言う二糖類C12H22O11は「β‐グルコース」と「ガラクトース」という単糖類C6H12O6一分子ずつが「脱水縮合」してできたものだが、これを体内で「呼吸」を通じてエネルギー源として利用できる単糖に分解するには「ラクターゼ」と言う酵素がなければならず、ネコの母乳にも「ラクトース」は含まれているから、うまくできたもので子猫のうちだけ「ラクターゼ」をつくれる仕組みになっているのに、成長すると消えてしまうので、成猫に牛乳を与えると喜んで飲むがおなかを壊して衰弱してしまう。人間でも固体差があって「ラクターゼ」がつくれず牛乳を受け付けない人があるでしょ。ペットショップで販売している「犬猫用ミルク」はあらかじめ「ラクトース」が分解されているようだ。
ところが、ヨーグルトはよいのだ。あんな酸っぱいもの猫が好むなんてもうずっと昔になるが獣医さんに教えていただいたときは半信半疑だったが、うちでも既に亡くなったのや、ベランダにやってくる野良の「通い猫」を含め三十匹あまりの中で、そうね、二十匹くらいは大好物だ。ね、うちではネコの習性についてほぼ「統計学的に」ものが言えるのだよ!
乳酸菌は「ラクトース」を「乳酸CH3-CH(OH)-COOH」と言う化合物に分解するから、ネコにも消化できるのだろう。「乳酸」がその後どう利用されるのかは私の浅いウンチクがついてゆかない。
ジャスコやマックスバリュには「トップバリュ」って言うハウスブランドがあるだろ?地方の小さな業者に製造委託して自社ブランドで比較的安価に販売する、以前の「無印良品」みたいなやつ、賞味期限切れが近づくとその「プレーンヨーグルト」500mL、138円が3割引や半額で売られる。深夜スーパーでそれを六個も八個も買い占めていく、今はやめたが以前は、それ以外には日本酒紙パック2Lしか買わない、この男の食生活は一体どうなっているんだろう?と、レジの店員さんも訝ったことだろう。
私が賞味期限切れ寸前値引き食材を好むのは、ケチだからでも、ましてやそれが食べたいからでもない。ほどなくそれらの食物が「捨てれて」しまう想像にいたたまれないからだ。死にかけたネコを拾うのと同じ心理だ。私は自分が「病んで」いることを知っている。でもそれは、「半分が飢えながら、残り半分が食物を捨て続けている」世界の「病み」の「反映」に過ぎない。
で、「びー」ちゃんもヨーグルトが大好きだ。茶わんに頭を突っ込んでべちゃべちゃはねとばしながら食べる。「サーモフィルス菌」と「ブルガリクス菌」のおかげで、今日もいいうんちだと、私もありがたい。

2008年11月27日

しっぽの縫い目、ほどけて・・・



しっぽの縫い目、ほどけてしもたからまた入院や・・・。局所麻酔で済みそうだから夕方には退院できるのだが、私がお迎えにいけないのでまたお泊りになる。
ネコを病院に預けてきた帰り道が例え様もなく淋しいのは、「愛」や「やさしさ」とはちょっと違って、いや「愛」や「やさしさ」というのが実はそういうものなのかも知れんが、一日中飽かず遊んでいたおもちゃが壊れたから修理に出した、ときみたいな手持ち無沙汰さだ。 「びー」ちゃんを拾って以降、私は「うつ病」らしからぬ充実を味わっている。「華やいで」いる、と言ってもよい。一方、仕事はまるでやる気がない。早く終わって帰りたい、とばかり考えている。子供が病気でも残業する企業戦士の心意気は、私にはない。
「びー」が家に居ないとなると、「ココロそこにあらず」とばかり仕事の手を抜く言い訳がなくなってしまう。あぁ、急速に気が滅入ってきた・・・。

2008年11月27日

「もはや消費すら欲望ではない・・・」私



「びー」は、「おむつ」付きで返品、いや、退院してきた。尻尾を切り取って縫合した場所を床に擦り付けてしまうから、今回みたいに傷が固まらないうちにまた開いてしまう。「安静にしてなさい!」と言い含めて聞く相手ではないから、こちらが対策を講じなければならない。
ペット用の「おむつ」というのは、当然ながら犬猫に用いるのだから尻尾用の穴が開いている。先日、「びー」退院の折りに「SSサイズ・超小型犬または猫用」と言うのを念のため購入してある。しかし、よく考えてみると「びー」の場合、尻尾はないのであって、むしろ尻尾の付け根の傷口を守るため二こそ、そこにおむつのやわらかい生地が当たっていなければならないのであった。
動物病院で付けてきてもらったおむつには、尻尾穴がない!子細に見ると、オレンジ色の「ラバーダック」の模様が入っている。アヒルのおもちゃの絵柄で犬猫の「歓心」を買えるとは思えない。とすればこれは「ヒト用」なのか?
デパートやショッピングセンターで、絶対に行かない売場、って人それぞれあるでしょ?たとえば私は、ゴルフをはじめスポーツ用品コーナーに用があったためしがない。ペット用品だって、数年前までは何も知らなかった。「うつ」発症後は、それこそ「もはや消費さえ欲望ではない彼女へ」(田口ランディ)状態であるから、洋服や雑貨、インテリアなどの売場に入ることもなくなった。3年前に音楽を聴くことをやめた。最後に買ったCDは「モンゴル800」になるか?食べることはさすがにやめられないが、「セロトニン」の分泌が足りないせいかご多分に漏れず「摂食障害」で、空腹ではあっても、「食品売場」にいること自体、ほぼ苦痛だ。
と、「予定どおり」露悪趣味的に筆が流れているが、何の話だったかというと、私にとって極め付けに無関係な売り場ば、やはり「子供用品」であろう。
今もこうして「アヒル」柄のおむつを眺めながら、人間の子供というのは、こんなにも「小さい」ことがあるのか、と感嘆している。
結局、ペット用のおむつは尻尾穴から尻尾の付け根がはみ出しては、「びー」の場合無意味なので、前後逆にしてはかせることにした。とすると尻尾穴からおちんちんがちょうど取り出せて、「圧迫排尿」に好都合、なんてそうは問屋が卸すわけはなかった。
「おむつ」を付けてるから安心、という訳にはいかない。ウンコたれて傷口汚してんじゃ?と、かえって心配なくらいだが、「うつ病気質=メランコリー親和型」にとっては、「心配」こそが生きるよすがなのだから仕方ない。
今度、「子供用おむつ」探して見ようか?などと、こんな些細なことで「華やいで」みたりもして・・・。もう十四年近く前になる、神戸の震災のとき、初めて「ボランティア」ってものに行こうとしてた。被災地では緊急に必要とされている物資が毎日のように変わる。そのときは「老人用紙おむつ」が足りない、と伝えられていた。近所のディスカウントスーバーで見たらサイズとか物凄くたくさん種類があるんだね。選びようがなくって困ってしまった。そんなことを思い出したよ。
「人が生きる」ために、たとえば自分は「何の役にもたたない」、ということを、はじめて、ちゃんと知ることができた。私にとっての「神戸」の経験は、きっとそういうことなんだろう、大げさに言うのならば・・・。

2008年11月29日

「おむつ装着状況・前面」



沖縄にくる前、一年間ほど、「土質調査」の会社に勤めていた。ボーリング屋だ。四十近い未経験者の中途採用だ。一応工学部の土木系出てたから「三波川帯」とか「ホルンフェルス」とか地質学特有の用語いくつかちりばめれば、役所に提出する報告書ぐらい、見よう見真似でなんとかなるものだ。でも、現場のことは何もわからない。「技術」系の、つまり力仕事の出来ない中途採用者は、いきなり「現場監督」になる。それしか出来ないからだ。熟練した職人さんは、なにも「監督」されなくても現場を切り盛りしていく。それを私は、寒い日には缶コーヒーを買いに走って機嫌取ったりして、ひたすら教えてもらうのだ。
農道の拡張工事とか溜池の堤体とか、田舎が多かったから行き帰りに二三時間もかかる。ちょっとした小旅行で、思えば現場は楽しかったな。「にいちゃんは勉強ばっかりしとって、世の中のことなんも知らんな」みたいに職人さんとかになじられるのが、倒錯的に好きなんだろう。文化大革命期の「下放」青年みたいで。
そんな無能な「現場監督」の唯一の仕事が写真撮影だ。ちゃんと予算を使って本当に工事をしましたと会計検査通すための証拠写真として報告書に添付されるやつだ。
「埋め戻し状況」とか「アスファルト展圧状況」とか、いちいち作業を止めて撮影するわけだ。「〜状況」って大真面目な言葉使いが笑えて、懐かしかったから使ってみた。

2008年11月30日

「おむつ装着状況・側面」



何であの会社やめちゃったんだろう?
会社というものは、喧嘩してやめなければならないもの、と決めてかかっていたみたいなフシがある。雇用保険料天引きされながら、加入手続き取られてなかったことが発覚して、意地悪なおばはんが一人で切り盛りしている「総務」に怒鳴り込んだ。
「残業時間が多すぎる」という会社側の不満を拝聴するだけの会合の席上では、普段声高に文句たれているくせに押し黙ってしまっている従業員達尻目に、「申告した分、ちゃんと支払ってから文句言ってくれ」風なことわめいて空気を凍らせた。私には、「生活がかかっている」とか言う言葉の意味がわからなかったんだな。今でもわからないけど。
ヤンキー上がり風の若い職人さん、「〇〇さん、言いたいことちゃんと言ってくれて、かっこよかったわぁ!」と後からほめてくれた。私がやめることになった日、彼は漁港のある町の現場だったから、「〇〇さん、餞別や!」とお土産の竹輪を手渡してくれた。
帰り道、いつもどおりコンビニでビール買って、その竹輪あてに飲みながら歩きながら、なみだ出てきた。何で会社やめたかわからなかった。なんで、何もかも台無しにして「ゼロクリアー」しなければ生きていけないのか、わからなかった。

2008年11月30日

「他人」と異なる「私」というものの存在



不幸な出来事はそういう時に限って起きる。土曜日は慌ただしい。午前中に一つ授業があって昼休みをはさんで午後に一つ、さらにしばらく間を置いて夜に二つ。「忙しい」と不平を述べるような働き方ではなかろうが、時間の空き方がいかにも中途半端だ。家で待っている猫ちゃん達が心配で、というのはもちろん嘘で、手持ち無沙汰な時間を職場でやり過ごすには、同僚や顧客と当たり障りのない会話を交わさねばならず、その方がストレスフルだから、行き帰りに時間がかかり大して休めるわけでもないのに、こまめに帰宅する。
「びー」の圧迫排尿は一日二回。「おむつ」をしている現状では汚れていたら取り替えなければならないし、傷口の様子も気になる。その他大勢の猫達と犬、カメには原則十二時間おきに食事を出しているが、別に怠ってもすぐに「飢えて死ぬ」訳ではないからそれほど気にしない。
ただ子猫は胃袋が小さいから、食事の回数が多くなる。特に「びー」は暴れて引っ繰り返すと困るので、水もエサも出しっぱなしにせず、食べ終わるのを見守ることにしているからますます手がかかる。
外出にあたって何より気掛かりなのはトイレだ。「猫はきれい好き」と言う。その真偽についてはこれだけ飼っていても正直、判断できないこともあるのだが、「トイレが汚れていたら他の所で排便されてしまう」というほぼ脅迫にも似た観念には、常にせきたてられている。
ペットショップには「匂わない猫砂」、「一週間取り替え不要」等と称し技術の粋を尽くした猫トイレ材が用意されている。飼い主がこれほどまでに猫を愛しながら、なおかつこれほどまでにその排泄物を憎悪しているという事実は、「ペット」をめぐる一つの背理であろう。 生きものには「固体差」というものが付きまとうものであって、「こうすれば『絶対』大丈夫」ということが『絶対』にない。何匹目かの猫を迎え入れ、そいつが頑として「絶対に」砂トイレを使ってくれないことを発見したときは、さすがに愕然とした。なにか「不満」があるのか?一過性の「病気」なのか?
猫トイレの下に敷いてある新聞紙で排便してしまうのはなにも「いやがらせ」でもなんでもなく、その新聞紙の「手」触りこそが、彼にとって最も落ち着ける「トイレらしい」場所だったのだ!彼だって、「必死で」自分のトイレを探していたのだった!
掃除に手間がかかる、といういらだちから、私は長い間「彼」を邪険に扱っていたかも知れない。ごめんね!「固体差」というもを、「個性」というものを、「他人」と異なる「私」というものの存在を、『病んでいる』私であればこそ(!)わかっているつもりだったのに、こんなにも時間がかかってしまった!
「彼」は「ココビー」といいます。この子です。

2008年12月01日

「ベントナイトな、夜」



ココビーのために新聞紙トイレを作ることにした。プラスチック製の猫トイレに古新聞を敷き詰める。
私は自慢ではないが新聞を読まない。職場である予備校では、「小論文」だかのネタのために必要なんだろう、朝日や日経まで取っている。沖縄では地方紙2紙がシェアの大部分を占めており、「本土紙」は空輸で二日ほど遅れ、かつ1.5倍くらいの料金がかかるにもかかわらずだ。「左翼インテリ」であった私は、「朝日」的言論で育ったはずなのに、これまた「左翼インテリ」にはよくあることだが、後には「朝日」的言論そのものを憎悪するようになる。こうして私は一週間遅れくらいの「朝日」をトイレに敷きながら、「へー、また首相辞任したんだ?」と遅れたニュースを仕入れてみたり、「社説」がくそまみれになっているのを小気味よく眺めたりしている。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。こうして「新聞紙トイレ」をいったん作ってみると、ココビーだけでなく、意外に「新聞紙ファン」が多いことがわかる。用を足した後、土を掻く「ザッ、ザッ」の手応えが、近いのかも知れない。
猫砂にも色々な材料があって、はじめは「ベントナイト」製のものを使っていた。不思議な「縁」というべきだが、前回述べた「土質調査」の会社で私は初めて「ベントナイト」なる名称に触れる。ボーリング・マシンというのは高速回転して地盤に穴をあけるのだから、その発する摩擦熱はただものではない。特に洪積世・沖積世など比較的新しい時代の堆積物の下に埋もれた岩盤を削るときには。通常、建造物の「基礎」は安定した岩盤上に置くから、そこまで掘り進まないとボーリングは終わらない。摩擦によって発熱したボーリング・マシンの歯を冷ますために大量の水が必要だ。で、ここが大事なんだが、いや、何が大事なんだかおよそ大事な話なんか何一つしていないが、地中に向かって開いた穴にただ水を流しても地中に向かって流れていくだけだろう?しかるべき粘性を有した流体となって、ボーリング・マシンの歯に絡み付いてくれないといけない。
ベントナイトは古代のある種の微生物の身体が沈殿してできたきわめて粒子の細かい粘土なのだ。粒子が細かいということは、その間隙に多数の水分子を含むことができる、保水力が大きいことを意味する。
この材料が他ならぬ猫トイレに打ってつけである理由が、既に聡明なる読者諸氏にはご理解いただけたことと思う(明日ハ仕事ガオ休ミナノデ、嬉シサノアマリヤヤ「躁」ガハイッテイルヨウダ)。
尿や糞の水分を強力に吸着してくれると、格段に処理しやすくなる。同時に、匂いのもととなる水溶性の有機物も水と一緒に閉じ込める効果も期待できる、と言う訳だ。

写真は、特に記事とは関係ありません。左:テンちゃん、右:トラちゃん。

2008年12月02日

「ドーナツ」と「コーヒーカップ」



と、このように優れたベントナイトであったが、なにしろ「粘土」であるから、重い。那覇市指定ゴミ袋「中」に7分目も入れるともう持ち上がらない。ペットショップだけでなく普通のスーパーにも売っていて安価なのだが、やはり重い。あれは4キロ詰めの袋だったかな、そんなもの二つも抱えて階段登るだけで腰を痛めそうだ。
猫を飼い始めて三年目の冬だったかな、「うつ」も少し回復基調で新しい職場にも移りややはりきりかけていたのだろう、その矢先私は「ぎっくり腰」で寝込み生死の境をさまようことになる。「ぎっくり腰」で死ぬことはあるまいが、ベッドからはい上がる事もかなわず、コンビニに出掛けることはおろか冷蔵庫に近寄ることもできず、「餓死」の二文字がちらついた。
「友達のいない」私、誰が「第一発見者」になるのだろう?不審に思った住宅賃貸会社の従業員が鍵をあけてみると半ば白骨化した死体のまわりに痩せさらばえた大量の猫達・・・、あの時ほど痛切に「生きたい!」と感じたことはない。
そんな重いゴミ袋を五つも六つも出すのはゴミ回収の人達にも申し訳ないし、本来燃えるはずのない「粘土」だが衛生上の理由から「燃えるゴミ」に分類されているのであって、環境にもよくない。パッケージには「〇〇県産、最高級ベントナイト使用」などとあったが、何億年もかけて古代の微生物が堆積して形成した美しい地層を、ただ掘り起こして猫の糞まぶして焼却するのは、いくらなんでも「地球」に対する冒涜であろう、と感じられた。
ペットショップに並んでいる「砂」の「代替品」、いくつか試してみた。「古紙」を用いたもの、もちろん吸湿性には優れるが軽すぎて付着しやすく、ウンコまみれの紙が猫の足についていく、ことになる。「森林間伐材」を用いたもの、木材の香が消臭効果を発揮、ではあるがやはり軽すぎ、またこれも漫然と焼却処分にして二酸化炭素に変えてしまうのも気が引けた。
結局、「食品廃棄物再利用品」に落ち着いた。紙や木ほど軽くはないがやはりプラスチック製のトイレのふちにでっかい猫が体重をかけるとひっくりかえる、という悲劇も起きた。コンクリートブロックの欠片を置いて重しにするなどの工夫をしている。湿気の多い季節、亜熱帯のこの島はいつだって湿気は多いが、カビが生えることがままあるのも難点だが、吸湿性・消臭性ともに私は満足している。ウンコおよびその付着したまわりの部分だけを拾いあげる。水溶性の有機物だから、大量の固まりにしないかぎり水洗トイレに流せる。
二十六匹ともなると一日のウンコの量が小さなバケツ一杯にもなる。食べているエサが、「ドライフード」洗面器二杯分、飲んでいる水が小振りな鍋一杯分くらいだから、「収支」としては「合って」いるだろ?まことに生きものとは、食物を「入力」して糞便を「出力」するだけの「管」だ。位相幾何学的には、「ドーナツ」や「コーヒーカップ」と同じ、一つながりの「穴」だ。
その「管」や「穴」が、「私の将来の夢はぁ〜」とか、「どう生きるかが大事〜」とか言っている。けだし「噴飯物」である。
「穴」としての人生を達観している私にも不安がある。中島らも「バンド・オブ・ザ・ナイト」には、近畿一円のジャンキー達が常時出入りしてさながら「悪魔の屋敷」の様相を呈していた宝塚のらも邸は当時「汲み取り式」で一度あふれたことがある、という。「いったい、なにくうたらこんなウンコ出ますねん」と業者になじられたとあった。
うちも「浄化槽」なのだ。「いったい、なにくうたら・・・」、沖縄方言では何というのか知らんが、年に一度の浄化槽清掃の日には戦々兢々としているのだ。

今回も、写真は記事とは関係ありません。手前は「キキ」ちゃん、おんなじ柄だよ!

2008年12月02日

「永遠」、という脅迫



で、三つ前くらいの記事にやっと戻る。土曜日、次のお仕事までに空いた時間は一時間弱、トイレ掃除、床掃除、ウンコ流し、エサ・水出し、「びー」ちゃんおむつ替え、排尿、エサ・水、新聞紙・タオル替え、できればカメの「かめお」の水槽水替え・・・、「社会不適応者」は往々にしてミクロな作業レベルではむしろ有能であることが多いのをご存じか?
それにしても、こんな目が回るほど忙しいときに「限って」猫達は「非協力的」で、箒にからみついて甘えるなどはこちらに心の余裕があれば可愛いのだろうし、替えたばかりの新聞紙の上に得意そうに排便するのだって、「彼らの」ロジックからすれば「あ、トイレきれいになった。気持ち良さそうやからウンコしたろ♪〜」ということだから、「非難」に値することなど何もないのだけど、焦っている私は泣きたい気持ちになる。このまま、私が片付けるや、別の一匹がウンコをし、それを片付けるとまた別の・・・が「永遠に」続くのではないか?こんな小動物の腹から「無限の」ウンコが排出されるのではないか?
さよう、「生の有限性」に拘束され、その限界を画する「死」の意味すら決して理解することのできない私たちは、「永遠」や「無限」という「イデオロギー」の脅迫を常に受けている。
高熱に苦しんでいる病人が「あたし、死ぬかもしれない」と思った瞬間、その人は意識を取り戻している。「今が最悪だ」と感じる瞬間、下降の加速度はゼロとなり今まさに上昇に転じるのだ。
落ちるところまで、落ちてみるシミュレーションをしてみること。菜摘ひかるはそれを「自虐プレイ療法」と呼んでいた。 菜摘ひかるは、四年ほど前に、亡くなってしまったけれど・・・。

写真は、オーツー、「小禄」というところで拾った二匹目、という由来だが、「ぼーず」とも呼んでいる。

2008年12月03日

「糞便の夢」もしくは「自己言及の不完全性」



ウンコの話ばかりしている。「スカトロ系」と誤解されるかも知れない。
忙しいときに限って失敗する。生き物の身体はよくできていて、大腸にウンコが詰まっているときはおしっこが出ない。
「びー」の膀胱が膨らんでいるから「絞ろう」とすると、まず肛門からウンコがめりめりと出てくる。時間がなくてあせっていたから、これに気がつかなかった。おちんちんの方ばかり見て、おかしいな、出ないな、と思っていると、あ、しまった、ズボンの上に落ちた。こんなときに限って少し軟らかめ、片手で「びー」の首ねっこつかんでぶら下げたままあわててトイレットペーパーを・・・、ほら、ちょうどウンコの上に取り落とした。そこへ、勢いよくおしっこが始まって、あーあ、手もトイレットペーパーも・・・。
ウンコが服についた、とろうと思ったら手にもついてよけい広がった・・・みたいな絶望的な夢をよくみる。夢の中の「糞便三大話」は、「流れない・詰まってあふれてきた・手についた」であろう。
私がこんなにネコのウンコ処理に忙殺されているからこんな悲惨な夢を見る、というわけではなくて、「糞便の夢」は底知れぬ象徴的な意味をはらんでいるらしい。

ジャック・ラカンによれば、「対象a」が夢の中でとる代表的な形式の一つが「糞便」なのだという。
「対象a」は次のように説明される。
「私(X)」が「他者(Y)」を見る「まなざし」を「私」に対する「他者」の「割合」として、(Y/X)と定義しよう。それが、私と他者を含んだ「世界(X+Y)」が「私(X)」を見る「まなざし」すなわち「世界」に対する「私」の「割合」(X/X+Y)に等しいとすれば、Y/X=X/(X+Y)、右辺の分子分母をXで割ってみるとわかるように、その比の値aは、方程式a=1/(1+a)の解となる。a(1+a)=1という2次方程式の解のうち、もちろんaは正であるから、a=(√5-1)/2となる。
これは「黄金分割比」だ。人間が最も「美しい」と感じる長方形の縦横比はこの関係を満たしているとされており、古来絵画や建造物にしばしば見られるものだという。「無理数」の存在を認めなかったピュタゴラスが執着した正五角形にも、対角線と辺の比にこの関係が現れる。
「全体」と「部分」の関係が、次のレベルの「全体」と「部分」の関係に繰り返し現れる、というのはまさに安定した構造の連続性を示唆するが、言語を手にした人間は、その安定性から永久に追放されてしまった。

「うそつきのパラドックス」というのがある。「私はうそつきである」という言明が「真」であるか「偽」であるかを、証明することができない、というものだ。
1:この言明が「真」であったとすると、私はうそつきであることになるから、「私はうそつきである」という発言も「うそ」であることになり、矛盾する。
2:この言明が「偽」であったとすると、私はうそつきではない、正直者であることになるから、「私はうそつきである」という発言は「本当のこと」を述べていることになり、やはり矛盾する。
「私はうそつきである」という文章の主語として指し示されている「私」すなわち「言表内容の主体」と、その文章を発言している「私」とが混同されていることが、このパラドックスの「原因」なのだが、「言表行為の主体」に言及するような命題は一般的にその真偽を判定することができないことが、明らかになってしまった。
私たちは、「世界」の内側にいるから、その「境界」について、語ることができないのだ。
ところで、このような「自己言及の不完全性」は、私たちが生きた「前世紀」を通じてさまざまな変奏を伴ってあふれ出て、「近代」が終わってしまったことを指し示した。
光の波長よりも小さい粒子、あるいは、光の速度で運動する粒子については、その速度と位置を特定することは出来ない、と量子力学は教えている。
有限個の公理から出発して、無矛盾な公理系を作ることは出来ない、とゲーデルの「不完全性定理」は述べている。
証明の無限後退の末には、ついに証明し得ない「超越確実性言明」として存在せざるを得ないものがある。「知りえぬものについては、沈黙しなければならない」とヴィトゲンシュタインは言った。
人は原理的に「死」の意味を知ることができないから、それを漠然とした「不安」として取り込んだのだ、とキュルケゴールは言った。

私は、キュルケゴールを3ページも読んだことがない。ヴィトゲンシュタインに至っては1ページの三分の一も読んだことがない。「バブル・ポストモダンの時代」には、ジャック・ラカンを書棚に飾ったことは、ある。量子力学は、少しだけ勉強したことがある。コンプトン散乱のかなり難解な式変形ができたときはうれしかったが、何のためにそんなことをするのかさっぱりわからなかった。最近になって高名な物理学者の書物を読み、いや、あの式変形には大した意味はないのだとかかれてあったので、たいそううれしかった。
「書物」との出会いは不思議なものであって、大げさな言い方だが、人が本当にそれを必要としているとき、「それなしには生きていけない」時にしか、言葉はなにごとも語りかけてはくれない。
私の「病み」は、人間の普遍的な「病み」つまり「自己言及の不完全性」とどこかでつながっている。病んでいることを「知る」以外に、病みながら生きていくことはできないから、今日も私はウンコの夢を見る。

2008年12月04日

「異」としての「存在」



その後の「びー」は、と言うと、「ウンコ談義」に調子に乗って報告を怠っておった。しっぽの付け根の縫合跡の予後が依然としてよくない。這い回るときに大きな張力がかかってしまうからだな。
全身麻酔、しっぽの骨をもう一個除去し、皮膚に余裕を作って「重ね合わせて」縫い直す。今度こそは傷口が開いてしまわないよう厳重にテーピングなどして、かつ「おむつ」で上から保護、大事をとって長期入院、ということにあいなった。
昨日の「面会」の時はまだ術後の麻酔も醒めやらず、ぼーっとされてるご様子であったが、抱き抱えると私の脇の下に頭を押しつけなどの「甘えぶり」それはそれは愛らしかったでございます。
今回はいつものバスケットと違って、「病棟」の金属製の広いケージに収容されている。大きな真っ赤なバスタオルがしきつめてあって。 お隣の「独房」は「ジェリー」ちゃん、この病院にもう七八年も暮らしている「古株」だ。やはり交通事故で下半身不随、持ち込んだ人、飼い主なのか「ゆきずり」の人なのかは事情は詳しくは知らないが、ともかく面倒見切れないので病院がやむなく引き取った、という経緯なんだろう。
赤い首輪を付けてもらって、まるまる太って、病棟が混み合ってくるとカゴに入れられて先生や看護師さん達の控え室に移動したりしている。
「びー」を引き取ることにしたときも、その前に同じような怪我の「ボンちゃん」拾ったときも、私の念頭にはつねにこの「ジェリー」ちゃんのことがあったのね。この子もしっぽは切り取ってあって、一日二回圧迫排尿、尿道を拡張する手術をしてあって、おしっこは出やすくなっているしいざとなったらカテーテルだって入りやすい。その分感染症の危険も高まるが、なんせ病院に住んでんだから・・・。
「上手にやれば、ジェリーちゃんみたいに、ぬくぬくと、まるまると、生きさせられるかもしれないんだ!!」いわば、ジェリーちゃんは私の「希望」だった。
そんな「大先輩」のお隣で、「びー」、おとなしくおむつつけてもう少し頑張るんだよ!明日も来るから!

写真は「ジェリー」ちゃん。

なお、うちにも「ジェリー」さん、てのがいて「猫エイズ(FIV)」陽性で、慢性腎不全、一年以上にわたる点滴生活ののち、今年の一月に「ボン」の少し前に亡くなった。HTMLタグがうまく使えるかどうかわからんが、こちらの記事も、どうぞ↓

「ジェリーさんの一年」

「病院のポンちゃん」

そうそう、帰りにスーパーに寄った。今後も当分おむつ生活が続きそうだから「ヒト用」おむつ値段調べようと思って・・・
あったわよ!(そら、あるわな)、「パンパース・コットンケア『新生児(5キロまで)』・80枚」、1480円也。おい、先日ペットショップで購入した「ユニチャームSSサイズ」は30枚2079円やぞ。「しっぽ穴」がそないに高いんかい、おら、責任者呼べ!
「愛玩動物」等というものは「富裕層」の所有するものなのだ。それにひきかえ世は挙げて「子育て支援」の時代である。それに「異を唱える」ことは、しない。ただ、私は、人間としての「再生産過程」から脱落し、「生きる必要のない」生きものとともに、同様に「生きる必要のない」生きものとして生きる私は、「異」として存在し続けるだろう。

2008年12月04日

黄金比のまどろみ



今日は「フィボナッチ数列」の話をしよう。「主人公」の「びー」が入院中で「不在」。例の土曜日で忙しくてお見舞いにも行けない。だったら、黙っていたらいいものを「雑談」したくなるのもこの「ぶろぐ」というものの「強迫」性であって、「更新」直後だけアクセス数が大きく変動するのだ。ならばこまめに「更新」してみたくなるのが人情。このページを「誰が読んでいるのか?」については「関心がない」のではなくて、「関心を持ちたくない」。私は自分自身のココロの「闇=病み」に対処するために文章を書かざるを得ない、と感じているから書くのであって、他人様のそれぞれの「闇=病み」に分け入っていくだけの「力」はない。だから他人様のの「ぶろぐ」は・絶・対・に・、読まない。「今日、ついに○○買いましたぁ〜\(~o~)/・・・さすがにスゴ〜い☆」とかいう文章、読んでどうすんねん?などと「攻撃的」なことは、言わない。
二者の「関係」がある規則性をもって再現されていくとしたら、それを記述するのに少なくとも三つの「項」が必要だ。第n+2項がその前二つの項、第n項、第n+1項を用いて表現されるのを「隣接3項間の漸化式」と呼んだりする。 このうち、隣接3項間関係が1次式で表されるものに関しては一般的な解法があり、高校生にもできることになっている、から私にもできる。
数列の表記には項番号を「添え字(サフィックス)」で表すが、携帯電話では表示できないので、括弧付きの数字で表す。こんなこみいった内容の文章、ケータイで書くのが愚かであることは知っている。でも、パソコンの画面にこんなどーでもいい原稿が映し出されているのを見るともっと気が滅入るから、いつもケータイで書く。
a(n+2)+pa(n+1)+qa(n)=0・・・(ア)
という漸化式があったとしよう。この式を変形して
a(n+2)-αa(n+1)=β{a(n+1)-αa(n)}=0・・・(イ)
となるようなα、βを発見することができれば、
b(n)=a(n+1)-αa(n)
と置き換えると、
b(n+1)=βb(n)
だから、これは公比βの等比数列。したがって、
b(n)=b(1)β^(n-1)・・・(ウ)
と書ける。「^」は累乗のことだ。やっぱりケータイでは無理かな?
ところで(イ)を変形すると、
a(n+2)-(α+β)a(n+1)+αβa(n)=0
これを(ア)と係数比較すると、
α+β=-p,αβ=q
であるからこのようなα、βは次の2次方程式の解であることになる。
X^2+pX+q=0
これはなんと(ア)の係数を順に並べたものに過ぎず、(ア)の「特性方程式」などと呼んだりする。
複素数解でもよいのなら、2次方程式は絶対に解ける。もう一つ大事なことは、ここまでの議論でαとβは「入れ替え可能」ということであって、(ウ)から
a(n+1)-αa(n)={a(2)-αa(1)}β^(n-1)・・・(エ)
と書けた以上、
a(n+1)-βa(n)={a(2)-βa(1)}α^(n-1)・・・(オ)
もアリだ、ということである。
で、(エ)(オ)式の両辺から式の両辺を引けば、a(n)が得られる、つまり解けている。αとβが等しいとき、すなわち特性方程式が重解のときはこの方法は使えないが、それはそれで方法はある。さすがに少し飽きてきたので、話を進める。
ここまでのところは、私が日頃「業として」行なっている授業と大差ない。ちなみに私は、空前絶後の「不人気講師」で、授業がおもしろくない!と評判なのだ。「仕事やる気ないからな」とうそぶいているが、実はそんなことはない。「うつ」発症するほどの「メランコリー親和型」、仕事を真面目にやらない訳がない。
「あいつは話が退屈だ、つまらん」と、たくさんの人をばっさり斬って捨ててきた。自分がばっさり捨てられる段になると、気弱に言い訳などしはじめる。
一体、人が自分のよく知っていること、ましてや自分が関心を持っていることについて、「ことさらに」退屈に話す、などということは不可能だ。にもかかわらずその話がどうしようもなく退屈に聞こえるのなら、話者がその話が「退屈な話」として存在していること自体をとても重要だと感じている、本来退屈でしかありえない話を「オモシロイホドヨクワカル」と言ってみなきゃ気が済まないほうがむしろずっと「強迫的」で「病気」なんだ、と主張したがっているんだ!と、わかってあげてね。
さて、「フィボナッチ数列」である。ここでも先日来から懸案の「言表内容の主体」と「言表行為の主体」との矛盾にかかわる「お題」。
デカルトは「我思う。故に我在り」と言った。しかし「存在する私」と「それを知っている私」の間の「隙間」こそが、言語を用いる人間に避けがたい「病気」とつながっている。
さて、「私は存在している」「私が存在していることを私は知っている」「私が存在していることを知っている私が存在している」「私が存在していることを知っている私が存在していることを知っている」・・・という「無限」の連鎖を同様に無限な「自然数n」になぞらえて数列a(n)に対応させ、第n項「現に存在している私」、第n+1項「それを知っている私」、そこから生成される第n+2項は「さらに『そのこと』を知っている私」であるから前2項の「和」として定義する。
隣接3項間漸化式は、その最初の2項a(1),a(2)については何も教えてくれないから、これらは「初期条件」として別途入力しなければならない。「一番はじめ、私が私について知っている内容」は「からっぽ」だった筈だからa(1)=0、「それを知った私」は、ゼロでさえなければ別に何でもよいのだがa(2)=1としよう。
a(n+2)=a(n+1)+a(n)・・・(カ)
ただし、a(1)=0、a(2)=1

これで「フィボナッチ数列」の漸化式が完成した。解き方はもうわかっている。(ア)と比較すればp=-1、q=-1だから「特性方程式」は、
X^2-X-1=0
その解は、
X=(1±√5)/2
α、βはどっちがどっちでも別にいいから
α=(1-√5)/2、
β=(1+√5)/2
としよう。
(エ)(オ)式に「初期条件」を入力すると、
a(n+1)-αa(n)=β^(n-1)・・・(エ)
a(n+1)-βa(n)=α^(n-1)・・・(オ)
(エ)-(オ)は、
(β-α)a(n)=β^(n-1)-α^(n-1)

β-α=√5
であるから
√5a(n)={(1+√5)/2}^(n-1)-{(1-√5)/2}^(n-1)
と言う訳でした。

フィボナッチ数列は、ものすごい増え方をする。第30項辺りですでに五十万くらいになる。「はじめ一つがいのネズミがいて、一月に一回一つがいの子を産み・・・」みたいなのがフィボナッチ数列の例え話として引き合いに出される。すでに26匹の猫の飼い主としては避けたい話題だが、まさに「ネズミ算式」、人口増加のモデルで、グラフも指数関数とそっくりになる。
ところで「存在する私を知る私・・・」のいきつく先はどうなるのだろうか?「私が知っている私」の「割合」
a(n)/a(n+1)
をc(n)とでも定義しよう。
(カ)式の両辺をa(n+1)で割る。
a(n+2)/a(n+1)=1+a(n)/a(n+1)
これをc(n)で表すと、
1/c(n+1)=1+c(n)
c(n)もc(n+1)も、十分に大きなnに対しては同じ値になるだろうからこれをCとすると、
1/C=1+C
したがって、
C(1+C)-1=0
またしても同じオチですがC>0だから、
C=(√5-1)/2
「黄金分割比」です。この収束はとても速くて、第10項くらいでこの値ともう五桁か六桁くらいぴったり一致します。

だからどうした?ってことなんだけどな。「意味がある」とも思わないし、「おもしろいと思え」とも言わない。事実として「そうなっている」ことを、私は知りたいと思うし、知りたいと思うことは、死ぬまでやめられない気がする。それが「本来退屈でしかありえない話」の、意味だ。

日曜日はしあわせだ。「びー」の退院のお迎えに行く。休日は病院は二時からなのだ。それまですることがない。

2008年12月07日

「びー」の帰宅



こうして「びー」は帰宅した。夜中、少しでも物音をたてようものなら、聞き付けて「うぇーぉ、うぇーぉ♪」と鳴きはじめる。それを合図に、「大人」達もどやどや騒ぎ立て始めるのだ。「びー」のおむつを取り替えている間に周りで暴れてほしくない。一方、他の猫に先にエサを出すと、意地汚い「びー」はますます絶叫するから、拍子でおむつがはずれてはいけない。いつもその「政治判断」に悩む。
「びー」が戻ってきて、明らかに、少なくとも心理的には1.5倍くらいに仕事は増える。それでも「嬉しくてしょうがない」のだから、私も人並みに「人の親」である。あ、ネコの親か?
子猫が「親」、今の場合私のことだが、を呼び付ける鳴き声は、「みーみー」とは限らない。ちゃんと「個体差」がある。「びー」は「うぇーぉ♪」なんだが、「ぇ」のところにほんとは濁点がつくような音だ。「ポン」は「なーあぁっ♪」だったし、その前に二週間くらいうちにいてあっさり死んじゃった子猫の「ぴーぃ」ちゃんはまさに「ぴーぃ♪」だった。「ちょび」は?どんな鳴き声だっけ?思い出せない。でもすでに昼寝に入っているから、起こさないでおく。

2008年12月08日

誰も「支払わない」熟練



休みの日は「ネコと遊ぶ」のが仕事だ。
「うつ病」が直接の原因なのかわからないが「自律神経失調」なのか、すごい低血圧で起き上がれない。「立ちくらみ」もひどくて、たとえばバス停でバスを待っている、ベンチがないのでヤンキーみたいにしゃがみ込む、バスがやって来てあわてて立ち上がると昏倒しそうになる。こわいのでしゃがむのもやめた。
「うつ」で精神病院に通っている頃、毎回血圧検査があった。「低いですね」と先生に言われたが、それまで血圧を気にしたことがなかったのでどんな数値が「低い」のかわからなかったし、今も知らない。
「セロトニン」や「アドレナリン」などの神経伝達物質の分泌量が減って「情動」が乏しくなるのも、血圧が下がって身体が動かなくなるのも、ストレスの原因となる様々な「情報」が「外部」から流入してくるチャンスを減らすための、身体の「正常」な「防御反応」なんだと聞かされて、私は涙がでるほど嬉しく、「言うことをきいてくれない」自分の身体が、限りなくいとおしかった。 だから一日十五時間寝ていても、夕方になってからしか起きだせなくても、かまわない。もう二度と「働き盛り」に戻ることは、ないのだ。てゆうかぁ〜、あんた「働き盛り」だったこと、あったぁ〜?
冬場、ネコ達は暖を求めて私の布団に入ってくる。いやむしろ入ってきてくれるならいいのだが、「捕食者」としての本能の為せる業、それでも「警戒」を解除していない証のつもりか、布団の上、それも特に暖かい部分である私の身体の「上」で眠ることを好む。一頭平均4キロ強の動物数頭によって、私の胸から下腹部、太ももの上が「覆われている」状態で目を覚ます。熟睡できる訳がない。まがまがしい夢にうなされるのも、当然だ。
身体のサイズが小さくなると、「表面積/体積」比が大きくなる。球体で考えれば、
4πr^2/(4/3)πr^3=3/r
だからね、「長さ」に反比例してるでしょ?体表からの放熱によるエネルギー損失を補填するために、同じ哺乳類でもサイズが小さいほど体温が高い、と言う結果になる。ネコの平熱は38.5℃ぐらい。ここは亜熱帯だから、ほとんど「暑苦しい」ことの方が多いのだけれど、まさに「天然・生コタツ」である。
そうしてゆっくり起きだして、まずは「びー」の排尿・排便。これがうまくいくと、「幸先がよい」というのか、私も機嫌がいい、生きる「希望」が湧いてくる。畳やズボンが濡れることなど何ほどでもない、どうぞ景気よく飛ばしてくれ!
足が動くネコならば、ずっと膝の上に乗っけて「遊ぼう」としても、じきに他のものに興味が移って、プイと離れていく。「びー」は動けないのだから、「遊んであげる」必要が生じる。「彼」は別に「遊んでくれ」とは言ってない。そこら辺に放っておけば、前足で器用にどこにでも這っていくだろう。でもそれをやられると、おむつが外れたり、傷口が開いたりして、ひいては「こちらの」負担になりかねないから、「パターナリスティック」な介入が必要になってくるのだ。
ドウセダカラ、「教育」的ナ「うんちく」ぶろぐニシテヤレ。今日のお題は「バターナリズム」paternalism。paternalは一目瞭然maternalの対語で、pater(=father)、mater(=mother)みたいに「パ」、「マ」の音が「父」「母」に対応するのはヨーロッパ語だけの現象ではないらしく幼児の発声に関係あるらしい。先日、この島にも「配備」された「パトリオット・ミサイル」がその名も「愛国者」であるように、元来「国家」と「父性」は切っても切れないらしい。あ、「母国=motherland」とも言うけどな。
「国家」が「父」的に、「親」的に、国民の「保護者」として「干渉・介入」することを、「パターナリスム」と言う。自殺が宗教的に禁じられてる文化圏でも、近代国家では自殺は犯罪ではない。「自傷」行為が傷害罪に問われることもない。でも、たとえば「覚醒剤取締法」はアンフェタミン、メタンフェタミンという薬物が「体内にある」だけで犯罪が成立する。その根拠をどうやったら説明できるんだろう?「反社会的」な行為を取り締まるのは「善良な」社会を防衛するために当然のことだ、と言うのを「社会防衛論」と言いますが、イタリア・ファシズムと共に現われた理論なので今日公然と主張する人はあまりいない。だから、国家は国民が「自傷行為」によって害されることを防ぐ義務を負っている、のだ!
子猫は子猫同士で、じゃれあって、喧嘩しあって育つ。お互い同士噛み合うことで、その「痛み」を学ぶんだとも言われるが、「だから」友達と遊ばずに育った子供は「他人の痛みがわからない」子供に育つ、等といわれると、友達のいない「不幸な」子供は「それはイデオロギーでしょ?」と反論したくなる。
ともあれ「びー」と「ちょび」は共に生後4ヵ月くらい。まさに格好の遊び相手だ。つめで引っ掻く、首筋に噛み付く、猫パンチの応酬、「ちょび、後ろ足で蹴るのは、ルール違反でしょ」と言ってもしょうがないし、その白熱したゲームを「父」は自らの膝の上で、「びー」のおむつが脱げないように下半身を押さえ付けながら、見守る。
幸せな午後だ。こんな日々がずっと続けばいい。嘘だ。毎日働かずに、こんなことばかりしてたら不安で発狂する、あ、もう「発狂」してるから、もっと発狂する!

写真は「おむつ装着状況・近影」、「作業員」が写ってしまったがあしからず・・・。今日一日で、おむつ三回替えた。これまた「こんなこと永遠に続いたら身が持たない」、「永遠・無限イデオロギー」だね。大丈夫、ユニチャーム・ペット用使いきったら、パンパース「ヒト用」ジャスコで買ってくるから!もはや、左手で「びー」を首からぶら下げつつ、右手で手早くおむつを押し広げ、「しっぽ穴」が前になるように素早くあてがい、「びー」に抵抗する暇も与えずにマジックテープを締められるまでに熟練した。
このような、他人にとっては何の役にも立たない、誰もそれに対して「評価」したり、「支払っ」たりは決してしないような「熟練」を、私は愛している。

2008年12月10日

「ちょび」と「びー」、『乱闘』シリーズ・1



言語というものは、あまり役に立たない。ルールを守ってしゃべろうとすれば、おおよそ次のようなことしか言えない。
1:AであるならAである。
2:AであるかAでないかどちらかである。
3:AならはBという命題が真ならば、BでないならばAでないという命題も真である。
こんなことは、わざわざ言ってもらわなくても「自明」である。「自明でない」ことを言ってもらって初めて「何か言ってもらった」気になる。
でも、本当は「自明でないこと」は言ってはいけないのだ。それは「ルール違反」なのだ。
「AはBである。だ・か・ら、BだってAである」と断定されると、「ほう、そんなもんかいな?」と感心してしまう。でも、もちろん根拠はないし、「根拠」を言語で説明することは、できない。それはルールの「外」に出ているからだ。
でも、「あんた、今、外に出ただろう?」と、ルール違反を「指摘」することもまた、不可能なのだ。言語に「外がある」こと自体、言語の預かり知らぬことなのであり、自ら「ルール違反」を犯さずに「ルール違反」を指摘することもできない。

2008年12月10日

「ちょび」と「びー」、『乱闘』シリーズ・2



私たちが常日頃行なっている「言語活動」というのは、「ルール違反」の「上塗り」、「場外乱闘」に次ぐ「場外乱闘」、ちなみに私はプロレス、格闘技に何の関心もない、我にも非ずこんな例え話を使ってしまったのは写真のタイトルのせいだ。
いったん「外」に出てしまった言葉には、「反論」のしようがない。「外に出たこと」をなじることくらいしかできないのだが、相手が「外に出たこと」を「なじる」ためには、相手が「外に出たこと」を示さねばならず、そのためには自分もまた「外に出」て、ほら、あんたはこのぐらい出ただろ?と、指摘しなければならない。
主張できるのはせいぜい、「お前の方がたくさん出た」とか「お前の出方の方が下品だ」という程度のことにしかならない。 私たちは「言葉」のやりとりをして何事かを「解決」したかのように振る舞っているが、解決したのは「言葉」の「外側」の事柄なのであって、「言葉」は「どうでもいい」事柄なのかもしくは常に「誤って」用いられている。
「あの人がこんなに優しいのは、私の1:『カラダ』が、2:財産が、3:その他モロモロが、目的なんだ」と言ってみたとして、それを「証明」することはできないし、同様に「そうでない」ことも証明できない。「そんなことないよ。きみの思い過しだよ。」も、「嘘つき!」も、それぞれに別のやり方で「外に出た」だけだ。会話はすでに終わっている。
恋人達の会話というのはこういう風にできていたんだ!お酒や煙草やテレビを観ることや音楽を聴くことを止めるはるか以前に、私は「レンアイ」を止めていたが、今になってその真実のひとかけらをつかめたような気がする。

写真は「ちょび」と「びー」、『乱闘』シリーズ・2

2008年12月11日

「世界を止めて!・私は、降りたい!」



毎度のことだか週末はボロボロで帰宅早々、部屋中ウンコ臭漂っており「びー」の絶叫も聞こえてはいたが、疲労著しくベッドに倒れこんだ。
明け方やっと起きだせた。「びー」はおしっことウンコと吐瀉物にまみれたタオルにくるまって鳴いていた。「泣いていた」わけではない。それほど機嫌が悪そうでもない。もっともこの猫は死にかかっているときでもゴロゴロ上機嫌であったのだか・・・。
たっぷりたまっていたおしっこを排出して、陰部としっぽの縫合跡を消毒液で洗ったら刺激でウンコも出てきて、ウエットティッシュで拭いておしめ取り替えてタオルとその下に敷いてあるペットシートと新聞紙も濡れたので取り替えて、・・・、他のネコ達のトイレ掃除してエサ出して・・・、一時間ばかりいつもどおりのルーチンワークに一段落着くと、すっかり白々と夜も明けておった。お、凡庸な表現(!)、「紋切り型」ですな。なんで「紋切り」なんだろう?ケータイYahoo辞書を引いてみた。
1:紋形を切り抜くための型。
2:きまりきった型。かたどおりで新味のないこと。「―の祝辞」

「びー」が食物を戻したのは初めてだ。ぴーぴー鳴くのを、正確には「うぇーお♪」だが、「黙らせる」ためについつい食わせ過ぎるからかな?「表情」からは読み取れないが調子悪いのかな?寄生虫の薬混ぜたヨーグルトも半分残した。退院からちょうど一週間だし、病院連れていこうか?
それにしてもこのケータイの辞書はあほだ。「吐瀉(としゃ)」が変換できないんだもの。かといって「瀉」などという漢字覚えてないから、これもYahoo辞書の引き写しだ。
ちやみに「瀉」は「くだる」が訓読み、「冩」は「写」の旧字である。「漢和辞典」や「国語辞典」が大好きな子供だった。国語辞典は「岩波」の「広辞苑」ではなく「新潮社」のを愛用していた。沖縄に引っ越すとき、大部分の「蔵書」は処分したが「広辞苑・第四版」は連れてきた。老眼鏡が必要になってからは、めったに引かなくなった。「知的好奇心」も「老衰」したのだろう。でも「電子辞書」は買わない。

写真は「ちょび」と「びー」・『乱闘』シリーズ3と4、携帯から二枚同時にアップロードしたらどう表示されるのか「実験」してみたくなって、書かなくてもいい文章を書いた。そういう「好奇心」はあるのだ。

私はなんでこんなに疲れているんだろう。私は「子供」が苦手なのだ。「ホトバシリ出ル」生命力、が鬱陶しい。「子供」が「悪い」とは言ってない。「顧客」なんだからそんな角の立つことは言わない。彼らもまた弱い生きものなのであって、危機に直面したら他者を「害して」もいいから「生き延びよ!」という命令がビルトインされているのだろう。その「暴力性」が、「衰弱した」生きものには、応える。
嗚呼、願わくば「生命力」を限界まで消除し、存在の「気配」すら感知させない「希薄な」生きものでありたい。

タイトルはドナ・ウィリアムス「自閉症だった私へ」(新潮文庫)から。

2008年12月14日

「正しいネコのぶら下げ方」



ハンドバッグや買い物カゴを手に下げるように、そう、雨が上がった後、折り畳んだ蝙(コウモリ)傘の柄を腕に掛けるように、前脚を腕に掛け顔を外に向け胴体を脇ではさんで固定しましょう。これか「正しいネコのぶら下げ方」。
子猫は生後二週間もすれば目も開き四本の足でほぼ歩き回れる。「頭が上で、腹や足は下」という「方向知覚」はその頃からすでに出来上がっている。
「びー」は、もうそうして元気に走り回れるようになってから、もうそうして元気に走り回れるようになったからこそ、事故に遭った。今は後ろ足がしっかりしないから、転がして置けば倒れるが、もちろん確固とした「方向知覚」は持っているのだ。
だから、頭を上にして、なおかつ顔面が外を向いて、ちゃんと外界を「監視」できるこの姿勢が安心できるのだろう。
人間の「仔」の場合、「方向知覚」が確立するのに数年を要するから、「だっこ」というと顔を上向けて自分の胸に近付ける「授乳」のポーズのアナロジーになってしまう。
病気の猫に薬を飲ませるときでも、体長の差があるから、思わずこの姿勢を取ってしまうが、相手は不安で落ち着かないんだろう、全身で抵抗する。
ことほど左様に、私たちは「弱っている相手に援助の手を差し伸べる」と言うときでさえ「観念の虜囚」であって、「相手が実際に楽であるかどうか?」ではなく「私が、相手を『楽にしている』はず」の身振りを選択している。

2008年12月16日

「ウンコふんじゃった♪♪」



退院から十日、一日三回くらい、「飛ぶよう」なおしっこが出て、おしっこの後の消毒液の刺激でウンコが出る「習慣」もついたみたいで、まだおむつにウンコちびったことない。縫合跡の予後も良好のようである。「ユニチャームSSサイズ・30枚入」はあと十枚足らずとなった。食欲は充分ある。水もよく飲む。水の入れ物を常時出しておきたいのだが、間違いなくひっくり返してしまうだろうから、食事の時に限っているのが申し訳なく、悩みの種であるが、それぐらいしか悩みの種がないほど「良好」である。
今日、「びー」がタタミの上に転がしたウンコを、素足で踏んでしまった。「ペット用ウエットティッシュで足の裏拭いた。考えたら、素足のほうがよかったかな?それぐらいしか「考える」ことのない午後である。
もちろん、これら以外の、わたくし自身の「外面的な」、「社会的な」生活のモロモロの部門は相変わらずぐちゃぐちゃなのではあるが、ひとつでもぐちゃぐちゃでない部門があることでよしとしょう。
年末だ。「日々」が早く過ぎればよいと思っている。何を待っているわけでもないが。あ、そう、禁酒始めてから百五十日になった! 「びー」の抜糸と抗生剤注射に、病院に行く。「お歳暮」のオリオンビール持って・・・♪。酒屋に行くのも半年ぶり♪鼻歌混じりの上機嫌。

2008年12月18日

「パンパース記念日、もしくは『再生産』の神秘」



しっぽの縫合跡は完璧な回復ぶりであった。手術の際に刈り取った毛がはえ揃うにはいましばらくかかるが、もう少々床にこすっても傷口が開くことはなさそうだ。
そうなってしまえば「おむつ生活」ともお別れなのだが、かと思うと名残惜しく、まだ十枚近くあるから大事を取ってしばらく続けるとしてもおそらく足りるのだが、めったにないことなので、「人間用」のおむつを買ってみる、という欲望に抗しきれなくなった。
普段多用しているスーパーは、大量のヨーグルトとこれまた大量の日本酒、それ以外には「春雨ヌードル」とチョコレートくらいしか買わない極端に偏った食生活の変人としてレジ打ちのアルバイトさん達にもあまねく知られていようから、この上「新生児用おむつ」を買って「変態」扱いされるのは避けたかったので、動物病院の帰り道にあるショッピングセンターに立ち寄ることにした。 パンパース80枚1480円、メリーズ88枚1380円で値段ではメリーズに軍配が上がるものの、なにせ「めったにない」買い物であるから、「病院使用率No.1」というキャッチコピーにも引かれたし、懐かしい神戸の六甲アイランドに本社のある「P&Gプロクター&ギャンブル」社のブランド性も魅力で、パンパースを選んだ。
写真は題して「今日は、パンパース記念日・・・。」

昨今のようにレジ袋削減、マイバッグ持参がかまびすしく唱えられるようになるかなり以前から、私はスーパーには買い物カゴを下げて行きコンビニではやる気のないアルバイト店員に却って疎ましがられても、袋を頑強にお断わりする、「エコ」屋だった。
「あ、袋、いいです」、「は?、あ、はい」、「あ、それもそのままで・・」、「え、でも、汁たれますよ?」、「いえ、そのままでお願いします」、「割り箸ご利用ですか?」、「いえ、いりません」、「ストローは?」、「いいです・・」、マニュアル通りに流れ作業で働いている人のリズムを乱して気持ちを逆立てることが本意ではない。それが原因なのか結果なのか、「発病」した私には「買い物」自体が負担となった。
なんでもかんでも二重三重に包んだり袋に入れたりしないと気が済まない文化は、「贅沢」や「環境」の問題である以前に、この国特有のものなのか、何か「穢れ」に対する「フォビア(恐怖症)」とつながっているんだろう。
「パンパース新生児用」を抱えてレジに並びながら、いつものように「袋をお断わり」すべく身構えていた。生理用品やコンドーム買うと、黙っていても紙袋や色つきで外から見えないビニール袋に入れてくれるお約束になっているだろ?
あれと同じ扱いなのかな?と漠然と考えてたんだが、意外にもビニールテープ貼っただけで手渡してくれた。

「知識階級」は「考え込む」ことが仕事なんだ、ということにしておこう。私は考え込んだ。
「コンドームを装着して性交している」ということや、常時性交しているわけではないかもしくは常時性交しているにもかかわらず妊娠していないから生理がやってくるということは、「隠しておく」べきことであって、ところがおそらくはそれらの性交を原因として「子供が生まれた」事実は、誇らしげに、むき出しにして、他人にわかるように見せて歩くものなのだ!
だ・か・ら、人間の「再生産」活動は、わからない☆★。

2008年12月19日

I☆ラヴ☆ED



写真は「排尿前」(左)、「排尿後」(右)。

私は予備校の講師をナリワイとしていて、数学・物理・化学などを教えておる。「センセイは何でもできるんですね☆」などと言われると普通に嬉しくなってしまうほど、「普通に」愚かなんであるが、人生というものはそういういくつかの数えるばかりの「科目」で出来ているんだ、と私もまた誤解していたのだ。膨大な数の私の「不得意科目」たち、「財産運用」、「住宅取得」、「立身出世」、「厚生年金」、「冠婚葬祭」、「家運興隆」、「子孫繁栄」、「定期預金」、「社交辞令」、「育児休暇」、「株式投資」、「膣外射精」あ、違った、「校内暴力」あ、また違った、とまぁ数々の四字熟語であるのだが、その根幹は、
1:家庭を作ること、
2:子孫を作ること、
つまり『再生産過程reproductive_process』なのであった\(^O^)/

「なぜ『再生産』をしないのか?」という問いには、一応二つのバージョンの「公式見解」が用意してある。
1:ED説。近年はこのような的確かつ適切な表現が人口に膾炙(かいしゃ)するようになったのは慶賀なことだ。昔は「インポ」と言っていた。Impotenzってこれドイツ語だろ?
中学校とかで「適齢(!)」なのに結婚しない男性教師がいたりすると「あいつ、インポやから結婚できへんねん」などと、まことしやかにささやかれているのを聞いて、セックスの「しくみ」もあまりわかっていなかった「晩稲(おくて)な」私は、それでもそんなたった3文字の言葉で、「人」の人生が「両断」され、おそらくは大人達にも「あ〜ぁ、だからね」と「納得」されてしまうことに、うそ寒い思いがした。

「何で結婚しないんですか?」と問われると、「なんで『する』人が『する』理由を述べない事柄について、『しない』人が『しない』理由を述べなければならないんですか?」と「正論」を吐いていたものだが、それもめんどくさいときは、「いや、勃ちまへんねん」と答えれば相手は100%黙るからね。雰囲気ブチ壊してもイイときはそうしてた。
もっとも、最近は他人としゃべること自体なくなったし、「何で結婚しないんですか?」なんてもう誰もきかない。「何でまだ生きてんですか?」てなもんで、ハハハッ(笑)。

ところで「人口に膾炙」の【注】です。Yahoo辞書、役に勃つわぁ〜、コラッ!

「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の口に喜ばれるところから》世の人々の評判になって知れ渡ること。

2008年12月19日

スピーク・ライク・A・チャイルド/または、「愛」の 生物的土台



写真は、「B的肉球」。前足、えっと、どっちが左だったっけ?

ちなみに前回の写真キャプション、「排尿前・排尿後」も真っ赤な嘘である。もっとも、例えば今この瞬間の「あなた」も、あなたの人生の特定の一回、「第n回の排尿」に対してはその「前」であるか「後」であるかの2値しか取れないのであるから、あながち誤りとは言えない。けだし「人生」とは「第n回目の排尿」後であり、同時に「第(n+1)回目の排尿」前である 時間の謂いなのである。
ここに「排尿」に例えば「性交」を「代入」することも可能である。無論、nの定義域は「自然数」ではなく「非負整数」であり0であることを妨げない。

☆★前回までのあらすじ★☆
予備校講師である「私」は、職場の「自習室」の近くで車にひかれた猫を引き取るはめとなった。「自習室」の呼称にちなんで「びー」と名付けられたその猫には下半身にマヒが残り、排便の邪魔になるしっぽを切除する手術をして最近退院したばかりである。傷口を保護するために「おむつ」をつけた「びー」、一日二回その下腹部を圧迫して強制排尿させるのが日課となった。数年前に「うつ病」を発症し「生きづらさ」を隠せない「私」も、「無邪気」な「びー」の表情と、か弱い生きものを見守る生徒達の暖かいまなざしに支えられて、貧しいけれどもひたむきに生きることを決意する・・・。

あの〜、すんません。前回の記事には確か「膣外射精」とか「勃起不全」とかの単語がちりばめられてた思うんですけどぉ〜?

おぉ、そうであった!「ペット用おむつ」があまりに高価なので「パンパース」人間用を購入したことから、「再生産」談義に入ったのであった。
「何で結婚しなかったんですか?/何で家庭を持とうとしなかったんですか?」系の問いの答えとして、もう一つのバージョンは、
2:幼少期トラウマ説
・・・ねぇ、この携帯の辞書、ほんとにバッカじゃない?「トラウマ説」、「虎生ませ・・・」だって!いくら「再生産」だからって、ネコ科が好きだからって「トラ」はないわよね「虎」は(笑)・・・。

父の虐待や母の「ネグレクト」を受けて育ってきた子供たちは山ほどいるだろう。虐待も「ネグレクト」も受けていなくても、幼少時代が「不幸だった」と感じているもと子供たちもたくさんいるに違いない。
「将来、結婚して、子供をもうけて、家庭を築く」という『夢想』を持った記憶がない。かなり早い時期から、「自分のような無能で無価値な人間の遺伝子は『絶滅』させた方がよい」と感じていた記憶は、はっきり、ある。
私が子供の頃、生物学は「進化の原動力は『種の保存』である」と教えていた。「個体」の体細胞に拘束された遺伝子が「種」について「言及」したとしたらそれは「レベルの混同」であり、「言語」と同様の「自己言及の不可能性」に往着する。
ところが生命は、他ならぬその連続性のために、必然的に不連続点を含み込む。・・・

「生命は非連続な個体性を自分の力で生み出し、維持しようとしている。ところが、生命の内部にはそれを壊して、連続性を引き入れる原理が隠されていて、生殖の瞬間に、その隠された原理が表面に躍り出てくるのだ。
・・・
動物と人間の母親の身体のおこなう、この免疫機構に反する行動が、人間にあっては「愛」の生物的土台をかたちづくっている。」
「イカの哲学」中沢新一・波多野一郎(集英社新書)

2008年12月21日

『恋人かサンタクロース』ではない/または『愁訴』と『告訴 』



師走雑感。
クリスマスが近づくと、どこのショッピングモールでも有線で流れておりますでしょ?ホラ、 「きっとあなたは、来な〜い♪」・・・と、
「こいびとがサンタクロース〜♪」・・・、
しかしなんですな?すごい歌でげすな。
私たちが育ってきた「1980年代」という時代は、こんな「貧しい」言葉しか生み出せなかったのでございましょうかね?慚愧の思いを禁じえませんがね、まぁ、他の時代だって大して変わり映えはせんのでしょう、自分が生きてきた時代だから特に「恥ずかしく」感じるのでしょうが。
無神論者にして、キリスト教会と帝国主義が世界を略奪したとする歴史観を堅持しておる「戦闘的」唯物論者、「マルクス・レーニン主義者」でありましたはずの私ですが、「クリスマス」とかの小市民的な「年中行事」が結構好きでしてね、「日付・記念日」への固着もひとつの「症状」なのだろうが、昔は「ソニー・プラザ」などで愚にも付かないオーナメントを買いケーキを焼いて料理を作ったりして「友達」を呼んで「パーティー」をしていたものだった。

「友達」がすっかりなくなってしまった今は、クリスマス・イブはもちろんひきこもって過ごす。25日過ぎるとチキンの丸焼きが半額になるから猫達に振る舞ったりもするけど、言語を持たぬ獣には「記念日」は通じないから、盛り上がらない。
ヤマシタタツロウとかマットウヤユミとかに特に恨みがあるわけではないが、概してクリスマスソングも阿呆らしく聞こえ、街ゆく人々の着飾った姿さえとげとげしく、私はどこへも出掛けなくなった。
窓から見える首里の元日航ホテルのイルミネーションが25日の夜半に消えると、やっと何かほっとする。

今の職場に移ったのが四年前、秋頃の中途採用だった。その年の忘年会を兼ねた「クリスマス・パーティー」、「ク・ラ・ブ」って言うの?薄暗くて音楽がかかってて踊るフロアがあって髪の毛後ろでくくった男とかが雑な手つきで飲み物作ってくれるところ。私はその「ク・ラ・ブ」って発音、「↑→→」とでも書いたらいいのかしら、あのイントネーションが真似できない。ずっと昔、これまた80年代バブル期、私も人並みに「デザイナーズ・ブランド」の服を身にまとったが、あの時の「パンツをお探しですか?」の「パ・ン・ツ」が同じアクセントだね。と、そんな「ク・ラ・ブ」風のお店を借り切って行なわれた豪勢なパーティーでだか二次会でだか私は意識を失い、まだほとんど面識のない、雇ってもらったばかりの社長に何かとんでもなく失礼な振る舞いをしたらしい。
強度のアルコール依存症であり、そんなものになってしまえるぐらいだから私は滅法酒が強い。酔って「乱れ」たりしたことは、ごく若いときを除いて決してなかった。記憶がないことはしばしばだが、安らかに眠ってしまうだけで、人様に迷惑を掛けたことなんかなかった。 いつも「怒鳴り合う」ような形でしか会社を辞められない、それが自分の「性格」の「異常」性によるものかも、と、まことに「遅蒔きながら」も気が付いていたから、今度の会社こそは「上手にやろう」、「愛想よく、溶け込んでみせよう」と「張り切りすぎて」跳ねてしまった結果のようだ。
「メランコリー親和型」にはそんな「けなげ」なところがあるから、かえって自滅する。私はいつも、誰にも頼まれてもいないのに、自ら進んで自分の生きている場所を「地獄」にしてしまう。

それ以来「忘年会」はトラウマなんだが、もともとどうしようもなくお酒が好きなものだから、ただで飲める会社の宴会にはときどき出掛けてしまう。「今度こそは、うまくやれる!」って「健気な」期待を秘めて・・・。
和やかな雰囲気の二次会、人々がグラスを手にテーブルを行き交う。気が付くと私の回りには誰もいない。することがないから一人で飲み続けるのだが、困ったことに全然酔わない。
今しも「同僚」の誰彼がこちらに近づいてくる気配、私はものすごく気弱な小動物の表情をしているに違いない。でも、彼または彼女の視線は私の身体をすりぬけてその先に向かってしまうか、もしくは、鋭角的に角度をかえて跳ね返ってしまう。
「私がまったくそこに存在しないかのように他人が振る舞う」、「被害妄想」か「解離」症状であれかし、と思うのだが、どうやら現実のようだ。
「誰にも気付かれることなく」店を出て、タクシーにも乗らず、華やいだ、あるいはすさんだ深夜の街を歩いて帰る。コンビニ毎にビールを「補給」しながら、ときどき公園のベンチにしゃがんで、「泣き真似」をしてみたりもする。
どうして私は、「世界」から「こぼれて」しまったんだろう?あるいは、はじめから「はいって」いなかったんだろうか?

フロイトは、「喪とメランコリー」のなかで、「うつ病」患者特有の猛烈な「自己卑下」が、実は自分をそのような状況に追い込んだ「他者」に対する攻撃なのだ、と指摘している。

「・・・・・・語の古い意味で、彼らの『愁訴』は『告訴』なのである。彼らが自分を卑下して語るずべての言葉は、基本的に他者を指して語られているのであるから、それを語ることを恥じることも、隠すこともないのである。患者は品格の卑しい人物にふさわしい形で、周囲の人々に自分の謙遜や卑下の気持ちを表明しているのではない。むしろ周囲の人々からひどく不当な目にあわされた人物であるかのように、これ以上ないほど苦しみ、自尊心を傷つけられているのである。これは、患者の精神的な姿勢の反応がそもそも周囲に対する反抗という態度から生まれているからこそ可能なのである。・・・・・・・」

私は自分が愚かだ、クズだ、生きてる価値がない、嫌われてる、居場所がない・・・と大騒ぎしつつ、その実、そんな風に私ともあろうものを「排除」した、もっと「愚かな」世界を、ガンガン攻撃している。事実、毎日のように、「殺意」とも見紛うほどの「憎悪」に身を焦がしている。
でも、もし本当に攻撃したら「私」にとっても「世界」にとっても、もっと遥かに悲惨なことになるから、攻撃の矛先を変え「自傷」することにしたのだ。
そんな「健気」な自分が大好きだから、私はちっとも「治ら」ない。この患者は「治癒」を望んでいない。

「自虐」、「露悪」と呼び給え、でも、これも「自己言及の不可能性」なんであって、私たちはこんな「間違った」言葉使いしか、出来ない。

さて、今日のウ・ン・チ・ク♪
1:【慙愧/慚愧】[名](スル)《古くは「ざんぎ」とも》自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。「―の念」

前回の記事で私、「×往着」なんて言葉使いましたが、そんな言葉ございませんの。「ほうちゃく」を「×おうちゃく」と読み間違えての勘違い。「男女の逢瀬(おうせ)」なんて言うじゃない、でもこれって「あう」の音便で訓読みよね!30年ばかり、誤解してました。
2:【逢着】[名](スル)出あうこと。出くわすこと。行きあたること。「難問に―する」

写真は、「正しいネコの、『つるし』方・その1」、詳細は次回報告に待たれよ☆★

2008年12月24日

正しいネコの『つるし』方



すわっ!ここは「動物虐待」愛好者のサイトか?
いえいえ。「びー」のおむつを換えたり、ウンコのあと肛門の回りを拭いたりするとき、転がしておくと、勝手に這い回って、それでもいいんだが、新しいおむつが汚れてしまったり、タタミにウンコ付いたりしないかなと、「病的」な心配性だから、かといって前に写真でご紹介したみたいに、腕にぶら下げておくととても安心できるらしく具合はいいのだが、これでは片手がふさがってしまって、例えばウェットティッシュを一枚引き抜くにも、冷蔵庫のドアを開けて消毒薬を取り出したり、袋から新しいおむつをひっぱり出したりするのさえ、いちいち難儀をする。
そこで一計を案じた。「超小型犬用」ハーネス(胴輪)を付けて、リード(引き綱)を首(もちろん、私の)に掛けてはどうか?
たとえ「クリスマス・イブ」の昼間であっても、「ディスカウント・スーパー」はそれほど「華やいだ」場所ではないから、助かった。「きっとあなたは来ない〜♪」もかかってなかったしね!

首から(もちろん私の)下げるときの長さの調節に、意外に難航した。ちょうど、そう、アルトサックスを首にぶら下げるひもがあるだろ?あんな感じ。
まずは成功と言えよう。おむつの装着は、明かにやりやすくなった。
ただ、調子に乗ってぶら下げたまま歩き回ったりすると、向こうは大層不安になってくるのだろう、前脚で必死でしがみついてくる。ごめん、ごめん、すぐ降ろすからね!

2008年12月25日

「ぶらさがり猫・『びー』、だから、『キープ・ミー・ハンギ ング・オン』」



★☆前回までのあらすじ☆★
昔々、南の龍宮の島に「悪い」じいさんが住んでいました。じいさんは卑屈に装ってはいるものの高慢さを隠し切れず、話がくどくて最後は結局自分の「病気自慢」に行き着くので、まわりの者は退屈がって次第に相手をしなくなりました。人々が身を寄せ合って暖を取る「クリスマス」の夜もじいさんは一人でした。
じいさんは考える。「どうして私は嫌われるのか?」、「それは私が『悪い』人間だからだ」、「しかし私はこうして自分が『悪い』ことをちゃんと認識している。それは結構『イケてる』ことではないのか?」、「そんな『イケてる』私を排除しようとする『世間』の方こそ『悪く』て『イケて』ないのではないか?」、「いやいや、そうやって自分の『落ち度』であるかもしれないことを、『相手』の所為にしてしまうところが『悪い』ところなのだ。だから私は嫌われる」、「しかし考えてみれば、これほどするどく自己について省察を巡らせることが出来る私というのは、実は『一廉(ひとかど)の人物』ではないのか?」、「そんな『一廉の人物』を『ないがしろ』にして顧みない『世間』こそ『愚』であって、だから私はこんなに不幸なのだ・・・」
こうしてじいさんは日がな一日、「自己言及パラドックス」に明け暮れているのでした・・・。
☆★☆★☆

今日、久しぶりに人と喋った。(お、なかなか「病気系ブログ」らしい書き出し!)

「そういえば、○○先生、忘年会、来られませんでしたねぇ!」と、職場の事務職員である若い女性が声を掛けてくださったのだ。
私は、自分が「居ても居なくても気が付かれない」ほど存在感が「希薄な」人間だとは思っていない。だからこそ「存在しないかの如くに扱われる」ことに深く傷つけられる。例えば「忘年会に出席しない」場合でも「不在」を通じて「存在」を主張しようとしたり、そういうややこしいこと考えるから、ますます嫌われるのだが、まさに自分が「居なかった」ことに気付き、指摘してくれた人が一人でもいた♪という事実に、舞い上がってしまったんだな。
ましてや、相手は「若い」、「女の」人だったから・・・。私は「ED」だが「ヘテロ」である。実は「TGL(トランス・ジェンダー・レスビアン)」かも知れない、とも考えているのだが、その話はまた「長く」なるので・・・。
で、丸二日くらい、猫達に一方的に話し掛ける以外は、スーパーのレジでの「あ、袋、いいです」を除き、ヒトに対する「発話」を経験していなかったにもかかわらず、人間というものは結構上手に作られているものね、ちゃんと喋れるじゃない!ここ30年来初めて「禁酒」が五ヵ月以上も継続できており、そのため楽しみにしていたにもかかわらず、やむなく欠席させていただいた旨、いかに私のアルコール依存が重傷であったかを、グロテスクな露悪に陥らないよう「面白おかしい」エピソードを交え、「笑いの取れる」お話ができたと思う。

年末の華やいだ、でもどこか殺気立った街並、モノレールの隣り合った席で、スターバックスのテーブル越しに、深夜コンビニの駐車場、鳴り止まぬ携帯着メロ、皆様は一体「何を」喋っていらっしゃるのでしょうか?

「カラオケ」で、他人がマイクをつかんで唄い始めるとたちまち手拍子、「イェーイ」等の掛け声もうわの空、「次に自分が唄う」歌のコードを探して「入力」するのに忙しい。まるで同じように、「そう!ほーんとそうなのよねぇ!だから私なんかね・・・」とばかりに、相手の言葉のわずかの「切れ目」も逃さずに「自分の話」を「割り込み→」、「入力↓」するの。
「そんな『会話』してて楽しい?」などと挑発的な問いは投げ掛けない。
私もまた、「自分の話」がしたくてしょうがない。それ以外喋りたいことは、ない、と言ってもいい。だからこそ「ブログ」という穴を掘って「成仏できない」言葉たちを「埋葬」している。

写真は、「ぶらさがり猫・『びー』、だから、『キープ・ミー・ハンギング・オン』」

2008年12月28日

コントロール・アルト・デル(Cntl+Alt+Del)を押しながら・ ・・



「自分の話をしたい」と言う焦がれるような思い、でも、「相手は、『私についての話』など少しも聞きたくはないのだ」ていうことも容易に知ることが出来る。私も、相手の話など、少しも聞きたくはないからだ。
願わくばもう少し頭が良くて、上記の事実に気付くのが「発話」開始後20ミリ秒程度であってくれたならば、「発話」を開始した事実自体に気付かれる事無く、終了することが出来るのだが、いかんせん処理速度が遅いので、会話がすでに進行しはじめてしまってから20秒程もたって唐突に、今度は「会話を打ち切るための話題」を探し始めることになる。「強制終了(Cntl+Alt+Del)」を押してもすぐには止まらない。その間、私は「うわの空」・・・。

「びー」の食欲が落ちた。あわてて高価な「ウェットフード(缶詰)」に切り替えたらあっさり食べた。単なる「贅沢」なのか? 子猫の成長は驚くほど早く、体重も早や2キロを超えた。少しぐらい食欲落ちても不思議はないのかも知れん。
籠のなかでは、運動不足だしな。目を覚まして「うぇーお♪うぇーお♪」と呼び付けられて、蓋を開けると二本の前足を宙に広げて「のび」をする。悪いけど、、たとえ様もなく、かわいい!「ちょー」、可愛い!!

写真は、「びー」様のお食事(盛り付け例)、「サイエンス・ダイエット(キトン)」、白いのは「トップバリュー・ヨーグルト」

2008年12月28日

鏡の国の・「びー」



携帯カメラに「内側カメラ」ってオプションあるでしょ?鏡見てるみたいにして、自分の写真撮れるの。「びー」首からぶら下げて写真撮ろうとして、初めて使ってみた。
例えばあなたがAさんだとして、Aさん、あなたが携帯カメラを右手に持って、あなたの右にはBさん、二人で「ピース!」とか「チーズ!」とかアホなこと言いながら、写真撮ったとする。あなたとBさんが見ている携帯の液晶画面には、(携帯と向かい合っているあなたから見て)右側にBさん、左側にあなたが映っているはずだ。これは「鏡像」だ。Bさんが右手を挙げると、画面の右端でBさんが右側の手を挙げ、あなたが首を左に傾けると、画面のあなたも左に首を傾ける。
そうでないと、画面を見ながらポーズを取ったり出来ないからなんだろうが、これはカメラの仕組みから考えると、まことに奇妙なことと言わざるをえない。
何が「言わざるをえない」だか、やっと昨日で年内の仕事が終わって、世間の人々は「正月」を迎えるさまざまの準備に慌ただしく過ごしておられるだろう大晦日、することが何もない私は、こんなどうでもいいことを「考えて」過ごすことにした。「考えて」いる限り、私は「正気・正常」でいられる。気を抜くとすぐに、根拠のない「怒り」や「憎悪」や「妄想」が前景に現われてきてしまうから、私はわざわざ遠くを見るように「焦点」をぼやけさせて、なるべくどうでもいいことを考える・・・。
何が「奇妙」かと言えば、カメラの凸レンズを通してスクリーン上に作られた「像」は「倒立実像」であるから、上下・左右ともに「反転」している。一眼レフの「ファインダー」には、レンズが捉えている映像と同じものが写っていなければピントを合わせるなどの操作を反映させることが出来ないから、この「倒立実像」をもう一度上下左右に反転させる仕組みがあるのだろうが、昔風のもっとちゃちなカメラでは、レンズの捉えている対象とほぼ同じ方向を四角く切り取る単なる「覗き窓」だったはずだ。
携帯のカメラはCCD(電荷結合素子Charge Coupled Ddvice)と呼ばれるちっこい構造物かびっしり並んだスクリーンが、従来のカメラの感光フィルムの代わりをしており、一点ごとに照射された光の強さや波長などが、電磁気的な信号としてその「場」に書き込まれる。
さて、やはり凸レンズによって集められた「ピース!」とかアホなことを言っているあなたとBさんの映像は上下・左右ともに反転された形で、そのCCDとやらに書き込まれているわけであるから、これを「鏡像」として液晶画面に表示するには、
1:上下・左右ともにふたたび反転させれば、通常のカメラ(外側カメラ)のように、あなたたちと向かい合わせにいる人から見たあなたたちの映像を再現できるが、
2:それをそのまま、「内側」のあなたたちが見れば、左右が反転しているから、右手を挙げたら左手が挙がった、みたいな混乱の極みになるから、もう一度左右にのみ反転させる、別の言い方をすると、はじめから上下しか反転させない、 ことになる。
実験してみた。添付した二枚の図面を御覧いただきたい。モデルはもちろん「ひー」だ。ただ、動物というものはほぼ例外なく「左右」という「一軸」に関してだけ「対称」であるから、識別しやすいように「GHANA」ブラック・チョコレートのパッケージを挿入しておいた。
はじめの一枚は、「内側カメラ」で撮影したものである。何の変哲もない、と思われるかもしれない。しかし、撮影時に液晶画面に映っている像は、これとは左右が反転しているのだ!!
二枚目のほうは、「鏡」にむかって「外側カメラ」で撮影したもの。「GHANA」の文字か引っ繰り返っておりますでしょ?救急車のボンネットに「救急」の文字が裏返しにペイントされてたりするでしょ?前を走る車のバックミラーから正しく見える様にしているのですな。
で、私たちは、あなたも、液晶に映った「反転」画像に向かってポーズを取って、出来上がった写真がそれとは「さかさま」でも、別に不思議には感じないのでした。
きっと「プリクラ」もそうなんだろうね。「プリクラ」なんてもう十年以上近寄ったことがない。十年前もすでに私は「おっさん」だったが、その頃はまだ若い「友達」もいたりしたのだ。
「プリクラ」だとたしか、写真の背景に模様とか「Happy!」とか「Love!」とかアホな文字いれられるんだよな?とすると、印刷以前に画面に映っている「鏡像」の上に文字を正しく貼りつけるには裏返しの文字でなければならないはずだが、あるいは「文字オプション」を設定する際のモニターには、すでに印刷イメージが映っているのか?
あぁ、気になってしょうがない。正月早々、ショッピングセンターのゲーセンの片隅のプリクラで、おとなしく順番を待っている老人がいても、声を掛けないでくれ給え。
あ、年が明ける・・・。

2008年12月31日

「世界」との「きづな」



年が明けた。0:00と同時に那覇港から一斉に汽笛が聞こえ始める。私は神戸の隣の隣の町で生まれた。その町にも港はあったが、新年とともに汽笛が聞こえた記憶はない。国際航路の船舶は国籍を問わず、大晦日に投錨している港でその土地の新年を祝うのだ、と聞いた。だとすれば、今この瞬間、世界中の国際港で、この同じ音が聞こえている。それは「類としての」人間について想起させてくれ、とても感動的な事実であるはずなのに、私はと言えば、何に向けられているかさえわからない些末な「怒り」や「憎悪」や「焦燥」に苛まれて、ただ今日明日の時間をやり過ごすだけのために既に疲れ果てている。私は、もしそんなものが初めからあったんだとしたら「世界」との「きづな」を取り戻したい。でも「元」からそうだったのなら、それでもいい。特に私だけが「不幸」だとも、不必要に「幸せ」にしてくれ、とも言ってない。
明けましておめでとうございます。誰に向かってしゃべってるか、わからないけど・・・。

2009年01月01日

「パンパース装着状況・前面/背面」、もしくは、「私を二階微分して!それが『私』よ!」



元日を私は三時間くらいしか起きていない。ネコに餌を出す、犬の散歩に行く、ネコのトイレを掃除する、・・・、それら一つ一つをこなす度、疲れ切って昏倒する。
浅い眠りの中で、ほぼ次のような「サイクル」を循環している。
1:どうしてこう、うまく行かないんだろう?
2:「誰か」が邪魔してるんだ。
3:いやいや、それは「妄想」だ。
4:でも、どうして「妄想」を持たねばならないほど疲弊する?
5:やっぱり誰かが・・・。
6:違うって!じゃあ、仮にそうだとして、どうする?「殺しに」行くか?
7:わかったよ。でも、どうしてこんな惨めな状態なんだ?
8:わからん。「育ち」が悪いんじゃないか?
9:また「幼少期トラウマ説」か?結局他人の所為にしてるやないか?
10:「自分」の所為にしてみるか?
11:私は「厭な」人間です。だから、嫌われます。
12:でも、「『厭な』人間である」ことを「認識」している点は、なかなか得難いと思います。
13:ホラ、始まった。「自己言及パラドックス」や。
14:おんなじことの繰り返しや。それにしても、「あいつ」むかつく。
15:「殺す」か?
・・・・・・。

「循環」するのは、私たちが生きている証だ。
コンデンサの極板に蓄えられた電荷は、抵抗を接続すると自然に流出してなくなってしまう。その流出速度は、極板に存在する電荷の量に比例する。
「減少速度」が「現在量」に比例するわけで、これは例えばタンクに溜まった水は、水嵩が多いほど勢いよく抜けていく、貯金がたくさんあるほど使ってしまう、などのありふれた現象の「モデル」であり、次の微分方程式で記述できる。
-dx/dt=kx
これを充たす関数は、底が1より小さい指数関数であり、全区間単調減少である。

ここにコイルを接続する。コイルに電流が流れると磁場が形成され、形成または消滅という様に磁場が変動すると、変動している間だけ「誘導起電力」と呼ばれる電圧が発生する。

コンデンサから流出する電流はコンデンサの蓄電量に比例し、電流に比例した磁場がコイルの両端に生じ、磁場の時間的変化、すなわち時間による一階微分に比例した「誘導起電力」がコイルの両端に生じ、そのコイルの両端の電圧に比例した電荷がコンデンサに蓄えられる。こうして「循環」が生じた。

電流すなわち電荷の一階微分、に負号を付したものが、磁場に比例し、電流の一階微分が電圧ひいては電荷そのもに比例する。つまり、電荷の時間による二階微分に負号を付したもの、が、電荷そのものに比例する。
「私を二階微分して!それが『私』よ!」、またしても「自己言及パラドックス」だ。だから、この微分方程式をいくら眺めていても答えは出ない。三角関数は、二階微分したら元の関数に比例し、かつ符号が逆になる、ということを別の「外」的な経験として、知っていなければならない。

「自己言及システム」が「振動」を生み出す、と言う簡単な実験である。蓄えたものをただ「流出」するしか「能」のないコンデンサに、「変化」を「阻害」する、これまたそれしか「能」のない仕組みを組み合わせるだけで、原理的には「無限」の、実際にはエネルギーの「初期値」が散逸してしまうまでの有限な時間ではあるが、繰り返しの可能な「振動」が生じるのであった!

「びー」の絶叫をよそに私が眠りこけている間、かわいそうに彼は、おむつにウンコをしてしまった。すまんすまん。こうして本日、「ユニチャームSSサイズ」が終了、いよいよ「パンパース新生児用」の登場である。尻尾穴がないぶんだけ、「高分子吸収シート」が大きく、良好そうである。もはや前後逆に装着する必要もない。
写真はもちろん、「パンパース装着状況・前面/背面」

2009年01月02日

「トン」ちゃんの食卓/または、「時間」に「拘束」された「 修辞」



「トンちゃん」はうちで引き取った三匹目の「交通事故被害」ネコ。去年の三月だったか?ほぼ「月一」の割合で車にひかれた猫に出会うなんて、こんなことが「永久に」続いたらどうしよう!と、怯えたものだ。
犬の散歩の途中、公園のそばの狭い道路の真ん中でうずくまっていた。鼻血を出していたから、あぁ、頭を打ったんだ、死んじゃうんだろうなぁ・・・、せめてうちで看取ってあげよう、と、大騒ぎする犬達を叱り付け、散歩を中断、腕に抱えて帰ってきた。
「棺桶」のつもりの段ボールに寝かせて、ハイビスカスかブーゲンビリアの花をどこかから「失敬して」来ようとしばらく目を離すと、あれっ!、寝返り打ってるぞ!、あわてて、犬猫用ミルク、注射器で飲ませると、おっ!飲んどるぞ!開院と同時に動物病院に駆け込んだ。
「また、ですか?」と先生方も半ば呆れられておったが、もちろんいやな顔一つせず丁寧に診察してくださり、「身体を丸めて、内蔵を保護しようとする姿勢を取っているから、期待持てますよ!」と言う言葉どおり、一週間で「返品」、いや退院、してきた。身体にはどこにも障害は残らなかったようだ。
で、「死んだはず」だったが生きていたとは「お釈迦様でも、知らぬ仏」の「お富さん」にあやかって「トン」と名付けた。オスだけとな。
私が大学生だった80年代、「ディスコ・お富さん」が大ヒットした。「釈迦」と「仏」の鮮やかな修辞法が記憶に残っていた。
その「トン」、猫にはときどきあるのだが、キャットフードを食べるのが「ちょー」へたくそなのだ。もちろん彼らの牙は、倒した獲物の肉を骨から引き剥がす「ために」発達したのであって、裕福なアメリカ資本主義文明が、長期保存に向きなおかつ都市化した猫の歯の衰弱を予防すべく考案したこんなカチカチの「ドライフード」に「適応」したわけではないから、無理はない。
「トン」は事故のとき、やはり頭部を打っていて、そのせいかどうか断定はできないが、上顎の牙が一本欠けているのも一因かもしれない。茶わんに餌を入れるとこれを下顎で掬い上げようとして、茶わんの縁を押してしまう。軽い茶わんは「逃げて」しまう。こうして「トン」は食事の度にほぼ2メートルほども茶わんとともに旅をする。見兼ねて手で押さえもするが、他の猫の世話もせねばならず「付きっきり」にもいかない。
「正月休み」でもあることだし、一計を案じて、「日曜大工」。電柱にくくりつけてある「サラ金」等の「違法広告物」、ベニヤや角材など結構上等な材料を使っておられるので、「頂戴」する。「トン」がベニヤの上に乗っかって自らの体重で押さえられるように、その端に茶わんを固定する木枠を角材で作った。
26匹が一斉に食事する大混乱のさなか、トンをベニヤの上に連れていくのが一苦労、また、すぐ他人の食器が気になるらしくふらふら歩きだしてしまうのを連れ戻さねばならぬが、経過は概ね良好のようである。

☆★☆★☆★☆
「死んだはずだよ、お富さん、生きていたとは、お釈迦様でも、『知らぬ仏』の、お富さん〜♪」

この唄の「修辞法」について説明しなさい。
「お富さんは、死んだはずだ。生きていたとは知らなかった」、伝達すべき情報としてはこれだけなのだが、「知らない」という言葉から「知らぬが仏」:(知っていれば腹も立つが、知らないから「仏様」の様に平静でいられる)と言う、本来この文脈には無関係で、むしろ「ふさわしくない」ことわざを、「知らぬ」という音声のみから連想し、これを「引き出す」ために「仏」の「縁語」である「お釈迦様」を「知らぬ」の「前」に置いた。
なおかつ、「ホトケ」が別の文脈では「死者」を表わしうることを利用して、「死んだはず」の「縁語」としている。
「前」に置く、というのはとても重要なことで、私たちは日常、紙に印刷されたものであれ、コンピュータの画面であれ、「書かれた文章」を読むときは、今まさに「読んでいる」箇所だけでなくその数行先をも、明確に意識することはないにしても、視野の片隅に入れている。だからこそ「話の展開」に予測が付けられ、短時間でも大雑把な意味を取ることができる。
いちいち辞書を引かなければ意味がわからない単語が一行に五個も六個もあるような外国語の文章は、仮に全部辞書を引きおわって単語の意味が全部わかっても依然として意味がわからない、ことがあるのも、ビルの壁面に映し出される一行きりの「電光掲示板」のニュースが意味が取りにくく、一層不安をかきたてられるのも、「予見不可能性」が原因とも言える。
「話し言葉」では、相手によって「音が発っせられる」まで「先読み」をすることが許されない。「聞こえる」まで「待たなければならない」と言う意味で時間に「拘束」されているのだ。それでも私たちは、相手の発声によって常に「否定される」可能性のある「予測」を繰り返しながら、話を聞く。大枠において「予想」が当たらないと意味が取れないだろうが、逆にすべてが「予想どおり」だったらその話は「情報論」的に「無価値」だ。
少しずつ予想が「はぐらかされる」ことが会話の妙味であり、漫才の「オチ」や「ギャグ」もこれを利用している。
「生きていたとは♪」に続いて「お釈迦様」が「聞こえてくる」のは、とてもスリリングで、なおかつそれが直後に「知らぬ(が)仏」と言う「解決」が与えられるのが、すばらしいのだ。

「お富さん」(1954)の作曲は沖縄生まれの渡久地政信だという。「沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史」佐野眞一(集英社)と、よくもまあこんな気の滅入るようなタイトルをことさらに選んだものだ、と思える書物、この夏に読んだのだが、そこに書いてあった。で、それほど気の滅入る書物でも、なかった。

「修辞法」に関する「Yahoo!辞書」エントリーをいくつか・・・。「知らぬが仏」/「お釈迦様」を「縁語」と呼ぶのが正しいかどうかは、「知らぬ」!また「知らぬが仏」という「ことわざ」が広く知られているであろうことが前提となっているから「本歌取り」的技巧と思うが、確信はない。

かけ‐ことば【掛け▽詞/懸け▽詞】 一つの言葉に同時に二つの意味をもたせる修辞法。の歌で、「いなば」に「立ち別れ往(い)なば」と「因幡(いなば)の山」の意味が、また「まつ」に「松」と「待つ」の意味が含まれている類。和歌・謡曲・浄瑠璃などに多くみられる。【用例】「立ち別れいなばの山の峰におふるまつとし聞かば今帰り来(こ)む」〈古今・離別〉

えん‐ご【縁語】 修辞法の一。和歌や文章の中で、ある言葉と意味内容上で関連のある言葉。主に連想により導き出され、相互の照応により表現効果を増す。例えば、では、「よる」「ほそく」は「糸」の縁語。古今集以降の歌に多い。【用例】「糸による物ならなくに別れ路の心ぼそくも思ほゆるかな」〈古今・羇旅〉

ほんか‐どり【本歌取り】 和歌・連歌などで、古歌の語句・趣向などを取り入れて作歌すること。新古今時代に盛んに行われた。藤原定家がを本歌としてと詠んだ類。【用例】「苦しくも降り来る雨か三輪(みわ)の崎狭野(さの)の渡りに家もあらなくに」〈万・二六五〉

2009年01月05日

続・鏡の国の『びー』、または「一物理学徒として・・・」



「内側カメラ」談義には続きがある。空間が「三次元」であるのは、場所を特定するのに三個の数字のセットが必要だからだ。三個の数字の大きさを測る「物差し」として、三本の互いに直交する「座標軸」を決める方法は、二通りある。
「右手系」・「左手系」と呼ばれるもので、x軸、y軸、z軸をこの順番でそれぞれの手の「親指」、「人差し指」、「中指」に対応させる。指の関節の造りから「互いに直交させろ!」と言われたらこれしかできない、からこそこういう特定の仕方が可能になった。
電磁気学の「フレミングの左手の法則」と言うように、こうして三次元的な関係は「右手系」か「左手系」であるかを特定することで指示することができる。
「右手系」と「左手系」は互いに「鏡像関係」にある。右手と左手をどう器用に捻っても決して重ね合わせられない。三本の指のうち二本までを重ね合わせると、他の一本が必ず反対を向く。右手と左手を向かい合わせ、その間に「鏡」が置いてあるんだ、と思えば納得がいく。
「鏡像関係」とは、直交座標軸のうち、二本までを固定したとき、他の一本が「反対を向く」関係なのだ。数学や物理学では特に断らない限り「右手系」を用いるお約束なのだが、その際xyの二軸から第三のz軸の方向を誤解なく指し示すにはどうしたらよいか?これが「右ねじの法則」なんであって、
1:x軸正方向をy軸正方向に重なるように(最短距離で、わざわざ270°ではなく90°)回転させる。
2:その回転を「右ねじ」の回転方向に「たとえた」とき、「右ねじ」の進行方向がz軸正方向である、
というものだ。電磁気学で「電流の回りにできる磁場」の向きを決めるときに「右ねじの法則」が出てくるが、正式には「ビオ・サバールの法則」と呼ばれ、ベクトルの『外積』を含む数式で表現される。で、その『外積』の「定義」自体が「右ねじの法則」なのだ。『外積』は、「フレミングの左手」はもちろん、「力のモーメント」、ケプラーの法則の「面積速度」にも登場する。
私は貧しいので蔵書が少ない。八年前に失業保険支給切れ目前に、やっと職を手にして沖縄に引っ越してきたとき、荷物は段ボールに11個だった。それから多少は増えたが猫達に小便をかけられても大丈夫なようにプラスチックの衣裳ケースに五個ばかりかな、それが全蔵書だ。

最近「ちくま学芸文庫」から出た「熱学思想の史的展開・1・熱とエントロピー」を読んでるんだけど、著者誰だかわかる?山本義隆。「自己否定に自己否定を重ねて、・・・一物理学徒として・・・」の山本義隆だよ!「知性の叛乱」の、東大全共闘の山本義隆だよ!
この人、今でも本職は「駿台予備学校講師」なのね。私とはエライ違いだけど、私だって「うつ」とネコにまみれて、首切られ寸前の『超』不人気予備校講師だけど、ココロザシは今だって「造反有理」なんだけどな・・・。

閑話休題。だから「知識階級」のふりをしても蔵書がないから化けの皮がハゲる、と言う言い訳をしたかったわけで、手元にある古本屋で手に入れた琉球大学の教養課程の物理学の古くさい教科書などを参照してみたが、「右ねじの法則」が英語で何というのかわからんかったのだ。
多分、万国共通なのだろう。してみると疑問が残るのは、「左利き」の人はどうするの?別にどうもしないが、ドアのノブから、ペットボトルのキャップ、ボールペンの軸、・・・、私たちの身の回りの物品の回転部分は、振動を受けてより固く締まるようにするみたいな特別な用途の部品を除いて、例外なく「右ねじ」が切られているわけで、それは「右利き」の人にとって「右ねじ」をドライバーで「右回り」、正確には「時計回り(Clockwise)」、これは知ってた(パチパチ・・・)、に回すとき体重をのせやすいって、ことなんだろう?じゃあ、「左利き」の大工さんていないのかなぁ?いたら結構苦労するんだろうなぁ・・・、と、誰もそんな心配してくれと言ってないのに、明日から始まる自分の仕事のこと心配したらいいのに、まさに明日から始まる自分の仕事のことを考えたら「発狂」しそうだからこそ、なるべくどうでもいいことを考えて過ごしていたのであった。十五年以上も前かな、同じ職場でとても仲良くしていた「左利き」の男の人がいて、私より一回りも若かったけど、毎日のようにビール飲みに行きたがる私にいやな顔一つせずに付き合ってくれてた。「僕、左利きですから、こっちに座りますね」って、飲み屋ではいつもテーブルの左端に座ってた。思い出しちゃった。今はもう、音信不通になっちゃったけどね・・・。

で、何の話かわかんなくなってきちゃったから、いったん切るね。

写真は、「びー」にのしかかる「オー」ちゃん。「雪見大福」のように真っ白なメスネコです。これも「内側カメラ」、寒い夜だからね、私が膝の上に「びー」載せてると、暖を求めて他のネコ達も、つぎつぎよじ登ってくるのでした。

2009年01月05日

ネバーエンディング・「鏡像」問題



炭素原子は原子番号6番、原子核には正電荷を持った陽子が6個、原子核の外には負の電荷を持った電子が6個ある。「核外」電子の「埋まり方」には不思議なルールがあって、内側から外側に向かって何層にも、電子の収まる「鞘」のようなもの、「殻」と呼ばれるものがあり、これに内側から順番に番号を振っていくと、n番目の「殻」にはnの2乗の2倍の個数しか電子が収まることができない。電子は、正負の電荷が引き合う「静電引力」で強く拘束されているから、エネルギーが低くて安定な内側の「殻」から順に埋まっていく。一番内側には2個、その次には8個まで入れるが、炭素には全部で6個しかないから、ここでお仕舞いで、「最外殻」には4個の電子がある、と言うことになる。「最外殻」電子がいくつあるか?と言うことが、原子の結合の仕方を決定する大きな要因で、「最外殻電子数」が等しい原子同士には、類似性が見られ、これを図示したのが「周期表」だ。
上に述べた核外電子の最大収用数とは別に、どういうわけか電子は「8個」そろうと安定化する、と言う性質があり「オクテット則」などと呼ばれる。最外殻電子数が8より少し欠けた状態の原子は、外部から電子を受け取って8個になって安定化する性質が強いから、負に帯電した電子をひきつけるものとして「陰性」元素だと言われる。炭素を含む「非金属元素」は陰性元素で、炭素もまた4個の電子を外部から受け取って安定化する傾向が強いことになる。
電子は負に帯電しているから、同符号の電荷には「斥力」が作用しそうなものなのに・・・、

通行人1:しっかし、この人、ようけしゃべりはりまんな。
通行人2:「nの2乗の2倍」やて、そないな、ややこしいこと携帯で書かはるくらいやったら、早よう仕事しはったらええのにな。
通行人1:最外殻電子が4個やから、正四面体構造で安定化すんねん、とか、仕事でもどうせ、同んなじ様なこと言わはるんやしな。
通行人2:「センターテスト直前総まとめ・今年はココが出る!」みたいな浅ましい事言うのが、プライドが許さんのやって!
通行人1:なんせ、「造反有理・帝大解体」の人やさかいにな。
通行人2:難儀やな。

・・・電子は「スピン」と言うものをもっており、荷電粒子が回転運動すると磁場が発生するから、これによって二つの電子が磁気的に引き寄せられるらしい。電子が2個ずつ「ペア」を作って、これが合計8個だったら、立体的にどのような「形」をとるだろうか?お手元に4本のペンを用意していただいて、それらの根元がつながっているとして、4本のペンが相互に反発して、なるべくお互い空間的に「離れる」構造をとるとしたら、ペンの先はどちらを向くだろうか?
相互に約109度、cosθ=-(1/3)という美しい値をとって、「正四面体」の4つの頂点方向を向くことになる。この世で最も「硬い」とされているダイヤモンドは、まさに炭素原子がこのようにしてつながったものであって、その「硬さ」こそが2×4=8の「安定性」を表現している。
地球上のすべての生物の身体を構成する骨格は、炭素原子でできている。地球上の「無生物」界、つまり「土」の世界は、その主要の構成元素が「ケイ素」であり、周期表では炭素の真下、同じく「最外殻電子数」4、なのであった!

すまんすまん、物事を「途中から」始める、ということができないのも「病気」の一種かも知らんが、これだけの「前置き」をしないと本題に入れなかったのだ。誰も「話してくれ」とは頼んでない「本題」だが、まだ「鏡像」の話だ。炭素原子は4方向に結合をもち、正四面体構造をとる。実際には、4方向に異なるものが結合すれば、バランスが崩れて「正」四面体ではなくなるが・・・。
正四面体の底面である正三角形を△ABCとしよう。BからCに向かう方向を「右手系」のx軸正方向、BCの中点からAに向かう方向を同y軸正方向としよう。とすると、△ABCの重心から正四面体のもう一つの頂点Dに向かう方向が「右手系」のz軸正方向となる。BCに平行に、BCから見てAよりもその先に「鏡」を置いてみよう。
「鏡」の向こうに映った正四面体A'B'C'D'はもとの正四面体と、ちょうど右手と左手がそうであったように、どう頑張っても重ねられない。このようにして得られる炭素化合物を相互に「光学異性体」と呼ぶ。

写真は相変わらず、「鏡像」ネタだけに、内側カメラで、「びー」と「ロッシ」ちゃん。

2009年01月06日

続々・鏡の国の「私」/「見較べ法」と「身重ね法」



問1:正四面体の4つの面を4色に塗り分ける方法は何通りあるか?ただし、回転して重なる塗り方は同じ方法と見なす。

例えば色を「赤」、「黄」、「青」、「緑」とでもしよう。これらの色は一回ずつどこかに必ず塗らねばならないのだから、とりあえず、「赤」をどこでもいい、正四面体なんだから、どこでも同じだから、どこかに塗ってしまう。「塗ってしまう」や否や、「どこでも同じ」だったはずの4面に「差異」ができてしまう。「赤く塗られた面」が1面と、「まだ、塗られていない面」が3面、ちゃんと区別がつくようになってしまった。
「赤」い面は、もう塗る必要がないから、下に伏せてしまおう。上から眺めて残りの3面は、区別がつかないから、これも「有無を言わさず」、どれか、そう、「黄色」でいい、塗ってしまおう。
「赤」と「黄」は、一辺を境に隣接しあうが、およそどんな塗り方をしても、かならず、一辺を境に隣接するのだから、全然かまわない。さて、先ほどまで、「赤」を底面にした四面体は、なにも塗っていない3面が上から「区別できない」形で見えていた。つまり、「赤」を底面にしたまま、回転させても区別できなかった。今や、「黄色」が塗られてしまったから、これまたちゃんと区別ができるようになってしまった。
さて、残りの2面を「青」と「緑」で塗らなければならない。「赤」を底面にして、「黄色」の面をあなたの「手前」に置いてみよう。あなたから離れた2つの面、「右側」と「左側」、ちゃんと区別がつくではないか!「青−緑」と塗るか?「緑−青」と塗るか?立派に2通りある。
答えは2通り。ちなみに、これら2つの塗り方が、「鏡像関係」をなす。

問2:正四面体の4つの面を「赤」、「黄」、「緑」の3色を用いて、「赤」だけ2面、他は1面ずつ、つまり、「赤」、「赤」、「黄」、「緑」と塗り分けるのならば?

「黄」だけ塗ってしまおう。塗ったらその面を下にする。うえから見える3面には、あと、「赤」、「赤」、「緑」と塗ればいいのだ。どこかに「緑」を塗った段階で、残りは「塗る必要なく」決定する。あれ?つまり、1通りだ。

通行人1:調子に乗ってはりますな。明日から、仕事ちゃいまんのか?なんも準備してはらへんのとちゃいますやろか?
通行人2:なにかこう、「ぐっと、こみ上げるもの」みたいのが、あるんでっしゃろ。暖こうに、見守ってあげまひょ。なんせ、「病気」の方やさかいに・・・。

2つの正四面体が「鏡像関係」をなすのは、4面がすべて異なり「区別がつく」場合のみなのだ。同様に、炭素化合物に「光学異性体」が生じるのは、一つの炭素に、4種の異なる「もの」が結合しているとき、のみである。このような炭素を「不斉炭素原子」と呼ぶ。

生物の身体をつくっているタンパク質は、アミノ酸と呼ばれる炭素化合物が膨大な数連なってできたものだ。アミノ酸は、一つの化合物の中に「酸」である「カルボキシル基」と「塩基」である「アミノ基」を持っていて、だからこそ生体の中で急激なpHの変化を緩衝することができる。同じ炭素に「カルボキシル基」と「アミノ基」が結合したアミノ酸を「α-アミノ酸」と呼び、例えば人体を構成する20類のアミノ酸はすべて、残り2つの結合相手のうち少なくとも一つが「水素」である「α-アミノ酸」である。一番単純な「α-アミノ酸」、グリシンは、「水素」が二つだから、4面を3色で塗ったときみたいに、「光学異性体」は現れない。2番目に単純な「α-アミノ酸」、アラニンはこんな形。
NH2-*CH(CH3)-COOH
一つの炭素(*を付けた)に「水素(-H)」、「アミノ基(-NH2)」、「カルボキシル基(-COOH)」、「メチル基(-CH3)」の4個の異なる基が結合しているから、光学異性体が存在する。
2つの光学異性体は、「D型」、「L型」と言って、本来は結晶に光を当てたときの曲がり方、で区別するのだが、紙の上で決定するんは難しいルールがあったはずで、「付け焼刃」の私は、お茶を濁す。

地球上の生物を構成するアミノ酸は、ほとんどすべてが「L型」なのだという。例えば、化学調味料には「L-グルタミン酸ナトリウム」というのが含まれているが、「昆布だし」のような「うまみ」を示すのは、「L型」だけで、「D型」は何の味もしないんだって!舌の味覚をつかさどる細胞を作っているたんぱく質もまた「L型」で、これらが鍵と鍵穴みたいにカパッとはまり込むから、「味」が感じられる。
「D型」でなく「L型」が「選ばれた」のは、どこかの時点での「偶然」だ。地球上のすべての生物の「共通の祖先」が、太古の海の「L型」アミノ酸だったかもしれない、と言うわけだ。

通行人1:あ、やっと、終わらはったみたい。
通行人2:よかった、よかった。

で、「鏡像」なんですけど、なんで、例えば猫の写真見て、左側に前足が写っていたら、「あ、こいつ今、右手、いや、右前足、出しとる」とちゃんと判断できるのに、「自分」の写真だけ、「左右反転している」って思ってしまうんだろう?わかっていただけただろうか?鏡の中で「反転」しているのは「左右」ではない!鏡に沿って「左右」にx軸、「上下」にz軸、鏡と直交する方向にy軸をとったなら、「実物」と「鏡像」で「反転」しているのはy軸方向なのだ。

前にやったように「Ghana」チョコレートのパッケージを持って鏡の前に立つ。「G」が私の「右手」側、「a」が「左手」側。それは、こちらの「私」も鏡の中の「私」も、同じ。だから、「反転」なんてしていない。これが「見較べ法」。
ところが、私たちは、鏡の中の「私」に、思わず、「入り込んで」しまう。それは、まさに「自分」だからなのであって、ほかの人や猫に、「入り込もう」とはしない。私たちは、「鏡像」でしか、「自分」をみた経験がないからなのだ!!鏡の中の「自分」に「入り込む」時、私たちは、「回れ右」をして、「それでは行ってきますわ」とばかりに、鏡を「またぎ越えて」向こうの世界に、行くだろう。このとき「反転」が生じる。これを「身重ね法」と呼ぶ。

長い話ですみませんでした。出典は、
「シュレディンガーの哲学する猫」竹内薫・竹内さなみ(中公文庫)「大森荘蔵の章」
でした。

2009年01月06日

Until_the_end_of_the_world/この世の果てまでも・・・



形容詞には、「限定的用法」と「叙述的用法」があるといわれる。「これは『白い』猫だ」が前者で、「この猫は『白い』」が後者。
「限定的用法」は、文字通り、修飾する名詞の内容を「限定」する。「猫」の「集合」に「白い」猫と、「白くない」猫が含まれていることが「前提」であるから、ことさらに「白い猫」と言う一つながりの言葉が用いられたこと自体から、「白くない猫」の存在が「暗示」される。
言語は「差異」のシステムであり、常に「そうではないもの」の存在を、必要とする。「外部」を参照することで初めて「内部」が「画定」されるから、言語自体はその「境界」を知らない。こうして言語は「自己言及」の矛盾を孕んだものとしてしか存在できないから、私たちは言語を決して「正しく」使用することができない。
あらゆる発話は「言い間違い」であり、あらゆる「読み」は「誤読」である。

「それゆえに」なのか「にもかかわらず」なのか、あなたが今用いた「かけがえのない・命」という言葉(限定的用法)は、「かけがえのなくはない」命、の存在を「暗示」せざるを得ない点において、「すべての命は、かけがえがない」(叙述的用法)と矛盾するし、もし、「すべての命は、かけがえがない」が自明の「正しさ」を持っているのなら、その言葉は「発っせられる」必要がなかったことになる。

「人ひとりの生命は、全地球より重い」、「もし、明日世界が滅ぶとしても、あなたを愛しているわ!」
すべての発話は「言い間違い」だから、もちろん、言っても「かまわない」、・・・。

明け方、猫トイレの新聞紙を取り替えながら、考えた。

写真は、必ずしも「『白い』猫」ではないが、「ちょび」

2009年01月07日

「やさしい水」/"AGUA_DE_BEBER"



「ちょび」の食欲が落ちた。部屋の片隅でじっとしている。身体に触れると、熱い。風邪ひいたかな?
26匹もいると、少しくらい調子が悪くなったからといって、すぐ病院!とはいかない。なによりお金の面で、それに、時間も・・・。
「センターテスト」十日前という今日この頃、私にとっては年に一度の、最大の「農繁期」なのであった。
大人の猫なら、少しくらい食欲が落ちても、
1:まず、放っておく。部屋の片隅でじっとして、体力を温存して、自力で「治して」しまうから立派なものだ。
2:素人が知ったかぶりでそんなことするのはよくないのだが、「自宅療養」。
ちょうど一年前に亡くなった「ジェリーさん」という猫ね、猫エイズ(FIV)陽性で「慢性腎不全」だったから、丸一年間うちで点滴打ってたの。だから、やり方はちゃんと獣医さんに教わったし、道具もある。
「点滴ミラクル」はすごいよ!私たちが「海」に由来する生きものなんだ、って実感できる。細胞液と同じ浸透圧をもった「乳酸リンゲル液」、その「やさしい水」が、速やかに身体全体に行き渡るからなんだろう、みるみる表情が生気を取り戻し、食欲もでてきたりする。そんな場面を何度も経験した。

でも、子猫は心配だ。本当に、すぐ死んでしまう。丸二日食べなかったら危険だ、ともいわれている。「ちょび」も「びー」も多分生後4ヵ月くらいだから、そんな時期は過ぎたが、ちょうど「母体」由来の免疫が「切れる」頃で、従って「ワクチン」もこの頃から始めることになっている。来月ぐらい、忙しさに一段落ついたら行こうと思ってたから、二匹ともまだだ。

嗚呼、小さきものよ!お前達はそのちっこい身体で、感染症の危険に、まるでまるはだかのまま、曝されているのだな!
自分の蛋白質組成と異なるものを「外部」として「識別」し、これを撃退するのが「免疫」システム。「母体」から「子」が「分離」する際、どこかの時点でかならずお互いを「外部」に「する」ときが来る。
「個体」としての「閉じた」不連続性が破られ、言いたければ「種」の連続性が獲得されるこの瞬間、生きものは最も無防備に、「死」の近くにいる。
それを中沢新一が「愛の生物的土台」と呼んだことは、もう、前に言ったな?

Yahoo辞書より。
せいり‐しょくえんすい【生理食塩水】 体液、特に血清と浸透性を等しく作った食塩水。輸血・補液や注射用薬剤の溶媒として用いるほか、摘出した器官や組織を生きたまま保存するときに使用。人間などの定温動物では0.85〜0.9パーセントのものを用いる。生理食塩液。

タイトルは、ボサノバの名曲、"AGUA_DE_BEBER"「おいしい水」という邦題だが、辞儀どおりにはwater_to_drink、「飲み水」だ。京都の北山通りに、そんな名前の「おしゃれな」カクテル・バーがあった。「おしゃれな」カクテル・バーに出掛ける「時代」が、私にも、あった・・・。

あぁ!「びー」も、鼻、ぐしゅぐしゅいってる!明日、病院行かなきゃいけないかなぁ?いいから、あんたも、はやく寝ろっ!

2009年01月08日

「ごはんを食べてくれる」だけで、これほどまでに「幸せ」に なれる「他者」



「ちょび」、ごはん食べた♪、他にも食欲落ちてた「さんこぷー」も、食べた♪、咳をし始めた「びー」、あんまり食べないけどヨーグルト出したら飛び付いた♪、こんどは「ちー」が食べない↓。
一難去ってまた一難、だが、子猫二匹がなんとか食べてくれる限り、まさに、なんとかなる!
「猫風邪」(ヘルぺス・ウィルス、または、カリシ・ウィルスの感染症)が蔓延しそうな気配。病院行って、お薬、「インターフェロン」と呼ばれているが、インターフェロンって免疫に関係ある物質だよね?、目や鼻の粘膜から滴下すると初期のウィルス感染をブロックするんだって!、実際、すごく、効く。
「他人」、あ、「他・猫」だけど、の「病気」って、まさに「他人事」だからこそ、自分が「成り代われない」からこそ、耐えがたく心配なのね!
「子育てをしたことが無い人間に、なにがわかるの!」みたいな、あ・ら・か・じ・め、「絶対に」勝つことが「保証されている」言論に、「反抗」してきたつもりだし、だからいまさら「わかる」なんて口が裂けても言わないけど、ただ「ごはんを食べてくれる」だけで、これほどまでに「幸せ」になれる「他者」がいるとは・・・。

写真:トラ柄が「さんこぷー」、「プー」ちゃんの3番目の「仔」、と言う命名。去年の夏、ワクチン接種に病院連れてこうとしたら、暴れて私の右手を噛み、私が近くの市立病院の「救急」に駆け込むことになった。
茶トラ柄が「ちー」、もとこの地域に「ボス猫」として君臨した「ちーパパ」の血を引くきわめて、「気はやさしくて力持ち」な丈夫な猫なんだが、FeLV(猫ウィルス性白血病)陽性。発症すれば致死率はきわめて高い病気だが、発症しないまま「大往生」することもあるという。もうじき七歳かな?、今まで調子悪くなったこと一度もない。だから、今度も大丈夫、と多寡をくくっている、のだけれど。

2009年01月08日

「自然治癒」を待ちながら・・・



「びー」が風邪をひいている。鼻をぐしゅぐしゅいわせ、目にいっぱい涙をためて、全身で援助を求めている。不謹慎だが、これほどまでに、「他者」から、言わば「手放しで」依存されるのは、正直、「快感」である。なにせ、「愛」薄く、育ってまいりましたものですから・・・。
食欲は落ちているが、少しは食べるから、まだ点滴はしない。一日二回、目と鼻に「インターフェロン」滴下、「ちょび」の方はそれだけですでに回復にむかっているようだから、もう少し様子を見よう。「ちょび」はじっと部屋の片隅で眠り続けている。「自然治癒」を待ちながら、ひたすら体力の温存を図っている。偉いものだ。
「私が出勤しないと、きっと会社は大混乱で、業務停滞・・・」、「行きたくないけど、この忙しいときに休んだら、何言われるか・・・」、と風邪薬飲み下して出掛けるあたしたち「人間」とは、えらい違いだわ。

前回、「多寡」の用法、間違えた。
高(たか)を括(くく)・る
その程度を予測する。大したことはないと見くびる。「―・って手ひどい目にあう」

高(たか)が知・れる
程度がわかる。大したことはない。「数が多いといっても―・れている」

た‐か〔‐クワ〕【多寡】
多いことと少ないこと。多いか少ないかの、その量・額。多少。「人員の―は問わない」

2009年01月10日

「びー」と「注射器」



弱っている動物は、暴力的だ。「捨て身」で反撃する。風邪のときは、目や鼻、口のまわりが熱っぽく、腫れぼったい、まさに、そこが「患部」なんだから、触られると全身で抵抗する。
「あんたのために、こんなに苦労してやってんのに、なんであたしがひっかかれんの?」、こっちも「弱って」るときは、そんな愚痴の一つも飛び出しそうな瞬間だが・・・、
そう、思い出そう!誰も「助けてくれ!」って「頼まれた」わけじゃない。「他者」を「助ける」ことが、この場合、たまたま、あんた自身が「生き延びる」条件になっているみたいだから、やっている。

「おまえはなんでそんな『テロリスト』のために働いている?いや、私はあんたのために、『法の支配』が貫徹しているはずの、この国の、あんたのために働いている」、「敵性戦闘員(Enemy_Combatant)」として唯一合衆国国内で「起訴なし無期限勾留」を受けているイエメン人の弁護をしている「アメリカ人」が言っているのを、携帯のロイターで読んだ。
いや、もちろん、何の関係もないけどな・・・。

「びー」が固形物を食べなくなったので、注射器でミルクを飲ませ始めた。「注射器と記念撮影」、は、もちろん「ヤラセ」である。両手で押さえ付けて口をこじ開けないと、飲んでくれない。
「他者」の不幸さえ、「報道」しないと気が済まないのは、よきにつけあしきにつけ、人間の「性」であろう。

「センターテスト」まであと一週間、私には「休日」がない。今から夜明けまで「化学ファイナルチェックシート、今年はココが出る!」と題して、「アンモニアソーダ法」や「オストワルト法」について「執筆」することになる。
だから、猫を病院連れてく暇が全然ない。だから、「びー」、「ちょび」、もう少し我慢しとくれやす・・・。

2009年01月11日

「授乳生活」、または、「自然数」と「自然数」の隙間



長い眠りから爺さんが目を醒ますと小屋の方から、
「めぇ〜っ♪、めぇ〜っ♪」
っと、鳴き声が聞こえる。
「はて、うちに山羊はおったかしらん?羊はおったかしらん?ほんでもって、今年は『牛』年ではなかったかしらん?」
爺さんは訝った。

「びー」であった。風邪で鼻がつまって、いつもの「うぇ〜お♪」の、「う゛」が「鼻濁音」化して「め゛」となっていたのである。嘘です。下(↓)参照。話の流れの為には「平気で嘘をつき」ます。

ゆうべ、「センターテスト・化学ファイナルチェックシート、今年はココが出る!!」A4版全16ページを、徹夜で書いて、それをネタに、今日、最終授業だった。「やめたい、逃げ出したい!」とほぼ一日中「怨嗟」している筈のこの仕事、どうして私はこんなに「真面目に」働いてしまうんだろう?

「今の私は、本当の『私』じゃない、今の私の『外側』に、本来の『私』がいる・・・」
「内」から「外」へのパラドキシカル・ジャンプ、もちろん、私たちは「外」へなんか、出ることができない。

さすがに疲労困憊して、十二時間眠った。「おなかすいたよ〜っ!」、「トイレ換えてくれよ〜っ!」、「鼻が詰まってぐるじいよ〜っ!」と、訴えているんだろう「絶叫」をよそに、熟睡した。
熟睡したら、すっきりした。大概の「不幸」は、眠りが解決してくれる。

「ちょび」も「びー」も固形物を食べれない日が続いている。10ミリリットルの注射器のシリンジに、7分目くらいの犬猫用ミルク、一日二回、で生きている。さすがに少し痩せてきたかも、ほんとにすまん!今週末の「センターテスト」すんだら、すぐ病院行こう!

ちょうど一年前の今頃、猫エイズ(FIV)陽性にして慢性腎不全のジェリーさんの、「ターミナル・ケアー」が始まった。
一年で一番寒いこの季節、私の誕生日を挟んだ二週間、ジェリーさんは、私の「授乳」だけで生き延びた。
点滴をすると背中の皮膚に傷が付くから、感染症の予防に抗生剤を飲ませる。低下した腎臓の濾過機能を助けるために、「コバルジン」と言う名前の活性炭の粉末を飲ませる。これらを、餌に振り掛けても食べてくれない頑固者のジェリーには、ミルクにまぜて注射器で飲ませていた。
それが一年間続いた。猫を膝のうえに乗せ、左手で顔を押さえ付けて右手で相手の口の左端、猫に「犬歯」はおかしいわね、「牙」の後ろ辺りに注射器の先押し込んで、そーっと流し込む。機嫌が悪いと、左前足の「猫パンチ」であっさり払い除けられる・・・。
一年余りにわたる「授乳生活」が、こうして私にもう一つ、「誰も支払ってはくれない」熟練を、授けてくれた。

まもなく、私は51歳になる。
51=3×17
52=2^2×13
次の「素数」は53ですか?それまで生きてみるか?
むかし「公共広告機構」のテレビコマーシャルに、有名なマラソン選手の朴訥な語りで、
「次の電柱まで、走ろう、次の電柱まで、走ろう、と思って走っていました」
と言うのがあってね。
まことに、私たちは「自然数」と「自然数」の隙間の時間を、生きている。
人生とは、第n回目の排尿と、第n+1回目の排尿との間の時間の謂いなのである。
あ、ごめん、ちょっと、トイレ行ってくる・・・。

び‐だくおん【鼻濁音】 鼻音化した濁音。一般にガ行鼻濁音(ガ行鼻音)をいう。「かがみ(鏡)」「しらぎく(白菊)」「どうぐ(道具)」などの「が」「ぎ」「ぐ」の頭子音の類。

前回記事の中で、「イエメン人」は「カタール人」の間違いでした。「イエメン」でも「カタール」でも同じだろ?と言う「立場」からは、このロイターの記事自体、「情報価値」がない、ことになるでしょうね。
ついでに、この弁護士さんの言葉、英語で載せときますね。
"It's about the rule of law and if we are a country that follows the rule of law. People say to me, 'You son of a bitch, you're working for this terrorist.' I say no, I'm working for you."

2009年01月13日

「大人」の仕事、もしくは、「狂気」としての「侠気」



副主人公、「ちょび」さんとの「なれそめ」、「なれそめ」って「馴れ初め」なんだ?変換してみて初めて知った、を、お話しましょう。
その前に「クー」との「出会い」をお話しなければ・・・。「三階の『クー』」の話しはしたな?うちで引き取ることになった二匹目の交通事故被害猫だ。もう一年近くになる。その日曜も私は朝からお酒を飲んでごろごろ、うとうと、していた。隣のそのまた隣の家の小学生の、ときならぬ絶叫で目を覚ました。
「きゃ〜ぁ!!猫っ、猫っ!」
小学生は「苦手」だが、話題が聞き捨てならないものだったので、酔眼のまま降りていくと、恐怖に縮こまった子猫を前に、子供の方もこれまた恐怖に立ち尽くしている、みたいだった。
その家では、でっかい黒いラブラドール風の犬を飼っているのだが、当然、小学生よりでっかく、散歩の時、その子の手を振りほどいて走りだしてしまったらしい。賢い犬で、ちゃんと自力で家に戻ってくるのだが、とんでもない「お土産」を咥えていた。
車にひかれたばかりの子猫が道路の真ん中にうずくまっていた、「これはめずらしい、持って帰って『ご主人』にお見せしまひょ♪」と、ラブラドールの彼は「思った」のだろう。
「子供」の手に余る事態ならば、「大人」がなんとかしなければならないだろう?
初老の一人暮らし、猫だらけ、近所の野良猫にも餌やってるらしい、夜しか働かない、いつも酒臭い、あいさつだけはするけど無愛想、・・・みたいな「不審者」まがいの「大人」だったとしても。
「わかったよ。うちで引き取るよ。」
こうして「クー」は「うちの子」になった。「ご主人」のお気には召さなかったみたいだね。こうして「誰にも歓迎されない」ものに対して、「そないに嫌われるんやったら、ほなら、わしがなんとかしたろやないか!」と感じてしまう「侠気」こそがまさに私の「狂気」なんだろう。
障害者が「差別」の対象となるのは、見る者に「同情」よりも先に、「恐怖」を引き起こすからだ。
背骨が折れているらしく、下半身が麻痺している。固形物は食べれないが、猫ミルク切らしていたのでヨーグルト水で溶いて注射器で口に流し込んだら、飲み込めた。
翌朝一番に入院、極端に臆病ですぐに噛み付く、病院でも評判の「態度の悪い猫」であったが、車にひかれた直後、犬に「喰われ」かかると言うとんでもない恐怖体験のゆえだろうと、暖かく見守っていただいたことは、既にご報告申し上げた通りである。下半身には、排尿が不如意なのと、片方の後ろ足を少し引きずる程度の障害しか残らなかったことも・・・。

まだ「ちょび」の話にならないけど、いったん切りますね。
写真は「クー」、発情期なんだろう、騒がしいからこうやって機嫌を取る。内側カメラ。

2009年01月14日

「サンクチュアリー」



「びー」と「ちょび」、病院連れていった。
「ちょび」は、初お目見えだ。新しい犬猫を連れていくたび、新しいカルテを作ってもらうことになる。すでに私のカルテのバインダーは異常に分厚い。
「また、増えたんですか!?」と、笑われるのも、これで二十数回目となるのだ。別に「悪い」ことをしているわけではないから「恥じる」ことはない、でも、特に「誇る」ことでもない。
「人生」には、それを「賭す」べき「重要」なものがたくさんあったのかもしれないが、私には、それを「思いつく」ことがどうしてもできなかった。それだけのことだ。よくあること、でしょ?

二匹とも熱はなくて、炎症止めの薬を注射してもらって、「インターフェロン」使いきったから処方してもらって・・・、結局は「もう少し様子を見ましょう」ということなんだが、でもここに来ると安心する。

「うつ」の一番ひどかった頃、「精神病院」と「動物病院」だけが私の「サンクチュアリー」だった。自分の「症状」と猫の「症状」についてだけ、しゃべっていればよかったし、しゃべっていれば、聞いてもらえた。「世界」の他の部分すべては、あまりにもとげとげしく攻撃的で、どう関係を持ったらいいのか、わからなかった。それは、まぁ、今でも、わからないんだけど・・・。

「あら、『びー』ちゃん久しぶり、覚えてる?少し大人っぽいお顔になりましたね〜!」
「びー」の胸に聴診器をあてていた先生が、笑いだした。「ぐるぐる」って音が大きすぎて心音が聞き取れないんだって!

昼間は日差しがあって、暖かい。車の助手席にバスケット載せて、「静かだな」と思ったらふたりからまって眠ってた。

sanctuary [名] 聖所; 寺院; 内陣(祭壇の周辺); 駆け込み寺, 避難所; 鳥獣保護区

2009年01月15日

「授与動詞」としてのabandon、または、帝国主義世界再分割



「ちょび」はその小学生が「連れて」来た。「クー」をくわえてきたラブラドールの飼い主の小学生だ。
「これ、●●のところに、捨てられてたんです。飼ってくれませんか」・・・
「?」を付さなかったのは、すでに、修辞的な意味でも「疑問文」ではなかったからだ。こんな風に「物」を押しつけられるのは、不本意だ。
「お前は、車にひかれて、犬に喰われかけた、『壊れた』猫でも平気で拾う『変人』なのだから、こんな可愛い『健康』な子猫は、拾って当然だろう・・・」
愚鈍な小学生だった私にはわからないが、賢い小学生はきっと上手な「泣きまね」くらい簡単にできるんだろう。別に、今にも泣きださんばかりのその小学生の「善意」を疑ったわけじゃない。
にもかかわらず、母親猫が近くにいるなら生き延びる可能性があるのだから、子猫はみだりに動かすものではない、程度の「言わずもがな」な「お説教」にとどめて、引き取ってしまったのは、
1:子猫を捨てたのは、私ではないこと、
2:子猫を拾ったのも、私ではないこと、
先行する自分の行為とは無関係な事由によって、その「物」が唐突に私の住居の門口に現われ、私はただ困惑させられている、そのような在り方がとても暴力的で不愉快だ、と私はおそらく言いたかったのだが、そんなことを小学生に言っても、いや、小学生でない誰に言ってもしょうがないのは、
「因果関係」をめぐる議論は、「責任」の所在を明らかにするためのものであって、「責任」に関する議論は常にものごとを「事後」から「遡及的」眺める構造を取らざるをえない。
「権利」が毀損され、権利の「対象物」が滅失したとき「初めて」、「損害賠償請求権」の存否が問題になるのだから、つまり、「責任」をめぐる議論は、現に存在する「物」の行方について何も教えてくれない、教えてくれようがない、という、時間の「絶対的不遡及性」に気が付いたからに他ならない。
長い文だったね、途中二度ほど息継ぎしたけど、一文ですよ。

思うに、「捨てる(abandon)」は「授与動詞」なのだ。
【用例】「彼は、私に〇〇を、捨てる」
60年代まで、都市ゴミは海洋投棄されていた。その時は「海が汚れる」ことがある、なんて誰も思っていなかった。
「賞味期限」が切れた弁当をコンビニが「捨て」れば、「ホームレス」が必ず「拾う」ことになっている。
「外部」とは「なにもない」空間であり、それは「無限」の広がりを持っている、という「幻想」なしに、他動詞としての「捨てる」は使えない。そんな「幻想」は帝国主義が世界を「分割」した、とおの昔に終わっていたんじゃなかったのか?

2009年01月15日

1995年1月17日



1995年1月17日、その朝も私は酔っ払っていて、母親からのただならぬ調子の電話 にも目が覚めていなかった。ようやく8時ぐらいになってテレビをつけると、阪神電車の石屋川車庫が写っていて車両がすべて横倒しになっている。初めて事の重大さを知った。
それからの数日、私はつながらない電話をかけ続け、かからない電話を待ちつづけ、テレビの画面の、ただ増え続ける、決して減ることのない死者の数を見つめつづけた。
画面に映る「被災地」のすべては私が慣れ親しんだ、そう、そこの角を曲がればどんなお家やお店があるかも知っている、「故郷」だった。
人々が「活断層」とやらについて得意げに語り始めた頃、私は国道171号線の歩道橋の上から、「神戸」と書かれた標識の向こうに沈む夕日を眺め、号泣した。
あの街に行こう。何もできなくてもいい、6000人あまりの人が死んだあの街で、「まだ死んでいない」人々のかたわらに、ひっそりと立とう、と思った。
ボランティアといったって、たいしたことをしたわけじゃない。週に一度か二度、振り替え輸送のバスに揺られ、あるいは自転車を走らせ、焼け跡とがれきの街を見つめつづけた。
京都に帰ってくると、ほんの数十キロ先で人が本当に飢えたり凍えたりしているのに、変わらぬ街の賑わいがとげとげしく思えた。何より、建物や電柱が、まっすぐ立っていることに違和感を感じさえした。
長田区大橋中学のテントに住んでいたYさん、北野のクラブのママさんだ。細田町の アパートも、北野のお店も全壊だった。ピースボートのボランティアで引越しの手伝いをした。引越しといっても、取り壊されてしまう前に、少しでも金目のものを引き上げておくってことなんだけど。北野のお店ではコンクリートの固まりが天井からぶら下がって、床一面にブランデーの割れた瓶が散らばってる。かろうじて無傷だったカミュやレミーマルタンを運び出す。お土産までもらってしまった。
その後も何度か大橋中学のテントに遊びにいった。とても明るいおばさんなんだけど、たき火に背をかがめている後ろ姿はとても淋しそうだった。私の住所を書き留めておいてくれていて、一度葉書をもらった。返事を書いたけど、宛先は全壊したアパートのものだったから、届いたかどうかはわからない。それっきり音信不通。
今でも休みの日には神戸にいく。細田町のアパートの跡地は、きれいに整地されて駐車場になっている。北野界隈は4年目の冬を迎えてもはや何事もなかったかのようににぎわっているけれど、Yさんのお店があった場所には、別の建物が建っている。「お店が再開したら、必ず呼んでくださいね」って約束してたんだけど……

この文章、ちょうど十年前の今頃書いたの。まだ沖縄にくる前で、そう、京都のちっちゃな土質調査会社で働いてたとき、アルバイトさんだった若いお友達にメールで送ったんだ。どんな言葉だったか思い出せないけど、とても美しい、やさしい返事をもらった。
その人とも、もう何年も前から音信不通。大事な人とのつながりが、私にだって、ちゃんとあったのに、どんどんかすれていって、根拠のない憎悪やいらだちで半狂乱の毎日を送っている。
ただ「人が生きている」という単純な事実が、あれほどまでに喜ばしく感じられた日々を、今、思い出さなければ、私は、生きてる甲斐がない・・・。

2009年01月15日

それは夢のような、青い梅のような・・・♪



桜が咲いた、つぎつぎに咲いた♪
に〜ほ〜んが一番、しあわせな季節♪
それは夢のような、青い梅のような・・・♪
(Puffy/奥田民生)

Puffyがデビューしたのは震災の年の夏か秋じゃなかったかしら?JR三宮駅の東側には「プランタン」ていうダイエー系のデパートがあって、すでに経営不振だったのかも知れないが、震災のすぐあとに閉店して、店舗はそのままダイエーになった。まだたくさんの人が避難所やテント暮しをしてた頃は、カセットコンロのボンベやポリタンクなどの必需品に行列ができていた。 そこの四階だったか、家電売場の片隅のCD屋、等身大のポスターがあって、「なんや、愛想のない女やな?」と眺めたのを覚えているから・・・。
沖縄にきた最初の一年は名護に住んでいて、「日本で一番初めに桜前線がやってくる」名所で、そう、もうじき咲き始める。 まだ観光客気分だったからうかれて「桜祭り」にも出掛けたもんだ。すぐ近くに「オリオンビール」本社工場があるからか、名護で飲む生ビールは滅法うまい!なんだが、京都の銀閣寺、「哲学の道」の桜並木の脇に二十年住んでた身には桜の花は似ても似つかなくてね、梅か桃に近い色で、葉と一緒に出るから花も少なくてね、これじゃ「吹雪」にはならない。「お祭り」にはつきものの「たこ焼き」も、やはり関西人にとっては、「似ても似つかな」かったし、思えば遠くへ来たもんだと、感慨を深めたものだった・・・。

今日、お話したいのはもちろん、あの年の、神戸の桜。あの年の四月、JR新長田駅仮設ホームわきに「咲き誇っていた」桜・・・。
春に見る桜がこんなにも美しいのは、それに先立つ「別れ」のつらさのゆえなのだろう?

全国からやって来ていた各ボランティア団体は、三月末には「基幹部隊」を残して撤収していた。それぞれの避難所には自治会や自助組織みたいなのがちゃんと出来上がっていたし、私のような「ぼっと出」の「日曜ボランティア」にはもはや用はなかったのだが、なにか神戸を離れがたく、仕事の合間ごとにやってきては、「復興の槌音高い」粉塵だらけの町並みや、すでに雑草の生えはじめた一面の「更地」を眺めて歩いた。

某左翼系セクトの「地域合同労組」と、少しだけ関わりがあったので、長田の公園や区役所前のテントでそのグループが開設していた「労働相談所」を手伝わせてもらっていたこともある。

長田は大阪生野に次ぐくらいの在日コリアンの集住地域でね、この人たちが戦後始めた「ケミカル・シューズ」と呼ばれる靴産業が地場産業になっている。小さな町工場が多く、狭い道で消火活動も遅れ、被害は甚大だった。 工場が焼けて、雇い主が行方不明だったり、本人も焼け出されて給与明細すら残っていないことも多かったのだが、メモでも何でもいいから「雇用の事実」を証明して、雇用保険加入手続きしていない場合でも遡及加入して、職安で団体交渉してともかく失業給付取り付けていく、みたいな運動だった。
ライバルの共産党系や全労協系の組合が集会に何人集めた、みたいな「レポ」の報告が入ってきたりして、まことにこの人たちは被災者を「食い物に」も、していたわけだが、震災で職場を失って明日の生活のメドもたたない人々には、間違いなく「希望」だったはずだ。
スナックのアルバイト・ホステスさん、パチンコ屋の釘師さん・・・、ありとあらゆる職業の人がやってきた。私は愛想笑い浮かべて座ってるしか何の能もなかったけどね。
その頃私は、塾の講師として食い扶持を稼ぎつつ、確か6回目の「司法試験」の受験勉強をしていた。「闘う・人権派・弁護士」として「人の役に立つ」人間になる、と漠然と思っていたんだろう。「労働法選択」だったし、少しは役に立つんじゃないの?甘かったね、「机上の空論」とか言う以前に、他人の具体的な「窮状」を前にして、何を判断したらいいのか、どの条文、はおろかどの法律について調べたらいいのかすら、何にも思いつかなかった。

その年の夏、私は「司法試験」受験を唐突にやめてしまい、同時に「なにものかになる」、いわゆる「職業を通じて『自己実現』する」ってやつですかぁ?自体を、永久にやめてしまったわけだが、それは、私に「根性」がない、とか、能力がない、とか、あるいはその両方だったりするのだろうが、それ以上に、「人の役に立つ、というのは、知識がある、とか、資格がある、とか、技術がある、とか、そういうことではないのよ!あんたが、『神戸』で、なんにも人の役に立てなかった、実際、覚えてる?菅原市場の南入り口の角の酒屋さん、全焼だった市場のプレハブ開業第一号だったからテレビ局も来てた、その現場であんた、木槌も持ち上げられないから、しょうがないから『すじかい』締める仕事だけ与えられて、たっぶり一時間もかけてわずか二三本、江戸っ子の大工さんに怒鳴られながら半泣きでやっと締めたわね!あんな風にしかなれないのは、たぶん、あんたの『生き方』とか、そういう問題なの!でも、もう、いいじゃない!」どこかで、そんな声が、囁いていたんだろうな。

で、桜だ。高槻の塾に戻ってくると、ちっこい塾だったし、そんなとびきりお勉強できる生徒も来ないつつましい塾だったから何でも教えた。京都のどっかの短大の入試問題だったかな?「自分はこんな短大で国文学なんか教えているような人間じゃないんだ!」と思い込んでいる私たちと同年代の人間がやっつけ仕事で作ったに違いない現国の問題、のたうつようなけばけばしい「ポストモダン」の文体が、坂口安吾の「満開の桜の木の下には死体が埋まっている」云々を引きつつ、桜の花の「悪魔的な『多花性』」とやらをまくしたてていた。
桜の木の下に、本当に、死体が埋まっていたかも知れない土地と、そう遠くないところに、私たちは生きている。 こんな「文学」は、いらない、と思った。

十四年たった。岩波文庫が復刻したので「桜の森の満開の下」を初めて読んだ。

桜の写真はないからな、「ブーゲンビリア」で代用するよ。

2009年01月18日

「寒い冬を、克服して〜、そろそ〜ろ、ほら〜♪」



「びー」、ごはん食べてくれた!
二人とも、症状は一進一退、なかなか治らない。バスケットに餌と水の皿を入れておく。しばらく様子を見て、口を付けないようだと、注射器でミルク、に切り替える。そんな状態が、もう一週間以上続いている。別に大した手間ではないが、やはり心配でね・・・。
陶器の食器に歯が当たる、「かちかち」って音が聞こえてくる。まことに「かそけき(幽けき)」、「幸せ」そのものであるような音。

まだ話していなかったが、うちには亀もいるのだ。神社の池などによくいる「くさがめ」という種類、足の付け根に匂いの腺がありときに悪臭を放つことが名の由来だそうだが、まだ嗅いだことはない。
大雨の翌日、家の前の道の真ん中に「でん」と、座っていた。首里城の脇の「龍箪池」が増水して、はるばる流されてきたのかも知れなかった。
五年前くらいになるのかな、私の「病状」はかなり危ない頃で、すでにたくさんの猫を抱え込んでいた。道を歩いていると、頻々と猫が「声」をかけてくる。「拾えっ!」って言葉が、直接、脳に入ってくる。「弱っている」人間の「オーラ」を、動物が読み取っているのかしらん。そうとでも解釈せざるをえないような、異常な頻度だった・・・。
家の前に亀が座っている、という事態に対しても、「今度は、『爬虫類』、と来たか?」くらいの感慨しか持たないほど、私は病んでいた。

私は「龍宮」と呼ばれる島に流れ着き、然る後、「亀を助け」た。なにか時間の先後関係に「歪み」が生じているようだが、あまり気にならなかった。
で、爬虫類は冬眠するんだよ。でも家庭で飼育するときは、「失敗」することがあるから無理に暖かくしてでも、させないほうがよい、とものの本には書いてある。
摂取する栄養も、運動によるエネルギー消費も最小限にして、ある種、極めて「死に近い」ところに行くことになるのだから、当然だろう。
でも「冬眠するな!」と言って聞いてくれる相手じゃないのだ。同種である「人間」の「気持ち」は皆目わからず、哺乳類である猫だって実はよくわからない。まして、ハチュウ類なんだぞ!
その「かめお」、図書館で図鑑で調べたらオスであることが判明したのでそういう名前になった、も、この二三日、ごはん食べなくなっていたんだ。

猫と亀がご飯を食べてくれない、ことだけを心配して生きているわけではない。
今の会社、来年度も継続雇用してくれるだろうか?とか、もっと「本質的」な、いや本質的かどうかはわからないな、では「死活的」な、悩みはあるのだが、それは「人間」の「気持ち」に関わることなので、私にはわからないのであった・・・。
で、「かめお」もさっき、ごはん食べてくれたの。水槽の壁に鼻先が当たる「つんつん」ていう音、これまた、「幸せ」そのものであるかのような、「かそけき」音・・・。

2009年01月19日

「人類愛」は「張り子の虎」である?



「歌を忘れたカナリアは、
裏のお山に捨てましょか〜?
いえいえ、それは、可哀相・・・、」

前々、々回ぐらいでしたか?「授与動詞としての『捨てる』」談義からすると、ここで捨て「られる」間接目的語としての「お山」は、「何もない空間」であって、いまだ所有権設定がなされていない「前近代」の山林、ということになるが、今回の「お題」は「歌う」について。

「歌わせたろか?踊らせたろか?」という表現が、関西弁にはあって、ボコボコに「しばきあげ」るみたいなイメージなんだろうか、わが「母語」ながら「血も凍る」直截さではある。「歌う」ように呻き、「踊る」ようにのたうつ「被害者」の様が、目に浮かぶようではないか?

「人類愛について語ることは容易いが、隣人を愛することは難しい」と、ドストエフスキーは言ったそうで・・・、
このような言葉、別に、そこいらの「名言集」に収録されていそうで、「普通じゃん?」なのだが、それは、
1:特に「人類」を「愛する」必要がなく、
2:前項の場合であって、かつ、現に「隣人」を憎悪すべき特別な事由がないとき、
つまり、普通に健全に暮らしている分には、どうでもいい「名言」に過ぎない。まことに、言葉というものは切実に必要とされているときだけ、切実に必要としている者に対してのみ、語りかけてくれるものなのだ。
ドストエフスキーは10ページも読んだことがない。上の言葉もどこに書かれているのか知らない。
おととい読んだ、パオロ・マッツァリーノなる「戯作者」の「つっこみ力」(ちくま新書)からとった。
「死ぬ前に」読んどいた方がいいかもな?私は、「『死ぬ前』に、一度は、読んでおきたい本リスト」をもっていて、でも、二十年住んでいた京都のアパート引き払って沖縄に来るとき、スチールの本棚十個分くらいの本、文字通り「紋切り型」に「二束三文」、正確に、二万数千円だったと思うが、で処分して、その時、「リスト」も自動的に大半削除された。
どんなに頑張っても数十ページしか読めなかったにも関わらず、二十年以上「連れ添って」来た大月書店版「資本論」とも、そのとき、別れを告げた。なぜか東方書店の「英語版」・「毛沢東選集」みたいな奇天烈なものが残っていたりもするのだが・・・、
仮に、「世界が明日滅亡する」としても、私は本を読むことをやめない、かも知れない、と夢想している。
Imperialism_is_a_"Paper_Tiger."
(帝国主義は「張り子の虎」である)
そうやって、猫の腹など撫でながら、「最後」を迎えるのも悪くない。

で、私はもう、「歌ったり、踊ったり」することも、「歌わせたり、踊らせたり」することも、できればどちらもやめたい。終わりにしたい。「降り」たい。無理なのかな?

「他人」が「生きている」という単純な事実を掛け値なしに「喜び」とすることができると同時に、「殺意」とも見紛う「憎悪」や「嫌悪」を、ひょっとしたら同じ「他人」に対してだって抱くことができるかも知れない。それが「言語」を獲得した「人間」が抱え込んだ「矛盾」なんであるが、それ、もうわかったから、「引退」させてくんないかなぁ?もう、体力なくってね・・・。

コンピュータ引っ掻き回してたら、沖縄の「桜」の写真あった!二年くらい前の、那覇の、だけどな。

2009年01月20日

一年で一番寒い朝



言語は、現にそこに存在しないもの、「不在」の対象を指し示すことができる、という「間接性」をこそ、その本質とすると言われる。
「びー」という怪我をして死にかかった猫を引き取ったことからこの「物語」は始まった。ときおり、私を呼び付ける鳴き声のあまりの愛らしさに思わず抱き締め、頬摺りをして、「びー」ちゃん、会えてよかったね!生きててよかったね!と涙したりもする毎日なのだが、よく考えてみると、これは「間違って」いる。
「あなたがいない」こととの対照において「あなたがいる」ことの意味が生じる。現に「あなたがいる」ときでも、「あなたがいない」事態を想定できるから、それが「よい」とか「悪い」とか言える。
でも、「私がいる」ことの「意味」を、「私がいない」ことを、他ならぬ「私」のことだからこそ「想定」することができない以上、私は決して知ることができない。
「びー」ちゃんが、「びー」ちゃんが生きていてよかった!と言えないのは、彼が言葉を持たない猫だからではなくて、人間である私もまた、「私が生きていてよかった!」と、特に言えるわけではないのは、人間が「死」の意味を知り得ずしたがって「生」の意味も知り得ないという、言語そのものの不完全性のゆえなのであった。
私たちは、「この電柱から次の電柱まで・・・」、「第n回目の●●以降、第n+1回目の●●以前・・・」みたいな、「自然数」と「自然数」の「隙間」の時間を「現在」として生きているのであったが、その「カウンター」の数字が一つ増えたことを「喜ぶ」ことがあるとすれば、その根拠は、「生きている」ことに意味があるからではなくて、「なぜ、私は生まれてきたの?」という、n=0における「始原」の意味さえわからないのだから、ただ「前もそうだったから、次もそうだろう」という「連続性」に求めざるを得ない。
生物の身体が、「エントロピー増大則」の圧倒的な圧力に抗してすでに存在している「秩序」を維持することが、「生きる」ことなのであれば、その企てが「さしあたり」うまくいっていることを「喜ぶ」にやぶさかではない・・・。

何をむきになっているかというと、私、今日、誕生日なんですわ・・・♪
以上の考察からすると、「あんた、生きててよかったね」と言えるのは「他者」でなきゃならないことになりそうだが、誰も言ってくれそうにないので、自分で言うわ。

        ∧ ∧
       (^〜^ )♪
┏━○━○━━┓
┃  おめでとう! ┃
┗━━━━━━┛


この「猫」、どっかのエロサイトの案内みたいな「迷惑メール」にくっついてたものなんだけど、アップロードしたら「全角スペース」がつぶれてぐちゃぐちゃになりそうだが、やってみるわ。結構、可愛いでしょ?

写真はもちろん「びー」、風邪もほぼ完治して食欲も完全に、戻った!だから、よかったね・・・。

2009年01月24日

「私」に向けられたわけではない「悪意」、もしくは、「ムー スポッキー」の思い出



うちには、猫と亀だけでなく犬もおりまして、ぺぺとハナ、それぞれ7歳と2歳になりますが、「奇しくも」いずれも同じ公園に、「捨てられて」おりました。今日は、ぺぺちゃんにまつわるお話、それはちょうど7年前の二月のはじめ、今頃の季節だったからです。

犬を住宅地の公園に「捨てる」のは、「歌を忘れたカナリア」を「裏のお山」に「捨てる」のとはちょっと違って、「何もない空間」、そのようなものがあると夢想しているかどうかは別として、に、「誰にも見つからないように」廃棄するのではなく、これはもう、明白に「誰かに見つかるように」、「誰か」に向けて遺棄しているわけです。
「授与動詞としての『捨てる』」と申し上げた所以でございます。

きわめて致死性の高い「人獣共感染症」である狂犬病は、この国では1960年代にいったん根絶されたが、常に再来する可能性があり、だからこそ「無主」の犬を「処分」することが地方公共団体の責務となっている。そんなことは犬を飼っている人なら誰でも、飼っていない人だって知っている。
だから、
1:公園に犬を「捨てる」人は、その犬が「死んでもいい」と、思っている、
でも、その事実が確定的になる場所に、自分は「立ち合いたく」なかったのだ。
「自分ではない『誰か』が、『処分』してくれる。・・・」

たとえばぺぺ、「後に『ぺぺ』と命名されることになる子犬」と言うべきだが、は、うちの近くのT公園の集会所の前、コンクリートの小さな軒の下に、姉妹の、「後に『ベティ』ちゃんと命名され、庭付き一戸建の裕福な家庭に引き取られることになる子犬」、と一緒に段ボールの箱に入れられ、蓋をされて、放置されていた。
このように「見つかりやすい」形で「捨てる」のは、当然に、「発見した『誰か』が『拾う』ことを期待している」と、推認することができる。
犬を「捨てる」人にも、事情はあろう。単にじゃまであったとか、めんどくさくなった、から、どうしても飼えなくなって「ごめんねぇ〜」と目に涙をいっぱいためて・・・、まで。
で、それを「拾う」ことになる、「奇特な」人は、常に裕福で庭付き一戸建に住み、犬一匹くらい増えても困窮しないですむ、場合もあろうが、同様に、「捨てた」あ・な・たと同じくらいに、またはもっと、心弱く、貧乏であることだってありそうなことなのだ。こうして実際、「あった」わけだし・・・。

2:公園に犬を「捨てる」人は、その犬が「誰か」に「拾われ」て、結果として「生き延びる」可能性に期待している。
自分の「捨てた」という行為が動物の「死」という結果に、直接に因果関係を持たなくなることで自らの「心的ストレス」から解放されるからだ。
結構だろう。誰にも「ストレス」から「解放」される「権利」がある。
その際、「拾う」ことになる人が、場合によってはより大きな「心的ストレス」を持つことになるかもしれないことは、顧慮されない。

民事法上の法律用語としての「悪意」は、相手に害を及ぼす意図である必要はなく、単に「事情を知っている」ことで足りる、とされる。少なくとも、その程度には「悪意」だったと言い募っても、罰は当たるまい。
翻って、「拾った」サイドには、先行する自分の行為のなかに、何一つ「因果関係」を見いだすことができない。私の場合、「早朝に公園を歩いたこと」が、私の「罪」なのだ。

他者の「悪意」が人を「狂気」に追い込む、かも知れない。その年の六月、私は「発病」した。「公園を歩くこと」も恐くなって、外出しなくなった・・・。

あ・な・たの所為だ、とは言っていない。
「私が捨てました」という人が今、眼前に現われたら、やっぱり少しは「歌ったり、踊ったり」してもらうかもな(笑)。そういう「自力救済」、つまり「仇討ち」、「仕返し」、「私刑(リンチ)」などを、「秩序安寧に反すること」として禁圧し「刑罰権」を「独占」した近代国家は、私人間の「不法行為」による権利侵害の救済を「損害賠償請求」に限定した。
えっと、金一封いただけるならいただいてもいい。でも、犬を捨てる行為が、「私」に向けられた不法行為であるわけでもなく、私が「発狂」したのが犬を拾った所為だけでもないから、遠慮しとく。
「あきらめる」ことは、特に「寛容さ」を意味しない。それは「時間の絶対的不遡及性」を認識することに過ぎない。

このおはなし、まだまだ、続くわよ☆★「私刑」とか「賠償」とか、とげとげしい事ではなくて、「ムースポッキー」まで登場する、「ちょっといい話」になる筈。
しばらく忙しかったんだけど3週間後の「二次試験」ってやつの対策のテキスト全部作っちゃったから、あとはやる気のない授業すればいいだけになって、ちょっとうれしい。
写真は「ぺぺ」♪

2009年01月28日

「次の『素数』まで・・・」



ぺぺを「拾った」のは、2002年二月三日の朝、ちょうど七年前になる。なんでそんな正確な日付を覚えているか?には、ちゃんと理由があるのだが、話が長くなるので今は言わない。「死ぬまで」には、話そう。
「次の、素数」、53まで生きることにしたから、時間はたっぷり、ある。
その頃、私はもう一匹「シロ」という名前の老犬を飼っていて、「彼」はもともと名護の東海岸汀間(ていま)と言う、路線バスが一日二回だけ通うような「寒村」で、国道沿いの居酒屋の主人が出してくれる豪華な残飯を主食に、気ままな「老後」を送っている、と言えなくもない、「野良犬」だった。そんな野良犬をどういう経緯で引き取ったかも、話せば長い話だから、今はやめておく。
朝六時くらいだったかな?私は「シロ」をつれて散歩をしていた。犬の散歩は朝、と相場か決まっているのかもしれないが、その日は諸般の事情で私は疲れ切っていたはずなのに、何でそんな早い時間に出掛けたのかは記憶にない。それどころか、その頃自分がどんな仕事をしてどんな生活を送っていたのかさえ、あいまいだ。ほとんど「意識なく」生きていたようなものだからな。まだ「発病」はしていなかったが、その「原因」は、全部出揃っていたと言っていい。「犬猫」のことしか「眼中にない」かのような素振りで「人生」やり過ごそうとしてたのはもちろん、「防衛機制」だ。ま、それは今でもあまり変わらないのだが・・・。
公園の集会所の軒下に置いてあった段ボールに「気付いた」のは「シロ」だ。「彼」が激しく吠えたて、引き綱を引っ張って行かなかったら、私は箱の蓋も開けてみなかっただろう。
茶色と白、二匹の子犬が丸まっていた。寒い朝だったからな、固まって暖を取っていたのだろう。急に蓋を取られて、恐る恐る周りを見渡す素振りが、よく言えば無邪気、悪く言えばアホ面丸出しで、哀れを誘う。「彼ら」も、自分達がどういう状況に置かれているのか「理解」しなかっただろうが、私も、事態を飲み込むまでに一分くらいはかかったように、思う。
「あ、捨てられたんだ・・・。」

私としては、ともかく、「困惑」した。「可哀相」、「なんてひどいことを!」と言った常識的な感情が出てくるほどの「距離感」さえないところが、私の「病み方」なのだろうが、すでに「見なかったことにして、立ち去る」オプションはなくなっているように思われた。
働かない頭で、それでも一応めまぐるしく考えたのは・・・、
1:この公園は、うちから50メートルも離れていない。
2:これからも犬の散歩のとき、仕事だろうが買い物だろうが、連日通りかかることになる。
3:「誰か」が「引き受け」ない限り、この子犬達はこの公園に居続ける。
4:食事を与えることが「生き延びさせる」唯一の条件なのならば、お安い御用だが、
5:「野犬」をそのように生き長らえさせることは、少なくとも、こんな町中では「公序良俗」に反する。

誰かが「通報」し、「捕獲」さ・れ・る、ことになる。
6:「そうなるまでの」時間、次第に薄汚れていくであろうこれらの子犬を毎日見続ける、その「ストレス」に、あんた、耐えられる?
7:「誰か」が「引き受け」ればよい。でも、「第一発見者」と言う切実さを有しない他の「奇特な」誰かが、現われる可能性は、きわめて低かろう・・・。

と、めまぐるしい「葛藤」の末、取った行動は至って平凡で、「とりあえず」エサを与えることだった。「シロ」を連れてうちまで取って返し、つまり「散歩」は中断だ、ドライフードを持ってきたが、二匹ともうまく食べられない、あわてて缶詰と皿とスプーンを取りに帰る、という始末。

「うちで飼う」という選択肢は、客観的に、ありえない、と思われた。前年夏に一匹目の子猫を拾った。その「ため」に引っ越した「ペット可」の物件はとても古いものだけど格安で、もともと一戸建だったのを改築したものだけに、ベランダもかなり広い。でも、「シロ」を連れてきてからまだ3ヵ月くらい、それまでの半生、私は動物を飼ったことなど一度もなかったし、ろくに働いてもいないから、収入だってきわめて低い。

「とりあえず」、引き取り手が見つかるまで、「預かろう」、とでも思わなければ、自分に対する言い訳がたたなかった。

で、そうなれば「とるものもとりあえず」、首輪と繋留用のロープがいるだろう?子犬達はと言えば、箱から出て物珍しそうに築山の辺りを「探険」しているが、まだおっかなびっくりだから遠くへは行くまい。ディスカウントスーパーの開店時間を待って、しばしその場を離れた。

まだまだ続く。まだ「ムースポッキー」出てこないもんな。どうして私はこんなに話が長い?いいだろ、別に誰も聞いてないんだから・・・。
話、ずれてるけど、写真は「かめお」。首をちゃんと出してるとこ撮るの難しいんだ!

2009年02月02日

またしても、「名付け得る」不幸について、または、「ムースポッキー事件(3)」



その日は日曜だった。日曜だということを覚えていたから日付が特定できたのだが・・・、
365÷7=52あまり1
だから、一年後の同じ日付の日の「曜日」は一つ「うしろ」へずれる。間に「閏年」が入ると更に一日「うしろ」へずれる。
今年の二月一日、つまり昨日が日曜で、今問題にしている過去七年間に「閏年」は、2004年、2008年の二回、したがって2002年の二月一日の曜日は二日「さかのぼって」金曜日、というわけで2002年二月三日が日曜日。

だから、日曜日だったから、私かディスカウントスーパーから二頭分の子犬用の首輪とリードを携えて戻ってくると、すでに近所の小学生が集まって来ていて、子犬を撫でまわしている。
何度も繰り返すが子供は「苦手」だ。別に「大人」が、「苦手でない」わけではないが・・・。この段階では(!)私、これらの犬達の「引き取り手」を探すつもりだったんだから、小学生といえどもないがしろにはできない。
「ねぇ、誰かお家でこの犬飼える人いない?」
「不審者」として通報されないよう緊張のあまり、気色悪いうらがえった「猫なで声」だったろう。
「うち、マンションだから・・・」、
「△△ちゃんとこ、飼えるかもしれない。犬ほしいって言ってたから・・・」、
子供の提供する情報なんて信用できるわけがない、のだが、先回りして言うと、そうとも言ってられないのがこの「ムースポッキー事件」のオチであって、
「じゃ、みんな、誰か飼えそうなお友達探してみて!見つかったらおじさんに電話して!ね!」
と、紙切れに携帯の番号書き付けて、配りまくった。
子犬達はと言えば、自分達の「将来」を「憂う」こともなく「無邪気」に遊んでおる。
「さ、じゃ、この犬は、おじさんが『一旦』連れて帰るからね!」、
子供に言い訳してどうする?自分に対する言い訳のつもりでことさら「一旦」を強調して立ち上がった。
「おじさん、お家どこ?私が連れていくよ!」、
おぉ〜っ、「動物を通じた子供たちとの『ココロ』の『フレアイ』」、私も緊急事態に気持ちが昂ぶっていたんだろう、柄にもなく感動して、こうして犬と子供引きつれて戻ってきた。

さて、どうするか?
幸い、雨は降りそうにないので屋上に放しておくことにした。ここは私の「賃借権」の対象ではないがうちのベランダからしかアクセスできないので選択物干しなどに無断使用している。
あくまで、、「当分の間」だから・・・。たわむれる二匹の子犬の写真をデジカメで撮った。「もらってください!」風のポスターを作る準備だ。
動物病院に連れていく。「検査」かたかだ、引き取り手を探していただこうという腹だ。
あるボランティア団体が捨て犬・捨て猫などの「里親探し会」を、ちょうど日曜日だし、市内の大きなショッピングモールで開催するという話を聞き付け、さっそく電話して参加させてもらうことにする・・・。
ねっ、「さっそく電話して参加させてもらう・・・」なんて、まるで「普通の人」みたいでしょ?「未発症」とは言え、「うつ病患者」らしからぬ行動力だ。さよう、「危機」は人を「強く」する。すっかり枯渇していた「セロトニン」や「ノルアドレナリン」がふつふつと湧きだしてもいたのだろう。でもこれは「回復」でも「治癒」でもなく「躁」と言う別の「病相」なのではあったが・・・。

どたばたと階段を駆け上がってくる足音。
「おじさ〜ん♪犬見せて〜!」、
これだから「フレアイ」は嫌いだ。こいつら断じて飼い主なんか探してない!子犬撫で回して暇つぶしするためだけに人呼び集めたんだ!だ・か・ら、子供は、・・・、もう、いいよ。

まだ「ムースポッキー」でないね。若干の「躁相」のまま、まだまだ、続く・・・。

写真は、「その日」のもの。デジカメの「スマートメディア」、もうそんなもの製造もしていないって、に、残っていた。手前が、「その後、ベティちゃんと呼ばれることになる」子犬。後ろが、「その後、ペペと名づけられることになる」子犬。

「捨てられた可哀想な子犬」という観念から、「特定」の対象を掬い上げ、具体的に「これ」と指し示すことができるようにする、それは、何らかの意味で「引き受ける」ことを含まざるを得ない。それが、「名づける」ということだ。だ・か・ら、まだ、名づけなかった。

2009年02月02日

「春眠不覚暁」、または、"B" on the Run.



「春眠暁を覚えず」と申しますでしょ?こちらは、もうそんな陽気ですの。
「鬱」を発症するずっと以前から、春先の眠気はただものではなかった。一日十数時間眠っても少しも疲労が取れず、「廃人」同然だった。そんな「廃人」状態でも、さしあたり喰うに困らずやって来れたこと自体、「甘えている」との「お叱り」もやむをえないのであろうが、もう30年近く前になる、初めて勤めた会社を辞めて、大学院の受験勉強していたときだ。あまりにも身体がだるくて、なにもできない、意を決して大学の診療所で検査を受けた。尿検査も血液検査も、レントゲンも、学生に無料で診察してくれるような診療所だから、そんな手の込んだ検査はしないけど、主だった項目は全部したんだと思う。何も出なかった。
カルテを眺めながら、付属病院の若い医者、もう顔も覚えてないんだけど、今もしお会いすることがあれば、ぜひとも「歌って踊って」いただかないといけないリストの一人なんだが、投げやりな調子で、
「あんた、やる気ないでしょ?」・・・。

今の時代なら、ありえないんだろうな。身体の異常が全然ないのに疲労感を訴えるならば、まずは「鬱」が疑われるだろうし、「心療内科」や「精神科」の受診を勧められることになったんだろうな。
自慢じゃないが、「やる気ない」わよ!でも、いくら「やる気ない」にしても、これほどまでに「深刻」に「やる気ない」のは、「病気じゃないかしら?」と思って検査受けに来たんじゃない?医者のあんたに、そんなこと得意そうに言われたかないわっ!!

こうして以後30年間、私は「やる気のない人間」として、つつましく、生き延びてまいりました。

「びー」が脱走した。バカな、後ろ足のきかない猫が逃げるものか。体重も増えてきたし、やわなバスケットでは間に合わなくなってきたんだな。
猫たちはいつだって、私が遅刻しそうになってあわてて出かけようとしている間際を狙いすまして「悪さ」をする。「がたんっ!」という音がして、駆けつけてみると、バスケットが倒れて、ふたが開いて、倒れたバスケットのふたとの隙間に下半身挟んだまま、なおも、ココちゃんの食べ残しのエサにがっついていた。
これにて、「びー」の「籠込めネコ」生活も終了だ。小屋の一階を掃除して、新聞紙を敷き詰め、部屋を作った。1平方メートルはある。満足だろう。オムツが外れたり、水の茶わんひっくり返して水浸しにしたり、新たな悩みも増えようが、まぁ、それは人生、そんなもんよ。

で、その日はもちろん遅刻した。どうせ、「やる気のない人間」ですから・・・。
で、「ムースポッキー事件」その後も、「やる気なし」ついでに延期させてもらいますわ。

2009年02月10日

「ムースポッキー事件」、第4話:「不幸」のにおい



ジャスコ那覇店の前庭で、その「わんにゃん里親探し会」は開催されていた。モノレールが開通する前だから、だいぶ様変わりしてうまく思い出せないけど、今タクシー乗り場になっているところあたりが広い芝生の空き地になっていたんじゃないかな?日曜日の買い物客が出入りするメイン・エントランスの前に、いとも愛らしい子犬や子猫を「展示」して、気を引こうという形だ。
私は、「世の中」のことがまったくわかっていない人間だった、今でもそうだが、ので、

「こんなかわいい子犬、しかも『捨てられていた』なんて、なんて可哀想!!」

とばかりに、すぐにでも「篤志家」が現れて、

「ぜひとも、私が引き取らせていただきますわ!!」

と、鮮やかなハッピーエンドになることを、実は、かなり期待していた。
「ライバル」の「出品者」の「商品」も、相当かわいくて、しかもコチラは「普通」に「うちで生まれた子犬、もらってください!」みたいな、「捨てられ」という「不幸」の刻印がない分だけ、むしろ人気があるのは計算外だった。
ま、今から思えば、子犬に問題があるのではなくて、その籠の後ろに座っている「出品者」の男の方に、より「不幸」臭が漂っていたから、人が寄り付かんったのかも知らん(笑)がね・・・。
「公園に捨てられていた!」というストーリーは、お涙頂戴として「売り」になるどころか、日曜日の買い物客などという「幸福」でなければならない人々は、「そんな暗い話」は「忌避」するものなのだ、と気づいたときはすでに遅かった。

この団体では、活動の趣旨を理解し、引き取った犬猫は責任もって世話をするとのいわば「証」として、「契約」いや、「里親となる」話がまとまるごとに500円のカンパを徴収している。
通りすがりの人々にとっては、しかし、単に「この犬500円なのぉ?やっすぅーい!」でしかない。
二匹ともさんざんなでまわしておいて、「白い方がかわいい」とつぶやいて立ち去る中学生。
「なんだ、メスか?オスだったらもらうのに・・・」、動物を「選んで」引き受けたことのない私には、理解できないロジックだが、どうやら「ペット業界」では常識らしく、そもそもこの子達二匹ともメスだが、それは、同時に生まれた子犬たちのうちオスだけに貰い手がついて、「残り」が公園に捨てられた、という事情であるらしいこともわかってきた。

京都の「底冷え」に耐えてきた身には、沖縄の冬なんて「しょぼい」んですけど、なんせ回りがみんな海なんだから、風は冷たい。
その日も、風が冷たかったな。二匹の子犬は、しっかり固まって丸くなって暖を取っている。

「こんなやつらに、誰が渡すものか!もう、わかったよ!おとうちゃんが飼ってやるからな!」・・・、「閉店」までの時間が残り少なくなるにつれ、私の意固地な「決意」は次第に固まっていって、「営業」もおざなりになってきた(笑)ものだ。相変わらず、アホなこって・・・。

写真は、その「わんにゃん里親探し会」が地元の新聞に紹介されて、後日動物病院の先生が、「○○さん、新聞載ってましたよ!」ってわざわざ切抜きを下さったの。もちろん、そのときはもう、「ぺぺ」ちゃんは「うちの子」だったんだけどな。

まだ、まだ、続くわよ。最後のオチが「さくら」なのでね、早くしないと沖縄の桜、もう散ってしまう!
【予告編】で、でっかい「ケージ」、ま、籠のことだけどね、ペットショップに立ち寄って購入、その頃ほとんど働いてない、今もその頃の仕事のこと少しも思い出せない、のに、よくもまぁ、こんなにぽんぽん買い物できたもんだといぶかるのだが、ともかく、ほぼ「意気揚々」と引き上げてきた。
「知り合い」のツテで、一匹の、つまり「ベティ」ちゃんの引き取り手は決まった。いよいよ、取り残された「ペペ」ちゃんの、まだそのときは名前付けてないんだけどな、運命や如何に・・・。

2009年02月13日

「ムースポッキー事件」、第5話:またしても、「名付ける」ことについて・・・



前々回だったかな?、真正面向いた二匹の子犬の写真、あれは「里親探し会」から帰ってきてから撮ったんだろうな。真新しいケージとペット用の茶わんが写ってる。屋上には古い温水器が据え付けてあって、少々の雨風ならしのげる。ともかく、長期的な「展望」など、ある訳ないものの、今夜はここで過ごしていただくしかないことは確かだった。
このケージは、その後長らくペペちゃんの住居として用いられることになったのだが、歯の生え揃ったばかりの子犬は何でも噛むからプラスチックの蓋とか取っ手とかぼろぼろになってしまって、でも今でもベランダにあって、うちに通ってくる野良猫一家が台風のときに避難したり利用してくださっている。

その頃は、「崩壊」の「予兆」をはらみつつも、私はまだ少しは「社会性」のある暮らしをしていて、「知り合い」も多少はいた。
「友達の友達のお父さん」みたいなつながりで、私もお名前だけは伺ったことのある高名な、今はもう故人の大学教授なのだが、先ごろ長年連れ添った愛犬を亡くされたそうで、こちらの窮状を聞きつけ、「引きとってもいい」と申し出てくださったらしい。
わざわざ拙宅までご足労いただき、その頃すでに足が弱っておられただろうに、私はと言えば、「正義」をカサに着た傲慢さのなせるワザだろう、急な階段をさっさと屋上まで上がってしまったものだ。

ジャスコの前で一日中「さらし者」にされている間じゅう、「白のほうがかわいい」と言われ続けていて、こちらとしてはいささか辟易していた。決して引き取るつもりもない、自分にはまったく無関係であるはずの二匹の子犬をなでまわすだけなでまわし、挙句「こっちの方がかわいい(こっちの方がかわいくない)」と言い残して立ち去る人々の「心理」を私は「理解」しかねるのだが、もともと「無関係」の人が「なでまわして」「立ち去ってもいい」趣旨の「会」なんだから、仕方がない。
思えば私たちは、日々、二人の人間を見たら「どっちがかわいくて、どっちかかわいくない」、「どっちが感じがよくて、どっちが感じがよくない」、「どっちが仕事できそうで、どっちが仕事できそうにない」・・・、と、「識別」しているのだ。言語は「差異」のシステムであり、他と「異なる」ことにおいてのみ「それ」は「存在」していることになる。「名付ける」ことには、そのまま「差別」が含まれている。
私はこれまで、そして今も、数限りない人を「きもい」、「きしょい」、「うざい」、「ぶさいく」、「あほ」・・・等々と「名付け」て来たのだから、今になってあらためて「社会の敗残者」として「より、だめな人」にカテゴライズされ、同様にそのようにして「捨てられた」者たちに共感を感じているからといって、別に「無罪」なわけではない。

できれば二匹とも「厄介払い」できるに越したことはないという思惑もないわけではないし、何より一日中、二匹の「姉妹」が仲良く抱き合いじゃれ合う様をとくと眺めてきたから、また、「清貧」と言えども老教授、私などより暮らし向きははるかに豊かであろうから、「こんなに仲がいいんですから、ぜひとも、二匹一緒に引き取ってくださいませんか?」との言葉が、喉の奥から出かかった、その矢先、

「じゃぁ、白をもらっていくか・・・」

もちろん、口答えはしなかったわよ。
さて、残されてしまった「茶色」、こうして真正面から眺めてみると、確かに、「より、ぶさいく」かもな。そう思うと、いとおしさもひとしおでね。なにせ、「捨てられた」うえ、なおかつ、「選ばれなかった」んだからね。身につまされる思いで、ひしと抱きしめ、「わかった、おとうちゃんが、なんとかしたるさかいにな!」と涙するのであった。

で、「ピンチ」はその直後にやってくることになる!乞う、ご期待。
【後日譚】「白」は「ベティ」ちゃんと名付けられた、と人づてに聞いた。沖縄の人は、これも「アメリカ文化」なのか、ペットに「英語」風の名前をつける人が多い。「クー」を「咥えて」来たラブラドールも「ジョン」君だもんな。私も、中学校の英語の教科書が「Jack and Betty」だった時代に属しているから、その老人好みの命名がほほえましかった。
「ベティ」ちゃんとはその後会っていない。老教授のお葬式に参列した人から、元気そうだった、と聞いた。

2009年02月14日

「シャンプー、はじめました」、または、生きている「理由」



「びー」がうちに来てから3ヵ月以上になる。入退院を繰り返していたのがはじめ一月ぐらいとしても、二ヵ月以上。「ユニチャーム」のペット用おむつ30枚を使いきって、「パンパース新生児用88枚入り、パッケージの一列目が終わりそうだけど、あれで半分なのかな、大体計算が合う。おむつは毎日替えるわけでもないし、逆に一日何回も替えなきゃならないこともある。

先日ご報告した「脱走事件」を除けば、風邪も治ったし、これといったハプニングもなく、「安定」した日々だと言えよう。
「うつ病」患者には「安定」が何よりだ。「わくわくする出会い」や「日々新たなチャレンジ」・・・、そんなもの、聞いただけで動悸・息切れがするわい。

過剰な「興奮」や「舞い上がり」のもたらすダメージを回避すべく、私の「OSシステム」は、「セロトニン」や「ノルアドレナリン」の分泌をちゃんと制限してくれている。我ながらよくできているではないか!

「ルーチンワーク」という言葉は通常、つまらない退屈な仕事として、忌み嫌われているものだか、人を「生」につなぎ止めてくれているのは、実は「ルーチンワーク」かも知れないよ。
猫のトイレ掃除しなきゃいけない・か・ら、「びー」のおしっこ搾らなきゃいけない・か・ら、私は「生きて」いる。他に「理由」は思い当たらない。
「明日、『燃えるゴミ』の日だから・・・」という「理由」で自殺を延期した人だって、きっといると思う!

お仕事の都合で家を空ける時間が長くなったり、しばしば疲労困憊して惰眠を貪ったりして、かわいそうに「びー」ちゃん、うんこのついたおしめ着けたままになってしまうこともある。お尻の回りの被毛に「うんこ臭」が染み付いて、それはそれはくさいくさい!
そのため、動物病院でペット用シャンプーを買った。私には犬猫を風呂に入れる趣味はないから今まで買ったことなかった。だから「消費への欲望」がちょっとだけ、刺激された。「お肌にやさしい」高級品で、私がディスカウントスーパーで買う「リンスインシャンプー詰め替え用」の、単位体積当りの値段に換算すれば10倍はする。
左腕に「びー」本体をぶら下げて、台所の流しにおしり突き出させて、肛門の回りだけ洗う。暴れるけど、流しに「取り落とす」わけにはいかないからしっかり押さえないとね。冷えて風邪ひかないようにタオルでよく拭く。汚れが付着しないように、乾くまで腕にぶら下げたまま。新たな「ルーチンワーク」のひとこま・・・。

そのくらいしか話題がない。だからと言って、それほど「不幸」でもない。
何も起こらずに時間が流れていくことを「幸せ」と呼ぶにやぶさかではない。
時間が「無為」に流れていくことを恐れたのは、「他の」「生き方」がある、と思っていたからだ。
はじめからありもしなかったものが、本当になかったことを知ることを、「絶望」と呼んではいけない。

2009年02月15日

『梅に鴬』、または、「映画、はじめました・・・」



ビデオカメラを買ったんだ。ここ数年、一度に一万円以上の買い物をしたことがない。どうしたんだろう?唐突に「消費への欲動」が、「鬱勃(ウツボツ)」と湧いてきたというのだろうかね?「衝動買い」と言うわけではない。ある日、一週間ほど前のことだが、目を覚まし、唐突に「今日はビデオカメラを買う」と決心したのだ。

桜の花を、何かとても小さな鳥が、ついばんでいた。「梅に鴬」などという凡庸なフレーズしか思いつかないほど、私は鳥のことをなにも知らなかった。カメラのファインダー、ま、液晶画面だが、でしか「見ることのできない」対象、というものがあるのだ。
肉眼だったら、「何か小さな鳥」でしかないものが、望遠レンズでそれを捕らえ、ハードディスクに収め、家に帰って「図鑑」で調べ、そうして初めて、「あっ!これだ!『メジロ』だっ!」と「わかる」、どんなに「やる気のない人間」でも、この「わかる」の「ヨロコビ」だけは、やめられそうにない。

近くの遊水地には、冬の渡り鳥がたくさん来る。犬の散歩のとき、それらの珍しい鳥たちは、ちゃんと目に入っていたのに、今こうして、「セイタカシギ」、とか、「オオソリハシシギ」、とか、またしても「名付ける」ことではじめて、少しは、近しいものになる。

映画が好きでしてね・・・。子供の頃、私の家には「映画を見る」という娯楽の習慣がなかったから、ほとんど観たことがないし、古今東西の「名画」といったものも、なにも知らない。「ポストモダン」の時代に、蓮実重彦の「蛇がのたうつような」傲慢な文体が大好きで、見てもいない映画の批評ばかり読んでいた。
30歳になるちょっと前くらいに東大に入学し直して、結局卒業しなかったけど、・・・。通勤が往復3時間くらいかかるアルバイトばかりで疲れ切ってたし、「日本の大学でUniversity of ***というのは東大だけです、京大もKyoto Universityです」、だから「偉い」とでも言うのだろうか?そんな「東大自慢」の「雑談」で90分間が過ぎていく「フランス語」の授業、とかにあきれ果て、ほとんど授業に出ることもやめてしまった。自分は結局「学校」というところに「適応」していない、ということを知るためだけのことに、ずいぶん手間がかかってしまったものだが、まぁ、その後、「学校」は言うに及ばず、「会社」も「家庭」も、およそ「社会的」なものすべてに「適応」していないことが明らかになるんだから、仕方がない。
ただ、蓮実重彦の「表象文化論」、なんとも、バブル=ポストモダンな命名ですな、のゼミナールだけは半期を通して毎回欠かさず出た。ゼミと言っても立ち見が出るほどの「人気講義」だから、別に誰とも仲良くなることもなく、一番後ろの席で聞いているだけだったけれど、レポートもちゃんと書いて単位も取得した。レポートの評価が「A」だったのが、実は、ちょっと、自慢。

「年間400本くらい映画を見るのが当たり前」みたいなことを、この「学習院」出のセンセイはこともなげにおっしゃるから、真に受けて、それからの2年間くらい私は本気で年間400本、観た。
私は、物事を「たしなむ」ことができない。お酒を飲めば、「日本酒紙パック2リットル」を毎日飲む。猫を拾えば、たちまち「26匹」になる。だから、「病気」にも、なる。
でも、「東京」という、ものすごく「ストレスフル」な街での2年間の暮らしを、アルバイトの合間を縫って「東京ウォーカー」片手に、今日は下高井戸から中野、明日は吉祥寺から池袋・・・と、ただ「名画座」から「名画座」を渡り歩くことだけで、乗り切ることができた。映画を観ることの、掛け値なしの、「快楽」・・・。

「人間の出ない映画」をつくってみよう、そんなことを考えております。

ちなみに、こちらの琉球大学は「University of the Ryukyus」なのでした。その頃は知らんかったが・・・。

2009年02月18日

「価値相対主義」について。または、「370-168」の思い出。



で、「動画」というものすごく容量のでかい「ファイル」を今まで扱ったことなかった、扱う必要なかったから、「DVD」ってなんですか?「家庭内暴力」のなにかのことですか?って感じだったんですが、このたびHDDビデオカメラを購入するにいたり、「わが子の成長の記録をDVDに残すべく、夜を徹して編集作業に没頭」する「お父さん」を「鼻で笑って」いたにもかかわらず、うちの猫や近所の公園にやってくる小鳥、とかの、まさに「ゴミ」のような「動画ファイル」を後生大事に「保存」すべく、DVD-RAM、DVD-RW、DVD+RW、DVD-R、・・・、ってなんでこんなややこしいねん、私もまた「夜を徹して」しまい、ネコやトリの写真のために夜を徹してしまい頭ボケボケで仕事に出かけ数学の問題解くのもしどろもどろである自分を責め苛んでしまう「メランコリー親和型」、「自殺念慮」しかねない勢いでしたが、昨日は「鼻で笑った」事柄を、今日は臆面も恥ずかしげもなく、自らやってしまえる心意気こそ、「価値相対主義」の寛容さと呼ぶのだよ!と早々と立ち直ることにしました。

私、もともとはコンピュータの「プロ」だったんです。大学、ひとつめの、を卒業して最初に就職した会社、ですからもう30年前ですが、は、関西の銀行系の「コンサルティング会社」、「ソフトウェア・ハウス」だった。大学では、輪転機以前の謄写版印刷で「アジビラ」をつくることと、「アジビラ」といっても今の人はわからないんだろうな、機動隊の阻止線を竹ザオで突破する方法、「竹ザオ」と言っても、もういい!、くらいしか「学ば」なかったから、「コンピュータ」なんて見たこともないまま就職したわけだが、そんなずぶの素人にも「システム・エンジニア」という肩書きを与えてしまうほど、当時は殺気立った業界だった。実際やった仕事は「フォートラン」のプログラミングだけだけどね。

月間残業時間が200を超え、睡眠不足で歯槽膿漏が悪化し、歯茎から血を噴き出して倒れた。「殺される」と思った。歯医者さんで、先生に「ひどいことされてんだねぇ」と同情され、涙が出た。あの時以来、もう二度と「頑張って働く」ことのできない身体になった、ことにしている。

三年足らずでやめた。本屋に行くと「三年で会社を辞めた若者はどこへ行ったのか?」みたいなタイトルの新書がいやに目に付くんですが、だから、ここにいます、って。一度会社を辞めると「堪え性」がなくなって「辞め癖」がついて、はいはい、そうです、その通りです、以後はお決まりの「転落の人生」、そう「下流」です。でも、「下流」でいいもん!「マルクス主義者」だもん!

いや、そんな話をしたいんじゃない。その会社での二年目だったかな、「総務部に新しい機械が入ったらしい、何でも、『漢字』が使えるらしい!」、物見高い人垣の向こうに、スチールの事務用デスクよりちょっとでかいくらいの大げさな機械が見えた。それが、初めての、「ワードプロセッサ」だった。
そんな時代だから、私たちの使っていたコンピュータ、「IBM-370-168」は、5階建てビルの2フロアを占めていた。バックアップを取るのは「MT」、マグネティック・テープであって、30cmLP10枚分くらいの大きさ、と言えばわか・・・、おじいちゃん、「30cmLP」も今はないのよ・・・、「パンチカードシステム」さえ一部残っていた。広辞苑三冊分くらいのパンチカードを抱えて階段を上る、ころんで取り落としたら順番ぐちゃぐちゃで、復旧に半日くらいかかる。「広辞苑」は今でもあるだろ?あ、「電子辞書」に入ってんだ?

コンピュータに「殺されかかった」つもりでいたから、その後長らく、機械とは無縁の暮らしをしていた。「趣味で」ゲームのプログラミングする人の、「気が知れな」かった。でも、今では信じられないことだが、タバコの煙もうもうたる深夜の「端末室」で、誰としゃべることもなく、ただSPF(Structured Programming Functionでしたっけ)、の画面と向き合って、何度やり直しても、
invalid command structure....,
syntax error...,
みたいな、そっけないメッセージしか返してくれない機械と、延々と会話するあの仕事が、結局「向いていた」のかも知れない。

「バブル」期には、私も、分相応に、ではあるが、少しは金回りがよくなった時代があって、PC-8801、BASICで動くやつ、を30万円ポーンと払って購入したが、ほとんどなにもしなかった。あの機械には、「可哀想」なことをした。やっぱり「小金」があるのはよくない、「下流」は「下流」らしくしなくちゃね。
PC-88の5インチフロッピー・ディスクは256KBでしたかね?その後のPC-98シリーズになって、やっと1MB、MS-DOSのシステムが丸ごとその一枚にちゃんと入った。

それが今は4.7GB、なんだからね。と言うところで、やっと話がつながるのだが、その頃にはもう飽きているので、いったん切ります。「情報量」についての「考察」を、少しばかり展開してみたかったのですが、もちろん、誰も聞いてないんだから、どうでもいいやね。「ムースポッキー」どうなった?って、あ、それもちょっと飽きてるから、また今度ね。

写真は、「シロガシラ」(ヒヨドリ科)、かしらね?ビデオのキャプチャー画像です。ま、これも、そのうち飽きるだろうけどね。

2009年02月20日

アオサギの滑空、または、間違いだらけの「人生」



犬の散歩に近くの「遊水地」に行くと、ほら、こんなでっかい鳥が頭上をゆったりと滑空して行ったりする訳です。これは、アオサギ、「日本に分布するサギの仲間では最大」だそうだ。遊水地の池では、何か魚などを捕食しているのだろう、それから、「ぐぇーっ!」みたいな、必ずしも「美しい」とは言えない声を発しながら飛び、すぐ近くの、住宅地にそこだけポツリと残されたような「森」の梢で羽を休めたりしている。
もう少し小ぶりのサギ類も一緒にいて、こちらは真っ白。ダイサギ、チュウサギ、コサギ、と図鑑を調べるとそのまんまな名前が並んでいて、隣にいるアオサギがあまりにでかいもんだから、なんとなく「中ぐらい」かな、と思っていたのだが、調べてみるとチュウサギは「レッドデータブック」記載の希少種、どうも、こんなにばさばさ飛んでいるのは「平凡な」ダイサギのほうらしい。「くちばしの根元の切れ目が、目の下まで続いているかどうか?」がダイサギとチュウサギの違いのチェックポイントなのだそうだから、今度画像を拡大して調べてみようかしらん・・・。
子供の頃から、友達のいない暗い子供の倣いとして、「図鑑」が好きだった。「ポプラ社」だったか「保育社」だったかの、子供向けの「生き物」シリーズを飽かず眺めていたものだ。「昆虫図鑑」が特に好きでしてね、監修が、動物行動学の日高敏隆で、「京都大学理学部教授・理学博士」って肩書きだったから、これまたお勉強のできる暗い子供の倣いとして、「大きくなったら、『きょうとだいがく』に行って、昆虫学者になるんだ!」などと夢想しているかわいくない子供だったんだろう。

十数年後、私は本当に京都大学で、日高敏隆先生とお会いする機会を持ったのだが、残念ながら昆虫学者と、昆虫学者の卵としての「出会い」ではなかった。後に「歯茎から血を噴き出して」辞めることになるコンピュータ会社に就職を決めたものの、卒業に必要な単位が全然足りなくて、苦し紛れに「レポート書けば単位出してくれる」と言う「評判」の先生方を「訪問」しては頭を下げて「営業」して回る、と言う情けないことをしていた。日高先生は、もちろんとても素敵なリベラルな思想の持ち主だから、「新左翼系」、また、「最近の人にはわからない言葉」が出てまいりましたが、の学生の間でも「シンパ」と言う評判だった。でも、それは、「武装闘争」で獄中にいる自治会委員長の保釈金、とかいう「勇ましい」話のはずなんだが、先生は、私のような「へたれ」元・活動家の卑屈な「お願い」にも快く応じてくださり、「そうですか、わかりました。レポート書いてください。単位出しますから・・・。」
卒業の季節が迫っていたから、もう冬だったんだろう。寒い朝だった。理学部の日高研究室のストーブの上には薬缶が載っていた、かどうかは覚えていないんだが・・・。「センセイ、ぼく、子供の頃、先生の図鑑、好きだったんです!」みたいなアホなこと口走りそうになるのをこらえて、頭を下げて退出した。
何か、「人生」、間違えたのかもしれない、と、そのとき、「も」、思った。

コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」(ハヤカワ文庫、日高敏隆訳)、去年の夏、はじめて読んだ。

2009年02月24日

早起き鳥は・・・、もしくは、役に立つ「哲学」



でも、こうして早起きをして鳥を「観察」する、早起きなのは、その頃鳥たちが一番よく活動しそうなのと、ビデオカメラぶら下げて公園を歩いていても「不審者」として通報されないための用心なのであるが、いわゆる「浮世の憂さを忘れる」ってんですか?とげとげしかったり、憎々しげだったりする「現実」をしばし忘れることはできます。
生き物に近づくには、これはたとえ猫だって同じことなんだけど、自分の「気配を消す」という技術が必要。明け方や夕方、川べりを群れをなして「ぴぴっ!ぴぴっ!」と鳴きながらめまぐるしく飛び回る、セキレイよりもちょっと大きめのサイズのあの小鳥の名前が知りたい。なかなか羽を休めてくれないし、人が近づくとすぐに離れてしまう。土手にしゃがみこんで、「気配を殺し」、ただひたすら止まってくれるのを待つ。その瞬間、確かに私は「鳥の写真を撮る」こと以外なにも考えていないし、それはそれで「幸せ」な瞬間、と呼んでもよい。

「悠久の自然に比ぶれば、せせこましい人間どもの暮らしなど、『ちっぽけな』ものに見える」などと言ってみてもいいのだが、残念ながら、その言明は「間違って」いる。
サイズが大きく異なるものを「観測」するには、それぞれ別の「作法」があるのであって、
1:大きいサイズのものに着目しているときは、そのとき使用している「物差し」の最小目盛りにかからない限り、小さいサイズの方のものは「ない」も同然、と言ってよいし、
2:逆に小さなサイズのものに注目しているときは、大きいサイズのものは「環境」そのものになっているから、ほぼ「一定」のものとして考慮しなくてすむ、
ということに過ぎない。

小さな数を、めちゃめちゃ大きな数で割り算すれば、「ほとんど」ゼロになるのは当然であって、その数が「なくなる」わけではない。「めちゃめちゃ大きな数」の桁数の方に「今」尺度があわされているから、「小さな数」を計量できないんであって、私たちは「同時に」二つの「尺度」を扱うことができない。

私が「発狂」したのは、「言葉が通じない」と感じたからだ。「狂気」が、言語を持った人間に固有の「病」であるならば、ありえない話じゃないだろ?
「言葉が通じない」のは、
1:「尺度」の異なる事柄を記述するには異なる方法が、つまり異なる「言語」がなければならないはずなのに、
2:私たちはそれを持っていないか、もしくは、「使い分ける」方法を知らないから、つねに、間違ったことしか、言えない、
からなんだ、と、数年前に私は「発見」した。そんなことは誰でも知っている、と言ってくれても、いい。
私は、「生き延びる」ためにそれを「発見」しなければならなかったんだ。自分の「狂気」に「理由」を与えなければならなかったんだ。「哲学」は「生きる」ために、ぜひとも「必要な」ものなのだと言うことを、初めて知った。

写真は、「チュウサギ」、改め、「ダイサギ」。それにしても猫の話も犬の話も出てこなくなっちゃったわね。タイトルも「とりログ」にでもしようかしら・・・。

2009年02月25日

「君の名は・・・」、おい、今度は「サカナ」かよ?



ものごと・人々の名は、多くの人々によって繰り返し用いられ、引き継がれていく。ある音列が、そのようにして、あるものごとの名として用いられ、理解されるためには、いくつものことが前提されている。まず、「世界には、時を通じて存在し続けるものごとがある」ということ(つまり、事物の同一性)が、前提されている。そしてそのうえで、「かくかくの事物には、今後も、しかじかに接すべきである」という規範が、前提されている。・・・名を口にするということは、「存続するものごとを再認・同定し、同定したものごとへの態度についてコミットメント(言質)を負う」という、実践的な関わりに参入することなのである。・・・「私はどうして私なのか」大庭健(岩波現代文庫)

明け方に川べりをせわしなく飛び交う小さな鳥が、「ヒリヒリー」と鳴く、と図鑑に書いてあると、そう聞こえるような気もする、その鳥が「サンショウクイ科サンショウクイ・亜種リュウキュウサンショウクイ」という「名前」であるらしい、でも、同じように川べりを飛び回っているものの、少し飛び方もゆっくりとしていて鳴き声も異なる、そう、こちらは「ヒヨドリ科シロガシラ」だ!と、それら「名を知る」ことは、「あ、鳥が飛んでいて、鳴いている」としか見えていなかった世界が新たに「こちら」と「あちら」に「切り分けられ」る経験。
バス停でバスを待っていると、道路の向こうの病院の屋上のアンテナに鳥が止まっていて、「あ、あれは、サンショウクイかしら?」、ほら、こうして私は「名を知る」ことで、「ものごとへの態度」を変えている。

でも、混同しがちなのは、これらは「種」の名前なのであって、前に引用したドストエフスキー氏のお言葉、

「人類愛について語ることは容易いが、隣人を愛することは難しい」

を引き合いに出すならば、「愛すること」が「容易い」、「類」の名に過ぎないのだ。前にモノレールの中で、若い男の子が二人、お互いそれぞれの携帯電話をかちゃかちゃ言わせながら、会話していた、

「地球温暖化、大変なことなってるさぁ」
「そうさぁ、ホッキョクグマ、かわいそうさぁ」

語尾に何でも「さぁ」をつけるのは沖縄方言であって、「異邦人」である私は、三回に二回くらいは「いらいら」させられ、でも、三回に一回くらいは「ほっこり」させられなくもないのだが、この会話には、シートの上に足を投げ出したりしかねない、オヤジとしては「眉をひそめ」るべき「態度の悪そうな」若者達であったにもかかわらず、微笑まされたね。
そう、「ホッキョクグマ」を愛そう!地球温暖化を止めるために、できることをしよう!「地球温暖化」という「観念」が「ホッキョクグマ」という「名」を纏ったことで、「コミットメント」の仕方が、変わる。
でも、それは、公園に捨てられていた子犬に、「ペペ」という「名」をつけることで、「負う」ことになる「コミットメント」とは、そうね、前回持ち出した論点につなげるなら、「桁数」が異なるのだ。「人類」は「億」すなわち10の8乗以上の「桁数」、対する「隣人」は、どんなに多く見積もっても10の3乗の「桁数」。5桁異なる数字の足し算や引き算をしても意味がない。どちらか一方について問題にするときは、他方をそれぞれ「無限大」、「ゼロ」と呼んで視野から放逐しなければならない。

私は、「ぺぺ」を「引き受けた」のと「同じように」、「ホッキョクグマ」を「引き受ける」ことは、できない。

うまくつながったでしょ?そろそろ、「ムースポッキー事件」つづき、始めますね。もう、すっかり桜も葉桜になってしまったし。
「名付け」ついでに、おい、今度は「魚」かよ?写真は「ミズジリュウキュウスズメダイ」の群れ、「ミツボシスズメダイ」も混じってるけど。

私は十年前に沖縄に初めて来たとき「観光客」だったから、縁あってここに住み着くことになったときも、ここに暮らせば「のんびりとして」、海に潜って「熱帯魚」を眺めたり、山歩きをして「バードウォッチング」したり、三味線を弾いたり、そんなことをして過ごせるものだと「誤解」していた。「職場の人間関係に神経をすり減らし・・・」なんて、あるはずのないことだったのに(笑)・・・。

「うつ病」発症後の二年間、私は「海」を「見る」ことさえしなかった。だから、「ミズジリュウキュウスズメダイ」は若干の「治癒」の証でもある。貧乏人だから「ダイビング」の道具なんか持ってない。十年前に京都の、そう、河原町丸太町のスポーツ用品点で購入した確か2980円の「シュノーケルパイプ」を、まだ使っている。

それから、「シロガシラ」がうちの屋上で、「ぴっぽぴっぽぺぴっぽぽぺぴっぽぽぴっ!」とか、鳴いているのを短い動画にしてアップロードしてみました。

2009年02月27日

「鉄鎖以外に、失う」もの・・・。



資本主義のシステムの下では、誰もが「小商人」であるかのように振舞う。ありもしないことを「ある」と言い、出来もしないことを「出来る」と言い、「ない」ものをまず販売しておいて「あと」から「補填する」ことにして「矛盾」を先送りする。
「ここ」には、ないものが「あそこ」には、ある。「あそこ」から「ここ」まで、財貨であれ「情報」であれ、「運搬」するのには、時間がかかる。世界は現に「不均等」に出来ていて、その「不均等」を「解消」するために「流動」が生じたとしてもそれが目的の場所に「到達」するまでには有限な「時間」が必要、こうして空間的な「差異」と時間的な「差異」は相互に「読み替える」ことができるから、いつまでも「差異」を作り出し続け、いわば「波風を立て続ける」ことで世界は「存続」している。

資本主義が「地上最後」のシステムなのかどうかは知らない。でも、一度は世界を席巻した「大方の予想」に反して、こんなにも長く「存続」してしまったのは、
1:「マクロ」的には、「エントロピー増大則」の圧倒的な圧力によって世界は「差異」を解消して、「平準化・熱的『死』」に向かうのだけれども、
2:「局所的」な「濃度勾配」がある限り、物質・エネルギーの移動が生じるから、「ミクロ」的には「エントロピー」を減少させ「秩序」を組み立てることが出来る、
という、この「時代」が獲得した自然科学的な確信と、あまりにも「適合的」だったからだろう。

私たちもまた、「労働力」以外には何一つ「販売」できるものを持たない「プロレタリアート」であるにもかかわらず、「小商人」のように、「ほかの彼・または・彼女には『ない』ものが、私には『ある』」、と言い募って、日々自分の「価値」を吊り上げ続けなければならない。

鬱病患者は自己評価が著しく低下すると言われる。もともと「高く」評価していた自分が少しも「受け入れられず」、手痛い挫折を味わったゆえの「防衛」なのだが、そのような人間は、まさに「資本主義」と「適合的」に生きることができないのだ。「どうせ私は、だめな人間ですから・・・」、すねて嫌味を言っているわけではなくて、そう振舞わなければ「危険」だから、そうしている。だが、そんな「商品」が、売れるわけがない。

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職場の会合で「切れて」しまった。一生を通じて、「切れて」は会社を辞めるのが「年中行事」みたいなものだったから珍しくもない。でも今度ばかりは少し様子が違ったね。まったく「そんなつもり」じゃなかったんだ。今までは多少「演出」があった。そろそろ「辞めたく」なったから暴れてみました、みたいなところがあった。でも、今は「26人」の扶養家族抱えて、すぐに「路頭に迷う」覚悟はない。こんな「欠陥商品」抱えて、新たに転職のための「就職活動」なんて、出来るわけがない!
でも、「切れ」た。そこまで追い込まれていたんだ、などという言い訳はしないでおく。実際、何が「問題」なのかすら、自分でもわからない。すべてが「妄想」なのかもしれない、と思えるほどに、自分に「確信」がないのであった。
あ、やっちゃった、もうだめだ!、と思ったら、まるで「粗相」をしてしか注目を集められない問題児のように、「やさしく」扱ってもらえた。「ほとほと、疲れていたのねぇ、気がつかないでごめんなさいねぇ」みたいに慰められたり、「私は、あなたの味方ですよ!」みたいにささやいてくださったり・・・、涙が出た。
でも、またしても鬱病患者は、「やさしく」されるとますます「困惑」するのだ。だから、この週末は、ただひたすら、眠り続けた。身体が、全身で、「危険だから、何もするな!」と、警告を発している。その警告に耳を傾けよう。あと一日、眠り続けよう。

写真は、久しぶりだね、「主人公」なのに・・・、「びー」、ベジたべる。

2009年03月01日

またしても、「糞便」談義、そして、「もっ、猛禽類だぁ!」・・・



「びー」のおしっこは、一日二回、ウンコは一日一回、私はそんなに規則正しい生活はしていないから、結構いい加減になることも多いのだけれど、ともかくもう三ヶ月以上、何とかやって来れたことになる。
肛門からウンコが出てくる様子をしげしげと観察するという経験は、医療や介護に携わっておられる方には当たり前のことかもしれないが、何にはあらず、「見る」ということ、「知る」ということは、凡庸な言い方だが、凄いことでございますな。この歳になって、まぁ、しょせん、猫ではありますものの、まがりなりにも我々と同じ哺乳類、その排便の様子を、これほどまでに間近に見ることになろうとは思ってもおりませんでした。
おしっこが勢いよく出ないときは、大便がたまっていて邪魔をしている可能性が高いわけです。おなかをゆっくりさすりながら様子を見ます。やがて、肛門の周りの、普段は折りたたまれて被毛に隠されているピンク色の肉が見る見るせりあがって来て、びっくりするほどの半径にまでなる。その中央から茶色いうんこが頭を出してくる。直腸の筋肉が緊張と収縮を繰り返しているのだろう、それに呼応する形で肛門の筋肉も、「くびれ」と「弛緩」を繰り返し、こうしてまさに絶妙なテンポでうんこのかたまりが次々と体外へ押し出されていくのであった。これまた、ありがちな、凡庸な表現ですが、「神なき」私をしても「神々しい」などと思わず呼ばせてしまう程の、「厳粛」な経験であります。

猫たちは、うんこしたあと自分で肛門の周りをなめて「そうじ」します。。母猫が子猫の肛門をなめて刺激を与えて排便を促したりもします。大人でもお互い同士お尻をなめあったりもして、それがなんだか「親密さ」の交換、みたいになっている感もある。「びー」ちゃんは、後ろ足がきかないから、うまく体重がかけれなくって、多分、なめられないと思う。いずれにしてもオムツされてるしね。だから、私が消毒液で洗う。さすがに、「なめてあげる」、わけにはいかないからね(笑)。

二足歩行を獲得した人間は、自分の肛門がなめられない。それどころか、自分の肛門を、直接「見る」ことすらできない。
「うんこ」をしくじって、自分では見ることの出来ない肛門を他人に拭き取られてしまって、さらし者にされ笑い者にされる、これ以上ない程の「無力感」を味わわされてしまった幼少期の経験こそが、「うんこ」の夢にこれほどまでの過剰な「意味」を与えているのだと、発達心理学は教えてくれている。

丸三日間、一日のほとんどを眠り続け、「仕事」とか、そういった「浮世」のこと考えないように、犬・猫・亀の相手して、鳥の写真撮ることだけでやり過ごしたら、少し、・・・回復したかもしれない。

写真は、「もっ、猛禽類だぁ!」、サシバ(タカ科)です。何気なく屋上に上がったら、目の前で(!)休んでおられた。本州各地で繁殖し、東南アジアで越冬、琉球列島を春秋大挙して通過する。特に宮古島は最大の中継地だそうだ。「県内」といっても、ここ沖縄本島とは数百キロも離れているんだけどね。春の渡りには、早いのでは?渡りに「乗り遅れて」しまって、沖縄で越冬するものを「落ち鷹」、方言では「ウティダカ」と呼ぶらしい。

2009年03月02日

「無限論パラドックス」、または、「職業」を通じて「学ぶ」こと・・・



ある大学の、「情報○△学部」風なところの「小論文」試験のテーマが「将来、超高密度媒体が開発されたとして、君ならそれを何に使いますか?」みたいな感じので、生徒さんが持ち込んできたことがあるんですが、「で、あなたはどう思ったんですか?」と問うと、
「えっ、あの、子供の成長の記録とか、細かく撮れるんじゃないかと・・・」
それって、ふつうのお父さんじゃない。「ふつうのお父さん」でいけない理由はもちろん何もない。「少子化」どこ吹く風の「多産系」文化、「右」も「左」も二言目には「子や孫(!)のために明るい未来を!」とのたまうこの島では、「EDもしくはTGL」いずれにしても「再生産プロセス」脱落派としては「生きづらく」感じておったわけですが、それは「こちら」の事情であって・・・。

人間の子供の前後左右、そして頭上にも、全五台、超小型高性能ビデオカメラが、まぁ「技術が進歩した」ということで、本人にも回りの誰にも、まったく気がつかないような方法で設置でき、その子の「成長」が、あらゆる方向から「くまなく」撮影できるとしよう。
24時間の「成長」が120時間の「画像」として、完璧に「記録」されているのだ!いかな熱心な「お父さん」が仕事を放り出して連日徹夜しても、一向に編集作業は進まない。
生後第1日目の「成長」を「再生」し終わるのに5日かかる。第2日目の再生が6日目から10日目、・・・、以下同様にして、第n日目分の「上映」が第{5(n-1)+1}日目から第5n日目までぶっ通しで行われる。

ありふれた「無限論パラドックス」で、自然数は「無限」にあるけれども、5の倍数もまた「無限」にあり、では、どちらが「たくさん」あるか?と言うと、自然数と5の倍数の間に1と5、2と10、・・・、nと5n、という風に「対応」を付けていくとちゃんと「1対1で、もれのない」対応が付けられてしまう、だから、自然数と5の倍数の「濃度」は、同じだ!
この子も、お父さんも、「無限」に生きればいい。そうすれば、ちゃんと、編集作業は、終わる。

これまた10年ほど前になるが、「エロ本屋」の店員をしていた。最初から「エロ本屋」だったわけではない。勁草書房や社会評論社だったっけ、そういった「社会科学系」の売れない本もちゃんと置いているような、新左翼諸党派の機関紙まで扱っているような変わり者の本屋で、きっと店主は「その筋のモノ」だろうと踏んで、面白そうだから、ちょうどその前の職場も「キレ」て辞めたところだったんだろう、アルバイト募集の広告に応じて雇ってもらった。
店主が「その筋のモノ」であることは間違いなかったが、「団塊」系あぶらっこいタイプにありそうな、自分が「逆風」の書店業界で「何をやってでも」生き延びることと、「政治闘争」とかをきれいに同レベルで矛盾なく眺められるある意味「ポジティブ」な人だった。
「今の時代、売れるのはエロ本と写真集、ほんで、雑誌とあの『ムック』でんな。それしかあきまへんわ!」
あれよあれよという間に大月文庫は全品返品、岩波文庫の棚は激減、代わって成美堂、永岡書店といった実用書、別冊宝島みたいなものがあふれはじめた。小書店店主というものはこまめさが命らしい。少しでも売れるように、少しでも万引きの被害を減らすように、毎日にように陳列の仕方を変える。
出勤するたびに「エロ本」エリアが倍増しているのには仰天した。スカト*、熟女、ロ*、パンス*・フェ*、・・・、ありとあらゆるエロ本があった。毎朝出勤するとまず、山のように入荷したこれらエロ本に、一冊2000円程度するものが多いからむざむざ立ち読みされたり、汚されたりしてはかなわない、もちろん「青少年健全育成」でもあるのだが、ビニールをかぶせたり紐をかけたりする。入荷の多い日だとこれが午前中一杯かかる。もともと性欲多い方ではないから、朝からそんな「濃い」エロ本見せられても、気持ち悪いだけだった。なるべく中身見ないように手早く紐かけるようにすぐ熟練するのだけど、時々は見えてしまう。二日酔いの寝起きで、「うんこ」のどアップ写真見せられた日にゃ・・・。

もう30代後半だったのに、時給わずかに750円だったから、一年しか続かなかったけど、今から思えば実り多い一年だったな!「職業」を通じて「学ぶ」ことがあったとしたらこの一年だけだった、と断言してもよい。
「店員」という空気のような存在として、濃密な人間の欲望をつぶさに観察できたのだから。近所の商店街の商店主達の「性的傾向マップ」を、私は描くことが出来た。八百屋さんは「熟女・中年」、肉屋さんは「パンプス」、ペットショップは、おぉ、今思い出した、ペットショップがあったんだ!、その親父はハードな「*」、とかね。ほとんど毎朝のようにやってきて、食パンとネギの入っている買い物袋にロ*ビデオを無造作に突っ込んで帰る年金生活者風の老人もいたなぁ。

もちろん万引きも多かったんだろう。24時間営業で夜中はアルバイト店員一人だからね。午前2時ごろにやってきて、どこでパクって来たのか数万円相当の書籍をカウンターに積み上げ、レシートもなしで「返品してくれ!」とごねる「客」もいた。だから、店内には何台ものビデオカメラがいかめしく首を振っていたものだ。出勤するとまずテープのかけかえをする。「事件」が発覚するには何日もかかることもあるから、一週間分くらいのテープは保存されていたのだろう。しばらく後には、数秒に一枚の静止画像を高密度で書き込みできる最新鋭の機種が導入されたが、はじめのうちはホームビデオと同じで、大きな万引き事件が起こるたびに、店主が部屋にこもって半日もかけて、単に店内を映し出したに過ぎない早送り画像を、延々と眺め続けていたのを、「5n日無限ビデオ再生」ネタで思い出したのだ。

「常夏の島」のはずの沖縄は、2月3月、雨ばかりで少しも陽が差さない。鬱病患者は雨に弱い、のかどうかは知らないが、ますます起きれない。三日間であわせて10時間も起きていないかもしれない。猫も日向ぼっこが出来ない。日向ぼっこをしている幸せそうな猫の写真も、撮れない。
だから、写真は、まだ、「トリ」が続きます。イソヒヨドリ(ツグミ科)、こんなに青いのはオスです。

(注)本文中、5文字、伏字。「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」なんだって!すごーい!何度か「*」ですりかえてたらいつの間にかOK出たから、結局、「どの」言葉が引っかかってアップロードできなかったのか、実は、よくわからな〜い、の?

2009年03月03日

『再発』・御礼!!



【症例M】2002年6月、「躁鬱病(双極性気分障害)」の診断を得て、以後二年間にわたり通院、SSRI(選択的セロトニン再受容阻止薬)による薬物療法を受ける。職業は予備校講師であるが、「移住」に伴う「文化的齟齬」とも相まって、雇い主、同僚、生徒等との良好な関係の形成に失敗し、発症当時は事実上「閑職に追いやられている」状態であった。規則的な投薬により症状は改善、同時期現在の職場に移り、新しい環境のもとで「心機一転」、完全な快癒に向かうかと思われたが、前職場での周囲との関係形成の失敗が「外傷」となっており、元来必ずしも「明朗快活」とは言えなかった性格も一層陰欝さを増し、・・・

・・・昨日たった二時間だけ仕事をして、それなのに泥のように疲労して、ものすごく空腹だったから何か食べてから寝ようと思ってスーパーに出かけたけど、売り場をくまなく一周して、何も欲しいものがない、食べるものさえ決められなくて、買い物籠下げたまましゃがみこんで号泣しそう。何が食べたいのか「わからない」時は、賞味期限間近で安売りになっている食材を買う。やがて「捨てられてしまう」食材に自分を投影して、少しでも「救ってあげた」安らぎが得られるからだ。20%引きの大型プリンを4個、泣きながら、立て続けに食べた。

もう、限界でしょう。だ・か・ら・・・、「再発」したことにしましたぁ〜!
外に出かけることがほとんど「恐怖」で、出勤時間が近づくと、本当に「動悸・息切れ」が出る。さしあたり、一週間ばかり「ずる休み」することにする。「体調を崩して、寝込んでしまいました」と会社に電話する決意をするのに、三時間かかった。電話口の向こうの入社したての事務職員さんは、私の名前を聞いても顔も思い出せないだろうに、「お大事になさってください」と言ってくださった。また涙が出た。

身体が意のままに動かない。勢いよく立ち上がると立ちくらみがして昏倒する。ものをよく取り落とす。手や足をしばしば家具などにぶつけてしまう。「身体」が「自分」というものの「制御」を、必ずしも受けているものではないことを実感する。「『私』とは何か?」みたいな哲学的な事柄に興味を感じてしまうのも、こんな病気になったからかもしれないね。
だから、猫のトイレを掃除して、部屋の掃除をして、猫や亀や犬にえさを出す、一日に最低限しなければならないのは、たったそれだけなんだが、それすら「無理しないで、ゆっくり!」と、自分に声をかけながら、わざと緩慢にやる。そうすれば、一日の時間なんて面白いように過ぎ去ってしまう。それでいいんだ。意識的に「何もしないでいる」こと、それのみが「治療」なのだから・・・。

ココちゃんの食欲が落ちた。この子は前から歯が悪くって、歯茎から細菌感染して熱が出るのかな、ときどき調子悪くなる。入院して全身麻酔して歯を抜きましょう、って前から言われているんだけど、そうこうしているうちに回復するからつい延ばし延ばしにしている。
ジェリーさんがなくなって一年以上になる。慢性腎不全だったジェリーさんには、丸一年間毎日自宅で点滴を入れたものだ。食欲が落ちたときは、点滴に限る。私の身体がふらふらで、手元も怪しいのだが、一年ぶりにやってみた。
乳酸リンゲル液のパックを柱の釘にかけ、輸液チューブの先に針を装着し、これをパックの下部に差し込む。この際チューブのコックを閉めておかないと、液が勢いよくあふれてくる。何度も失敗したから、これはちゃんと覚えていた。消毒用アルコールに脱脂綿を浸して、左手で猫の首根っこを押さえ右手で背中の一部を拭く。右手を針に持ち替えて後ろからゆっくり差し込み、今度は針先を左手の指先で抑えながら、右手でコックを開く・・・。ちゃんとできるじゃない!
ココちゃんの食欲はすぐには戻らないけど、たちまち目の表情は少し明るくなって、よかった!

というわけで、しばらく「病気」に退行することにしました。犬の散歩以外には外出をしないようにして、食べ物はコーンフレークだけ、あ、だから牛乳だけは買いにいく。読む本はたっぷりある。「仕事」なんか、絶対に、しない!
文藝春秋、芥川賞の載ってるやつ、わざわざ買ったの。「ポトスライムの舟」(津村記久子)、読んだわよ。「一言観音」で「代わりに、ヨシカとりつ子と恵奈ちゃんとおかんの願いが叶いますように、と願って、・・・」のところで泣いちゃった。「りつ子」が着ているユニクロの3枚1000円の「企業コラボTシャツ」、「正露丸」てかいてあるやつ、僕も持ってるよ。僕、神戸で震災のあと「ピースボート」でちょっとだけボランティアしててんけど、何ヵ月か経って「世界一周クルーズ」のカラーの上等なパンフレット送られてきた。有閑階級風なおばはんが「難民キャンプ」の子供と手ーつないでる写真とかあって、故筑紫某とかこっちはまだ生きてんのんか(失礼)本多某とかの「朝日」系リベラルが「絶賛」してるの見てすごい違和感感じてん。長田の御蔵通りの一面の焼け跡に立った「ピースボート」のプレハブの事務所をはじめて訪れたあの日のことは一生決して忘れへんし、もちろん、何のうらみもないんやけどな。ほんで、僕の貯金もちょうど今日あたり今月分の給料入って、163,1042円になってるかも知れん。「ポトスライムの舟」読んでない人には何のことかわからんやろな。もちろんこの小説には、そんな「ピースボート」の悪口なんか書いてへんよ。なんか、こてこての大阪弁、うつってしもたやないの・・・。
川上未映子の「乳と卵」読んだときも思たんやけど、ええ時代なった思うねん、ぼくら、朝から晩まで働いて、何のために働いてるかもようわからんと、ただへとへとやねん。小説ゆうのは「あるある探検隊」ちゃうんやから、別に「貧しい」ことが書いてあるから「リアル」でいいとかやないんやけど、「貧しい」ことが普通にぽんっ、と書けるのは、ええ時代ちゃうんかな、と、唐突に思ってん。

あんまり書いたら、悪化しそうやからこのへんにしとくわ!明日からも、会社サボって読書三昧すんねん!

写真は、ココちゃん。

2009年03月06日

あ〜あぁ、わかってくれとは言わないがぁ〜っ!



一つのことをする、たとえばトイレに行く、ということを「決意」するのに約30分くらいかかり、そうして這うようにしてトイレから帰ってくると、再びベッドに倒れこみ眠る。ほんの5分くらいのものすごく深い眠りが来てくれると、疲労感が少しだけ回復している。急に起き上がるとまた倒れるから、ベッドの中で少しずつ「予定」を立てる。猫トイレの掃除からにしようか?外の野良猫、昨夜雨だったからおなかすかしてるかも・・・、そのエサ先にしようか?「びー」ちゃん、前回のうんこいつだっけ、お漏らししてるかも・・・、とか。一度にたくさんのことはできない。一つのことを片付けたら、その都度ベッドに倒れこんで「仮眠」をとる。

「人生」というものは、「そういうもんなんだ!」と決めてかかってしまえば、「生きていけない」ことはないだろう。でも、「世の中」はそうは出来ていないし、だいたい、どこの世界に5分に一回「仮眠」を取らせてくれる「会社」があるだろう?

だ・か・ら、「生きていけない」、と思う。この二三日、たとえば私は、「死にたい・死にたい」と何度も考えているのだが、それは「症状」としての「自殺念慮」とは、ちょっと違う、かも知れない。この状態では「事実として」生きていくことができないし、生きていくこと自体が「観念」として「つらい」、のではなくて、いささかの「比喩」でもなく(Illness "Not" as metaphor!)生きていくためにしなければならないもろもろのこと、それらを「処理」することが、限りなく、「めんどくさい」、からだ。
さいわい、「死ぬ」ことのほうも、それに劣らず「めんどくさ」そうだから、まだ、大丈夫、生きている。

ココちゃん、自力でご飯を食べてくれない。点滴150ミリリットル、今日で二回目。口の周りによだれをたらすのは、歯茎が悪いせいで前からなのだが、いっそうひどく、鼻も詰まっている。だから、食べ物のにおいがかげず、食欲が落ちているのだろう。左側、えっと、「彼女」から言えば右側の歯茎の炎症がひどいのだろう、そちら側を触ろうとすると、びっくりするほどの力で抵抗する。
「中性水」と呼ばれる消毒液、まがりなりにも「化学」を学んでおきながらその正体が私にはよくわからないのだが、動物病院でいただいてくるそれは、人間の歯科医でも用いられているらしいから、経口摂取してもいいらしい。だから、ココちゃんの歯茎の辺りにそれをかけ、嫌がるけど口の周りをウェットティッシュできれいにして、それから、注射器のシリンジで、猫用ミルク10ミリリットル程度を飲ませた。「おいしそう」かどうか?の表情は読み取れないが、ともかく、それほど嫌がりもせず、飲んでくれたから、とりあえず緊急の栄養摂取は出来た。

そういう、飼い主としての「義務」がちゃんと果たせると、こちらの「生きる」自信も、少しは湧いてくるというものだ。

午前中、少しだけ、久しぶりに、晴れた。やっぱり、猫は日向ぼっこに限りますから・・・、ココちゃんも窓際で休んでいる。写真は、「『トン』と『びー』・ほぼ、他人の二人」。猫は本当に段ボール箱が好きだ。

「怠業」二日目、は「戦場のガールズライフ」・吉川トリコ(小学館文庫)。解説で豊島ミホは「私たちのための小説」、と絶賛していた。「私」にとってはもちろん「私のための小説」ではありえないのだが、いまさら「いまどきの若い女が考えていること」を覗き見して知ったかぶりをする必要もなく、その意味では「情報価値」ないにもかかわらず、こんなにもわくわく読みきってしまえるとは、「ブンガク」って、やっぱ、偉大だわね!
えっと、豊島ミホ、も好きです。「ハニィ、空が灼けているよ。」(「青空チェリー」収録・新潮文庫)、こんな風に「戦争」が描けてしまうなんて、「いまどきの若い女」の人、やるじゃん、おっさんもきばらな、って思いました・・・はい。

2009年03月08日

雨上がりの、夜空に・・・、



ココちゃん、少しだけだけど、ご飯、食べた(^_^)v
夜中に私が起き出して台所の電気をつけると、猫たちも「わっ!飯かも知れん!」とばかりに、どたどた集まってくる。弱って食欲がなくなっている猫でも、その「華やいだ」足音には「心躍らされる」のかもしれない。ココちゃんも、よたよたとついて来る。でも、いざエサを前にすると、くんくんと鼻で臭いをかぐものの、食べられない、そんな日々が続いていた。ミルクがおなかに入ったせいで、少し元気が出たらしい。鼻水も少し収まっているから、臭いも感じるようになったんだろう。

今や、綺麗ごとでもなんでもない、これらの猫たちが「生きて」いることが、私が「生きて」行くことの「条件」であり「理由」である。だから、・・・よかったね(^_^)v
「顔文字」を使ってみるなんて、「怠業」三日目ともなると、少しは、回復基調にあるのかもしれない・・・。

雨が上がると野良猫たちも、忙しい。雨宿りしている間、食べれなかったご飯を、食いだめしにやってくる。
鳥たちも、忙しい。結構たくさん降ったので、川も増水しているから、えさになる魚なんかがたくさんいるんだろうな、いっせいに飛び回り始めた。
私も、少し「華やいで」、カメラを持って出かけた。「カワセミ(カワセミ科)」を見た!背中が、図鑑に書いてある通り、本当にコバルト・ブルー。写真はうまく撮れなかったけど。えっと、チョコボールの「キョロちゃん」みたいな嘴。本当はチョコボールのキョロちゃんのモデルは、同じカワセミ科の「アカショウビン」なんだと思う。沖縄に来た最初の年、まだ名護に住んでいたときだ、キャンプ・シュワブの前の国道329号を車で走っていたら、ばさばさって音がして突然「何か」が飛び込んできた。「リュウキュウアカショウビン」だった。真っ赤な嘴の、真っ赤な鳥が、助手席にちょこんと、座っている。むこうもさぞかしびっくりしただろう。しばらくしたら、無事、飛んでいった。

写真は、「ササゴイ(サギ科)」、ところで、何で「五位鷺」というのか知ってますか?醍醐天皇が神泉苑での宴の折、「五位」を授けたから、とのこと。そのまんまやし、こんなウンチクあとが続かへん、そんで、ダイゴって誰なん?老眼鏡取り出して広辞苑まで引いて、損したわ。あ、神泉苑は聞いたことあるで、たしか、東山二条あたりにあったんと違う?・・・。

「イソヒヨドリ」、「サンショウクイ」、の鳴いてるところ、短い動画にして見ました。
「イソヒヨドリ」、図鑑には「ピーコッコ」と書いてある。うそでしょ?「ぴぴ、ひーひ」としか聞こえん。
「サンショウクイ」、こちらは図鑑には「ヒリリー」だって。なるほど。「ひらひぃー」で、どうだ。
「シロガシラ」にはもう一つ鳴き方があるのだ。鳥の名前など知らなかったずいぶん前から、明け方、これが聞こえているのは気がついていた。「Happy Forgery」、「ふぉーじゃりー」とは、紙幣とかの「偽造」のことだ。

2009年03月08日

「ムースポッキー事件・第6話」、いい加減にしないと「ホワイト・デー」も終わってしまう・・・。



「ムースポッキー事件・第6話」、いい加減にしないと「ホワイト・デー」も終わってしまう。「バレンタイン・デー」の直前だったから、スーパーの棚にはポッキーがあふれていて、それでいつも思い出すんだ。だから、これは、そのとき書いた文章なんだけど、再録してごまかすことにする。

写真は、この話に出てくる、かつては「やんばる(山原)」の野良犬だったシロちゃん、何年か前の冬、亡くなった。享年・推定20歳。寝たきりになってしまったあとは、私は世話が出来なくて、ここにも出てくる「元彼女」が最期まで看取った。

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そして、取り残されてしまった茶色のワンちゃん。確かに2匹比べると、少し落ち着きがないし、吠えたりかんだりもするし、売れ残っても仕方がないかも。そう思うと不憫で、また身につまされる思いで、「よーし、こうなったら、うちで面倒見ようじゃないか!」などといきまいてみたり。
ともかく長期戦になりそうだし、そのためにはシロちゃんと仲良く暮らしてもらわなければならない。カゴを2階のベランダに移し、シロとスキンシップがはかれるようにした。いつもの散歩のときに他の犬に出会ったときみたいに唸って威嚇することはないから、まずは大丈夫なのかもしれないが、もちろん別に歓迎しているようにも見えない。
よし、じゃぁ、いっしょに散歩をしよう!・・・それが間違いの始まりだった。土曜の公園の物語は、まだまだ続く。

子犬を散歩させるというのは、かなり熟練を要する仕事のようだ。とてもまっすぐには歩いてくれないし、車が来ても止まってくれないし、落ちている物を何でも口に入れそうになるし。
あとから知ったが、家で生まれた子犬の場合は、ワクチン接種は生後4ヶ月以降からしかできないので、それまでは路傍に落ちているいろいろな物から感染症をおこさないために散歩に連れ出さないのが常識らしい。
だから、ましてやフェラリアのせいですぐに息が切れてしまうシロちゃんと、並んで歩かせるのは至難の業、止まりたいときに引っ張られ、歩きたいときに引き戻され、どちらにとっても、またこちらにとってもストレスだらけであまり散歩の意味がないかもしれない。

もう少しゆっくり時間をかけるべきだったんだろうが、私は多分焦っていたのね。
首輪やリードにも慣れていないから、ぴょこぴょこ歩いているうちにすぐにぐるぐるにからまってしまう。ほとんど3mおきにそれをほどいてあげないといけない。
公園にいたときも、屋上に放していたときも、全然逃げようとしなかったから、少しの間なら大丈夫だろう。そう判断してリードをはずした。おぉ、ゆっくり歩くシロのまわりを跳ね回りながらついてくる。いいじゃないか!絵になってるじゃないか!
これなら、やっていけるかもしれない。一瞬だけ、とても幸せだった。

犬を放し飼いにしていたらいなくなってしまったんですよ、などとさも不満そうに話しているのを聞くたびに、コンビニや動物病院に「迷い犬探して下さい、某月某日、見失いました」などというチラシが貼ってあるのを見たりするたびに、「こいつらアホちゃうか?どうぶつ、つないでなかったら、にげるのあたりまえやろ?」と思ってた。
こうして首輪や鑑札をつけたまま、クタクタに汚れてしまった「野良犬」がたくさんいる。また、そうやって放し飼いにされた犬達が夕方ともなると、「自主的」に散歩をして、もちろんうんちはそのまま放置してあるから、近所の人の怒りは買うし、そして、繰り返しになるけど、去勢や避妊をしていなかった場合、またどこかで子犬が生まれ、またどこかで子犬が捨てられる。

ふたたび、そんな「義憤」は、まぁおいといて、ていうか、もうなんにも言う資格がなくなってしまった。よく知らないことを憶測だけで判断して、とりあえず非難してみるのは、やっぱりやめた方がいい。いろいろ事情があるかもしれないのだ。
ミニチュア・なんとかっていう品種なのかな、とても小さな、猫くらいの大きさの犬で、それはそれはいつもけたたましく吠える犬を飼っている家がある。その家の前を通りがかっていきなり吠え立てられて、びっくりしてしまったんだろう。一目散に逃げてしまったのだ。全速力だった。さすがに大型犬の猟犬の子供、目にも止まらない速さだった。シロを連れたまま追いかけようとしても、話にならない。あっという間に見失ってしまった。

なんということだ。一番やってはならないことをやってしまった。激しく後悔した。散歩に連れ出そうとして、家の前で座り込んでしまったのを無理矢理引っ張り出したり、シロがうんちをしているときに纏わりつこうとしたところを邪険にしてしまったり、そんなことをするんじゃなかった。おとといどこかから運ばれて捨てられて、きのう拾われて一日中晒し者にされ、今日は今日で、ずっと一緒にいた兄弟と突然引き離され、無理矢理散歩に連れ出された。この子にとっては何がなんだか訳が分からなかっただろう。恨んでいるかもしれない。もう二度と帰ってこないかもしれない。あるいは、帰ろうにも何にも覚えていないだろう。初めて散歩に出たばかりなんだから。
何をやっているんだろう。「捨て犬」を拾って「助けた」気になっていた。それを、一日もたたないうちに首輪をつけたまま「迷い犬」にしてしまったのだ。生ゴミを漁る能もない、車をよけることもできない、そんな子犬を放してしまったのだ。公園に放っておいた方がまだましだったかもしれないのだ。
はじめはシロといっしょに、そのうち今度はシロが疲れてきてしまったので、いったんうちに帰ってひとりで出直して、探した。やみくもに歩き回った。あの子が走りはじめた直後、気配を嗅ぎ付けた犬達があちこちで一斉に吠えはじめた。見失ってしまった四つ角のすぐ側によく吠える大型犬を飼っている家がある。その犬も激しく吠えていたから、きっとこの四つ角でもおびえて右か左に曲がったに違いない、という想定に基づいて歩き回ってみた。もう夜も9時過ぎになっていたが、真っ暗な路上を横切る物は何一つ見逃さないように目を凝らした。
2時間近くも歩きまわった。もしあのまま走り続けたとしたら、もうこんな近くにはいないだろう。もしどこかに隠れているとしたら、こんな風にただ歩き回っていても、見つけられないだろう。でも、今しもそこの角を曲がったら、あの子が口を開けて「へっ、へっ、へっ、へっ」としゃがみこんでいるのでは、と思うと、なかなか切り上げられなかった。

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まだ、まだ、つづく・・・。

2009年03月10日

「ムースポッキー事件・第7話」・いよいよ最終回か?



「ムースポッキー事件・第7話」・いよいよ最終回か?

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この見込みに基づく「初動捜査」が誤りであったことが後で分かるのだが、彼女が仕事から帰ってきて捜索に合流してくれた頃には、私はもう半泣きだった。
最初からそうすべきだったのだ。彼女は通り掛かりの人たち、特に犬の散歩をしている人たちに、かたっぱしから「このぐらいの大きさの茶色の子犬見かけませんでしたか?」と声をかけまくった。
真っ黒い大きな犬を散歩させていた青年が駆け寄ってきて、茶色い子犬がさっきあそこの交差点を斜めに横切ってましたよ、と知らせてくれた。私が2時間やみくもに歩き回っていた場所と全然違う方向だった。かなり急な坂道を登りきって、交通量の多い道路に面したところだった。ずいぶん捜索範囲が広くなってしまったので、今度は車を出して、路地を一つ一つ走ってみた。

おりあしく冷たい雨も降りはじめ、二人ともくたくただった。後ろ髪を引かれる思いだったが、ともかくいったん撤収して、翌朝少し明るくなったころ、子犬もおなかをすかせて迷い出てくるだろうから、その頃もう一度出直そう、ということにした。

どこかの家に迷い込んで保護されているかもしれないから、今晩中にチラシを作って明日の朝の通勤時間前までに電柱に貼りだそう。彼女に言われるままに私はこんなチラシを作り、ローソンで50枚コピーをとった。ほんとにデジカメで写真を撮っておいてよかった。もちろんモノクロ・コピーだから、画像はこんなに鮮明ではないが。

おねがい!
迷い犬、
さがしてください!
生後2ヶ月ほどの子犬、メス、茶色
黄色い首輪をしています

×月△日夜、**児童公園の近くで、見失ってしまいました。
見かけた方は、下記までご連絡下さい。お願いします!
090−****−**** ○○

眠れぬ夜を、それでも少しはうとうとして過ごし、5時半くらいかな、そろそろ空が明るくなってくる頃、50枚のチラシとガムテープをリュックに詰めて、歩きはじめた。よりによって、今年一番だったかもしれない、とても寒い夜だった。
昨夜の青年の提供してくれた情報を信頼して捜索を開始した。私たちのうちからは数百メートルも離れている。電柱や公園のトイレの壁などにチラシを貼り付けながら、歩いた。
早朝の散歩をしている人たちにも、今度は臆せず声をかけた。「茶色の子犬見ませんでしたか?」「色はよく分からんけど、あっちの公園、そう、ゲートボール場のある公園でさっき子犬見たよ。」間違いないと確信した。劇的な涙の再会をシミュレーションした。
その公園では、真っ黒なラブラドールの子犬が、一人で散歩していた。
たっぷり2時間くらい歩き回って、チラシも20枚くらいは貼った。コンビニにも何軒か寄って、チラシを貼ってもらった。8時くらいになってきて、人も車も増えてきた。そろそろ限界かな?子供たちが一斉登校してくるM小学校の裏門に一枚チラシを貼って、今回のところはあきらめて、切り上げることにした。

一度帰って少し仮眠を取って、今度はシロの散歩に出かける。犬なんだし、鼻が利くし、犯罪捜査に使われたりするくらいだし、ひょっとしたらシロが探し出してくれるんじゃないか、そんな祈るような気持ちもあった。
なるべくリードを引っ張らないようにして、シロの行きたい場所に行くようにした。決然と道路を渡って、なんと、いつもの散歩コースとは全然違うM小学校の方にぐんぐん歩いていくではないか!気がつくと、第二の目撃証言のあった、例のゲートボール場のある公園に着いたじゃないか!その頃にはもう、ほとんど確信していたね。どこかの物陰にシロがぐんぐん引っ張っていって、吠え立てる、するとその茂みから子犬がキャンキャンと飛び出してくる!そんな美しい光景を思い描いていた。
そんなテレビ番組みたいにはいかない。たっぷり一時間ばかり、今朝捜索したあたりをふたたびくまなく歩きまわった。いつになく長い散歩で疲れてしまったのだろう、シロはうちに帰ってくる路上でちょっと吐いてしまった。かわいそうに、ごめんね。不肖の飼い主のおかげで、君にも迷惑をかけてしまった。

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まだ、まだ、続く・・・。写真は、そのときの、ポスターの、「ぺぺ」、まだ名付けてないんだけどな。

2009年03月10日

「ムースポッキー事件・第8話」・今度こそ!「完結編」



「ムースポッキー事件・第8話」・今度こそ!「完結編」

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どんよりと暗い気持ちで仕事に行く。お客さんにとっては受験シーズン目前の、とても大事な時期なんだけど、全然身が入らずいいかげんな授業をしてしまっている。周期的に、あの生暖かい生き物の体温の感触がよみがえってきて、居たたまれない気持ちになる。今日はあの地域は生ゴミの回収日だったから、なにか変な物食べたんじゃないだろうか?車に轢かれそうになっているんじゃないだろうか?

5時過ぎに、携帯電話が鳴った。知らない番号からだった。仕事中にもかかわらずとった。チラシを見て電話しました、茶色の子犬あずかっています、そう、黄色い首輪ですよ。文字通り、天にも昇る気持ちだった。鄭重にお礼を言って、仕事が終わった後受け取りに行くことにした。
授業中に携帯電話を鳴らして平然と受け答えをしていても、暖かく見守ってくれる生徒さん達に感謝しなければならない。きっと私は、電話の後は見違えるように機嫌がよくなっていたことだろう。

ところが10分後、また別の知らない番号から電話があった。相手は小学生みたいだ。学校に迷い込んできた子犬を捕まえているという。小学生と、しかも電話でコミュニケーションを取るのは、とても困難だ。全然要領を得ない。「黄色い首輪してる?」「うん、してるよ」「その首輪、赤い縁取りある?」「縁取りってなに?」
こちらとしてはさっきの電話でてっきり事態は解決していると思い込んでいた。だからこの小学生の情報がガセネタで、「ごめんね、せっかく電話してもらったけど、おじさんの犬はもう見つかったんだよ」と、仕事中でもあるし、早々に切り上げるつもりだったが、そうしないでよかった。この子はもちろん携帯電話なんかもってないし、学校の帰りにどこかよそのおうちの電話を借りてかけてきてくれたみたいだから、後からかけ直す、というわけにもいかない。何とか住所と名前を聞き出して、犬は近くの洗濯屋さんに預けてもらうことにして電話を切った。

仕事が終わった彼女に電話して、その洗濯屋さんに向かってもらった。こっちが正解だった。M小学校の校庭に迷い込んでいたのを、小学生たちが保護してくれていた。誰かが電柱のチラシを見つけてくれて、おまえ電話しろよ、みたいに選ばれたのが、きっと、彼、「T☆☆君」だった訳だろう。
こうして彼女、ペペちゃん、逃げてしまう直前に、私はなんとなく心の中でそんな名前を決めていた、は、戻ってきた。階段を上ってうちのベランダに着くと、大声で鳴いたんだって。きっと覚えていてくれたんだ。

一件目の電話を頂いた方に、もう一度電話をして事情を話した。よくよく聞いてみると数日前に拾ったとのこと、確かに「黄色い首輪の茶色の子犬」は、ざらにいるかもしれない。でも、こんな狭い地域にそんな迷い犬が何匹もいるのも、やはり異常といえば異常なのだが、今や私はよそ様を非難できる立場ではない。さいわい、電話をしていただいた方も、その誰か知らない迷い犬を保護し続けることに、特に問題はないようなご様子、一安心して、鄭重にお礼を言って電話を切る。

こうして、ペペちゃんは戻ってきた。たいへんな3日間だった。ともかくしばらくゆっくり休んでちょうだい。ペディグリー・チャムの子犬用の缶詰をたっぷり買ってきたよ。

☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆

翌日、首里のちょっと有名なケーキ屋さんでシフォンケーキを買い、ぺぺを預かっていただいた洗濯屋さんにあいさつに行った。ここも犬を飼ってらっしゃって、そう言えばシロの散歩のときによく吠えられたものだ。おたがいさまですから、と恐縮されていた。

グリコのムース・ポッキーを30箱ばかり仕入れて、電話で聞いた住所をたよりに、「T☆☆君」のおうちを探した。とおりがかりの子供に聞くと、すぐに見つかった。めっきり小学生とコミュニケーション出来るようになってるじゃないか!
ご両親は在宅ではなかったが、しっかり者っぽい小学校高学年のお姉さんが出てきて下さって、「T☆☆君」とたまたま遊びに来ていたお友達に取り次いでいただいた。「犬を助けていただいたお礼の気持ちです。みんなで分けて食べてね。」

2日後、また知らない人から電話がかかってきた。「T☆☆君」のお母さんからだった。子供たちがお菓子をもらったのでお礼の電話をしようと思ったが番号がわからず、今日たまたま歩いていたら電柱にチラシがあったのでお電話しました、とのこと。ぺぺちゃんが見つかった翌日、一応電柱のチラシははがしたつもりだったが、まだ残っていたか。
「子供たちも、自分たちのしたことが人に喜ばれる成果に結びついたっていう、いい経験になったと思います」なんて言って下さった。うまく受け答えが出来なかったのは、電話を取ったのがバスの中だっただけでなく、その言葉にちょっとウルウルしてしまったからだ。沖縄に来てから、ますます涙もろくなってしまった。
ちょっと、いい話になり過ぎてんじゃないの?「動物愛護」とか「子供との心のフレアイ」とか!

ともかく、こうしてペペちゃんは、少なくとも当分の間、うちのベランダにすむことになった。よく鳴くし、うんちやおしっこはあたりかまわずするし、シロにとっては大迷惑だろうが、こんな事情だし、何とかよろしく頼むよ。

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・・・「劇終」・・・。

ご静聴、ありがとうございました。写真は、「T☆☆君」ちの桜なんだ。今の私のちょうど通勤の途中にある。そのときは、桜の木があったことも気がつかなかったけど、今、こうして私、毎日のように、「死にたい!」、なんてすさんだ気持ちで通勤してるでしょ・・・、でも、ここを通りかかる、そのたびに、「ペペ」と「ムースポッキー」のことを思い出して、少し「おだやかな」気持ちになれる。この桜にも、ついこの間まで「メジロ」が蜜を吸いに来ていたものだ。

2009年03月10日

「あのペリカン、淋しそう〜♪」



「うつ病」の本は山のように出版されていて、今では「成人の十人に一人」と「推計」されている(それにしても、どんな「推計」だろう?)ほどのとても「ありふれた」病気なんだから当然といえば当然だが、私も「なりたて」の頃は、「うれしく」て、そう、自分の見つけた蝶々が図鑑に載っている、みたいな、自分の買った商品が通販カタログに載っている、みたいな、ほら、これこれ、これが私の「症状」!みたいな感じで、「うつ病」関連書籍を読み漁ったものだ。

二年間薬を飲んでいて、ちゃんと「効き目」はあったと思う。SSRIは副作用がそれほど強くない、と評判のはずだったんだが、それでもはじめの二週間はきつかった。薬を飲んで、明らかに「悪くなった」と感じられた。多くの人がそう言う。だから、きっとそうなんだろう。少しずつ量を増やしていって、一定量になるまで一月ほどかかる。そのくらいでやっと身体も慣れてくるのだ。そこまでのところで「あんなもの飲んでられるか、よけいにだるくなるだけだ!」といって止めてしまう人も多いみたいね。
その点、私は、「よい」患者だった。欠かさず通院したし、薬も忘れずに飲んだ。お医者様や「薬物療法」そのものを「信用」していたか?と言うと、それは、「信用していることに、していた」と言うのが近いだろう。こんなちっこい錠剤一つで、「私」の「気分」などというものが、あっさり変わってしまう、その「無力感」が、新鮮だった。

「薬でどこまで治るのか?」が、わかっただけでも、薬物療法を受けてよかった、と思っている。「うつ病」は、日常生活上のストレスが直接の引き金となって発症する。ストレスの原因となった事態は人それぞれだし、「原因」が「除去」できるのならば、快癒することが出来るかもしれない。でも、普通は、そう簡単に「除去」できるわけがない。
回復期に自殺者が多い、と言うのもうなずける。「自分は病気だ。薬を飲んで、治すんだ。今は、治すことだけを考えて、ゆっくり休んでいればいいんだ!」それ自体、例えば「仕事の虫」みたいだった人にとっては「苦痛」かもしれないけれど、「何も出来ない自分をいたわってあげる」という時期は、私としては、これまでになく「幸せ」だったといってもいいくらいだった。

でも、回復期のどこかで、私たちは「原因」と直面しなければならなくなる。「生きづらさ」の「原因」が、実は、あなたの「病前性格」にあったとしたら?・・・。

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写真は、
「あのペリカン、淋しそう〜♪」
サシバの「落ち鷹」さん、また、お会いしましたね。失礼ですが、先日お見かけしたのと同じ方でいらっしゃいません?

2009年03月11日

アンドロイドも「うんこ」の夢を見るか?



丸一週間以上、会社をサボっている。小心者の常として、初めのうちはこまめに電話をかけ、本当に申し訳なさそうな声で、だって本当に申し訳ない、と思っているのだから「迫真の演技」だ、で「体調が悪いため・・・ご迷惑をかけるが、休ませていただきたく・・・」と切々と訴えるが、そのうち相手が何も言ってこなくなると少し態度を大きくして、黙って休む。でも、それは「電話をかける」ことのストレスに耐えられないだけで、もともとそんなことが平気で出来るような「豪胆な」性格なら、こんな病気にはならない、ということで、今度は無断欠勤している事実が新たな「ストレス」となって、少しも心休まらず、当然、少しも「回復」しない。みなさんも記憶にあるでしょ?ないか?学校でも会社でも、三日休むと四日目はすごく行きづらくなる。それが理由で、学校や会社、やめちゃった人だって、ざらにいる(ほんとか?)。

本屋に並んでいる「うつ病」関連書籍のほぼ「半数」は、「お前の『うつ』は『ニセモノ』だぁ!」というものだ。「会社をサボりたいだけのために精神病院を『利用』する人々」などと言われても、もはや傷つかないくらい「すれっからし」のベテラン「詐病者」として、少しだけ言わせてもらえば、「会社をサボりたいために『病気』を利用している」ことは全然否定しない、ただ「会社をサボりたい」人は多々あるだろうが、その「会社をサボりたさ」が度を過ごしていてもはや「病的である」ということがあっても、別に、いいんじゃないっすかぁ?

2002年6月に「発症」したときは、「躁うつ病」なりなんなりの診断書を書いていただいて、それを市役所のしかるべき部署に提出して申請すると「精神保健福祉法32条」に基づき、医療費が公費負担になった。薬剤費は一部自己負担があるのだが、沖縄県の場合「復帰特例措置」が適用されてこれもタダになった。だから私は丸二年間、翌年四月に再び診断書を書いていただいて「継続申請」したから都合二回、診断書を書いていただく手数料以外一切金銭を支払わず、「闘病生活」を送ることが出来た。
二年ほど前に、以前通っていた病院から電話があって、「今度制度が変わるから、継続申請しておかないと公費診療受けられなくなりますよ!」と言われたが、ただ「めんどくさい」と言う理由で何もしなかったから、もうあんな風に「国民の皆様の血税」を使って「病人のフリ」をさせていただくことは出来ないのかもしれないが、今もう一度診断を受けて見て、再び「患者」になりきることは、やはり「余裕で」できる気がしている。
なにせ私は「会社をサボりたくてしょうがない」のだから、いかに自分の体調が異常であるかを大げさに主張するだろうし、相手はもちろん、精緻なマニュアルを持ち、経験も豊かな医師なのであれば、安っぽい「詐病」を見抜くくらいの技術はいくらもあるのだろうけれど、精神病が「言葉」の病であるならば、つねに「誤読」の可能性は排除できない、と言ってはいけないかしら?

だ・か・ら、「お前はニセモノだぁ!」ってい言われてもいいんです、「仮病」でもいいんです。ただ、「会社に行くこと」を考えただけで、寝込んでしまうほど「会社に行きたくない」、その「気持ち」だけは「ほ・ん・と」なんですぅ〜!

そんなわけで今日も、断続的に16時間くらい眠り続けて、あっという間に夕方になった。記憶の中でこの二三日の区別がつかない。二度ほどスーパーに買い物に行ったはずだ。ペットショップに猫のエサ等を買いにも行ったが、あれは昨日だったか一昨日だったか・・・?「社会生活」を営まない限り、朝夕を区別する「時間」の観念と言うものは、特に必要ではないのかも知れん。

いつものように猫たちがおなかをすかせて、騒ぎ始めている。「クー」ちゃんは発情期だからいっそう絶叫している。身体の各部が、ヒモかなんかで投げやりに繋げられているだけ、みたいな感覚で、どこにも力が入らず、起きだすことが出来ない。「びー」のウンコ搾り出してからすでにゆうに半日以上経っているのだから、当然、もうオムツにお漏らししてしまっているだろう。ということはまた、流しでお尻の回りシャンプーする、という仕事も増えるわけで、さっきからもう4時間ばかりそのことばかり考え、多分、ウンコにうなされながら、浅い眠りを眠っている。

「びー」ちゃんの、ウンコ占〜い!もし、「びー」がウンコちびってなくてオムツが綺麗なままだったら、今日はきっと「イイ」ことがある!私も少しは晴れ晴れと「生きて」行くことができる!そう、決めた。
小屋の扉を開けて、「びー」の首根っこつかんで引っ張り出す。私の首にはすでに例の「超小型犬用ハーネス」をぶらさげ、ポケットにはシャンプーの容器も用意してある。お、オムツのうえから触っても、さらさらしている、何よりウンコ臭がしない。マジックテープをひらいて開けてみた。「吉」だ!「びー」を抱きしめて頬ずりする。あんたのおかげで、私「生きて」いけるわよ!さっきまで何時間も締め付けられていたすべての「ネガティブ」な「感じ」が吹き飛んで行って、身体も軽くなる!と、その瞬間、肛門の筋肉もリラックスしたんだろう、私のズボンの上にボタボタと健康ウンチが降ってきた、が、全然気にならなかった!

明らかに「病的」なのだが、時々「びー」は「何でも知っている」のではないか?と思ってしまう。
「びー、お前は『エスパー』なんだろ?どっかの『スパイ』なんだろ?どこのって、えっと、京都府警公安部、とか、■マル派とか、そんな安っぽいんじゃなくって、だから、その、『銀河帝国』とかさ!・・・だって、初めて会ったとき、あのモスバーガーの隣のアパートの駐車場からつれて帰るとき、あんたはじめから拾われるのわかってたみたいに、ずっとゴロゴロいってたろ?」

「エスパー」だとか「銀河帝国」とか、ことさら荒唐無稽なことを言いたがるのは、「いつか棺桶はやってくる」藤谷治(小学館文庫)を読んだからだろう。

・・・もしも私が、来年の五月二十五日に国道沿いにある小石を蹴飛ばすその一瞬のためだけにこの世界に生きているとしても私は驚きません。失望もしません。むしろそれ以外のすべての瞬間を自由気ままに使うことが出来る悦びを感じることでしょう。しかし私はどれが自分の生きている何かであるのかを知らず、それがために、そうでない瞬間を自由に使うことも出来ないのです。・・・

写真は「エスパー・びー」。あと、「びー様、お食事中、失礼ですが・・・」という短い動画アップしときましたから・・・、見てね♪

2009年03月13日

人の食生活を笑うな



「セロトニン」に関するウンチク、ずいぶん前に書いたものですけど・・・。

☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★

セロトニンというのは、脳内の情報伝達に関与する化学物質のひとつ。うつ病の「原因」として有力視されているのが「アミン仮説」で、「アミン」というのは窒素と水素でできた「-NH2」という「基」を持つ有機化合物の総称。神経細胞というのは、身体を作っているほかの細胞と違って、細胞分裂によって増えることは決してなく、ただその細胞の一端である神経繊維、ニューロンというのが異様に伸びて、お互いにつながり、ネットワークを構成する。「経験」を「学習」として定着させることができる物質的根拠はおそらくここにあるのだろう。その神経細胞間の情報伝達に用いられているのは、奇しくも人間がコンピュータというものを開発したときに、おそらくそれとは知らずに採用した「二進法」、0と1、「有」と「無」 に還元できる電気信号だった。

神経細胞と神経細胞のつなぎ目、「シナップス」と呼ばれる部分で、信号の伝達に関与しているのがさまざまな化学物質で、伝達元の神経細胞の末端からある種の化学物質が瞬時に「放出」され、これが伝達先の神経細胞の「受容器」に受け入れられることで、伝達が完了する。これらの化学物質は、伝達すべき情報が発生し、神経が「興奮」したそのつど生成され、伝達が完了すると直ちに分解されるという。恐ろしく「無駄」なことをしているように思われるが、かかる「冗長性」こそが、情報伝達の「安全性」を保障している。煩雑な「手続き」を要求することで、多段階の「チェック」機能が可能になる。急激な変動に対して「システム」全体を「防衛」することができる。

私は、2002年の夏だから、もう3年半前になるか、「うつ病」を発症した。病気というのはみなそうだがもちろんそれまでも「おかしかった」からこそ、その夏、初めて病院に行くことを決意した。約二年間、週一回の割合で通院し、SSRI(Selective Serotonine Re-intake Inhibitor 選択的セロトニン再受容阻止薬)の一種、パロキセチン、商品名グラクソ・スミスクライン社の「パキシル」の処方を受けていた。これが私の「セロトニン」との「出会い」だ。このパロキセチンという薬物は、情報伝達の際にシナップスで生成されたセロトニンが、その後、急速に分解される化学反応を阻害する機能を持つ。

そろそろ「セロトニン」を紹介しよう。
セロトニン
ベンゼン環と1個のアミノ基を持つから、「芳香族モノアミン」と総称されるグループの物質は、脳内情報伝達物質にはとても多い。
アドレナリン ノルアドレナリン ドーパミン
「興奮してアドレナリンが噴出した」みたいに日常会話でも用いられるアドレナリンは、交感神経の伝達にも関与するノルアドレナリンのアミノ基の水素がメチル基に置換されたもの。だから厳密にはアミンではない。ベンゼン環の水素が一個、水酸基(-OH)に置換されたものを「フェノール」、隣接した2個の炭素に水酸基が付いたものを「カテコール」と呼ぶ。ノルアドレナリンとドーパミンは「カテコールアミン」と総称される。これに対してセロトニンは、ベンゼン環の側鎖に窒素を含む5員環があり、その対岸に水酸基が付いた「インドール環」という構造を持っているから、「インドールアミン」と呼ばれる。

私は、自分が病気になったからこそ、その「原因」が知りたくて、こんなことを調べてみたりもした。わずか分子量150程度のこんなちんけな物質が、私の「気分」を決定している。「不本意」かもしれないが、むしろすがすがしい「敗北感」でもあった。どのような「哲学的」立場に立つにせよ、人は往々にして、揺るぎない「自己」を無条件に前提としてしまう。その「自己」がこんなぶよぶよの、かなり単純な化学反応の器だとしたら。
脳内情報伝達のメカニズムの不思議さの一つは、同じ化学物質が、いくつものカテゴリーの異なる、と、少なくとも人間には思える、情報に関与していることだろう。たとえばセロトニンは「満腹中枢」に関係があるといわれている。
パキシルという薬は副作用が非常に少ないことから広く用いられるようになったのだが、やはり少しはあって、服用していると常時、吐き気がする。たとえば、何気なくあくびをした瞬間、のどの奥から、もちろん身体が本当に嘔吐を要求しているのではないので、厳密には、吐き気に似た感覚、がこみ上げてくる。
過食しても吐けば大丈夫みたいな無謀な「嘔吐ダイエット」を繰り返した結果、鬱になったなどという話も聞くが、これは過食・嘔吐の繰り返しで、「セロトニン神経」のシステムが機能不全に陥ったからだ。

もう少しうんちくを続けよう。私は予備校で「化学」を教えたりしているが、もちろんイカサマだ。大学でちゃんと化学を研究したことなんか、ない。大学にまともに通ったことさえない。
たとえば数学や物理は、高校で教えている範囲のことならば、大体ちゃんと数学的に説明ができて、答えが出る。自慢してるわけじゃない、そういう構造になっている、ということだ。でも、化学というのはもう少し「実学」で、しかるべき物質としかるべき物質を混合したら、何色の沈殿が生じる、などという動かしがたい事実は、もちろんミクロなレベルでは、難解な理論でもって説明可能なんだろうけど、事実として羅列的に「暗記」できていなきゃ仕事にならない。
私は、正直、そういうのが、嫌いだ。茶褐色だか、暗緑色だか、そんなこと、知ったことか!調べればわかることを覚えさせてどうするんだろう?覚えて得意になってどうするんだろう?とはいうものの、相手はマジなんだし、受験に人生かかってると、少なくとも今は思ってんだろうから、そんなないがしろにするわけにはいかない。
だから、私は今でも勉強するの。もう30年近くになるのか、ほとんど1ページも読んだことはないのに、なんとなく処分する気にもなれなくて連れ添ってきた大学の教養課程の教科書、「物理化学」をこの夏、三日くらいかけて初めて最後まで読んだ。もちろん、偏微分の記号が延々と並んでいるページは軽く飛ばすんだけどな。
でも、「読書百遍、意自ずから通ず」って、あると思う。あくまで「化学」的なたとえで言うならば、あちこちで局所的に形成されていた澱のようなもやもやとした断片が、ある臨界点を境にして、一気に全体化し、結晶という構造物を作り出す。
思うに「理解」というのは、不連続な過程なのだ。ぜんぜんわからん、と思うっていた事柄が、ある日突然、すべて、隅々までわかるようになる。「腑に落ちる」というのはそういう圧倒的な経験でしょ?これだから勉強は、やめられない。
それでも私たちが、因果論にこだわるのは、私たちがそれしか想像できないからなんだろう。入力と出力の間に比例関係が存在するなんてむしろ例外なのに、臨界値に達するまでは、一切何事も起こらない、圧倒的なゼロ、ところが、それを超えると今度は、すべてが、一気に、進行する、完全な1、そのようなモデルのほうがずっと「自然」なのだということを教えてくれた「量子力学」が登場してからもう1世紀にもなるのに、私たちの常識は、「努力したから金持ちになれた」って言う愚直な資本主義のイデオロギーに、いやというほど反証を突きつけられているにもかかわらず、囚われたままだ。

閑話休題。何の話だったかというと、最近私、愚直に働いたかいあって少し小金もたまり、パーソナルコンピュータを買いましたの。前に買ったのが「ウィンドウズ98」発売直前で、対応できない旧モデル安値で放出みたいなで手にいれた95だから、もう10年ぶりか、買ったら買ったで、うれしくってね。なんか役に立つことしたくって、化学のテキストでも作ったろか、てなわけで、セロトニンの構造式書いてみたりしたのはその「余技」なんです。
マイクロソフト・オフィス共用ツールの「オートシェイプ」で六角形を作り、短い直線を60度回転させたり120度回転させたりしてくっつけ、元素記号は「テキストボックス」ふちなし塗りつぶしなしオプションで。最後に「すべてを選択」して「グループ化」して出来上がり、「ペイント」に貼り付けてGIFファイルで保存。
私は、こんな、およそ何の役にも立たない「技術」が、大好きだ。剰余、過剰、残余、ポトラッチ、蕩尽、贈与、おぞましきもの、ほっ!「バタイユ的に」いうのならば!資本主義がその過程で必然的に生み出す自らの敵対物は、プロレタリアートばかりではないかもしれない。

ふたたび閑話休題。せっかく作ったから紹介しとくわ。
メラトニン。セロトニンから誘導される物質で、お肌のメラニンと関係あるからこういう名前になったらしい。牛乳に含まれていて、安らかな眠りを保証してくれる。私は毎日、どんなに酔っ払っていても、眠る前には牛乳を飲むことにした。
メラトニン
これらの脳内情報伝達物質は、体内で生産される、もしくは体外から摂取されるアミノ酸を原料として作られる。一つの分子内にアルカリであるアミノ基と、酸であるカルボキシル基を併せ持っている化合物をアミノ酸と呼び、私たちの身体を構成するタンパク質の構成単位でもある。トリプトファンとチロシン、一目瞭然、それぞれ、セロトニンとアドレナリンの原材料である。トリプトファンは大豆にたくさん含まれているという。だからセロトニンの少ない私は、毎日豆腐ばかり食べている。
トリプトファン チロシン
調子に乗ってもう一つ、日本国の覚せい剤取締法によって規制対象とされているただ二つの化学物質が、以下の二つ。
アンフェタミン メタンフェタミン
アドレナリン、ノルアドレナリン、と「酷似」しておりますでしょ?これほど精緻に設計された私たちの身体も、この程度のまがい物で軽く「化かされてしまう」、これまた、すがすがしい敗北感であります。

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写真は、「クー」。発情期だから小屋に閉じ込めてると、「うぎゃ〜!」みたいな、この世も終わりか、みたいな声で叫ぶ。さすがにうんざりして少しいらいらして小屋に近づいてなだめようとすると、今度は「手のひらを返したように」、「く〜ん」とか甘えた声を出す。「雌猫のような・・・」とはよく言ったものだ。別に、「雌猫のよう」であることが、嫌いなわけではないからいいが・・・。

2009年03月15日

続・人の食生活を笑うな



(前回は、ウェッブ上のほかのサイトの画像ファイル、ハイパーリンクで参照してうまく表示してくれんのかなぁ?という実験のつもりだったんですが、携帯サイトの方はHTMLタグ書いても無視してくれるみたいですな。ですから、携帯ではセロトニンの構造式とか、表示できんかったから何のことかわからん文章、ていうか、表示されたとしても依然として何のことかわからん文章ではありますが・・・。)

【前回までのあらすじ】・・・「時間がゆっくり流れる南の島」で「のんびり」、「ダイビング」や「バードウォッチング」に興じたりして老後を過ごすはずであった「私」は、あろうことか、「職場の人間関係」や何やかやの「ストレス」で、お決まりの「うつ病」を発症、約2年間にわたる通院・薬物療法を受けることになる。「精神が弱っている人間には、動物が近づいてくるのだ」と、本人は言うが、弱った子猫、捨てられた犬、迷い込んだ亀・・・、など拾いも拾ったり、現在30匹近くの「動物」と起居をともにしているのは、「動物としか心を通わせることができない、犬猫のことしか眼中にない」みたいな「言い訳」で現実の人間関係を回避しようとする「逃避機制」であることは明らかである。昨年11月に、職場の近くで見かけた子猫「びー」を引き受けることからこの「ねこログ」は始まった。「びー」の下半身は交通事故のため動かず、自力で排便・排尿が出来ない。一日二回下腹部を圧迫して、ひねり出すのが、新たな「日常」に加わった・・・。

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「セロトニン・システムの異常」ということにしてあるのだが、「摂食障害」だ。「泣きながらプリン4個」の話はしたな、そんな風に時々「怒涛のように」食欲が押し寄せてきて「過食」状態になる。何が食べたいのか、は、わからない、というか、味覚がない。だから、閉店間際のスーパーで値引きされた惣菜、「たこ焼き」でも「とんかつ」でも「てんぷら」でも、なるべく「上品」ではない、脂っこくて濃い味付けのものをことさらに選んでしまうのは、ほぼ「自虐」、「自傷」の感さえある。
お酒をやめて8ヶ月になるから、以前は酒のつまみに多少は凝りもしていたのもなくなって、普段はコーンフレークと牛乳、チョコレートとバナナ、くらいしか、食べない。「健康」そのものじゃないか?そう、ほぼ「投げやり」なくらいに、ね。
牛乳は「メラトニン」のためだ。「トリプトファン」を摂取しようと思って、以前は豆腐と納豆ばかり食べていたのだが、お酒とともにやめてしまった。

味覚がないから、「料理」というものが出来ないんだ。何かを「作ろう」と思っても、出来上がるまでに食べる気がなくなってしまう。食べ物を「捨てる」ことが決してできない人間だから、かならず、泣きながらでも、食べる。だから気持ち悪くなる。そうこうするうちに、まったく料理をしなくなってしまった。調味料を加えたり、お湯をかけたりすることさえ、「めんどくさい」から、いきおい、そのまま「袋から出して、そのまま」食べられるものばかりになる。猫にキャットフードを出した後、自分もコーンフレークを食べている・・・、なんか、同じ形状のものなので、笑ってしまう。

もともとは、結構「グルメ」で、料理が好きで、材料にお金をかけたりすることはしないけど、シチューとかグラタンとか、凝った料理が得意だった。食べること自体が、大好きだったから、味覚がなくなってしまったのは、結構ショックだったな。朝目を覚ます、今日は何を食べよう?、それがないから、起きる動機がない。「旅」の楽しみも大半が食事でしょ?だから、旅にもでなくなった。
レストラン、とかに入るのが苦痛だ。メニューから、「選ぶ」ことができない。「うつ」症状として、そもそも決断力がなくなっているから、なおさらだ。人様と食事に出かける、などということも、まぁ、友達いないからそれもないんだけど、不可能だね。少し前までは、ごく時たまホテルの「ランチ・バイキング」とかに出かけたものだ。メニューを決める必要がないからだ。あれも食べたい、これも食べたい、と、食べる前は、少しは思う、でも、何を口に運んでも、同じだからぐったり疲れて帰ってくる。

でも、「味覚」に限らず、人間の「感覚」というのは不思議なものなのだ。唐突に大げさな話になるけど、ベートーベンは耳が聞こえなくなってから交響曲を書いたんだろ?音楽が出来る人は、実際に楽器がなくても、音がならなくても、「頭の中に」音楽がある、「楽譜」という「記号」を見るだけで、頭の中に音を「鳴らす」ことができるんだろ?それと同じで、私は、味がわからなくても、例えば、こちらの豆腐料理は「上手」で、こちらはそれほどでもない、とかいう事を、ちゃんと言えるのだ!!記憶の中に、ちゃんと「おいしい豆腐」の「食感」、とかが、残されているんだ!

私が、仕事がうまくいかずぼろぼろに疲れてしまっているのを見かねて、社長さんは「おいしいもの、食べに行きましょ!」と明るく誘ってくださる。こんなあ・た・しでも、まだ見捨てられていないのだから、ありがたいことなんだけど、同時に、とても、悲しい・・・。

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写真、「ダイサギ」が飛んでますぅ〜!!動画も作ってあります。あと、「リュウキュウツバメ」がちょこちょこ歩いたり、「イソヒヨドリ」がウンコしたり、「コサギ」が足すりすりさせて水底のエサを探ったり、動画作りも調子づいてまいりました。仕事はサボり続けてるし、ここ二三日天気もいいし、もし「こんな風に生きていけるのなら」生きていけそうな気もしますが、もちろん「こんな風に生きていける」わけはないのでした・・・。

2009年03月15日

「私に擬して」理解する、ということ



ココちゃん、5種混合ワクチン――猫ウイルス性鼻気管炎、猫カリシウイルス感染症、猫伝染性腸炎(猫汎白血球減少症)、猫白血病ウイルス感染症、猫クラミジア感染症――接種。私は、世にもまれな「生真面目」猫飼い主であって、26匹すべてに毎年一回のワクチン接種を受けさせている。もちろん「受けて来い!」と言って「受けて来てくれる」相手ではないから、籠に押し込め、車に乗せて病院に連れて行き、診察台に押さえつけ、注射をしてもらい、ついでに触診してもらったり、耳掃除やつめきりまでしてもらうこともある。料金だって、バカにならない。本当は1頭当たり8千円する。
8,000×26=208,000
月割りにすると、
208,000÷12=17,333
こんな「まめ」な飼い主は珍しいから、長い付き合いでもあるし、こちらの懐事情も察知していただいて、1頭当たり5千円に「まけて」いただいているのだ。
5,000×26=130,000
月割りにすると、
130,000÷12=10,833
だから、「サービス」としての耳掃除やつめきりは省略、特に凶暴で私一人で自宅では出来ないヤツだけ、お願いしている。
「白血病」と「クラミジア」をはずした3種混合ワクチンの方がポピュラーで、もちろん安価なのだが、うちには「ちー」ちゃんと言う、すでに白血病ウイルス陽性猫がいるから、これははずせないのだ。

ココちゃん、病み上がりで体重もだいぶ減ってしまったから、悪くなってしまった歯を抜いてもらう手術はまだすぐには出来そうにない。麻酔に耐える体力がないからだって。当分の間抗生剤を投与して様子を見ましょう、と言うことになった。三日に一回粉剤を飲ませる。ココは力はないけど、口の周りを触られると抵抗が激しいので、錠剤でなくてよかった。また、ミルクに混ぜて注射器で飲ませることになろう。そういう「ルーチンワーク」の項目が増えるのは、飼い主の「病気」のためにも好ましい(笑)ことだ。

「ついで」に、「びー」と「ちょび」も連れて行った。「びー」拾ったのが昨年11月、「ちょび」が隣の隣の小学生によって「持ち込まれ」たのがその少し前、少なくとも生後4ヶ月以上が経過していることになるから、そろそろワクチン接種開始時期なのだ。母体由来の免疫が失われ、新たな「個体」としての自らの免疫システムが出来始めるこの時期、生き物は最も無防備に「外部」にさらされている。
自己のタンパク質組成と異なる「外部」を検出してこれを攻撃するのが免疫という仕組みなのだから、新たな「個体」が誕生するとき、かならずどこかの時点で、これまで「内部」であったものを「外部」と「読み替える」ことが出来なければならない。

動物の身体には「二次免疫反応」と言う仕組みがあって、一回目の「外部」の刺激によって形成された「記憶」が消滅しないうちに二回目の刺激を加えた方が「記憶」が長期持続するらしい。だから、ワクチン接種にあっても、初回だけは一ヶ月間隔で二回接種することになる。
「びー」は、この病院の長期入院患者で「常連さん」だから、お医者さんも通りがかった看護師さんたちも、「アラいらっしゃい、また大きくなったわね!」みたいに声をかけてくださる。人気者の息子を持った親バカみたいで、だから「びー」を連れて病院に行くのが私は、実は、好きだ。

12月のはじめに入院したとき、隣の「房」だったジェリーちゃん、つい先週、亡くなったって・・・。
この病院で12年間暮らした。運び込まれてきたときは、片手の手のひらに乗るくらいの子猫だったって・・・。
「びー」と同じく交通事故で脊髄損傷、後ろ足が動かず、排尿と排便は人手に頼らなければならない、だからシッポが切除してあるところも。
前も書いたけど、私にとっては、「びー」と引き取ることにしたときも、その前に、うちで一月だけ暮らして亡くなってしまったけど同じくらいの症状の「ポン」ちゃんを引き取る決意をしたときも、いつもこの「病院のジェリーちゃん」が「目標・モデル」だった。「上手にやれば、あんな風にぬくぬくと長生きさせることだって、できる!」
「びー」の12月の入院の、そのとき撮ったジェリーちゃんの写真、載せておくね。ほら、こんなにまるまる太ってるでしょ?見かけ通り(!)結構「性格悪く」て、人間には愛想いいんだがほかの猫にはケンカ売ってしまうらしい。だからいつも「独房生活」。
「びー」も後ろ足前に投げ出してお尻べたっとして座る。「この座り方見ると思い出します」と、先生。

私は、別に「無神論者」だから、と言うわけではないのだが、「冥福を祈る」、ということができない。自分に徴して「死後の世界がある」とはとても思えないのだが、だからといって「死」を境にして「すべてがなくなる」とも思えない。
「生命」、というものは、例えば、
酸化・還元反応によって生じるエネルギーを利用して、タンパク質という複雑な有機化合物の立体構造を組み立て、局所的エントロピー減少を実現する開放定常系システム、
とか何とか、暫定的に定義できるんだろうけれども、これらの「言葉」を操る私たちが「生命」である以上、どこかで「語りえない」自己言及に逢着するんだから、そして「語りえない」ということは、一応「何を語っても許される」ことでもあろうから、私たちは「死」の中にさまざまなものを「盛り込んで」しまえる。

「友達のいない」私は、大事な人と死別する、という痛切な経験を持っていない。でも、死別した猫はたくさんいて、今も10個くらいの猫の「骨壷」と同居しているのだ。これらの死んだ猫ちゃんたちの「魂」が、「今」、どうしているかはわからないが、「眠っている」とも思えないし、かといって「どこにもない」感じもしない。どっかそこらへんに、「ぽわん」と浮かんで「いる」というのが近いかな?

だから、ジェリーちゃんも、「冥福」は祈れないけどね、今日は君のことを、思い「浮かべる」ことにするよ。

・・・それは、人間でない動物に対しても、その「心」を私に擬して理解しているということにほかならない。その動物の恐怖、おびえ、疑惑、飢え、敵対心、時にはその喜びや悲しみを「私に擬して」理解しているのである。このことを通常のいい方で、動物を「擬人的」に理解する、といっても差し支えはない。しかし、擬人的ということで、何か人間は別途に理解済みであって、それを今度は動物に適用する、といった人間の特別扱いを意味するなら誤りである。私に擬しての理解は、その対象が人間であるか動物であるかあるいはそのほかのものであるかによってその基本的性格を変えはしないのである。この点を見落とすと、いわゆる未開人の野生の思考、森や湖まで心あるものとする思考をアニミズムと呼んで何か迷信じみたものとしてしまうことになる。しかしアニミズムは決して迷信や虚妄ではない。森や湖に心を付することが迷信ならば、人間仲間に心を付することもまた迷信でありアニミズムなのである。それは何ものかを等しく「私に擬して」心あるものとして理解することだからである。・・・
「知の構築とその呪縛」大森荘蔵(ちくま学芸文庫)

2009年03月17日

四月になれば、彼女は・・・。



このブログに付いてくる広告ってさぁ、「Ads by Google」なんて書いてあるけど、本文中にちりばめられた「単語」拾い集めて「関連項目」参照して選ぶ、とかいう仕組みなんだろうが、時々笑う、し、時々いらいらさせられるわね。「うつ」って書いたら「薬を使わないうつ病治療」と来たもんだ。悪いけど「治りたい」と思ってないって!「ED」って書いたら「性病クリニック」、は、まあいいとして、「犬」と書けば「通販・ペットショップ」か?趣味悪っ!、頼むから犬、「売ら」ないでね・・・。「パンパース」と書けば「子育て支援」と来たもんだ。相手は多分、「機械」なんだから怒ってもしょうがないが、「読み」が浅いのよね!「読解力のない高校生の答案」読んでるみたい、って、ひどいこと言うわね。「読解力のない高校生」の親からお金もらってそれを回りまわって猫のエサに「交換」するのが、あんたの仕事じゃないよ!

と、言うわけで、「子供だまし」ならぬ「機械だまし」してみよう。

・・・この近くに悪くない、こぢんまりとしたフランス料理店があるんだけど、よかったらそこに行きませんか、と彼女は誘った。このモールの中にはあまりまともな店はないから。いいですよ、行きましょう、と彼は同意した。彼女の車(ブルーのプジョー306、オートマチック)で二人はその店に食事に行って、クレソンのサラダと、スズキのグリルを注文した。グラスの白ワインもとった。・・・「偶然の旅人」村上春樹(「東京奇譚集」所収・新潮文庫)

とでも書けば、もう少し「しゃれた」広告でも付くのかしらねっ!村上春樹を引用したのは「縁語」的修辞法です。次回乞御期待。

ついに逃げられなくなって、今夕から仕事です。でも、わりと、少し「躁」的にポジティブで早起きして今から「クー」ちゃん、動物病院に連れて行く。検査結果が良好なら避妊手術受けてもらうことになる。
ワクチンだけでも年間26回動物病院を訪れていることになるが、例えば月二回、という「等間隔」ではない。冬眠から覚めた変温動物みたいに、毎年、この時期になると、仕事も少ないからでもあるのだが、毎日のように「通う」。沖縄の二月三月は中途半端に冷たい雨ばかり、「病気」の身には応える。今年はこうやって、存分に「ひきこもって」やり過ごした。もうすぐ、四月、だ!それが過ぎれば、「五月病」の、五月、だ!

写真は、もう一つ、「病院のジェリー」ちゃん。

2009年03月18日

イッツ・ア・スモール・スモール・ワールド!その1



「スモール・ワールド」という「ネットワーク理論」上のモデルがあるそうで、「非線形科学」蔵本由紀(集英社新書)という本読んでたら出てきたのだけれど、どうせ頭悪いからなんでしょうが、「で、どうしたん?」みたいな感じでよくわからなかったんですが、先日お話した、

「いつか棺桶はやってくる」藤谷治(小学館文庫)

のなかにもネタとして出てくるので、「お、これは奇遇だ!」ということで、少し遊んでみることにしました。会社をサボってこんなことしてるんですから依然として暗い子供です。
まずは、「いつか棺桶・・・」から、

・・・
「世界のありとあらゆるものは繋がっているからよ」妻は静かに答えた。「だから私とだって繋がってる。この世界で起こっていることは、全部私に責任があるんだわ」
・・・
「たとえば私が、自分の知り合い全員に手紙を書くとするでしょ。全員よ。幼稚園の同級生から始まって、スーパーやおまさのおじいさんまで、全員。そしてその全員がまた、それぞれの知り合い全員に手紙を書くの。そうやって知り合いから知り合いに手紙を書いていって、地球上の人間すべてに手紙が届くまで、何人くらい『知り合い』が必要になると思う?」
・・・
「六人よ!」妻の口調はまるで、危機を告げるようだった。
・・・

調べてみましょう。世界の総人口は65億(6.5×10^9)だそうだが、めんどくさいので
100億(1×10^10)
としておこう。携帯の画面では累乗を表わす右肩のちっこい数字のHTMLタグが無視されてしまうので「^」で表すことにしますね。
100億は、1の後ろに0が10個並ぶ、という意味です。

私に100人の「知り合い」がいたとします。もちろん、いません。3年前に酔っ払って公園で眠ってしまい携帯電話を紛失して、そのとき確か、アドレス帳には200個くらいのアドレスがあったはずですが、その後特に支障なく暮らせた、ということはその200個のアドレスの持ち主は私の「知り合い」ではなかった!ということになります。今年の正月、届いた年賀状は・・・、2通でした・・・。
でも、あくまで「モデル」ですから、100人いたことにします。
私が100人に手紙を書き、その100人がそれぞれの「知り合い」100人に手紙を書くとします。当然私が手紙を書いた「知り合い」と、その「知り合い」には多くの重複があるのが通常です。この「重複」の可能性は、「知り合いのそのまた知り合いの・・・」と「知り合い」を重ねていくにつれ減少していくのもまた、通常でしょう。ですが、おおざっぱに、現実には「重複」がある事柄を「重複」がない、として「モデル化」すると話がきわめて簡単になることが多いので、これまた「通常」、そうします。

こうして「知り合い」の「2回重ね」で、「私」は
100×100人
と「繋がった」ことにしよう。では「地球上の人間すべて」と「繋がる」には、これを何回「重ね」ればよいのか?
1×10^10=100^n
をみたす自然数nを定めればよいわけだから、
10^10=(10^2)^n
10^10=10^(2n)
10=2n
というわけで、5回でした。なるほど。「私100人も知り合いおらへんわ〜」、というあなたのために、少し一般化して、

「m人の『知り合い』に手紙を書くことをn回『重ね』ると、『地球上の人間すべて』と繋がる」

という話にしてみよう。
1×10^10=m^n
両辺の「常用対数」をとり、
10=n×log(m)
log2=0.30、log3=0.48、というデータを使わせてもらうと、
例えば、妥当な線で、「知り合い」が20人ないし30人とすれば、
log20=1+0.30=1.30
log30=1+0.48=1.48
てことで、それぞれ、7.7回、6.8回、です。やっぱりそんなもんなんですよ。
「対数」って不思議ですね。100でも20でもあんまし変わらんでしょ?「でっかい数」を積み重ねてしまうと、その「でっかさ」の「違い」は人間の感覚からすると不当なほど、目立たなくなってしまうんですな。

このネタ、当分続けます。乞うご期待。例によって少し飽きてきたのと、そろそろ、久しぶりの「授業」の準備するので、いったんこの辺でお別れします。

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写真は「クー」、手術室に入る直前、緊張が隠せませんね。耳が後ろに回ってしまっているのは、「自分を小さく見せる」ことで、危害を避けようとする仕組みなんでしょうね。なんせこの子は車にひかれた直後に「犬に喰われかかった」猫でありますから、動物病院の待合室で、犬の鳴き声きかされたのが応えたのかもしれません。
今、ちょうど院長先生から留守電が入って、「手術、無事終わりました」とのこと。よかった、よかった。
これはもちろん事故の後遺症なのだが、「鼠蹊ヘルニア」ということで、膀胱がはみ出しているから、尿道が圧迫されておしっこがうまく出来ないのかもしれない。避妊手術(卵巣摘出)と同時に膀胱も元に戻して見ましょう、ということだったのだ。明後日退院。よかった、よかった!!

2009年03月18日

イッツ・ア・スモール・スモール・ワールド!その2



会社をサボってこんなことをしているのか?「閑人」の極致、のようなものだが、
【It's a Small World!】
It's a Small World!
というのをつくってみました。javascript使ってますから、携帯ではきっと見れません。

前回、100人の「知り合い」のそのまた「知り合い」が、みたいなおおざっぱな話をしたわけだが、当然そこで除外していた「重複」の問題をちゃんと考慮しようとしたら、結構めんどくさいことになるんですな。
で、思いっきり小さな数で「モデル」化することから始めることにして、「世界が12人の村だった」とするわけです。12人の「人」には、友達のたくさんいる人もいれば、そうでない人もいるだろう。そんなのが「繋がりあって」世界を構成している、と考えるわけだ。12には特に意味はなし。円周を等分するなら360の約数の方が綺麗そうだから。円周上に等間隔に並んだ12個の点、これを「人」と考えてもいいのだが、「結び目」という意味で「ノッド」と呼ぼう。これらの「ノッド」に、反時計回りAからLまで名前をつけた。

「初めの状態」としては、「誰もが、自分の回りの人としか、関係を持たない」という意味で、それぞれの点と他の点を結ぶ「線」(これを「つながり」という意味で「リンク」と呼ぶ)は、「自分の両隣」とそのまた「隣」にだけ引かれている、としよう。例えば、Dさんは両隣のC、E、その向こうの一軒置いた隣のB、Fとだけ「付き合い」がある、みたいな・・・。
とすると、12個の「点」からそれぞれ4本の「線」が「生えて」いるわけだから、「線」の両端の個数は、合計48個、「線」の本数は24本、ということになる。

で、ここからスタートして、「リンクの『つなぎ換え』」を順次行っていく。2点を結ぶ「線」の一方「結び目」だけを「ほどいて」、他の点と結ぶ。たとえば、AB間の「リンク」が切断されて、これがAGにつなぎかえられる。AはBという「さえない友達」を「捨てて」、もっと「付き合いがいのある」Gを新たな「友達」にした、みたいな感じだ。
この過程で、「線・リンク」自体は増えも減りもしないから、依然として24本、その両端の「点・ノッド」の個数の合計もつねに48個に保たれている。

こういったことを繰り返していくと、どうなるのだろうか?はじめは、各「ノッド」に接続されている「リンク」の本数はすべて一律「4」だったわけだが、こうして友達を「捨て」たり、「拾った」りしているうちに、当然予想されるように、「人気者」と「嫌われ者」の「ばらつき」が出てくるわけだ。
各「ノッド」ごとの「リンク」数の度数分布表をつくってみると、総計が変わらないのだから、平均値はつねに「4」なのだが、「つなぎ換え」を繰り返すうちに次第に裾野の広がった分布に変わって行く。

このような単純な「モデル」を用いて、もちろん「世界が12人の村」であるわけはないのだから、「ノッド」の数がだんだん増えて行ったらどんな分布形になるんだろう?みたいなのが、どうやら「スモール・ワールド・ネットワーク」理論、であるらしいが、これ以上はついていけないのでボロが出ないうちに撤退する。

「つなぎ換え」しながら、「嫌われ者」がどんどん孤立していく様子が身につまされ、誰にも頼まれてないのに何でこんなことしてるんやろ?と、自己嫌悪にも陥るものの、私は、こんなどうでもいいことのためにExcelの「関数」やら「グラフ」やら、javascriptのプログラムやらを前に、真剣に頭をひねったりするのが、実はどうしようもなく好きなのでした。

「つなぎ換え」に恣意が入らないように、「ランダム」さを保障するために、コンピュータで「乱数」を発生させることも考えたんだが、制限が多くて難しいわね。例えば、もう誰も「お友達」のいなくなっちゃった人から、さらに「お友達」を「奪う」ことは出来ないし、すでに「付き合い」の出来ている二人の間にもう一本「リンク」を引くことも出来ない。当たり前じゃん!と思うかもしれないが、これは「プログラミング」の上では結構重要な問題で、
1:「ここを切り離して、こちらにつなぐ」、みたいな各段階の間の「変化」を表現するだけならば、「入力」されたものを「加工」して「出力」、そのつど「忘れて」しまってもいいから、簡単でメモリ(書き留めておく「場所」)も少しですむのだが、
2:「ここ切り離してもいいのかな?、こちらにつなげるのかな?」と判断するには、そのつど各段階で現状がどうなっているのか、を把握できていなければならず、各段階での「積算値」がどこかに「書き留めて」られていなければならない、のだ。

これは、
1:現象の「変化」を規律する「法則」がわかっている、すなわち、「微分方程式」や「差分方程式(漸化式)」が書けるということと、
2:それを「解く」ことができて、「今」この場所での「状態」を表す「関数」、「一般項」を表す式が得られていること、
とは、「大違い」だ!ということに対応する。

ま、どうでもいいことなんですけどもね。そろそろ「仕事」の準備しなければならなくなってるんだけど、「イヤ」だからこんなことして時間つぶしている、というのは「見え見え」ですから・・・。それでも次回は、「世界が100人の村」であるわけはないやろ!、というテーマでお話したい、と思います。

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「クー」退院。病棟のケージの中で、ちっちゃくなって怯えてたって・・・。ほんとに気が小さいんだから!さ、帰るわよ!

2009年03月20日

「ブルーのプジョー306、オートマチック」、ではなく・・・。



「ひきこもり」というのは、何か「イケナイ」ことのように思われているだろうが、当人としては、それ以外に「生きる方法がない」から、やっている。いや、それが「趣味」なんですよ、と言う場合もあるが、それは休日出勤するサラリーマンが「仕事が趣味でね・・・」と言って見せるのと同じ「矜持」である。
風邪をひいた、「じゃぁ、薬のみなさい」と即答してくださる人には理解していただけないかもしれないが、「風邪」を「治す」のは薬ではなく、ほかならぬ風邪をひいた人の「身体」なのであって、例えば高熱を発することによってその人の身体自身も「危機」に陥らせると同時に、そこに寄生しているウィルスにとっても「生きにくい」状況を作っているのである。だから、「熱が出たから解熱剤を飲んで出勤しました」と言うのは身体の免疫システムの仕事を「邪魔している」ことになる。

身体の弱った飼い猫は、部屋の片隅の目立たないところにじっとうずくまり、外敵、この場合「飼い主」やら他の飼い猫やら、との遭遇の機会を回避して、ひたすら体力の消耗を抑え、回復を待つ。もちろん、それだけで「治らない」ことはざらにある。
「猫は飼い主に自分の『死に姿』を見せない。死が近づくと『死に場所』を探しに行くのだ」みたいなロマンチックな「擬人法」があるけれど、それはおそらく「誤解」で、消耗が激しく「隠れ場所」から回復して帰ってくることが出来なくなったのが実情だろう。その場合、「飼い主」は「飼い猫」が「安心して」隠れることの出来る場所を実は提供できていなかったのだ、ということにもなる。

「ウィルス」なり何なりの病原微生物が繁殖できないようにする「ために」、発熱しているのだ、と言えるかどうかは、「言語」の問題だ。
「ために」のような「目的論」的な表現を使う以上、その「目的」が「認識」されていることが前提なのだが、いったい、誰に?高熱を発すればウィルスも弱る、と私たちは「知って」発熱しているわけじゃない。
キリンの首が長くなったのは、「これからは誰にも邪魔されずに高い木の葉っぱを食べていきましょう!」とキリンが「決めた」からじゃない。でもそう「じゃない」のはキリンに知能がないからではなくて、今現存しているキリンが、ひょっとして首が長くないキリンがかつていたとして、そのかつてのキリンに成り代わって「高い木の葉っぱを食べることにする方が『有利』だ」と「知る」のは、時間の先後関係として無理だ、という意味に過ぎない。
「進化論」が往々にして座りの悪い「確率論」的表現をとらなければならないのは、「言語」そのものの持つ限界だろう。「個体」は「種」について語ることはできない、それは言語がある約束事の「内部」の出来事であって、「外部」に言及れば必然的に矛盾を引き起こしてしまうということの反映だ。だから、「進化の目的は『種の保存』だ」とはいえない。
ある種の「べん毛虫」の祖先でまだ「べん毛」を持っていなかったやつがいたとして、そいつが、「べん毛があったら便利だろうなぁ」と「思った」として、「彼または彼女」はどうすることも出来ない。子孫にべん毛を「生やす」ことはできない。何百世代、何千世代もの間に膨大な数の「個体」が消滅と生成を繰り返し、その間にDNA転写の「エラー」は必然的に生じるだろうから、その「エラー」の結果たまたま「べん毛」をもった者が現れて、そいつの方が当時の環境にうまく適応できて、ばんばん分裂などして「子孫」を増やせたから、「べん毛」を持つに至った、とまあこれが多分「言語」にできる精一杯の「説明」なのだ。

それにしても「確率」というのはなんなんだろう?あなたがコインを一枚持っていたとして、「今から」それを投げる。その結果表が出るか裏がでるかについて私は何にも言うことができないが、「もし」あなたが無限の生命を持っていて無限回コインを投げることが出来たとすれば、そのうち表が出る回数と裏が出る回数は等しく全試行回数の二分の一に収束するであろう、というわけだが、そんなこと言われて「うれしい」だろうか?。
明日、入学試験を受ける生徒がいる。彼または彼女が願書を提出した学科の募集人員は50名、これに対して応募した人数は300ぐらいだとしよう。
「あなたは、合格するか、合格しないか、どちらかである(排中律)」
論理に忠実であろうとするあまり私はそう答えたくなるのだが、そのようなことを言ってくれる予備校講師を誰もありがたがってはくれない。
「△社の模擬テストデータでは、君は合格可能性B判定が出ている。
・・・これは、サンプルがたった300かそこらならその分布はぎざぎざのヒストグラムだから特になんとも言えるわけはないのだが、
これをもし「無限」の受験者がいたと仮定すれば、理論上、確率密度関数が
f(x)=(1/σ√2π)exp{-(x-m)^2/2σ^2}
という美しい数式で描ける「正規分布」に限りなく近づくことになっており、その理論値からすると平均値+1σのところにいる君は全サンプルの上から約16パーセントのところにいることに「なぞらえることが出来る」から、・・・
だから、きっと合格するよ!」
と、もちろん「・・・〜・・・」の部分を省略して、言わなければならない。

「世界は100人の村」ではない。本当は65億だから「間違っている」といっているのではもちろんない。脳の構造上の制約により、あまりにも大きなな数を私たちは処理できないから、小さな数で「モデル化」する。そうせざるを得ないから、それはしょうがない。しかし、大きな数と小さな数を扱う「言語」が同じであるためにしばしば引き起こしてしまう「混同」こそが、「世界」の直面する「問題」そのものなのであったとしたら、その「モデル化」は矛盾をあらかじめ回避することが出来るかもしれないが、それゆえにまさに、「問題」を「解決」するには何の役にも立たないのではないか?といっている。

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「論点」が少しずれたような気がするのでこの辺にする。えっと、また「再発」したのだ。およそ一月ばかりも、仕事ほとんどすべてサボらせてもらって「療養」にこれ努めていたのだが、いよいよ四月が近づいてくる。
「ゆっくり休ませていただいたので、おかげさまで元気になりました。これからはバリバリ働きます!」
と笑顔で出勤しなければならない日が近づくにつれ、必然的に病状は重くなるのであった。

私の車(ブルーのプジョー306、オートマチック)が、車検なので今から納めに参ります〜。ごめん、また嘘つきました。それがどんな車なのかも知らない。
でも、「クレソンのサラダ」は知っているぞ。禁酒開始から今日でちょうど8ヶ月だが、元アル中らしいウンチクを語らせてもらうと、クレソンと赤ワインは合わない。私の愛飲していた赤ワインが「カルロロッシ」という廉価なカリフォルニアワインで、その「尿瓶」のような形状の1.5リットルビンを毎日一本開けていた、そんな「安物」だからいけないのかもしれないが、クレソンと赤ワインが口中で混じりあうと「せっけん」様の味が生じてしまうのだ。そう、ブログって、こんなこと書いていればいいのよね。だれも「言語の自己言及性」だの「確率密度関数」だのについて語ってもらいたくはないのよね・・・。
「スズキのグリル」も多分食べたことは、ある。でも魚屋さんの店先でどれが「スズキ」だ、指差してみろ、といわれたら出来ないだろう。でも、うちには「魚類図鑑」もあって、鯵だろうが鯖だろうが鯛だろうが秋刀魚だろうが平目だろうが、およそ私たちが通常「サカナ」とイメージしているものはほぼすべて、「硬骨魚類スズキ目」に属すること、ご存知だろうか?

写真は、「ブルーのプジョー306、オートマチック」、まだ言ってる、ではなく「カローラ1300、ホワイト、オートマチック」、「平成7年」というから1995年式、今から9年前、沖縄に来た翌年、金15万円也で譲っていただいた。写真の日付には2005年8月、とあるから、発症後長らく遠ざかっていた「海」に行くために「ペペ」も連れて行ったのだろう。場所は奥武島(おうじま)。「硬骨魚類スズキ目」に属する「チョウチョウウオ」や「スズメダイ」がうじゃうじゃ、泳いでいる。

それらについても、まだまだ書かなければならないことがある。「確率」と「言語」と「桁数」と、その他もろもろについても、まだまだ書かなければならないことがるはずだ。書かなければならないことがある限り、私は「生きて」いられる。「次の素数53」まで生きていることにしたのだった。だから、「カローラ1300、ホワイト、オートマチック」にももう一回車検をがんばってもらわなければならない。

車検工場の電話に出てくださったお姉さん、2年に一度のたいした客でもないのに、長年の友みたいに懐かしそうに「○○さんっ!?いつもありがとうございますっ!」と快活な声で答えてくださったから、私は「生きて」いける気がした。「人を助ける」ということ、「人類」ならぬ「隣人」を愛するということ、はこういうことと、多分、関係している。

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スズキ目イボダイ亜目スズキ科スズキ属  スズキ Lateolabrax japonicus
硬骨魚綱スズキ目スズキ科に属する海水魚。北海道から鹿児島、および台湾、朝鮮半島、中国などの沿岸に分布する。全長1メートルに達し、体は長く側扁(そくへん)する。体色は背側は青灰色で、腹側は銀白色である。若魚は背側や背びれに小黒点が散在するが、成魚では消える。・・・
成育年齢により呼び名が変わるので出世魚とよばれ、東京付近では25センチメートルぐらいの1歳魚をセイゴ、50センチメートルぐらいの2、3歳魚をフッコ(中国地方ではハネという)、60センチメートル以上のものをスズキとよぶ。元来海産魚で、内湾や沿岸の瀬のある岩場や小石の多い所に好んですむが、成長や季節によって生息場所をかえる。若魚時代は内湾で生活し、また川にも遡上(そじょう)する。冬には沿岸の深みで越冬する。成魚になれば湾外の深所にすむ。・・・口が大きく、幼魚は内湾の藻場(もば)でアミなどの小形甲殻類を食べ、成長するとエビ、カニ、ゴカイ、小魚などを貪食(どんしょく)する。美味な魚で、古代人もこの魚をよく食べていたことは、貝塚から骨が発見されることからもうかがえる。また、古くからめでたい魚として祝い事に供える地方がある。夏は脂肪がのり、もっとも美味で高価である。・・・
【民俗】
スズキは熊野の神の神魚とされる。熊野の神が川に落とした巻物を拾ったのがスズキであるといい、熊野の神職の流れである鈴木氏の者は、スズキを食べてはならないという古伝がある。『平家物語』の「鱸(すずき)」の章には、熊野信仰とスズキの関係が具体的にみえており、熊野詣(もう)でに行く平清盛(きよもり)の乗った船にスズキが飛び込んだのを、平家繁栄の前兆としている。・・・
『古事記』の大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲り神話にも、神饌に大きなスズキを料理して供えたことがみえる。・・・
[日本大百科全書・小学館]

2009年03月23日

初めて群れに入れられた子ゾウのような気分になって、・・・



【過食症日記】「エクレア」定価135円20%引き、3個、「『牛乳と卵の』カスタード・シュークリーム」定価135円20%引き、2個、「抹茶シュークリーム」定価158円20%引き、1個、「おかずサラダ・豚しゃぶ(胡麻ドレッシング)」定価398円半額、2個・・・。

カスタードクリームが牛乳と卵なんは、あたりまえなんちゃうん?てか、「牛乳と卵・・・」って、川上未映子の小説みたい。
・・・
最後は、泣きそうな顔で仕方ないやろ、食べて行かなあかんねんから、ってお母さんが大きい声で言ったから、あたしはそんなもんあたしを生んだ自分の責任やろってゆってしもうたんやった、でもそのあと、あたしは気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、あたしはぜったいに大人になっても子どもなんか生まへんと心に決めてあるから、でも、あやまろうと何回も思ったけど、お母さんは時間がきて仕事に行ってもうた。
・・・川上未映子「乳と卵」

子供の頃から「エクレア」が好きでね。よかったじゃないか!「夢」が「かなった」んだ!そうだよ、だから、泣きながら(^_^)v食べましたって!
自分の家で食べるためにケーキを買ってくる、ということはうちの家にはない習慣だったから「エクレア」に出会うのはよくて年に一度か二度、めったに来ない客が、「お嬢ちゃんとお坊ちゃんに」と気を利かせて手土産を持ってきてくれるときだけだった。父は「社交的」な性格で、自宅に客を呼びたがったが、応対に出る母親の不機嫌が「色に出て」しまって恐れをなしてあまり来なくなったのだろう。無理もない、今私が26匹の猫と同居している部屋より少し狭い家に家族四人で住んでいたのだ。「応接間」などというものは、ない。客が来て一番広い六畳間に通されると、姉と私は、母とともに声をひそめて台所に「避難」しなければならなかった。そういった「舞台裏」の事情に気づかず、長居する客も、得意そうにその相手をする父も「憎悪」していたわけであり、こうして必要以上に母に「同一化」して育つことになったんだろうな。

あくまで、今から振り返ってみて気づくことなんだけど、私の少年時代の全期間を通じて、母は「うつ病」だったと思う。
私が学校から帰ってくると電気をつけないくらい部屋で、畳の上に母が横になっていることがしばしばあった。
「しんどいの?」と声をかけると、涙混じりの際限ない愚痴が始まる。
身体が思い通りにならない「ふがいない自分」に対する自責と、自分をそこまで追い込んだ「世界」に対する怨嗟が綯い交ぜ(ないまぜ)になっていたんだろうな。もちろんそれは自分自身が同じ病にかかった「今だから」わかるのであって、当時は、同情すれば反発して悪態をつき、突き放せば大げさに泣き、時には今風に言えば「逆切れ」する、こんな「患者」をもてあましていたし、その耐え難く湿った気分はやはり「感染」してしまうから、一刻も早くこの家を逃げ出したい、と思っていたものだ。

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書店の棚に並んでいる「うつ病」を銘打った書籍の半分が、「お前の『うつ』は、ニセモノだぁ!」と「告発」してくれるものであることは前に述べたが、では残りの半分は、「『うつ病』は治る!私はこうして『治した』!」という感動物語なのだ。バカにしているわけじゃない。もう一度「生きて」いけるかもしれない、と思えるようになったときの「感動」を、私もちゃんと知っている。
でも、前回も申し上げたとおり、「世界」は膨大な数の「サンプル」で構成されており、膨大な数であればあるほど、そこに必然的に「揺らぎ」が生ずる。平均値+1標準偏差より「上」のレンジには「正規分布」になぞらえると約16パーセントのサンプルが収まる。この部分が、そう、「上流」であり、「勝ち組」であり、ダイエットでも大学受験でも、「うつ」からの「帰還」でも、「成功例」であり、「喜びの声」であり、・・・なのだ。その下には「そうではなかった」84パーセントが、累々と横たわっている。

「うつ病」の早期回復には、配偶者や家族、友人でも職場の人でも、それら「まわりの人々」の「理解」と「協力」が何より重要、と言われる。誰も否定しない、本当にその通りだと思う。でも同時に、「それ、絶対、無理!」と言うことも「知って」いる。
なにせ私は、少年時代を通じて「うつ病」患者の「介護者」であり、かつ、後年同じ病を得ることになった「患者」でもあるのだから、間違い、ない。
「うつ病」患者の屈折した論理の表出についていけるのは、まさに同じ傾向を持った潜在的な「患者」しかないのだろう。
成人した後の私が、自分の同居人であった人たちに取り続けていたであろうやりきれない不愉快な態度は、母親が少年時代の私に対してとってきたものの、正確な「コピー」なのだ。「遺伝だ」と言って「責任」を逃れようとしているんじゃない。心の「病」にも「伝染する」と言うことがあるとすれば、自分がされて一番イヤだった身振りそのものを相手に対してそっくり投げ返してしまっている、こうした「身振り」の「コピー」を通じてなのだ、と確たる根拠があるわけではないが、感じている。

私が「発病」して精神病院に通い始めたのは夏の初め、その病院を探して予約して、連れて行ってくれるまで万端整えてくれた当時同居していた「彼女」は、同じ年の秋に出て行った。「うらみごと」を言っているんじゃない。自分もまた「発狂」するリスクを負わずに「狂人」と向き合うことはできない。
だ・か・ら、「私は『まわりの人』のおかげで、『助かり』ました」と言う言葉の、「草葉の陰(!)」には、膨大な数の「助けられなかった・まわりの人」と、膨大な数の「助からなかった・私」がいることを、忘れないでおこう。

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タイトルは、豊島ミホ「エバーグリーン」(双葉文庫)から。
繰り返すが、私は、猫たちにどんなに「癒して」もらっても、それによって「世界」との関係を「取り戻す」ことはできない、と言うことぐらい、知っている。私を「世界」に連れ戻してくれるのはどこまでいっても「人間」だけなんであるが、こんな全くの孤独の中に「引きこもって」いても、同じように「たった一人で」生きている膨大な数の人々が存在している、という事実こそが私に「人間的連帯」の感覚を伝えてくれる。だから私は「生きて」いける、のだ。

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川べりを「オオゴマダラ」らしき蝶が飛んでいた。写真は取れなかったけど。ここに掲げた「オオゴマダラ」の写真は、もう8年半前になるのかな、北部のとある無人島で撮ったものだ。何でそんなところに行ったのか、も「次の素数」までには話そう。

2009年03月25日

「次の素数」まで・・・、それと、メジロ・・・。



「カローラ1300」は「次の素数」まではもってくれないことになってしまった。オイルパンに穴は開いているし、ガソリンタンクにも漏れがある、ラジエーターもいつ破裂してもおかしくない状態。14年間、16万8千キロもがんばってくれたんだから、仕方ない。
車検をお願いした修理工場で、代車用に使用していた奇しくもほぼ同じ年式の「カローラ」があって、「ちょうど今月一杯で登録抹消するところだったんですが、状態はまだましなので、いかがですか?お代は、車検費用と登録手数料だけでいいですよ!」というラッキーな、ありがたい話があったので、9年連れ添ってきた「カローラ」はここで「看取って」いただくことにして、今まさに廃車寸前であった別の「カローラ」を「助ける」ことにした。

沖縄に来て「ろくなことがなかった」10年かもしれない。でも、どこにいてもそう「ろくなことがあった」訳でもない「人生」だった、ということで、その10年をともにつぶさにながめてきてくれた「カローラ1300、ホワイト、オートマチック」君に、感謝!

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定期テストの前日になると急に部屋の模様替えをしたくなる高校生を笑えない。いくらなんでも、そろそろ4月からの仕事の準備をはじめなければならないのだが、全然、見事に、何にも、全く、ほとんど「すがすがしい」ほどに、やる気が、起こらない・・・。
で、何をしているかというと、トリやネコや犬やカメの動画を「編集」したりしている。

メジロが鳴いているよ!
「ちーちーつー、ちーつーつー、ちー♪」
まるで、中国語の「四声」の練習問題文、みたい。
「v↓→、↑↓↓、↑」とか、もちろん、でたらめですが・・・。

2009年03月26日

「1」を超える自然数



「友達がいない」というのは、通常「比喩」的表現であって、「最近、全然お金ないんですよ」と言っている人がちゃんと電車に乗って帰れたり、帰りにコンビニでおにぎりの一個くらい買えたりするのと同様、「まさか、全く、一人も、友達がいない」などということはありえなかろうと思われがちだが、私の場合、その「まさか」なのであった。
不謹慎なたとえだが、「無差別殺人事件」の犯人が直前に犯行を匂わせるメールを「友達に」送っていた、などというニュースを聞くと、私は、この人格障害の権化のように描かれている人よりも「友達」が少ないのか?と愕然としてしまう。
でも、これには別の「解釈」もありえて、さらに不謹慎なたとえだが、例えば今私の携帯電話には、それでも数十件程度のアドレスが記録されていて、ほとんどが仕事上のものであったり、国民健康保険税納付督促の電話であったり、それこそ車検をお願いしている自動車修理工場のものであったり、全然「友達」ではないものがほとんどで、かつて「友達」であったはずの人では、すでに音信不通になって久しいのだが、ひょっとして突然「お久しぶりです!」みたいなメールが舞い込むことが、絶対にない、とも言い切れないじゃないか、と削除できずにいるものとかばかりなのだが、かろうじてその「知り合い」と呼べるかもしれないすべてに、送れる限りのアドレスに、「わたし、、いまから、、死にます、、」とでもメールを送ったとすれば、5分以内に返事を返してくれる人が数人、いるだろう。私だって、そうされたら、とても不愉快ではあるが、そうするかも知れない、から。だから、もちろん、それを「友達」とは、呼ばない。

どんなに、不愉快で、薄気味悪い、と思ったとしても、そんなことをするような気持ち悪い「不審者」は全部捕まえて収容所にぶち込んで「処分」してしまえ!と言ってみても、私たちは依然として、自分の「薄気味悪さ」は棚に上げて言わせてもらえば、そんな不気味な世界に住んでいるのだ。

人は、自分が存在していることを、自分では、確認できない。自分が存在することを確認するために、「他者」を必要とする。「まなざし」があるから、「対象」が存在する。n=1だけでは「帰納法」はスタートしない。「1」を超える自然数、最低でも「2」が必要。
ところで、私たちは、誰にとっての「他者」でもありうるのだから、「誰」かの存在確認の「目撃者」として、突然立ち会わされることがあってもしょうがない、世界は現に、そんな風に出来ているのだから。
まるで、犯罪もまた自分を「確認」する行為だと言わんばかりで、それでは「公序良俗」に反することになろうが、しばしば他人に対して「殺意」さえ感じてしまう自分自身の「異常性」に鑑み、犯罪者に「共感」を感じると言っては語弊があろうが、犯罪者との「共通性を認識できる」、ということは否定できないかも知れない。つまり、あまり、「他人事」では、ない。

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「スモール・ワールド」モデルで確認したように、「世界」を構成する人数が増えれば、全く「リンク」を持たない「ノッド」が、必ず、「ある、無視できない程度の」確率で、発生する。

このモデルでは、一方の「ノッド」を固定して「リンク」をつなぎ換えることにしてあるから、他方の「ノッド」にとっては「一方的に」縁を切られる形になっているけれども、世の中はそんな単純でもなくて、「日々に疎し」となってしまうのには、両方に理由があるものなんだろう。
「友達関係」と言うものを維持するためには、さして用事がなくても、「最近、どぉ?」みたいな電話をしてみるとか、また、そんな電話がかかってきたら、「うっとおしい」と内心思っていても「あらっ!久しぶりっ!」とはしゃいで見せたりする、という最低限の「まめ」さが必要なのだろうが、私は、そういうことをちゃんとしてこなかった、とは言えるだろう。
元来が、「ぐずでのろま」な子供だったのだ。「私としゃべっていることは、相手にとって退屈でしょうがない、に違いない」と「確信」する習慣がついていた。「大人」になってからは、そこそこ「傲慢に」生きてきたはずなのだが、「うつ病」は「極端に自己評価が低下する」病であるからして、「発症」後は再び元の木阿弥、に戻ってしまったわけだ。
自分から「連絡」を取らなければ、「友達」がいなくなるのも当然かもしれないのだが、そこはフロイトが「『愁訴』は実は『告訴』なのである」と言ったように、「世界」に「捨てられた」ことにして、「世界」を「逆恨み」して、その「怨嗟」を生きるよすがとしているのかしらね?
「つまらない人間である」ことが「ばれてしまう」のが怖い、と言うのだから、まだまだ、「煩悩を消除」仕切れていないわけであった。

もう一つ、「スモール・ワールド」モデルでは、「リンク」のつなぎ換えが「ランダム」に行われるが、実際はすでにリンクがたくさんあるほうが新たなリンクと繋がる可能性が高い、と言うものだろう。ネコ26匹と、「泣きながら」暮らしているだけの者に、どうして「新しい」お友達が出来ようか?

そこまで「わかって」どうするのさ?あ・ん・た、「治る」気、ないでしょ?
でも、実を言うと「わかって」ないのだ。なんで、こうなってしまったのか?私としては、「見よう見まね」で、「普通の人」のように、暮らしてきたつもりだったのだ。老境に差し掛かって「友達がいない!」と泣き言を言う「予定」では、なかった。自分の「何が」いけなかったのかが「わからない」から「反省」のしようが、ない。
ただ、私は、人々が滑らかに会話を交わすそのただなかに、何かとても不格好な「荷物」のようにして、存在している・・・。

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写真は、イソヒヨドリ・雌。前にご紹介したように、雄のほうは青と赤の、そう、悪く言えば、紙粘土の張りぼてに絵の具で色塗ったみたいな、作り物っぽいくらい鮮やかな色なんであるが、雌はごらんのように腹側のまだら模様が特徴でだいぶ地味ではあるが、背中側は光の加減で青く見えなくもない。

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【元(もと)の木阿弥(もくあみ) 】
いったんよくなったものが、再びもとの状態に戻ること。
戦国時代の武将筒井順昭が病死した時、死を隠すために、その子順慶が成人するまで、声の似ていた木阿弥という男を寝所に寝かせて外来者を欺き、順慶が成人するや順昭の喪を公表したために、木阿弥は再びもとの身分にもどったという故事からという。

【筒井順慶】
[1549〜1584]安土桃山時代の武将。大和筒井城主。山崎の合戦で、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣を置き明智光秀・羽柴秀吉両軍の形勢を眺め、有利な羽柴方についたとされ、日和見(ひよりみ)主義の典型という俗説が生まれるが、実際は合戦の直前に秀吉あての誓紙を出していた。→洞ヶ峠

【洞ヶ峠】
京都府八幡市と大阪府枚方(ひらかた)市との境にある峠。標高約70メートル。天正10年(1582)の山崎合戦で、明智光秀が軍を進め、筒井順慶(つついじゅんけい)に加勢を求めたところ。順慶は兵を動かさなかったが、のちに、ここで戦いを観望し、有利なほうに味方しようとしたと誤って伝えられた。
《の筒井順慶の故事から》有利なほうにつこうと形勢をうかがうこと。日和見(ひよりみ)。「―をきめ込む」

【よす‐が(縁/因/便)】
《「寄す処(か)」の意。古くは「よすか」》
1 身や心のよりどころとすること。頼りとすること。また、身寄り。血縁者。よるべ。「知人を―に上京する」「身を寄せる―もない」
2 手がかり。手だて。方法。「今ではもう昔を知る―はない」

2009年03月28日

「世界」の形・・・。



私は、こんな布団に寝ているのだ。「あの、ちょっと、すんません、すんません」とばかりに、すでに熟睡している猫たちに場所を空けてもらって私も横になる。まだ肌寒い夜には、こうして生暖かい毛むくじゃらのケモノとぐちゃぐちゃにからまって寝るのは、結構気持ちいい。前にも述べたが、猫の平熱は38.5℃くらい。
どれがネコの手(?)足やら自分の手足やら、頭やら尻尾やら・・・、そうやって一つの固まりになって「一体化」して横になってしまうと、布団を介して触れ合っている「世界」もまた、同じような2次元x-y平面上に広がっているみたいで、馴染み深く感じられ、夢うつつにも、「うまくやって」行けそうな気がしなくもない。

ところが、立ちくらみをこらえて「起き上がる」と、「世界」もまたこれに対抗して立ち上がり、z軸方向に延び広がっていくみたいで、つねに「言いがかり」を付けられそうな、よそよそしい、敵対的なものに感じられたりもする。

2009年03月30日

「正しさ」は行為の結果によって判断されてはならない・・・。



これだけ仕事をせずに、文字通り一日の大半、本当に16時間ぐらい、を眠ってすごしているのだが、起きているときは、コーンフレークに牛乳をかけるだけの食事に時間がかかるわけはない、猫の世話以外に大してすることはないのだから、多少は本も読める。
「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」野矢茂樹(ちくま学芸文庫)、を、読み終わった。「前書き」にもあるように、「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」という書物を読んでも、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を「読んだ」ことにはならない、のは当然だが、別にそれは、いい。
「ウィトゲンシュタイン」は、「死ぬまでに読んでおきたい本リスト」には入っていないのであった。もう何年も昔、書店の店先でも、図書館でも、何度も手にとったことはあるが、絶対に3ページ、どころか1ページの3分の1さえも、読める気がしなかった。何かもの凄いことを言った人らしくて、まわりは大騒ぎしていたが、何が凄いのかも全然わからなかった。
「ポストモダン」の喧騒を遠く離れて、その名前に再びお目にかかるのは、今から二年前、「『私』のための現代思想」高田明典(光文社新書)というのを読んだときだ。
・・・
「正しさ」は行為の結果によって判断されてはならない。もしそうならば、人は行為の時点でその「正しさ」を知ることができないから、「正しく」振舞うことは、出来ない。
・・・

そりゃ、そうでしょう。「あたりまえ」の理屈なのではあるが、私としては、こんな言葉に、どうしても出会う「必要」があったのだ。
私はどうやら人生の大半を、「正しく」生きなければならない、と思って生きてしまったようなのだ。電車の中で携帯電話でしゃべる「若者」に眉をひそめる老人、とか、「正しく」生きている、人は山ほどいる。「正しさ」は、多くの場合「うっとうし」く、むしろ「いかがわしい」ものだ。
自分の人生が「思い通りに行かない」時、人はそれを「親が悪い、学校が悪い、社会が悪い」と「他人」のせいにするものだが、私もまたご他聞に漏れず、「ぐずでのろま」で、いいことは一つもなく毎日を「泣き暮らし」ていた「少年時代」、どこかの時点で、

「世界が『間違っている』からだ!」

と、決めたのだろう。世界がどこか「間違っている」ことについては、誰もそんなに否定しない。世界が「不完全」であることは「証明」することは出来ないかもしれないが、きわめて「ありそうな」ことだ。例えば、「背理法」的に、

世界がもし、「完全」であるならば、そこにはなんらの「変化」も起こりえないであろう。なぜなら、「変化」によって「完全さ」が損なわれてしまうであろうから・・・。

みたいに。
どの「時代」であっても、新聞を広げれば「世界」は「悲しい」ニュースに満ちている。私は、今は新聞を読まないけれど、猫のトイレには使う・・・。いや、だから、いつの時代でも、「世界を変えるために、闘おう!」と思う「若者」がいても、別に不思議は、ない。
私もそんな多数のうちの一人であって、でも別に大したことをしたわけではない。そういえばちょうど31年前の4月2日、いつもと違って「迷彩色」のヘルメットをかぶった私たちの「部隊」は、三里塚空港のどこかのゲート、「セキュリティー」上伏せているわけではなくて、土地勘がなかったからほんとにわからない、を「攻撃」したのだった。「へたれ」だったから、火炎瓶2本だけ投げて、全力疾走して逃げて、無事「帰還」した。私が投げた火炎瓶は、機動隊の阻止線までの半分の距離も飛ばなかった。「ぐずでのろま」では「革命派」にもなれないのであった。

逮捕されることもなく、血なまぐさい「内紛」に巻き込まれることもなく、平和裏に「社会主義」がもはや何の魅力も持たなくなる時代まで生きながらえることが出来たのだから、慶賀なことであり、それについては、特に不満はない。

ずっと後年になって私は「病」を得、それが「心の病」である以上、その原因を探るには自分自身の心の「闇」に分け入る旅をしなければならなかった。あんたが「世界」を、「間違っている」として怨嗟したのは、単にそれがあんたを「受け入れてくれなかった」から、なんじゃないの?「愛」の薄い、いや、少なくとも「愛」の技術がとても稚拙な「家庭」で「いびつ」に育ったものだから、自分の「落ち度」は棚に上げて、「世界」に「責任」を押し付けていたんじゃないの?
たとえ「被害妄想」であっても、人は「世界」から「迫害」を受けたら、「世界」と全力で「闘う」だろう。「妄想」には「妄想」なりの、「根拠」があるのだから・・・。

もちろん暗い子供だった私は太宰治がお気に入りで、「家庭の幸福は諸悪の根源」などとうそぶいていたのだろう。少しも「虐待」や「ネグレクト」を受けたわけでもないのに、「家族の情愛」的なものが、ずっと「不得意科目」だった。
こうして今になって、子供の頃の「馴染み深い」、母親の「症状」と同じ「症状」を自ら呈するにいたり、まことにフロイトの言うとおり、「鬱」とは「喪」の身振りなのだと感じ入っている。適切に「弔う」ことのできなかったものとは、どこかでかならずもう一度、「向き合わなければ」ならないのだろう。

では、私が「不幸」なのは、「家庭」が、「育ち」が悪かったからなのだろうか?「原因」を求めて時間を遡及すれば、終わりがない。「因果論」は無限後退する。どこかで、もはや「根拠」も「理由」もなく、「証明」もされえない、「超越確実性言明」が存在しなければならない。多分、それが、「現時点」における、「正しさ」、の、ことだ。

・・・
あたしはそんなもんあたしを生んだ自分の責任やろって・・・、でもそのあと、あたしは気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、
・・・
ふたたび、川上未映子「乳と卵」

で、同様に、「仕方ないやろ、食べて行かなあかんねんから、・・・」、多分私も明日から、働かなければならない。「ゆっくり休んだから、元気が出た」などということは、全然、ない。ね、「因果論」はイデオロギーなのだよ!

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写真は、クロツラヘラサギ(トキ科)。
アオアシシギ、なのかな?シギの一種をカメラで追っていたら、画面をくちばしの異様にでっかいコミカルな顔が横切ったのでびっくりした。
「朝鮮半島北部、中国南部に分布し、『冬鳥』として沖縄にまれに飛来する。総生息数は数百羽と推定されている」という。
「人類愛」と「隣人愛」に、もはや「錯誤」が生じ得ないほどの「個体数」といえる。

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その他、コサギがマングローブ林の上を滑空する様など、各種動画取り揃えましたので、どうぞ。
サシバが、つがいで飛んでいたから、これは前に見た「落ち鷹」さんとは「別人」かも知れん。もう「春」の渡りが始まったのであろうか?

2009年04月01日

「ラバー・ダッキー」みたいな、または、ハイイロガンのヒナ、「マルティナ」・・・。



「ガンのヒナは正確にあいさつした。おとなのハイイロガンと寸分たがわぬほど正確に、そして彼女が今後の生涯で何千回もくりかえすであろうように正確に、しかもそれまでにもう何千回もそうやってあいさつし・て・き・た・かのように正確に、あいさつをしたのであった。たとえハイイロガンの儀式を知りつくしている人でさえ、これが彼女の人生いや雁・生・最初のあいさつだということはみぬけなかったろう。そして彼女の黒い瞳でじっとみつめられたとき逃げださなかったばっかりに、不用意にふたことみことなにか口を開いて彼女の最初のあいさつを解発してしまったばっかりに、私がどれほど重い義務をしょいこんでしまったか、さすがの私も気づかなかったのである。
・・・
憐れなヒナは声もかれんばかりに泣きながら、けつまずいたりころんだりして私のあとを追って走ってくる。だがそのすばやさはおどろくほどであり、その決意たるやみまごうべくもない。彼女は私に、白いガチョウではなくてこの私に、自分の母親であってくれと懇願しているのだ。それは石さえ動かしたであろうほど感動的な光景であった。ため息をつきながら私は、この十字架を肩ににない、家へ連れて帰った。ヒナはその当時たった百グラムの重さしかなかった。けれどもそれがどれほど重い十字架であるか、どれほど高価な努力とどれほど多くの時間とを費やさねば負えぬ十字架であるか、私にはもうはっきりとわかっていた。・・・」
「ソロモンの指輪」コンラート・ローレンツ/日高敏隆訳(ハヤカワ文庫)

母親の後ろを、よたよたと、時に遅れがちになりつつも、神妙に付き従って歩いていく雛たちを見ていて、思い出した。
コンラート・ローレンツが、ハイイロガンのヒナ、「マルティナ」の「母親」になった瞬間、この書物の中の最も感動的な一節であります。

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首里城の近くに「龍譚池」という池があるのだが、観光客が押し寄せる(自分もかつては、観光客だったくせに!)前をねらって、少し朝早めにカメラをぶら下げて行ってきた。
アヒルの母子が二家族、歩行訓練なのか、遊泳訓練なのか、お食事なのか、そういうことをやっていた。
「ちょー♪かわいい(^_^)v」ビデオが撮れたからおすそ分けします。

うちの亀(クサガメ)の「かめお」も、おそらくこの池「出身」なのだが、彼の「同僚」と思しきのもたくさんおられたから、これも。

春は、鳥たちにとっても「番う(つがう)」季節なのだろうか?前に「イソヒヨドリ」のオスの「求愛ダンス」らしきものをご紹介したが、今度は「シロガシラ」、これも「求愛行動」なのかどうかは知らないが、まるでハチドリのように羽を激しく上下して同じ場所に「滞空」している様は、何かただならぬ(!)雰囲気をかもし出している。

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「ねこログ」なんだからたまには猫の話もしなければ。
ココちゃん(↓:携帯では写真は見えないかも、以下同様)の口内炎は、抗生剤治療の成果が絶大である。食欲は、今までにないくらい増進しておる。よだれもたらさなくなった。


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長雨が続くと、近所の野良ちゃんたちも苦労しているはずだが、ここしばらく晴れた日が続いて快適そうである。
写真(↓)、公園にて。左側が「たからっち」。かつてうちのベランダの通い猫だった。オス猫というのは難しい世界で、同じ「なわばり」の中に平和共存できないらしい。うちのベランダのような恵まれた「餌場」はなおさらなのだろう。

もともとの「先住者」である「黒猫一家」の長「ぼうや」君を追い出して長らく「覇者」となっていたのだが、半年ほど前、「強い大人」になって帰ってきた「ぼうや」が再び奪権したもよう。それ以来姿を見かけなくて、心配していたのだが、この通り、毛づやもそこそこよく、健康そうに暮らしているようである。

こちら(↓)が、その「ぼうや」、うちの階段のところで撮影。「たからっち」との闘い以降も、「男の子」の世界は「いろいろある」らしくって、夜中に「ふんぎゃぁ〜」という叫び声がしたかと思うと翌日、顔面に斜めの傷を作って現れたりする。最近も、ほれ、ご覧の通り額にぷくっとこぶが出来ていた。その回りから出血していたから、大事をとってヨーグルトに抗生剤混ぜて食べさせたりしてたけど、野良として生き延びれる猫は、免疫力がたいそう強いに違いない、もうすっかりよくなってきた。


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で、主人公「びー」は?
「びー」か?「びー」は、元気だよ。全然何も言うことがないくらい、「快調」だ。ごらんの通り(↓)、相変わらず、上機嫌である。私が仕事もしないで一日中家にいるからなんだろうな、うんこもしっこも、定期的に面倒が見れるから。それでも時々「おむつ」が汚れて「お尻シャンプー」することもあるけれども、ともかく健康そのものであるから、何よりである。
「病院のジェリー」ちゃんもそうだったが、後ろ足が動かないからどうしても、「運動不足」⇒「肥満」の心配は、ありうる。ほぼ同年齢と思しき「ちょび」に比べてもずいぶん重くなってきたからな。でも、まるまる、ころころ、しているのも「かわいい」と思ってしまう「親バカ」なのであった。
そうそう、「パンパース・新生児用」(80枚入り1480円)、は、まもなく2パック目に突入する!

2009年04月04日

「酔ったふりして、名を呼〜べ〜ば〜♪」



「名」を呼ぶ、ということは、「識別」、まさに世界を「名」を付けられたものとそうでないものに切り「別ける」ことだ。

ビデオカメラを購入してから二ヶ月、その間ちょうど「おりしも」、「鬱」が「再発」したことにして、なにせ「会社をサボりたいだけの」詐病者でありますから、ほとんど仕事をせずににわか仕込みのバードウォッチャーとなったわけだが、私は、何事にあらず「たしなむ」ということが出来ないらしい。
映画を年間400本見ていたときも、「映画が趣味だ」とは思っていなかった。明日も5本、「まず、『三鷹オスカー』でオーソン・ウェルズ、続いて『キネカ大森』で小津安二郎特集、そのあと、『池袋文芸座』で中国映画祭、オールナイトで3本、・・・」と「東京ウォーカー」片手にうなされんばかりに苦悶しながら計画を立てて、スケジュールを「こなして」いた。
猫を拾えばたちまち26匹になるが、これまたもちろん「猫好きのための・・・」云々といった書物には絶対に手を触れない、「ペット」という言葉は依然として自分に無縁なものだと思っている。
赤ワイン1.5リットル瓶を毎日一本空けていたときでも、「お酒が趣味?冗談じゃ〜ない!、こちとら、『いのちがけ』で飲んでんでぃっ!」とか、息巻いていたんだろうな。

そのような、物事の「程度」というものを知らない、没頭しやすいところが、「メランコリー親和型」とも呼ばれる「鬱」の「病前性格」なのであろうが、こうして今回も、「義務としての」バードウォッチャーであって、朝目を覚ます、屋外で鳥の鳴き声がする、「あっ、鳥の写真を、撮りに行か『なければっ』!」とせきたてられてしまうのであった。

4月になって、やはり「繁殖期」なのであろう、小鳥達はそれぞれにいつもの「地鳴き」とは異なる「さえずり」声でもって「求愛行動」に忙しい、様に思われる。

「う〜、より〜、ひっひひ〜♪、う〜、より〜、ひっひひ〜♪」

今朝は、そんな、聞きなれない声で目を覚ました。隣家の木立の中から聞こえるのだが、姿は見えない。音だけでも「残しておこう」と、まめなことで、早朝から他人の住居の庭にビデオカメラを向けて、なんとも怪しいことをしていた。

そう、だから、「名」を呼ぶことによって「世界」は切り分けられ、「名付け得たもの」だけが「世界」として「認識」される。
「メジロが鳴いている。あ、これはスズメだ。お、シロガシラも混じっているぞ。あの低く飛ぶのはツバメ、それに混じっているように見えるがもう少しゆっくり飛ぶのは、イソヒヨドリ・・・」
「鳥が鳴いている、鳥が飛んでいる」ことを「知る」というのは、こういうことだったのだ!
メジロの何たるかを知らず、その声も姿も知らず、イソヒヨドリの何たるかを知らず、その翼がどんな色なのかを知らなければ、それらはただ「トリ」に過ぎず、それどころか「鳥が鳴いている、鳥が飛んでいる」ことにすら「気づかない」でいることになる。

もちろんそれで何の「不都合」もない。今まで50年間の人生で、空を見上げて「トリ」の姿を「見た」ことなど一度もなかったけれども、・・・、えっと、私の人生はもちろん「不都合」だらけであったが、少なくともそれのみが「原因」で「不都合」だったわけではないし、「有限」な時間を生きる私たちは、すべてを「知る」ことはできないし、その必要もない。

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「春の数えかた」日高敏隆(新潮文庫)を読んでいたら、「鴨川のユリカモメ」の話が出てきた。
京都に20年住んでいて、鴨川の川べりはほぼ毎日歩いたし、そこを飛び交う鳥たちが、「ユリカモメ」であり、例えば「伊勢物語」で東国に行った在原業平が「これなんみやこどり」とか何とか言って、「都」を思って涙するシーンなど、古文にしばしば出てくる「都鳥」は、もっぱら海辺にいる「ミヤコドリ科ミヤコドリ」ではなく、内陸部によく飛来するこの「カモメ科ユリカモメ」である、というような「文学的のこと」は知識としては、持っていた。

私は「二度と」京都に戻ることは、ない。別に沖縄が「気に入った」から「骨を埋める」決意をしたわけでもない。おそらく「沖縄的なもの」の、何やかやとことごとく衝突してしまったことが発病の引き金でもあったろうから、もちろん、この「時間がゆっくり流れる南の楽園」が「気に入った」訳はない。
「移住してよかったさぁ!」とおっしゃっているのは、前にも述べたが、平均値プラス1標準偏差より上のレンジ、「無限個のサンプル」を仮定したときに上位16パーセントに「なぞらえる」ことのできる「成功した・少数者」、「モデル・マイノリティー」なのであって、
「二度と来るもんか!」とさっさと帰っていった人も、
帰るに帰れず酒場の片隅かなんかで「けっ、な〜にが『楽園』じゃ〜い!」といまだに管を巻いている人も、
うじゃうじゃいるはずだ。

私も、そんな84パーセントに「なぞらえ得る」一人であるが、
一方で、人は、その住む土地のことを延々と「憎み続ける」こともまた、不可能なのであった。
他者に牙を剥き続けるのは、多分エネルギーの要ることで、実際にそんなことを続けたら社会生活上もさまざまな齟齬が生じる。だから、「憎悪」は「内向」して「自傷」に向かう。
そんな風に身体に悪い「憎悪」を「解除」するためにこそ、身体が「病」を「選んで」くれたのだ、と達観できるようになるには、多少は時間はかかったけれども・・・。

私が、沖縄を離れられないのは、26匹の猫、2匹の犬、1匹の亀、等の「扶養家族」、彼らの「面倒」を見てもらえる「友達」がいないからである。まぁ、多少「友達」がいても、なかなか、猫の「うんこ搾り」まではお願いできんけどな。

だ・か・ら、私はもう、ビデオカメラと「鳥類図鑑」を片手に鴨川を歩くことは、「決して」ないのだ、と気づいたとき、

私たちは、絶対に後戻りしない「時間」のなかを、ただ一度だけ、生きている、

と、痛感して、涙が出てきた・・・。というわけだ。

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で、「言語」そのものの「不完全性」に基づき、私たちは「名を呼ぶこと」においても、しばしば誤りを、犯す。
「ゴイサギ」の仲間はとても警戒心が強いらしく、全くの「出会いガシラ」みたいな形でしか「接写」するのは難しい。今朝も、そんな風にして飛び立つ寸前の「ゴイサギ」(↓)に出くわした。


で、図鑑を眺めていると、以前「ササゴイ」としてご紹介した鳥(↓)は、「ゴイサギ」の若鳥であるような気がしてきた。それにしても、ずいぶん羽毛の色が違うものである。


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また、前に、動画の中で「サンショウクイ」としてご紹介させていただいた鳥も、どうも「ヒヨドリ」ではないか、と思われる。で、訂正ってことで、

「ぴーぴー、泣くんじゃねぇっ!て?ヒヨドリ?」

という動画も、つくってみました。

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「う〜、より〜、ひっひひ〜♪、う〜、より〜、ひっひひ〜♪」という「鳴き声ビデオ」もアップしておきましたので、・・・、
この鳴き声をご存知の方はご連絡、・・・、嘘です。
「コメント」もお断りしているのに、どうやって「連絡」する?いいんです、「世界」と「接触」したくはないんです。「世界」が「怖い」んですから・・・。
なら、なんでうれしそうにブログなんて書く?「世界」に対して、たった一つだけは、「リンク」がある、「窓口」が開いている、という「状態」にしておきたいだけなんです。

「狂人三歩手前」中島義道(新潮文庫)の解説には、「言語の『不可能性』に対する、限りない『信頼』」とありました。わたくしも、全く、同感、なのです。

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で、トップの写真は、もちろん、「メジロ」です。あまりに小さくて葉に隠れてしまうし、ほぼ完璧な「保護色」でもあるから、写真を撮るのはなかなかむずかしい。うまく撮れると、うれしい・・・。

2009年04月07日

世界の中心で、「イヤだ!」と叫ぶ・・・。



「このいやという声は小生の存在を打てば響く声也、・・・」
(明治40年《1907年》10月末と推定される内田魯庵あて書簡)
「二葉亭四迷の明治四十一年」関川夏央(文春文庫)

「あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思いのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ・・・」
「にごりえ」樋口一葉(「にごりえ・たけくらべ」岩波文庫所収)

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世界中の人が「イヤだ、イヤだ」と叫んでいるのであろう、それは、とても心強い。安心して私も唱和する。
今から、明朝までに、化学のテキストを仕上げなければならない。もう二ヶ月も前からわかりきっていたことだが、どうしても手をつける気がしなかった。それだけのことで「死にたい」などといったら「甘えてる」ことになるだろう。その通りだと思う。少しだけ、「我慢」すれば、生活していけるだけのお金がもらえる、何も「不満」が言えた義理じゃないじゃないか?
本当に、その通りだと思う。

にもかかわらず、・・・、どうしても、まさに「存在の奥底から、全力で」、い・や・だ。

仕事上の顧客である生徒さんたちも、同僚の皆さんも、少し「冷静」になれればそんなこと「錯覚」であるに決まっているのだが、そんなことはわかっているのだが、「鬼」か「悪魔」にしか見えない。

私は「狂っている」筈なのだ。ちゃんと診断書もある。でも、実は「狂っている」のは「全世界」の方であって、「私」は「正気」として取り残された数少ない「選ばれた者」の一人なのだ、とどこかで確信している。
だから、前にも引用したけど、フロイトの「『喪』とメランコリー」の中に「彼らの『愁訴』は、『告訴』なのである」を見つけたときは「やられた!」、と、思ってしまった。
限りない自己卑下に「見せかけながら」実は、「狂気」の世界から迫害を受けている「正気」の被害者を演じること自体が、この病の典型的な症状であることが、すでに100年以上も前から「ばれて」いたことを知ったからだ。

どちらが「本当に」正気なのか?、狂気なのか?、の「勝負」は、実はどちらでもよい。
二人の子供にケーキを切り分けるのに、どんなに慎重に切り分けても、かならずわずかに大小の差が生じる。どちらの子供も「自分の分け前の方が小さい」と不満を言う。どうしたらいいか?
一人の子供にケーキを切らせ、もう一人の子供に好きなほうを選ばせればよい。
選ぶ子供は利得を「マックス」にしようとするだろうから、切る方の子供は損失を「ミニ」にする戦略をとる、つまり可能な限り均等にケーキを切るだろうから、・・・、
こういうのを「ミニマックス理論」て言うんだって!
「理性の限界」高橋昌一郎(講談社現代新書)参照。

どちらかを「正気」と決めたら、それ「以外」の部分が「狂気」だ。ちょうど「半分」というわけに行かないから、どちらかが「多数派」となる。
自分が「多数派」であることで「安心」を得ることもあろう、「少数派」をもって任じ「満足」を得ることもあろう。
だから、「狂人」であることも、「少数派」であることも、怖くはない。

会社に行くのが憂鬱だったり、この仕事は自分に向いてないからやめたいと思うのも、ごくありふれた普通なことだから、世の中の誰もがそうして生きているし、私だって、そこそこ上手にやってきたはずだ。
つまり、
「上司」の悪口を、「同僚」と言い合い、
同じ会社に「仲間」がいない時でも、会社の外で、「会社」の悪口を「誰か」にぶつければ、
よい。

「自分」ではない「陣営」が「どうかしている!」ということを、確認し合える「味方」がたった一人でもいさえすれば、たとえ相手が「全世界」でも、むしろ「世界」が強大であればあるほど、「味方」の「正しさ」が立証されるみたいで、力が湧いてくるものだ。

でも、仮に「狂っている」のが「全世界」だったとして、「正気」として「選ばれた者」が「私」一人しか、いないのだったら?
私の「病」の根本は、「孤独」だったのかもしれない、・・・、と、ようやく思い至った。

・・・loneliness is the very condition of a ・・・
「私小説from left to right」水村美苗(ちくま文庫)

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写真は、今度は「植物図鑑」?
うちには「家庭菜園」があるのだ。嘘。摂食障害のせいで、めったに「生ごみ」は出ないのだが、果物の皮、野菜くずなどは「コンポスト」などという大掛かりなものは結構お金もかかりそうなので敬遠しているが、少量ならば、土のないベランダであってもプランターの上に放り出しておくだけで、予想外の短日時で干からびてくれる。
「通い猫」たちにエサを出している関係上、ご近所の庭に糞を撒き散らしてかけているであろうご迷惑を最小限にすべく、路上に放置されたうんこをまめに拾っていたら何年も経つうちにこれが大量の立派な「熟成堆肥」となった。一計を案じ、プランターを購入して、ベランダに並べた。
プランターで何を作るかというと、さしあたりは、猫が毛玉排出のために好んで食すといわれる「猫草」、カラスムギ、くらいしか植えていないから、あとは、さすがは「亜熱帯」の植生である、どこから飛んできたとも知れないさまざまな「雑草」が茂ってくれている。二酸化炭素を少しでも吸収してくれているであろうから、「緑化」に貢献できて、少しは誇らしい?

食べかけのかぼちゃでも捨てたのかなぁ?記憶にないんだが、ほらこんなに立派な「ウリ科」系の蔓草が育ち、黄色い花と、小さな実をつけ始めた。

そう、春なのだ。植物達は、眺めている間にもめきめき伸びているのではないか?と思われるほどのものすごい勢いで葉や茎や蔓を延ばすのだ。
震災の年の春、神戸の一面の更地にもう茂り始めた雑草たちのことを、いつも思い出す。

2009年04月09日

26_Letters/小文字で書かれた「幸せ」



そういえば、「アルファベット」と言うのは「26文字」なのであった!

だ・か・ら、4月だし、そうだ、「出席簿」を作ろう!

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やってみたら、ほ〜んとに「A」から「Z」まで、ちゃんとあるじゃない!!すご〜い(^_^)v
あまり「意識のない」状態で「生きていた」時代に拾った猫ちゃんたちもいるので、年齢の上下関係とか、あんまりわからなくなってきている。大体、こんな順番だ。

網戸はすべて、爪で引っかかれても大丈夫なように「アルミ製」に張り替えている。もちろん、ホームセンターで材料を買ってきて自分で張り替える。そのくらいの「まめ」さは、ある。

それでも、年に一度くらいは、アルミが風化して弱くなってきて破られてしまうこともある。
「すわっ!、脱走事件じゃ!」
というときに、26匹もいると、すでにあわてているときはなおのこと、すぐには数えられないから、実は、「出席簿」は必需品なのでした。

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では、いきまーす!根拠ないけど「アルファベット」順番に付けてみました。

一番年長の「(a)にょろりん」氏(雄)は、2001年8月、に片手の手のひらに乗るくらいの大きさだったのが、道路の真ん中に迷い出てきて、車の下に隠れてしまい、立ち往生しているところを救出された。私の「猫人生」の始まりを記念すべき「出会い」である。
セプテンバー・イレブンス」の直前、「私」も、そして「世界」も、まだ「普通に」やっていける、と思われていた「時代」だったかもしれない・・・。
だから、氏はこの秋、8歳と言う「ペット業界」では「シニア」とされている年齢を迎えられる。慶賀なことである。

最年少、と、思われるわが主人公「(z)びー」氏(雄)は、もちろん、去年の11月に、推定生後2ヶ月であったから、まだ、1歳にもならない。「ペット業界」的には、「幼猫(Kitten)」期である。

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(a)にょろりん、(b)キキ、(c)テン

にょろりん」を拾ったときは「窓から慶良間諸島が一望に見渡せる!」新築ワンルームマンションに住んでいた。もちろんペットは不可であった。「おしゃれな」部屋に住みたかったわけではない。すでに、あまり「やる気」がなかったのだろう。沖縄にそんなに「長居」する気もなかったんじゃないかな?その頃のこと、「発病」以前のこと、「どんなことを考えていたのか?」については、実はあまり記憶がない。ま、記憶が「抑圧」されているのかも知らんが・・・。
で、「にょろりん」のために、「ペットの飼える」今のところに引越ししたのだ。2001年の10月。

セプテンバー・イレブンス」のとき、沖縄は台風16号が久米島上空を3回半くらい「回転」して、一週間ほどの間丸々強風域に入っていた。仕事がずっと休みだったので、毎日、一日中「にょろりん」と遊んでいた。母親とはぐれたのが早すぎたんだろう。幼少期はものすごく病弱だった。下痢ばかりしていて、寄生虫がいたり、尿管結石だったり、生まれて初めて行った「獣医さん」のところで、ありとあらゆる病名を教えていただいた。猫を飼う、のはこんなにも大変なことなのか?と、激しく後悔した。

「ペット可」のところに移ったってことで、早速「彼女」が拾ってきたのが「(b)キキ」(雌)。
「にょろりん」に比べると、やはりちっちゃや子猫だったが、全然病気はしなくて手間はかからない、しっかりものの「妹」みたいだった。
京都の鹿ケ谷に「おてんば・キキ」というこじゃれた喫茶店があって、その名の由来は、シュール・レアリスム等々全盛時代のパリの娼婦、「キキ・ド・モンパルナス」だったんだろう。が、名前の由来。

引越ししてまもなく、今は区画整理でなくなってしまったが、近くには空襲で全焼したこの街の戦後復興の雰囲気をそのまま残したような、町並みがその頃はまだあって、そんな見通しの悪い舗装もつぎはぎだらけの道路の真ん中に、子猫がぽつねんと座っていた。
5分も経たないうちに車にひかれてしまうだろう。道路わきの墓地に連れ出して、えさを与え、車の中に猫のエサを「常備」し始めた段階で、私も「終わって」いたことになるが、立ち去ろうとしたら・・・、さっきと寸分たがわぬ場所に、また、ぽつねんと座っている。「やむなく」連れて帰った。これが「(c)テン」ちゃん(雄)。度を過ごして「人懐こい」猫である。今でも、私がベッドに倒れこむと、一番に、奇声を発して胸の上にのっかってくる。息苦しい。でも、、、もちろん、うれしい。


(d)ちー、(e)チェリーさん、(f)みけどん

その翌年、2002年の6月に、私は「躁うつ病」を、めでたく、発症することになるのだが、「(d)ちー」(雄)は、初めて精神病院に診察を受けに行った、その日の夜に拾ったから、覚えている。「名付ける」ことは、とても大事なことなのだ。「病名」によって、私には「居場所」が出来た。だから、嬉しかったから、近所のボス猫の血を引く丈夫な子猫ではあるが、母親にはぐれたらしいこの子を、その「記念に」引き受けることにした。

「(d)チェリー」さん(雌)がうちに来たのは、2004年になるかな?その頃の記憶はあいまいだから・・・。「彼女」も、うちの「通い猫」だった。3匹ほど子育てもしていて、子猫たちもベランダに住み着いていてくれたんだけど、ほどなくみんな亡くなってしまった。大きな台風が来て、心配だったから部屋の中で避難してもらい、それ以来の付き合いだね。
「チェリーズ・ストーリー」
という感動名編もあるから、見ておくれ。

時間が前後しているかも、引越しした翌年の春かな?犬の散歩で通りかかる公園に、その頃はあたりまえのように放置された廃車などがあって、そこに、もう一匹、シャム系の子猫と一緒に住み着いていた。ダッシュボードに二人並んでお昼寝したりしているさまは、いと、愛らしく、ごはんをあげたりもしていた。
雨の日、シャムは車にひかれて死んでしまい、夜中に勝手に公園に穴掘ってお墓作った。こいつは顔中ダニが繁殖していて「表情」は読み取れなかったが、「落胆」しているようにも思われたので、連れて帰り、ダニの治療も受けてもらった。シャムに名前をつけていなかったので、この子だけ「名付ける」のも、申し訳ない気がして、単純に「みけ」とした。でもこの柄は「キジトラ」であって「三毛」ではない。そんなことも知らない「猫・初心者」だった。
窓の外に鳥の姿が見えると、奇声を発して窓ガラスに爪を立て、登ろうとする。そんな「奇矯な」ふるまいが、どこか「日本むかしばなし」の「妖怪」みたいだから、「(f)みけどん」(雌)にした。

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「字数が多すぎる!」って!続きは、次回に・・・。え?仕事せんで、ええんか?

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で、何で、こんなに機嫌がいいのかは「見え見え」だろう?
お仕事の準備が、ちょびっとだけ、進んだからなのだ。
先日の夜は、結局、仕事に取りかかるべくコンピュータを起動したまではよかったが、明け方まで、「フリーセル」に興じてしまい、どろどろの絶望的な気持ちで眠りについた。
「締め切り間際」のときとかって、皆さん、おんなじことやってるんでしょ?うれしいな。私も「普通の」人みたいだ。
で、今日になって、やっと、「おしっこちびりそうなくらい」あせってきて、やっと、取りかかった。

で、数時間くらいは、ほんとに久しぶりに、ちゃんと集中してお仕事して、そうすると、あんなに「死ぬの生きるの」とわめいていたくせに、やりはじめると、「あんた、結構、いけるやないの〜!」みたいな「軽躁」的もりあがりになるであろうことも、実は、事前から、知っていたのではあったが・・・。

「愚か」であることは、百も承知である。でも、「生きて」いられることは、さしあたり「イイ」ことだと言うことにしておこう。

2009年04月13日

26_Letters/「猫・絵文字」お絵描きうたシリーズ・つづき



「出席簿」続きます。まだ、6文字しかすんでないわよ!急がなきゃ!

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引越しした年の冬かな?「彼女」がマックスバリューの巨大な駐車場をさまよっている、真っ黒い子猫を見かけた。えっと、「彼女」、拾われた猫も雌だったが猫を拾った人間の「彼女」の方、はそこで「カルロロッシ」という銘柄のカリフォルニア・ワインを買おうとしていたので、こういう名になった。いまや、「テン」以上の甘えっ子で、いつも私のわきの下で、眠る。「(g)ロッシ」(雌)。

犬の散歩に出かけたちょっと離れた公園のトイレ、やはり片手の手のひらに乗るくらいの子猫が、母親とはぐれてしまったのだろう、近づくものすべてに牙を剥き、唸り声をあげ、全身で「世界」と、闘っていた。犬を二匹、引いていたので、私はそれを、「世界」と闘うそれを、片手に載せて帰ってきた。「(h)リー」(雌)、名前の根拠?覚えてない。陳凱歌の映画が好きで、女優コン・リーも好きだったけれど・・・。

その頃はもう私は「一人暮らし」になっていたが、何か気持ちが「高揚」するようなことが珍しくあったんだろう。「回転寿司」で日本酒をたらふくきこしめし、上機嫌で歩いていたら、真っ白な猫がついてくる。さかな臭でもしたのかな?ずっと以前からの「知り合い」でもあるかのように思えたから、一緒にタクシーのって帰ってきた。「(i)オー」(雌)、「小禄(おろく)」という街の名前から。


(g)ロッシ、(h)リー、(i)オーちゃん

仕事に出かけるとき、車で、そう「カローラ1300、ホワイト、オートマチック、1995年式」で、走っていると、ヘッドライトの中に、ちっちゃな子猫が、ぽつねんと、道の真ん中を、こちらを向いて、座っている・・・、ということが、頻々と起こった。
母親とはぐれて、空腹で、もう体力もなくて、ふらふらさまよいでてきたんだろう。ほぼ、「自殺行為」に思えた。「うつ」まっただなかの私は、「人間」としての「生命力」が極めて希薄だったから、そんな「攻撃性」を感じさせない私の「オーラ」が、同じく衰弱した動物を「呼び寄せた」のかもしれない・・・、と、真顔で思っていたし、今も、多分、そんなこともありなん、と、思っている。そんな風にあいついで出会った「(j)エマ」ちゃん(雌)、「(k)ココ」ちゃん(雌)。であった場所が、それぞれ「上間(うえま)」、「国場(こくば)」だから。

2004年かな?バレンタインデーの夜に拾った、のを覚えている。うちの家の前の路地を少し出たところは「三叉路」になっていて、沖縄では、そんな場所には「魔物」が出る、といわれていて、「石厳当」と書かれたお札みたいなものが設置してあったりする。「(l)モモ」(雄)も、後に「ココビー」君の父親となる、今はなき「ルル」ちゃんも、そして亀の「かめお」も、みんな、深夜ここに忽然と現れた「魔物」である。名前の由来?ミヒャエル・エンデかな?でも、これだけの数になると、もう、そういう段階でも、ない。


(j)エマ、(k)ココ、(l)モモ

「(m)ぷー」(雌)。「ムースポッキー事件」の舞台となる公園に、迷い込んだか、放置されたか、した子猫である。どこで怪我をしたのか不明だが、「腹腔ヘルニア」といって、おなかの筋肉が切れていて内臓が薄い、といっても人間のものよりは被毛がある分厚いのだが、皮膚のみで支えられている状態だった。あまりにも小さいので、麻酔に不安があるため、手術を見合わせていたところ、子猫の生命力は強靭で、筋肉が自然にくっついて、いわば「自力で」治してしまった。病院には、かれこれ一月半も入院していた。ほかの猫を連れて診察に行くと、受付の看護師さんの肩の上に乗って現れたりした。「肩乗り猫」、というぐらい度外れて人懐こい猫ではある。そのときの入院費は、おおまけに負けていただいたが、7万円ぐらいだった。まともに働いてないのに・・・、ま、もう、「まとも」じゃなかったんだからしょうがないけどね!

「(n)ココビー」(雄)、「(o)ニコビー」(雄)は、時期は全然違うけど、いずれもココちゃんの子供。「ココビー」の父は「ルル」というシャム系のおとなしい猫だったが、あれよあれよという間に痩せ細って、亡くなってしまった。これだけの猫を抱え込んでしまっている「事態」を、冷静に眺められる程度の「意識」もなく暮らしていたんだろう。ちゃんと看病して上げられなかったことが、今では悔やまれる。
雌猫は生後4ヶ月で避妊手術(卵巣摘出)適齢になる。雄は尿路が長いため、早期に去勢手術をするとホルモンバランスのせいで尿路が未発達に終わり、ただでさえ発症しやすい尿路疾患(FLUTDS:猫下部尿路疾患と、もうします)の危険性が高まるため、生後一年まで待たなければならない。
その間、ちゃんと「隔離」するなどの処置を取らず、「やる気なく」生きてしまったから、ほら、こんなにぼこぼこ子猫が生まれてしまった!「可愛いから、ゆるす」って、問題じゃ、ないだろ?


(m)ぷー、(n)ココビー、(o)ニコビー

で、「ニコビー」と、以下の「ぷー」三兄弟、すべての父親が、「魔物」、「モモ」である。バレンタインデーに拾っただけに、生命力が旺盛だった、ということにしておこう。
「ぷー」の子供の一番、二番、三番、ということで、「(p)いちこぷー」(雌)、「(q)にこぷー」(雌)、「(r)さんこぷー」(雄)、猫の命名としては、一番、気に入っている。


(p)いちこぷー、(q)にこぷー、(r)さんこぷー

沖縄の春は長雨が多い。予備校の生徒の一人が、そんな雨の中で震えていたんだろう子猫を拾った。うちに連れて帰ると「捨ててきなさい!」と、お決まりの流れで、困り果てて予備校の自習室に連れてきた。生徒の友達が、「猫好き」であること以外大して取り得がない、と評判の講師に廊下で声をかけ・・・、という顛末である。「(s)ムー」(雄)、「バーマン」という品種、長毛で「あらいぐま」っぽい顔をしておられる。

モノレールの駅のコンコースと歩道橋でつながれた「ジャスコ」の入り口に、いた。子猫のいる「べき」場所、ではない。迷い猫を「まぁ、可愛い!」と拾い上げた子供、「捨てないと、中に入れませんよ!」と放置させた母親、「平和」な買い物客の「家族」の光景、かも知れん、が、猫には、いい迷惑、だよな?だから、「しょうがないよな?」と自分に言い訳して、これまたタクシーで連れて帰ってきた。2年前の冬だ。「(t)ぼーず」(雄)。

これまた、予備校の自習室、迷い込んだ子猫を、「うちでは飼えないから、ここで飼う」などと、ありがちなことをのたまう生徒さん。予備校の「従業員」としては、そういうこと「黙視」できないことになっているから、いいわよ、連れて帰るわよ!もう、ずっと前から、ほぼ、「やけくそ」であった・・・。「(u)とら」(雄)、と命名も「やる気なし」。警戒心が強いから、抱きかかえることもかなわないくらいなのに、夜は私の、おもに腹の上で、お休みになる。


(s)ムー、(t)ぼーず、(u)とら

「(z)びー」は主人公だし、「(w)クー」、「(x)トン」、「(y)ちょび」のお話は、もうしましたよね。だから、いよいよ最後は、「(v)たま」、いつもながら、長かったね!

いつもの公園、見慣れない猫がいるなぁ?だって、これ、「ラシアン・ブルー」っての?露骨に高級飼い猫じゃん?見ると、プラスチック製のお皿に、不必要なくらい大量のエサ・・・。
こんな「わかりやすい」捨て方、するなぁ!家にとって帰し、カゴを携えて戻ってきた。こんな軟弱な飼い猫、野良に混じって生きていけるわけないよ。カゴのふた開けたら、・・・、自分から飛び込んで入った。ちょっと涙出た。「あ、やっぱり、お迎えにきてくれたんだぁ!」って思ったのかなぁって。それ以来、うちにいる。で、「高級」飼い猫?どこがじゃ?一番意地汚くて、ほかの猫のエサ皿に、「手」を伸ばして、奪い取る・・・。


(v)たま、(w)クー、(x)トン


(y)ちょび、(z)びー、最後は、「集合写真」で・・・。

☆★☆★☆

というわけで、「全員出席」でした。早く、仕事に戻らねば・・・。

2009年04月13日

「パンパースの誕生」・または、「終われない・私」



「パンパース新生児用」、買い始めて2パック目だが、「子育て支援」業界は日進月歩、もうすでにイノベーションが行なわれている。

マジックテープの付け根の部分に「ゴム編み」状の構造が付加されており、締めるときに伸びやすく、かつ圧迫が少ないように改善が施されているのである。

ミッシェル・フーコーが「生・権力」と呼んだように、近代国家に於いては国民が「生き延びる」ことが「価値」であって、私たちは「生きる」た・め・に・「生きる」という絶望的なトートロジーの「監獄」のなかで日々、息も絶え絶えなのであった。
ポストモダン中核産業たる「子育て支援」業界の「人を生かすテクノロジー」が、こうしてめぐりめぐって、「当然」死ぬはずであった猫と、別に生きていなくても「イイ」人間が、貧しく肩寄せあって「生き延びる」ことに寄与している。
驚きと喜びの余り、一筆を取りぬ。

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「パンパース、新しくなったみた〜い\(^O^)/」

で、済むものを、言うに事欠いて「ミッシェル・フーコー」まで引き合いに出さないと「終われ」ず、引き合いに出したはいいが「フーコー、ほんまにそんなことゆっとったっけ?」と不安になり、「あらゆる『読み』は『誤読』である」とでもうそぶいていたらよいものを、まめに調べて貴重な午前中の時間を費やし、今日夕方から授業始まんねん、どうしょう?なんも準備してへ〜ん(T_T)、と「おしっこちびりそう」にあせっているところが、私の「ED」たる、えっ?、ゆえんであった。

先生、治るでしょうか?

2009年04月15日

Let's Go Crazy!、または、「理性」ならざるものの声



精神疾患の穏やかな世界の真ん中で、現代人はもはや狂人と交通していない。一方には、狂気の方へ、医師を代表に送り、病気の抽象的普遍性を通してしか関係を許そうとしない理性の人がある。他方には、秩序、身体的および精神的拘束、集団の匿名の圧力、周囲との一致の強要といった、おなじように抽象的な理性を仲立ちとしてしか相手と交通しない狂人が位置している。共通の言語はそこにはないというのか、もはやないのである。十八世紀末における精神疾患としての狂気の成立は、対話の決裂を確認し、分離をすでに確定的なものとみなし、狂気と理性とのやりとりが行なわれていた、不完全で、固定的な統辞法を欠く、片言ともいえる言葉のすべてを忘却の中へと沈めてしまう。狂気に・つ・い・て・の理性のモノローグである精神医学の言語は、そのような沈黙の上にしか築かれえなかったのである。
フーコー・コレクション「狂気・理性」(ちくま学芸文庫)
・・・

などと書き写しながら、こころそこにあらずだった。
どちらが「正気」でどちらが「狂気」かは、どちらでもいい。半分に切ったケーキを先に取った「子供」が、こっちが「正気」だ!と言ってしまえばそれで決まる、残りが「狂気」になるだけだ。

この対立に決着をつける方法が、つねに、ある。
ロシアの民芸品に「マトリョーシカ」って言うのがあるだろ?
まだ「USSR」、ロシア語では「CCCP」、という国が存在していた頃、これを「そびえっつかや・こむさゆーざ・そしありすてぃか・れすぷぶりけ」って読むんだって、NHKテレビ・ロシア語講座で学んだ。「マトリョーシカ」も例文にたくさんでてきた。
人形の首をはずして中を見ると、相似形のちょっと小さめの人形が入っている。その首をはずして中を見ると、・・・、以下同様。
ある「マトリョーシカ」の「内部」は、次のレベルの小さい「マトリョーシカ」とそれを囲む「空間」で出来ている。
「マトリョーシカ」と「マトリョーシカでないもの」を、加えたものが、次の「マトリョーシカ」になっている。

「A」であるか?、「非A」であるか?で「悩んでいる」としよう。
"to be or not to be..."
ってやつだ。

「A」と「非A」を加えた「全体集合」に、かならず「外部」がある。「外部」に「飛び出す」ことによって、「『A』か『非A』か?」という問は「無化」されてしまう。
ある種、「卑劣な」やり方なんだけど、小賢しい小学生なら誰でも知っている。
「○○についてどう思うか」というテーマの作文が課せられたら、「『○○についてどう思うか』という問のあり方自体が問題だ」と書き出せばよい。教師は驚嘆して二重丸をつけ、教室で読み上げる。「ぐずでのろま」ではあったが、いや「ぐずでのろま」であったからこそ、お勉強だけはできなければならなかった私は、いつもこの手を使ってほめられていた。同じパターンなのに、ばれなかったのかな?その後の生涯でも、大体同じネタを使っているのだが、さすがにもうだれもほめてくれない。

だから、すべての「問い」には、その「問い」を「無化」してしまうような「外部」が、かならず存在する。
でも、「世界」が、「無限・マトリョーシカ」だったら、どうしよう?

「マトリョーシカ・M1」とその否定である「M1のまわりの何もない空間」が合わさって、「マトリョーシカ・M2」が出来ている。
「マトリョーシカ・M2」とその否定である「M2のまわりの何もない空間」が合わさって、「マトリョーシカ・M3」が出来ている。
・・・
「マトリョーシカ・M(k)」とその否定である「M(k)のまわりの何もない空間」が合わさって、「マトリョーシカ・M(k+1)」が出来ている。
・・・

☆★☆★☆

「休暇」は終わってしまった。今日も夕方から仕事があるから、早めに犬の散歩をしておこう。いつもの遊水地、ダイサギが餌をついばみ、リュウキュウツバメが飛び交う。あの鳴き声は、ヒヨドリ、今眼前を横切ったのはイソヒヨドリのオスだ!・・・。
「名付ける」ことで「世界」を切り分けることのできる悦び、がこみ上げてきて、「世界」とうまくやっていけそうな、少し幸せな気分になっていた。散歩がすんだら、出勤までの時間を使って授業の準備をしよう!などと、がらにもない「前向き」なことを考えもしていた。

それが、「暗転」した。
あれっ、この鳴き声は何の「鳥」?はじめはほんとにそう思った。
遊歩道わきの植木の下に、小さな段ボール箱に三匹の子猫が捨ててあった・・・。


捨て子三兄弟・トラ大

「見なかったこと」にして、立ち去った。もう、「しあわせ」も「仕事」もへったくれもなかった、この耐え難い「世界」から、一歩でも遠くへ、どこへ?、逃げ出したかった。
犬のリードを引きながら、たくさんのことを考えた。
1:明日から、犬の散歩のコースをしばらく変えよう。今日見たものを、思い出したくないから。
2:ちらりとしか見ていないけど、まだ、母乳以外のものが食べられる段階ではないから、あのまま放置されたら程なくひからびて死ぬだろう。子猫が死ぬのは、「ぼくの・せ・い・じゃ・な・い」・・・。
3:「世界」では、あなたの「見えない」ところで、たくさんの子猫が捨てられて死んでいる。あなたの「見えない」ところで、たくさんの人間も捨てられて死んでいる。あなたは、すべての子猫を救えるわけじゃない。あなたは、すべての人間を救えるわけじゃない。だ・か・ら、あなたのせいじゃ、ないのよ!


捨て子三兄弟・クロ

4:お前はもう26匹の猫を抱えてるんだぞ。「常識」で考えろ!いくらなんでも、もう無理だろ?「『この』猫を拾ったのに、『あの』猫を拾わない理由がない」とか、むちゃくちゃなこと言うんだろ?わかるよ。「差別」をしたくないんだ。「選ぶ」という行為によって、「無償性」が害されると思ってんだろ?
5:考えろよ、「びー」の世話だけだって大変だろ。怪我をして自力では生きていけない猫だけ、面倒を見る、と「基準」を変えればいいじゃないか!


捨て子三兄弟・トラ小

で、ぐったり疲れて帰ってきた。何もしたくなかった。でも、何かをしていないと思い出してしまいそうだから、小難しい本でも読むことにした。
前回、うっかりミッシェル・フーコーなんてつぶやいてしまったから気になって、京都から運んできた段ボール箱調べてみたけど、処分しちゃったみたいでなくって、だから、昨日買ってきたんだ。気になるフレーズがあったからメモしよう、とか思って、冒頭のところにつながる。

「理性」の声は、すべて「否」と解答している。誰かが、例えば、自分の所有する土地で野良猫が子供を生んで「迷惑」だから、それを母猫がいない隙に段ボール箱に詰め、ジョギングなどで「人通りの多い」公園の遊歩道に、放置した。「好意」なのだろうが、プラスチックの何かの容器のふたにミルク、キッチンタオルで包んだ煮干が添えてあった。この年齢ではもちろん煮干は噛めないし、口にミルクを運んでやらないかぎり、自分で飲み下すことも出来ないだろうが・・・。

私が、引き受けなければならない「理由」は、何度考えても、何もない、ことは明らかだった。
「理性」が後押ししてくれないから、「狂気」に頼むことにした。「問い」を無化する「外部」に出ることにした。「世界」が「無限・マトリョーシカ」であったとしても、有限の時間の間は、「外部」に向かって「逃走」し続けることは、可能なはずであるから・・・。


捨て子三兄弟・トラ小、と、オーちゃん

「びー」のために買った「オレンジ色のバスケット」をぶら下げて、意気揚々と出かけた。
「仕事」までのすべての時間を、ぴー、ぴーわめく3匹の子猫に注射器で授乳したりするのに費やした。こんなちっちゃな猫は、ほんの2、3時間ごとにミルクをあげなきゃならない。明日から、忙しくなるぞ!、と、すでに華やいでいる。

オーちゃんが、3匹の身体をていねいになめてあげている。「血」のつながりが何にもなくても、雌猫は時々、こんなことをする。ほとんど「神々しい」ともいえるほどのその光景を、もちろん「動画」にしてアップしといたからネっ!

子猫が目の前にいたら、「世話をする」、それは生き物としてのオーちゃんに組み込まれた「理性」ならざるものなのだ。だから、私も、「理性」ならざるものの声に従うことにしたまでだ。

2009年04月16日

「ペットボトル湯たんぽ」、または、「私的」なことがら、に ついて・・・



翌日は雨になって急に気温が下がった。あのままあのみちばたに放置されていたら、ひとたまりもなかったろう。「だ・か・ら」、わたしが拾いあげて、この子猫達も当面生き延びれることになって、「よかった」と言ってもよいし、その分わたしの予定外の負担も増えるのだし、「残念だった」と言っても、実は別に同じことである。
「生きること」に「価値がある」と一般的に宣言することに、特に異はとなえないが、やはりそれは「空語」であって、個々の「生き物」が生きていて「よかった」かどうかは、思うに、きわめて「私的」なことがらなのであって、そうね、たとえば机のうえに転がっている鉛筆と消しゴムを指差して、「ほら、これらの間にも、『万有引力』が働いているんだよ!」と言ったとしても「うそ」ではない、という程度には確かに「うそ」ではないだろうが、「万有引力」という「弱い力」は本当に「桁外れ」に弱いのであって、よほど質量がでかいか、よほど距離が近くならないかぎり、「全然問題にならない」、問題にしてはいけない、ことをちゃんと指摘することのほうが、「知的」なのではないかしら・・・。

市販のペット用ミルクだけでは、栄養の面でも免疫の面でも十分じゃないだろうから、生き延びれないかもしれない。今までにも、このくらいの大きさの子猫を育てかけたことが二度ほどあったのだけれども、どちらもあっさり死んでしまったから、今回もそれほど期待しているわけではない。
「捨てられた」子猫を「拾わないでいる」ことの負担に耐えられなかったまでであって、「拾いあげた」段階でわたしの「仕事」は終わったようなものだ。

それでも、2、3時間おきに一匹ずつつまみあげては注射器を口に突っ込み、一回の授乳が三匹で50ミリくらいだから、一匹あたり17ミリ、すぐ口からあふれてしまうから三回ほどに分けて流し込む、そんなことをしていると、次第に三匹の「識別」もつくようになり、めだって身体の小さい「トラ小」はまだ目も開いてない、などということがわかってくると、自然愛着も湧き、子猫は一日の大半を眠って過ごすから泣き声のしない時間もめずらしくないのだけれど、外出から帰ってカゴの蓋を開けるときには、もうどれかが冷たくなってしまっているんじゃないかと、胸つまる思いがするけれども、それはそれほど「重要」なことじゃない、という気がしている・・・。

気温も低いし、体温が少し低いように思えたので、お湯を沸かして500ミリのペットボトルにつめ、火傷しないようにこれを古着の靴下に二重にくるんでカゴの隅に置いておく。三匹、折り重なるようにして暖を取っている。
この「ペットボトル湯たんぽ」は、「とも」ちゃんという、一番初めに飼っていたエイズ感染猫のさいごの入院の時に、動物病院の先生に教えてもらったのだ。

三匹とも写真を撮ったのだが、ブレてしまったのが多いので、二日目は「クロ」だけにしておく。

2009年04月18日

「悲しき『亜』熱帯」/Tristes_SubーTropiques



一転、快晴となった。気温もぐんぐん上がるだろう。こうじゃなくっちゃね\(^O^)/
「亜熱帯」は晴れるしか「取り得」がないんだから・・・。

大方の「予想」、「期待」に反して、こいつら生き延びるかも知らんぞ?
「懸命の」介護もむなしく・・・、という少し涙もとれる「短め」のエピソード、の予定だったんですが・・・。

☆★☆

快晴ついでに調子に乗って言わずもがななことを・・・、どうせ「理性ならざるもの」と聞き流してもらえばよろしいが・・・、
都市に住む野良猫の栄養状態から見て、母猫のもとにいられたとしても、三匹生まれた子猫が三匹とも育つということは、まずありえなかったはずなのね。
それをわざわざ「箱に詰めて」捨てに来るから、こうして「生き延びて」しまうことになるのは、「社会経済」上も「損失」じゃないっすか?これが為に私の病状が悪化して、またぞろ皆様方の「血税」を浪費して「公費診療」受けることになるかもしれないじゃない?

にもかかわらす、この子猫達に自分の「敷地内」から「一刻も早く」出ていってもらいたい、と感じたのなら、それは、すでにビニールのパッケージに入っている豆腐をまた別のビニール袋に入れてもらい、かつ他の買い物とは分けてぶら下げて帰る、という、・・・「狂人」が申し上げるのもおこがましいが・・・、ほぼ「病的」な「穢れ」に対する「フォビア(恐怖症)」なのではござらぬか?

えっと、「化学」のセンセとして言わせてもらいますと、冷えたお豆腐のビニール袋の「外側」に水滴が付くのは、「汁」が漏れてるんじゃないから、何重に袋重ねてもやっぱり「外側」が濡れるんですよ。
「飽和蒸気圧」と申しましてですね、空気のなかに含みこむことのできる気体としての水分、水蒸気の割合には限界があり、温度が低いほどそれは小さくなる。冷えたお豆腐のまわりの空気が冷やされて空気中の水分が液化して付着しているのですから、どうしても外が濡れるのがお嫌なら、豆腐が室温になるまでお待ちください。

☆★☆

「いわずもがな」ついでに、私がコンビニやスーパーで袋お断わりするのは、「地球温暖化」といった「マクロ問題」的観点であるよりは、数字は忘れたが年間何万匹もの野鳥がビニール袋を咽に詰まらせて窒息死している、というWWFの報告記事を読んだからだ。
人間が現認した野鳥の死体のうち、しかるべき割合のものの咽からビニール袋が発見されたという「事実」に基づく推計学上の数値なのだから、数値を争ってもしょうがない。

あなたがコンビニでおにぎりを買い袋に入れてもらう。あなたがたとえちゃんとごみ箱にそれを捨てたとしても、飛散する可能性はある。たどりつくのは海岸の湿地かも知れない。
たとえば通りすがりのクロツラヘラサギさんが、おにぎりの匂いのする袋を、「お、メシかも知らん」と、あの不恰好なくちばしでつっつく・・・、
「あなたのアクションが、クロツラヘラサギを救う!」などと「非科学的」なことは言わない。
でも、地上に数百羽しかいない、「人類愛」と「隣人愛」とが「近似」できるこの希有な生きものを、「思い浮かべる」こと、「私に擬して考える」ことは、できない相談じゃないだろ?
だ・か・ら、あなたも今日から、レジ袋お断わりして、ねっ!

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昨日お見せできなかった二人、「トラ小」、「トラ大」の写真。

2009年04月18日

でも、おっぱいは、出ないよ(^_^)v



とかってタイトルにしたら、勘違いした「乳・マニア」が殺到したりして・・・。うふ。
「オー」ちゃんが、また、これが毎日、というわけでもないんだな、そこがいかにも「気まぐれ」であることが期待された属性となっている「猫」らしいところで、お涙頂戴のありきたりの「説話」が成り立ちにくいところであって、そこがまた「泣かせる」のだが、そう、どう見ても「気が向いたとき」だけ、ていねいになめてあげるのだ。
今回は、そうこうしているうちに自分も眠くなってきたらしい。狭いカゴに無理やり割り込んで、今にも子猫踏み潰さんばかりだ。子猫たちは、出ないおっぱいにしがみつき、それでも安心できるらしい。

見ている私も、眠くなってきた。この子猫たちを「拾ってしまった」メリット、デメリットについては、まだまだくよくよ計算してみる毎日なのだが、こんな光景を見せられては、いやはや、「掛け値なしに」、生きてきてよかった、と、思ってしまうよ!


「拾得」四日目の「トラ小」、「トラ大」、「クロ」

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昨日の、豆腐の話ね。ちょっと嘘があるんだ。沖縄では、「島豆腐」って言ってね、出来立てのあったかいままの豆腐を、スーパーなんかでも、豆腐屋さんが運んできて販売するの。だから、沖縄の消費者が豆腐だけ別のビニール袋に入れて買って帰るのは、他の食品に熱が移らないためなのであった。だからどうだってわけではなく、常識外れにビニール袋浪費している、と思われるのは同じなんだが、「飽和蒸気圧」まで持ち出しての講釈は、全国ネット向けの脚色でした。
「移住」したばかりのころは、「島豆腐」、よく食べた。歯ごたえがあって、少し塩味がきいて、軽くしょうゆをかけるだけで、ほかに何も付けなくても食べられた。京都に長く暮らしたから、嵯峨野清涼寺の「とろけるような」湯豆腐を懐かしく思い出すこともあったが、ずっと「島豆腐」のファンだった・・・。
摂食障害で、味しなくなっちゃったから、今は食べないけどね・・・。

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動画「三日目の・捨て子三兄弟」作ったよ。これからも、毎日作ろうか?「親バカ・パパ」みたいに?

2009年04月19日

キュルケゴール的な意味で・・・。



「海猫」とはうまく言ったものだ。三匹の子猫が「合唱」しているのは、まるで鳥の鳴き声に聞こえる。あ、逆か?
「捨て子三兄弟」事件、という緊急事態のおかげで「躁的」に盛り上がらざるを得なくなっていたから「忘れ」かかっていたけれど、私は、「病み上がり」、そう、「会社に行きたくない『詐病』」という病の回復過程にあったのだった。だから、週末は寝込んだ。

今起き上がったら昏倒してしまう、だからもう少し・・・、と、子猫たちの「合唱」が今にも一人減り、二人減り、していくのでは、と禍々しい想念に苛まれながらも、浅い眠りを眠り続けた。

☆★☆★☆

「トラ小」が、亡くなった。カゴの片隅で、相変わらず小さく、冷たくなっていた。

刑法や民法不法行為法では「因果関係」の存否は、「あれなければ、これなし」という、ほとんど「愚直」な「公式」を基礎に判定されることになっている。「公式」を、「真理」を含んだ「箴言」と思ってはいけない。それは、判断できないときの「緊急マニュアル」なのだ。

もう少しだけ、早く起きていれば・・・、
でも、私がもう少し早く起きていても、やはり「トラ小」は死んだかもしれない。だから、「因果関係」は、ない。「因果関係」と「責任」は異なる概念だが、「因果関係」がないものに「責任」を問うことは出来ない。だから、「責任」も、ない。

「ごめんね・・・」
あやまる「理由」がないことを、私は知っている。同時に、この「理由」のない「罪悪感」を「引き受ける」ためだ・け・に・、自分が子猫を拾ったのだ、ということも。

「『私』のための現代思想」高田明典(光文社新書)のなかに、確か、こんなエピソードが出てくる。抽象的な言葉を、子供達に「身振り」で説明させるゲーム。「死」というテーマを与えられれば、例えば合掌するという風に。
何か横たわったものを、「なでる」しぐさをした子供がいた、という。

死んだ子猫の背中を、いつまでも「なでて」いないと「気がすまない」のは、いつまでなでていても、びっくりするほど冷たくなってしまったその背中が、ちっとも「死」の意味を、教えてくれないからだ。
生きている私たちは、「死」の意味を決して知ることが出来ないから、それを「思念」の外側に放逐し、代わりに「漠然とした」、「不安」を取り込んでしまった、・・・、とキュルケゴールは言った、そうだ。キュルケゴールも1ページも読んだことはないが、これは高校の「倫理」の教科書にでも載っているんだろう。

現に存在しないものを指し示すことの出来る「間接性」こそが「言語」の特質であって、そこに「ない」ものとの対照においてはじめて、そこに「ある」ものの「意味」が発生する。
「死」の意味を知り得ない私たちは、したがって、決して「生」の意味をも知り得ない。「無限」をはらんでしまった言語を「運用」する私たちが「有限」であることの、矛盾であろう。

「敷地境界線」から「外」に、「排除」してしまいたかったのは、本当は「死」だったのかも知れない。

☆★☆★☆

あまりにもちっちゃかったから、性器を見てもよくわからなかったんだが、「トラ大」と「クロ」は男の子だけど、「トラ小」は女の子だったみたい。
私は折り紙は得意ではないけれど、新聞紙を折り曲げてお布団を作った。あとでブーゲンビリアの花をもらってくるね。「亜熱帯」は、いつでも花があるからありがたい。ブーゲンビリアのあの赤いのって、「花」じゃないんだよ、知ってた?「がく」なんだ。「ほうずき」みたいにね。
「サイエンスダイエット・キトン」を5粒ばかり、お土産に持たせてあげよう。あんたは、まだまだ、噛めんかったけどね・・・。

2009年04月20日

そして、人生は、続く。/And the Life Goes On...



と、言うわけで、二人になっちゃいましたけど、よろしくね。
「二人になっちゃいましたけど、よろしくね。」という動画も作りましたから、よろしくね。

毎日見ているときがつかないものだが、身体はめきめき大きくなっているんだろうな。相変わらず片手の手のひらに乗るから、違いがそうわからないのだが、授乳量は明らかに増大しておる!
10ミリリットルのシリンジ、というのを使用しているのだが、はじめの頃は三人で5ミリリットル、
・・・あ、間違えた、今気がついた、前々々々・・回ぐらいの記事、50ミリリットルって書いたなぁ?ペットボトル一本が500ミリ、そうか、その10分の1くらい飲めるやろって思ってしまったのね!・・・
つまり一人あたま1.7ミリくらいだったのが、今日あたりになってくると、もう、二人で10ミリ。
回数は、いい加減だけど、さ・い・わ・い、仕事あんまりしてないから、一日5、6回。

せっかく間違えたから、それをネタに、ちょっと概算してみよう。
この子達の体長が10センチくらい。人間の体長は、例えば私は180センチだが、めんどくさいから200センチと概算しよう。
「長さ」の次元での比は、子猫・対・人間で1:20、「体積」は「長さ」の3乗の次元を持っているから、同様にして、1:8000。
私を、「人間」のサンプルとするのには「異常値」ではないか?との疑問も残るが、例えば私は、以前お酒を飲んでいた頃は、毎日2リットルくらいのビールをはじめとする酒類と、これに加えて二日酔いを解消すべく飲む茶などがこれまた2リットルくらい、合計4リットルくらいの水分を摂取していた。お酒を飲まない今でも、牛乳、コーヒー、100パーセントフルーツジュースなど、合計やはり2〜3リットルくらいは飲んでいるだろう。割り切れるように、2リットルとしとこうか?
2リットルすなわち2000ミリリットルの、8000分の1は、0.25ミリリットル、・・・、なるほど、勉強になるね!、子猫はその身体の大きさの割には、ものすごくたくさん飲んでいるんだ。人間の子供もきっとそうなんだろうね。

もう少し生き延びることが出来れば、固形物が食べられるようになる。そうなると、授乳の手間は減るものの、今度は、いよいよ「うんこ」との対決が始まることになるのね。今は、ほとんど、さらさらのおしっこしか出ないのよ・・・。口から授乳している先から、下からおしっこたらしているときさえある。

☆★☆★☆

タイトルは、イランの映画作家、アッバス・キアロスタミの1990年くらいだったかな?の作品の名前です。その何年か前のイランの大地震の被災地にカメラを持ち込んで撮影された。この人の作品は「セミ・ドキュメンタリー」なんて呼ぶべきじゃないんだろう、「地元の人」を即席で「俳優」にしてしまって「劇映画」にしてしまうんだから・・・。
はじめて観たのは神戸の震災の前だった。

「死」を、「穢れ」として境界線の「外」に排除するんじゃなくってね、「死者」と同じ空間の中で、「共に」生きれればいいって、思ってるんですがね・・・。子猫ぐらいで、大げさな話なんですけどね・・・。

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で、今から明日の授業の準備しなきゃいけないんです・・・。「おしっこ、ちびりそう」です。

2009年04月20日

「異なる」周波数の振動が「存在」している・・・ことについ て。



猫の母親の乳首は4対、8個あって、後ろ足に近づくほど母乳の出がいいんだって。何匹もの子猫がママのおっぱいにしがみつくとき、自然、元気のいい、態度のでかい、やつほど、より「よい」おっぱいを「先取り」することになるから、元気なやつはますます元気に、弱い子はますます「つつましく」生きることになり、こうして兄弟間に発育の「差」が出てきてしまうのだって!
「ネコ好きが気になる50の疑問」(加藤由子・ソフトバンク新書)に書いてあった。なんだ、ちゃんと「ネコ好き・・・云々」なんて本も読むんじゃない!
うちの「子」たちにも、そんな「差」が目立ってきて、注射器の目盛り見ながら「授乳」するわけだから、ミルクの量は「平等」だけど、一度に飲み込める量は「クロ」の方が断然多くて、「トラ大」はすぐにあふれさせてしまって鼻から戻したり、あ、ごめんごめん、これはとっても苦しかろうから、ウェットティッシュで拭き拭き、時間をかけねばならない。
「活発さ」にもずいぶん違いが出てきて、ぴーぴー大声でわめきながら、うっかりカゴから出してそこらへんの床をはい回らせておこうものなら、結構なスピードでどこまでも「歩いて」行ってしまい、他の猫達の恰好の玩具になってしまうのと、もじもじかぼそく泣きながら、相変わらずカゴのまわりを転びまろびつしているの、と言う風に・・・。
「面倒を見ている」こちらの方にも、その「差」は「反映」して、ふるくさい表現だが「判官びいき」、手間も時間もかかれば、それだけストレスもかかるものの、気に「かける」度合いも増えようというものだ。

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今朝でちょうど一週間になる。二人とも、ちゃんと生きているよ!

でも、「トラ大」はもう、今日一日もたないだろう。こうして今、右手に携帯電話、左手に「トラ大」、またこの二三日気温が下がったからね、手のひらの中でぬくまりながら寝息をたてている。
心臓の拍動も、ちゃんと伝わってくる。身体が小さい分だけ速いはずだから人間の私のとは「同期」しない。

「同期」しない、「異なる」周波数の振動が「存在」している、それが、私のまわりに「他者」が「生きている」証なのであった。

お、今、「トラ大」、手のひらの中で「寝返り」打った!呼吸の度に、胸が広がる手応えもある。
前脚を交互に押し出すその仕草は、ママのおっぱいを要求しているのね?よしよし、その調子だ♪

「生きている」間は、「生きて」行こう!
「世界」に「因果」など、ない。その「トートロジー(同義反復)」だけが、「生きる」ということの「な・か・み」だ!

さ。おぉ、忘れるところであった。「クロ」ちゃんもご一緒に、ミルクのお時間でちゅよっ♪♪

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ほうがんびいき【判官贔屓】 悲劇的英雄、判官源義経に同情する気持ち。転じて、弱者・敗者に同情し声援する感情をいう。

2009年04月23日

過去において「あった」ことと、現在「ある」こと・・・。



昨日も、夕方からお仕事だったんだが、私が出かけなければならなくなる少し前に、「トラ大」ちゃんは亡くなった。
朝は、ちょっとだけミルク、むせ返りながらも飲めて、それが最後になってしまったね。

昔風のテレビドラマなんかでは、人が亡くなるシーンというのは、お医者さんが病室の掛け時計に目をやって、
「○○時△△分。」
とか、厳かに宣言すると、家族がわっとベッドに駆け寄って、
「お父さん!」
と号泣するものだったね。

私は、さいわい「人間」との付き合いが極端に少ないので、いまだに、大事な人の死に目にあった経験を持っていないから、よくわからないのだが、・・・。

「生きている」ことと「死んでいる」こととの「境目」は、医学的には厳格に定義されているのだろうし、生物学的にも、何らかの基準で確定できるものではあろうが、こうして「トラ大」ちゃんを左手の手のひらに載せたまま、どうしても急ぎの仕事があったものだから、私は、右手だけでマウスとキーボードを使いながら、まもなく確実に訪れるに違いない「死」を、待っていたのだが、結局、いつ「トラ大」ちゃんが息を引き取ったのかは、わからずじまいであった。

手で支えても、首ががっくりとたれる、次第に体温がさめていく。「事後」的には、あぁ、亡くなったんだな、とわかるけれど、手のひらの中にいる「トラ大」ちゃんの心臓の鼓動や、体温や、呼吸に伴う身体のうごきも、私の手のひらを流れる血流の音や温度と「混じりあって」しまって、「死」の瞬間は、決して捉えられない。

中島義道が、「『時間』を哲学する」(講談社現代新書)の中だったかどうだったか、
・・・過去において「あった」ことと、現在「ある」こととの、両立できないあり方・・・、
みたいなことを言っていたけれど、私たちは、「今」という瞬間を、事後的にしかとらえられないのね。

「死んでやる!」というのは、生きている人の言えることだし、ということはそこでの「死」は「未来」に属することなんだろうし、「今、死んだ」ということを、もちろん「死んだ人」は言えないだろうが、「今」は、言った先から「過去」になっていく。

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結局一人になってしまった。「クロ」は元気がいいから、なかなか死にそうにはない。でも、これだけ小さい生命は、とても「不安定」なものなんだろう。目を覚ましたり、外出から帰ってきたりして、カゴのふたを開ける瞬間、今度こそ冷たくなっているんじゃないか?と毎回、一応、覚悟する。

「悲しさ」というものは、それほど、ない。でも、「死」は、言葉を持つ人間にとっても、永久に「不可解」なものであり続けざるを得ないからなのだろう、身近に「死」を感じるだけで、たくさん、疲れた・・・。

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「動画」を4本ほど、作った。「びー」と「クー」の、「強制排尿」シリーズ(!)、などもあります。

「びー」様、御排尿中、失礼いたしますが・・・。

2009年04月24日

「ウィーク・エンド」



こうなってみると、こんなちっちゃな生き物が、ちゃんと生き延びていることの方が不思議に思えてくる。
250ミリリットル200円位の、普通の市販の「子猫用ミルク」、注射器で飲ませてるだけなのにね。

二時間か三時間に一回くらい、
「ふや〜っ、ふや〜っ、ふや〜っ、ふや〜っ、ふや〜っ、ふや〜っ!」
とかいうあたりはばからぬ大声で呼び付けられる。そのたびに、4ミリリットルか5ミリリットルほど、一日に何回飲ませたのか、もう、わからなくなってきた。

さすがにおしっこはたくさんするから、そのたびに新聞紙も取り替えて・・・。
もうじき「海開き」などという季節なのに、天気は荒れ模様で、寒々としているから、「ペットボトル湯たんぽ」もつくる。

目がまだ開かない。大量の目やにがたまって、まぶたがはれあがってた。

で、「飼い主」の方は、と言うと、特に「不幸」である理由はない、「回復基調」でさえあるはずなのに、不必要に殺伐と投げやりである。天気のせいだと、いうことにして、こんなときは、寝るに限る。
眠りは大概の問題を解決してくれる。

ともあれ、「クロ」ちゃん、生きてます、ってご報告まで・・・。

2009年04月26日

自由の幻想・Phantom of Liberty



天気がよくなると、「殺伐さ」も消えるのだ。

「捨て子三兄弟」を引き受けてからというもの、ふたたび猫の写真ばかりになっていたが、久しぶりに鳥の写真・動画なども・・・。

今日は、うちのベランダにも、鳥たちがよくやってくる。シロガシラと、イソヒヨドリ。この2種が、最も人間、それに猫に対しても、警戒心が少ない鳥であるらしい。
ヒヨドリは、ベランダに飛んでくることはない。隣の豪邸の庭を斜めに、ケーブルテレビのケーブルが横切っているんだが、そのケーブルは、「野鳥の宝庫」なのであった。今日はヒヨドリが、そこで揺れながら、顔を掻きながら、「ぴよりー、ぴよりー」と歌っておる。「しあわせ」である・・・。

イソヒヨドリは、ベランダに出してある猫の餌を、時々つまみ食いしているらしい。野良猫は野鳥の「天敵」であるから、かなり大胆な行為といえよう。
この鳥は、地面の上を両足をそろえてぽんぽんと飛んだり、時々立ち止まって、首を傾けたりするのが、非常に愛らしいのだが、猫の餌皿の前で、「何気なく」首を傾けているところなど、まるで犯行直前の「万引き犯」が「平静を装っている」しぐさそのもので、笑える。
↓犯行直後の、雌のイソヒヨドリ。


猫たちも「殺伐」とすることがあるんだろう。けんかばかりしたり、とんでもないところでおしっこをしたり、うちの「子」達も、時々「荒れ」る。
新しい子猫がやってくると、「嫉妬」して機嫌が悪くなったり、出て行ったりする、などと、ものの本には書いてある。そういった記事を私は、全く「信用」しないのだが、それは、「うそが書いてある」と思っているからではなくて、きっと「本当」のことが書いてあるのだろうが、世界のどこに狭い賃貸住宅の中で26匹の猫を飼っている人間がぼこぼこいる?、そんな「稀有」・「未曾有」のことをしている私に、「『多頭飼い』はこうすればうまくいく」などと「アドバイス」できる人など、そんなにいるわけないでしょ?

人は自らの「経験」から「教訓」を引き出し、それを他の「場合」にも「適用」しようとするのだが、もちろんひとはただ「一度」しか生きることができず、同様にただ一度しか生きることの出来ない他人とは、同じ「条件」を「共有」することなど、ほとんど絶望的に、出来ないのであった。
それにもかかわらず、世界は、「私は『こう』だったから、あなたも『こう』するといいわよ」とか「私は『こう』したから失敗したけど、あなたは『ああ』して御覧なさい」といった「言論」に満ち溢れていて、それは多くの場合「好意」であろうし、「貴重なアドバイス」を器用に「役立てる」ことができる場合も多々あるのだろうが、同時に、そのような「罪のない」言葉を「真に受け」なければならない、と思い込み、他人の期待通りに「振舞わなければならない」という脅迫に身を硬くして、息も絶え絶えになってしまっている「愚か者」もまた、累々と存在しているのだろう。
たとえば、ほら、ここに・・・。

「他人とは違っている」ことを「矜持」としなければならなかったのは、「他人と同じように出来ない」ことの苦痛から逃れたいからなのであった。「狂人」というものは、自分だけが「正常」だと主張するものと相場か決まっているが、それはそう「思わ」ないと生きていけないからなのだろう?

人は、「所与」の環境条件に拘束されて、やむを得ず、そうならざるを得ない、形で、へとへとになりながら、ようやっと「生きて」いる、としか思えないのだよ。
「因果関係」というものは、たまたま「うまく行った」人たちが、あたかもはじめから「自由な『選択』」がありえたかのように、「遡及的」に、捏造したものなんだろ?
「成功した・少数者(モデル・マイノリティー)」が垂れてくださる「教訓」は、だから、落伍者にとっては、「お前は、そのように『選択』しなかったか・ら・、失敗したのだ」という「責め苦」にしか、ならないのだ。
あなたには、そもそものはじめから、「自由」など、なかったのだ。どうしてそう言ってくれなかったの?そのほうがずっと、早く楽になれたのに・・・。
「選択肢」がないことなんて、ちっとも「不幸」じゃなかったのに・・・。


「びー」、だよ。

タイトルの写真は、もちろん「クロ」ちゃん、左「手」の肉球がくっきり見えるだろ?ミルクを口に入れられると、両「手」を交互にばたつかせるのは、ママのおっぱいの周りをもんで母乳の出をよくするための、組み込まれた「しぐさ」なのだ。大人になってからでも、猫たちは時々、私の腹の上とかで、これをやる。「親」になることを「選ばなかった」もしくは、「選べなかった」人間であっても、・・・、これには、ちょっと感動する・・・。

2009年04月26日

否定文で定義された言葉。



「a,b,c,dを成分とする2次の正方行列Aが、逆行列を持つことの必要十分条件は
ad-bc=0
でないことである、ということを証明せよ」、これが今日のテーマです。

「必要十分条件」てなんでしたっけ?
命題「AならばB」が真であるとき、「Aである」ことを「Bである」ための、「十分条件」と呼びます。
条件Aを充たすすべてのものが、Bを充たしている、というのであるから、Aの方がBよりも、より「厳しい」条件である、その厳しい条件を充たしている「もの」の集合Aは、よりゆるやかな条件であるBを充たしている「もの」の集合の内側に、完全に含まれているはずだ。これを、AがBに「包含されている」という。
「私はAである」ということを「主張する」だけで、「私はBである」ことが「立証される」から、「十分」だというのです。
反対に、命題「BならばA」が真であるとき、「Aである」ことを「Bである」ための、「必要条件」と呼ぶ。さっきとは逆に集合BがAに包含されている、Aの方がBよりも、よりゆるやかな条件ということになるから、「私はAである」ということを「主張する」だけで、「私はBである」ことが「立証される」わ・け・で・は・な・い・から、「十分」だとはいえないが、少なくともAという条件すら充たしていなければ、これを充たすことなしに、Bのみを充たすことは不可能だ、という意味で、Aであることが「必要」だというわけです。

「世界」を「Aであるか、Aでないか」、「Bであるか、Bでないか」、という基準で分割すれば、通常、4つの部分に分かれます。自然現象でも社会現象でも、「包含関係」などということは、めったに生じない。「・・・ならば、かならず、・・・」などということはほとんどありえなくて、「例外」というものがつきものなのが、実際なのです。

卑近な例を挙げるならば、「学歴が高い/学歴が高くない」、「年収が大きい/年収が大きくない」という2つの基準でまわりの人間を分類すると、「学歴が高く、年収が大きい」、「学歴が高く、年収が大きくない」、「学歴が高くなく、年収が大きい」、「学歴が高くなく、年収が大きくない」の4グループが、実在することになります。「学歴が高いと年収も大きいだろう」という「予測」は、こうして、少数であったとしても「例外」の存在によって、「例外なく」裏切られます。


ゴイサギ

「包含関係」の実例は、現実世界にはなかなか見つかりませんが、「つくりもの」の法律の世界、などには見受けられます。
あなた達も、もう持っているかも知れないが、普通の運転免許、「普通免許」と呼ばれているのは、「第一種免許」と言われておりまして、例えばタクシーの運転手さんや「運転代行」のドライバーとか、お客を乗せて運ぶことを「業として」行うには、「第二種免許」と言うのを取得しなければなりません。「第二種免許」は、「第一種免許」取得後3年以上が経過した後、改めて試験に合格すれば取得できることになっています。
ということは、「第二種免許」を持っている人は、間違いなく「第一種免許」をも持っていることになりますから、「第二種免許」を持つ人の集合は「第一種免許」を持つ人の集合に「包含」されているわけです。

あなたが「第二種免許」を持っていて、宅配便の2トンくらいのトラックの運転手の求人に応じたとします。面接担当者は「あなた、免許持ってますよね?」とたずねるだろう。それに対して「私『二種』持ってるんですよ!」と答えれば、「そんなこと聞いてねぇよ」と言うことで「必要」ではないですが、「第一種免許」を持っているかどうかの問には「十分」な答えを出せたことになります。
反対に、タクシー会社の採用面接で、「二種持ってますか?」と聞かれたのに対して、「私、免許持ってますよ」と答えたのでは、面接担当者の問に「十分」な情報を提供したことにはなっていません。が、「一種」すら持っていなければ、少なくとも今から3年内に採用することはありえないですから、直ちにお引取り願うことになるだろうところ、「一種」を持っている以上、明日にでも受験して「二種」を取得できるかも知れないし、大体、多くのタクシー会社は「養成」という制度を持っていて、・・・、


12日目の「クロ」

・・・。
40歳を過ぎてから、失業給付を受けていたこともあったから、「職業安定所」というところに何度も通ったことがあります。今はコンピュータ化が進んでいるから、年齢条件入力したとたん、2秒も経たないうちに、「該当する求人は、ありません」と、そっけない回答が返ってくるようになりましたが、以前は、分厚いファイルに何冊も目を通し終・わ・っ・て・しまうまでは、ひょっとしたらどこかに、「私にうってつけの」、「とんでもなく好条件の」、仕事が紛れているかも知れない、と、「期待」を持つことが許されていました。

特にキャリアや技術、などがない限り、65歳まで雇ってくださる会社は、タクシー会社しかないことをそんなわけで存じておりましたから、こんなたとえ話になるわけです。「病気」がひどくて、ほぼ「ほされ」ていた頃、一大決心して自動車教習所に「二種」のパンフレットもらいに行きました。一発合格でも19万かかる、と言われて、そのときは本当に「かけらも」蓄えがなかったことをいいことに、延ばし延ばしにしてしまって今日に至っているのだが、・・・。

で、それはともかく、「必要条件」・「十分条件」の「必要」、「十分」の「意味」は、
「Aであることを主張する」ことが、「Bであることを立証する」ために、「必要であるか?」、「十分であるか?」の判断なのである、
ということを理解してください。「矢印の先が『必要』やねん!」みたいな、恥ずかしい丸暗記はしないでください。


12日目の「クロ」

では問題に戻りましょう。
「行列Aが逆行列を持つことの必要十分条件は
ad-bc=0でないことである」、が証明すべき事柄なんですから、
(1)Aが逆行列を持つならば、ad-bc=0でない
(2)ad-bc=0でないならば、Aが逆行列を持つ
の2つの命題を証明することになります。
(1)から取りかかりましょう。高校の数学で、逆行列の存在云々が問題になるのは、それほど深入りするわけでもない「線形代数」の理論そのもののためであるよりは、証明の論述の勉強のためであると思われます。しばしば、「背理法」が登場するからです。

さて、「背理法」ってなんでしたっけ?
「否定を仮定してみたら矛盾したから、実は正しかったんだ」、ま、だいたいそんなところですが、そんなの怪しいと思いませんでした?
「AならばBである」が証明できたとしよう。ならば、AはBであるための「十分条件」、集合Aは集合Bに「包含」されていることになる。集合Aを集合Bがくまなく取り囲んでいる。その「外」には何があるんだろう?
例えば「私は『男』である」とか言ってみた場合、それは「男」ではないものを想定できるから「意味」のある言葉なんであるが、この世に「男」でないものは山ほどあるわけで、例えばこの机、昨日食べた「うどん」も、「『男』ではないもの」ではあるが、通常「男」でないもの、に対して「男」を考えているのは、あくまでも「人間」と言う集合の内部で、という前提のもとであることが多かろう。「人間」という「全体集合」の内部に「男」という「部分集合」を考えている、という風に。
集合Aを取り囲んで集合Bがあり、それらは「全体集合」、Universeの頭文字をとってU、の中にある。この構造では、全体集合の中でBでない部分、つまり「Bの否定」と、Aとは決して、重なり合うこと、触れ合うことすらない。
「集合Aが集合Bに包含されている」という事実と、「集合Aと、集合『Bの否定』とは共通部分をもたない」という事実が、全く同じ事態を指し示していることが、これでわかった。
「背理法」のロジックは、これです。
つまり、
「集合Aが集合Bに包含されている」ことを示す代わりに、「集合Aと、集合『Bの否定』とが共通部分をもたない」ことを示す、別の言い方をすれば、
「AならばBである」ことを示す代わりに、「Aであり、かつ、Bでない、などということは、ありえない」ことを示す、のであった。
「Aであり、かつ、Bでない」と、もし「仮定」すれば、それは矛盾に逢着する。なぜ矛盾に陥ったか?というと、それは、「Aである」ことと「Bでない」ことが、「両立できない」ことに、事実としてなっていることを示しており、だったらどっちが「悪い」のだ?どちらでもよいのだが、今、「問い」は「Aならば」と述べている以上、「Aでないかも知れない」と疑ってみてもしようがないから、したがって、「『Bでない』ことが、間違いであった」と、結論できるのだ。


「びー」

もう、お分かりいただけましたね。「背理法」が威力を発揮するのは、結論部分「Bである」の部分が、す・で・に・、「否定文」で書かれている場合なのです。今の場合だったら、
「ad-bc=0でない」
というように。
一般に、「否定文」を証明するのはとても困難で、「悪魔の証明」といわれたりもします。
「アリバイ」という言葉をご存知でしょ?一般に「不在証明」と呼ばれますが、「あなたは、犯罪現場に、『いなかった』」ことを立証するのは、とても難しい。
「監視ビデオに写って、い・な・か・っ・た・」、いや、写らない場所にたまたまいたのかも知れない。
「指紋が残されて、い・な・か・っ・た・」、いや、あとからふき取ったのかもしれない。
お気づきでしょう?どこまでいっても立証が「否定文」だらけ、対する反論はすべて明快な「肯定文」になります。だから、「アリバイ」も、本当は「不在」を「証明」なんかしてません。「犯罪推定時刻に、犯罪現場から、遠くへだった、『ある場所』に、存・在・し・て・い・た・」という風に、立証内容を「肯定文」に転換していたのでした。
「背理法」が行うこともまさにこれです。

「ad-bc=0でない」
といつまでもつぶやいていても、埒が明かない。
「ad-bc=0である」
といってしまえば、それは「等式」なのだから、ただちに、aを他の文字で表すなり何なり、「解く」ことができるのでした。
・・・。

☆★☆★☆

こんな授業をしているから、「話が長い」と、嫌われるのも無理はない。でも、少し「回復」基調だから、うれしくなって。たった2コマ授業しただけで、ぐったり疲れて、寝込んだけれども・・・。
12日目の「クロ」ちゃんは、ますます元気で、ぴーぴー、うるさい。まだ、目が開かないんだけど、まぁ、いいだろう。
早起きして、鳥の写真撮ったりもできるようになった。「ダイサギ」さんとか、「冬鳥」は、もうじき旅立って、会えなくなってしまうんだろう?そう思うと、なんか淋しくて。今まで、何年間も、そんなことかけらも思ってなかったくせに・・・。
「ゴイサギ」は「留鳥」かも知れない、から、まだいるかも知れない、って。

「びー」の「くしゃみ」動画、けっさくですから、どうぞ。

2009年04月29日

「道理」に、ついて・・・。



来週にはちゃんとテキストを用意するから今回はプリントで勘弁して、と先週約束した授業に今から「手ぶらで」出掛ける。コンピュータ起動しても、ネコの動画編集しかしてないんだから、「テキスト」が出来ている道理がない。あぁぁ〜★▼●〜・・・。

で、おめめ、あきまちたぁ〜☆♪☆
愛らしさに泣きて、三歩歩まず、
喜びのあまり、一筆を取りぬ。

2009年04月30日

「無理」が通れば、「道理」が引っ込む・・・、を論ず。



私が大学にいた頃は、正門にはまだ「造反有理、帝大解体」の文字が残っていた。それどころか、時計台の壁面にはでかでかと「竹本処分粉砕!」と白ペンキで大書されていたのだが、その話始めたら「ムースポッキー事件」どころではない「長い話」になるから、今・は・、やめておく。

1968年の東大闘争の落書きに登場した「造反有理、帝大解体」は、毛沢東の「造反有理、革命無罪」、「『造反』には『道理』がある、『革命』には『罪』がない」に由来するのであるが、で、そんな時代の人間だから、21世紀のこのご時勢に「『旧帝大』・難関大、二次試験対策数学クラス」などというどう考えても時代錯誤な表題をつけてしまわれた授業を受け持つのは耐え難く「恥ずかしい」と感じる日々なのであるが、今日のお題は「有理」であります。


「家庭菜園」の「ウリ科」植物、これ、ちっちゃいけど、スイカじゃない?

前々回、「背理法」についてお話しましたが、背理法が威力を発揮するのは、証明すべき命題の結論部分、「Bである」自体が「否定文」で書かれているときでありました。
「無理数(irrational number)」という言葉は不思議で、「否定文」で・し・か・、定義できないのです。
「無理数」とは何か?それは、「有理数(rational number)」ではない数のことである、というわけだ。

そこらへんの子供、いや、その「そこらへんの子供」こそが、26匹の猫たちの餌代を私に捻出させてくれている大事な「顧客」なのであるから、足を向けて眠ることも出来ないのだが、に「無理数って何?」とたずねれば、「え、『ルート』のことでしょう?」みたいな答えが返ってくる。


黒猫一家「ママ」ちゃん、食後にくつろぐ。
今朝の「黒猫一家」は豪勢な朝食だったのだ。「イサキ」の塩焼き、これはジャスコの食材売り場で半額。同じくジャスコのペット用品コーナーでは、「棚外れ品大処分」とかで、高級ペットフードなど、各種半額で放出されていた。思わず、カートが一杯になるくらいまで「買い占め」た。犬用の「ササミ」レトルト品も、出してみたら、たいそう喜んでいただけた。食後、二人(「ママ」ちゃんと「ぼうや」)で、といってもお互い「無関係」のように、満足げに、ていねいに毛づくろいしている幸せな情景を、動画にするのが、今日の「仕事」であった。

ちなみに、「対数って何?」とたずねれば、「え、『ログ』のことでしょう?」と答えてくださり、またその「ログ」の発音が、・・・、
1:「バブル期」の「デザイナーズ・ブランド」の「ブティック」で、その頃は私も人並みに「小金」がだぶついていたこともあったので、そんなところで「買い物」をしてみることもあったのだが、学生服のズボンか?と見まがうような、何の変哲もない黒いズボンに、数万円という信じられない値札がついているのを仰天して眺めていると、店員さんがしなやかに背後から近づいてきて「パンツをお探しですか?」とたずねてくださるときの、あの「パ・ン・ツ・」?、
2:長髪を後ろで束ねた男が、音楽に身を揺らしながら、コップに親指突っ込んで「ドリンク」を作ってくれる場所?、行ったことがないから知らないんだが、あの「ク・ラ・ブ・」?、
と同じ「→→→」だから、頑固老人は、少し、いらだってしまうのだが、
「1でない正数aに対して、aのx乗がPとなるとき、そのxを『Pのaを底とする対数』と呼びます」と、「よどみなく」答えられる高校生がいたら気持ち悪いし、もっと「嫌」だろうから、
実は自分が何に「いらだって」いるのかも、よくわからない。


こちらは、黒猫一家「ぼうや」。満腹のご様子。

Aという言葉をBと言い換え、BをCにすり替え、Dと言い直し、・・・、こうして「恣意性」をその本質とする言語は「流通」する。まるで、国際基軸通貨や希少金属との「兌換性」を国家によって保証されているわけでもない「貨幣」のように。
言葉の「定義」などに「こだわる」ことがあるとすれば、それ自体、言語に「よどみ」が生じているという「病」の兆候かも知れないが。

「有理数」の定義を知らずに「無理数」を定義することは出来ない。「無理数」は、「実数」と呼ばれる「全体集合」のうちの、「有理数」を取り除いた「残余」であるからだ。
2つの整数m,nがあったとして、nの方だけ0であってはならない、としよう。m/n、(n分のm)で表現できる数のすべて、が、「有理数」である。
m,nの間には共通因数があるかも知れないから、約分できるかも知れない。約分しきってしまってnが1になってしまったとしたら、その数は「整数」であって、だからもちろん「整数」は「有理数」の部分集合である。
m,nという整数のペアが複数個あっては都合が悪い場合もあるから、「m,nは互いに素(1以外の共通因数を持たないこと)」と限定することもある。
いずれにしても、こうして「有理数」の定義は、
「その数をm/nと表現できるような整数m,nが(少なくとも一組)、存・在・す・る・」
と「肯定文」で書くことが出来るのに対して、「無理数」は、
「その数をm/nと表現できるような整数m,nが決して(ただ一組も)、存・在・し・な・い・」
と「否定文」でしか、書き表すことが出来ない。

別の言い方をしてもいい。分数m/nは割り切れるときは「有限小数」であるし、割り切れないときは「循環小数」となる。逆に、「循環小数」はどんなに循環の「節」が長くても、かならず、分数にすることが出来る。
x=0.0058325832583258325832....
という循環小数があったとしよう。「5832」という4桁が「節」となっているから、xを10000倍してみるのだ。
10000x=58.325832583258325832....
これらを引き算すると、うしろの循環部分がきれいに消えて(ホントか?)
9999x=58.32
となる。だから、xは5832/999900という分数で表される!
つまり、「有理数」は「有限小数、または、循環する無限小数で表される数である」のに対して、「無理数」は「循環し・な・い・無限小数」と、どこまで行っても、「否定文」から、離れなれないのであった。

こんな風に「否定文でしか定義できない言葉」、ほかにあるかしら?と、考えてみると、
例えば、「外国人」。
A国ならA国の、国法によって、その国の「国民たる要件」が規定され、その規定があってはじめて、「国民」が定義され、誰が「国民」であるかを決定することが出来、その要件を充たさな・い・ものの集合が「外国人」となるのだ。

でも、通常の「対概念」はこんな構造にはなっていないですね。「男」と「女」でもいい、言葉の定義の本来的なあいまいさに基づいて、
「男でも女でもあるもの」
「男でも女でもないもの」
の、ような「ゆらぎ」が存在してしまうからでしょう。「国民」概念だって、「ゆらぎ」を排除した「法」の言葉に依拠すれば、上のようには言えるけど、「国籍はなくても、魂は『日本人』」とか、「お前みたいなものは『日本人』とは言えん」とかの発言がありうることを考えれば、実は「定義」というものが、本来的に「恣意的」、言いたければ「イデオロギー的」であることが、浮かび上がってくるんじゃないかしら?

では、「正気」と「狂気」は、どうなんだろう?
人は「同時に『正気』でも『狂気』でもある事態を生きている」と言ってもいいし、
あるいは、前に述べたたとえ話のように、
「ケーキを二つに切り分けて、こっちが『正気』だ!」と宣言した方が「勝ち」で、「残余」が「狂気」となる、とも言ってもいい・・・。

【宿題】です。「√2が無理数であること」を、「背理法」を用いて、証明しなさい。

☆★☆★☆

「クロ」ちゃんは、弱っている。ミルクはちゃんと飲んでくれるが、動きが鈍い。こんなに天気はよくなって暖かくなったというのに、体温も少し下がっているかも知れない。
ひょっとしたら、もたないかも知れない、と、とても心配で、30分おきに、カゴを見に行くのだが、今のところ、ペットボトル湯たんぽの上で、「ふにゃ?」と寝ぼけた声を出してくれるから、そのつど安心する。

こんな小さな生き物は、いったん「死」に向かって「加速」し始めると、止めようがない。本当は、どんな生き物でもそうなんだろうが・・・。「生」が「死」にす・り・替・わ・る・、決してとらえようのない「瞬間」を、ただ、「待つ」しかないのだ。


15日目の「クロ」ちゃん

もし、「クロ」ちゃん、死んでしまったら、私のこの15日間は何だったのか?とは、もちろん、問わない。例えば、駅前のスーパーマーケット、(沖縄にはそんなものは、ない。「駅前」がないのだから・・・)に、買い物に行こうとして、服を着替え、自転車をこぐ、あれこれ思い悩みながら、「あら、これ安い」とか、カートにいろんなものを載せて、レジに並ぶ、ずいぶん待たされた挙句、自分の順が回ってくる寸前、財布を忘れてきたことに気がついた・・・、と、そのような「行為」と同じくらい「無駄」だったことになる。「行為」を、その「結果」によって「評価」するかぎり・・・。

だから、私たちは「死」の意味を知らず、したがってまた「生」の意味も知りえない、「生きること」に「意味」はなく、ただ、他の生き物を「生きさせる」には「技術」が必要なのであって、「生き延びれてよかった」か「生きられなくて残念だった」かは、「テクニカル」な言葉で語られるべきなのだ・・・、とか、まくし立てたとしても、何もそれは、「あなた」にわかってもらいたいからでも、私はこんなに「わかっている」と自慢したいからでも、なく、ただひとえに、・・・、
この、「死」を待つだけの時間を、「理由」のない「罪悪感」に打ちひしがれながら過ごすことを「好きこのんで」引き受けた自分を、「弁護」しないと、「生きていけない」と、感じているからであった。

「言葉」は、人が「生きる」ために、必要な限りで、存在している。「背理法」や「無理数」や「必要十分条件」、「万有引力」、「酸化還元反応」・・・、などという「言葉」も含めて。
それに気がついたとき、私にとっては、テレビも新聞も、インターネットも「ブログ」も、書店に並んでいる書籍のうちの9割方も、「必要のない・言葉」に、なった。

トップの写真は、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)。どこで撮ったんだろう?覚えてないが。

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体調がひどいので、豆腐と納豆、いずれも半額セールをジャスコで買ってきて、丼にあけ、醤油をかけてかき混ぜ、焼き海苔を刻んでかけて、食す。最近まれに見る、立派な「料理」である。大豆に多く含まれるというトリプトファンを急遽摂取することによって、セロトニンの産生を促そう、というのであるが、果たしてそううまく行くものか?


セロトニン(左)、トリプトファン(右)

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イサキ【伊佐幾】(Parapristipoma trilineatum)
硬骨魚綱スズキ目イサキ科に属する海水魚。関東地方と北陸地方以南の南日本、東シナ海、台湾に分布するが、南西諸島にはいない。・・・
(「南西諸島にはいない」魚が、海に囲まれたこの島に、ジャスコのカーゴに乗って空輸されてくるのだろうか?そうして、「南西諸島」生まれの野良猫が、それを、食べる。「世界」は、このように、構成されている・・・。)

2009年05月02日

鮮やかなオレンジ色の・・・。



「クロ」ちゃん、生きているぞ!
ミルクを飲むとき、左手の手のひらの中で、力強く「手足」をばたつかせてくれるし、ミルクしか飲んでないからだが、鮮やかなオレンジ色のウンチをしたし、ウンチの後のお尻も「オー」ちゃんがなめてくれたし・・・。


おめめ、ぱっちり、「クロ」ちゃん。

「17日目の『クロ』ちゃん」動画、「『オー』と『びー』のアニュージュアルなカップル」動画、も作りました。
もちろん、「本当は」、こんなことをしている場合ではなく、もう、ずっと前に、「今晩中にしなければならない」と苦悶していたお仕事を、ゴールデンウィークまで持ち越してしまっているのでした。でも、まだ、あと、四日あるし・・・。

で、頼まれてもいないものは、やってみたくなるのが「人情」で、「逆行列をもつ必要十分条件」の件、あの答えを知りたい、という「人」が絶・対・に・いない、ということもないかも知れないから、つくってみました(↓)。「宿題:『√2が無理数である』件」も。こちら

http://www.geocities.jp/miyagawasusumu2009/works/math/reductive_absurdum/reductive_absurdum.html
「背理法」を、和英辞書で引くと、「reductive absurdum」、absurdばかげたもの、不合理なもの(誤謬)、に、reduce帰する、ということで、そう言えば昔は「帰謬法」と言ったものでした。

2009年05月03日

「ラング・ド・シャ」とは「猫の舌」のことなり。



60歳男性、どうも最近身体が「スッキリ」しない。旅行やゴルフが楽しめない・・・。そんなあなたに、「ノコギリヤシ果汁」と「セサミン」配合、、、

猫のトイレに新聞紙を敷きながら、そんな広告に瞠目する。

私は、自分の身体の不調がセロトニン、ノルアドレナリンの分泌の不全、によるもの、と「理解」している。間違っているかも知れない。「ノコギリヤシ」と「セサミン」で「スッキリ」快癒して「バリバリ」働けるように、なるかも知れない。

間違っているかも知れない、のだが、
1:仮にセロトニン、ノルアドレナリン分泌不全、だったとして、身体がたとえば「分泌不全」というような「症状」を通じて「解決」しようとした「問題」が何だったのかを、私は「知りたい」と、思ったし、
2:「治る」ということが、字義どおり、「元の状態に『戻る』」ということであるならば、一体、過去のどの時点に「戻れ」ばよいのかが、すでにわからなくなってきているから、
3:もし「治る」ということがあるとすれば、それは「病んでいる」ことを「知る」ことで、その「病んでいる」状態をもはや「既知」のものとして、恐れたり不気味なものとしたりして排除したりする必要なく、「常態」として受け入れることなのであろう、と思い、
4:一方で、たとえばSSRIならSSRIの、その「吹けば飛ぶような」錠剤のもたらす、かなり複雑ではあるかも知れないが、「特定できる」化学反応によって、「私の・気分」などというものが、易々と「変えられて」しまえるものであることを、経験させられたから、
5:こうなってくると、もはや「薬を飲んで、治そう」としている主・体・たる「私」が誰であり、「薬を飲んで、治されよう」としている客・体・たる「私」が誰であるかも不分明なのであるが、
6:そうであればこそ、やはり依然として、私の「病」は「言葉」の機能不全なのであろうから、それは「言葉」によって「理解」される以外にはないのだろう、やはり「ノコギリヤシ果汁」を飲んでいる場合ではないだろう、
と、考えるのであった。

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猫達は、ときどき、これまた気が向くと、なのかも知れないが、毛づくろいの合間に、寝転んでいる私の顔を舐めてくれたりする。
「ラング・ド・シャ」というが、肉食動物だけに、まさに肉をえぐり取る仕組みなのだろうから、これが慣れるまではかなり痛いものである。
母猫が子猫の全身をくまなく舐めるのも、清潔に保つというのみならず、皮膚に刺激を与えて血行を促すなどの効果があるのやも知れぬ。
「オー」ちゃんに全身を舐めてもらいながら、「クロ」は絶叫するのだが、これはきっと、「痛いけど、気持ちイイ」んだろう。そう、今日も、ちゃんと、生きているぞ♪

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このことは今でも、しばしば思い出す。僕は思い出してはしばしば苦痛に耐え、僕自身のことを考えようと努力している。数年来の政治や軍事の出来事は、僕がその昔子供のころに読んだ「孔子様はおっしゃった」と同様、ひとつも思い出せない。この小さな出来事だけが、いつも僕の目の前に浮かび、ときにはさらに鮮明となり、僕に恥ずかしい思いをさせ、僕に生まれ変わるよう促し、さらに僕の勇気と希望をより大きなものにしてくれるのだ。
「小さな出来事」魯迅(光文社文庫「故郷/阿Q正伝」所収)

光文社文庫の新訳を担当した藤井省三は、竹内好訳が魯迅の屈折する長文を明快に分節化しすぎたと指摘している。魯迅はもっとわかりにくく、言い淀み、口ごもって、いたのだ、と。

「言い淀む」からこそ、終わらないのだ。どれだけしゃべっても、「言葉」を使い間違えたように感じるから、しゃべり続けなければ、ならないのだ。
だから、私も、安心して、しゃべり続けるよ♪

2009年05月04日

「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」



「クー」ちゃん、車にひかれた後、犬に「喰われかかった」極端に臆病な猫であるが、後遺症で排尿の不如意が残るものの、「びー」と同じように一日二回程度の「圧迫排尿」を行っておれば、「おもらし」をすることもなさそうなので、避妊手術も済んだから「隔離」する必要もない、そろそろ「社会生活」になじませようか?と、小屋から出してみなと一緒に食事に「参加」させてみた。

うちの猫たちの「食事」に始めて「出席」したものは、すれっからしの野良猫であろうと、「動揺」するだろう。餌の入ったプラスチック製の箱のふたに私が手をかけるかすかな音を聞きつけて、二十数匹のケモノが、「砂塵を巻き上げ」んばかりにして食堂に「馳せ参じ」、うかうかしていると、こちらから別の猫が頭を突っ込んで来、あちらから別の猫が「手」で茶わんを持ち去ろうとする・・・。

「クー」ちゃん、相変わらず目をまん丸にして、うろたえながらも、少しは食べれた。後から小屋に戻して、ゆっくりお替りをあげよう。


「クー」ちゃん。

「ゴールデンウィーク」だし、私が一日中部屋にいて、多少は「仕事」をするものの、ほぼ全面的に「猫の相手」のみをしていればよい状態だからできるわざなのだ。

連休も終わってしまう。とは言うものの「連休」が好きなわけではない。仕事に出かけなくてもすむのは結構なのだが、ほかのどこにも出かけられない。
うっかり買い物にでも行こうものなら、ショッピング・モールでは、連休中に「家族連れではない・買い物客(否定文で定義された、、、)」など、「二級市民」に過ぎないことを、思い知らされる。

連休中に「仕上げなければならな」かった筈のお仕事の数々は、ようやっと3割くらいは「手をつけた」。あとは、今夜半までに、どれだけ、ごまかせるか、ですな。
とは言うものの、多少は進展したからこそ、こんな上機嫌で「ブログ」など、書いていられる。


「クロ」

関西人は「お笑い」が好き、と相場が決まっているが、確かに私も好きで、以前、3,4年前までは、まだテレビを見ることもあったから、ケーブルテレビの大阪ローカル局でやっている吉本の番組なんか、楽しみにして見ていたものだ。
沖縄に来てから、あるいは、その以前からずっとだったのかもしれないが、心の底から、そう、おなかの皮がよじれて痛くなるほど、息も出来ないくらい「笑った」という記憶が、ない。

日ごろ人前で、そんな無愛想な表情をしているわけではない。むしろ不必要に、ぎこちなく「ニコニコ」している。
「以前、『うつ病』で薬物療法受けてたことがあります」と言ったら、「そんな風には、見えませんね」といわれたことがあるが、「うつ病」患者はいつも「死にそうな」顔をしている、と思ってらっしゃったのかな?
人前で「堂々」と不機嫌そうに振舞えるくらい「根性」があるのなら、こんな病気には、ならない、てなもんでして・・・。

知らず、笑いを「取ろう」とする「関西人」性は健在で、思うに「笑い」というのは、何かしら「ずれ」を笑・う・ものなのであって、他人を笑いの「ネタ」にする限り、そこには当然のように「差別的」なニュアンスが入り込む、だから、「自分」を笑うのが一番安全なのであって、それどころか、他人様の「ずれ」をあげつらう余裕などなく、自分の「ずれ」についてばかり日がな一日考えているのであるから・・・。

お勉強のできる上品な私立高校に行っていたから、定期テストの前などは、「自分がいかに勉強していないか、できていないか」の自慢合戦になる。 
この歳になっても、「な〜んも、やってへん!」しか「自慢」することがないことに気づいて、ちょっとだけ、愕然とした・・・。


シロガシラ、鳴く。

うちは、川が切り開いたのであろう谷の片側のような地形に位置しているのだが、明け方、周りが静かだと、鳥の声が文字通り、「響き渡る」のだ。今朝も、そうしてシロガシラの

♪ぴっぴょ、ぴっぴょ、ぺいっぴょぴょ、ぺいっぴょぴょ、ぴゅ♪

の大合唱で目を覚ました。バックグラウンドには、メジロの

♪ちー、ちー、つー、ちー、つー、つー、ちー♪

が混じっている。メジロ、という鳥の姿も形も、鳴き声も知らなくても、「目白押し」という言葉が使えたのは、それにしても、不思議だ。

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そのシロガシラ、「クロ」ちゃん、その他の猫たちの「ゴールデン・ウィーク」の様子など、各種「動画」ありマス。

「クロ」ちゃんの、15コマ・マンガ
(↑これは、javascript使ってますから、携帯では見れません。)

タイトルは、昨日魯迅を読み終わったからで、特に意味は、ない。特に、新たに「絶望した」というわけでは、ない・・・。

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めじろおし【目白押し】
メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから、多人数が込み合って並ぶこと。また、物事が集中してあること。

2009年05月06日

「時間」に「棹さして」・・・



11分の7、12分の7、どちらも「有理数」だが、その「間」に11.5分の7すなわち23分の14という「有理数」を「見つける」ことが、かならずできる。こうして「有理数」は、限られた範囲のなかにも「無数」に存在する。その「無数」の「有理数」の「間」を、「もっと無数」の、「有理数・ならざる・数」無理数がびっしりと「埋めつくして」いる。これはもちろん、そんなこと真顔で考えるように私たちの頭は、出来ていない、という意味で「フィクション」なんであるが、
そのような「稠密」な「実数」に「なぞらえ」られる「時間」に、私たちは、「自然数」という「仕切り」を「棹さして」、これを「測定」する。

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「びー」がうちに来てから半年、だからこの「ブログ」も、半年。「捨て子3兄弟」、一人しか残らなかったが、が、うちに来てから三週間。

「びー」は入院していたこともあったが、一日二回することもあるから、およそ180回くらい、うんこが肛門からひねり出される様を見たことになる。「圧迫排尿」はその二倍くらいか?
「パンパース新生児用・80枚入り」は2パック目の途中、その前に「ユニチャーム・ペット用超小型犬用30枚入り」を使ってたしな。
「クロ」ちゃんたちにミルクを飲ませていた10ミリ・シリンジ、ゴムが劣化して、もちろん本来「注射器」としては、single_use_onlyなのだか、そんなもったいない、繰り返し使用していたが今日で三本目が壊れたからあとで動物病院にもらいにいこう、こんなベーシックな「医療器具」は当然といえば当然、とても安いんだけどね。

そうやって、私たちは「時間」に「棹さして」これを測定し、「棹」に作用する「抗力」から、「生きている」ことを、知・る・。

2009年05月08日

「しあわせ」とは、「しなくてもよいこと」のリスト、である。



私は、京都駅近くのホテルか何かにいて、会合に出席しているらしい。これが終わったら、若い「友達」たちを「飲みに」誘わねばならないはずだが、財布の中に所持金が千円しかない。
ホテル、らしきところにはATMが見つからず、銀行を探しに出るが、京都駅近くのどこに「沖縄銀行」があるだろう?
七条大橋を渡るのだが、鴨川は青く煙って、まるで揚子江のよう・・・。橋の欄干に手をかけて歩こうとするのだが、夢の中ではいつでもそうであるように、足が強張って進めない・・・。

そこで目が覚めた。お酒をやめてから10ヶ月になるし、いない「友達」を誘う必要もない。財布の中に千円しかないのは、本当のことだが、特に何も買う必要もないから、それで足りる。
「しあわせ」とは、「しなくてもよいこと」のリスト、なのだ。

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以前は「レンタル・サーバー」契約にお金がかかった。ただで、他人様のコンピュータ使って愚にもつかない文章を「掲載」できるのだから、文句は言えない。
ほぼ、「狙い」どおり、というべきか、「ノコギリヤシ果汁」談義の翌日には、「セサミン・サプリメント」の広告が付いた。村上春樹まで引用して「偽装」してみたのに、こじゃれた「フランス料理店」や「プジョー305」関連の広告は、あらわれないようである。
それに引き換え、確かに「ED」の話は、した、また「因果関係」、「十分条件」、「病前性格」など、さまざまな四字熟語に言及した記憶はあるものの、「仮性包茎」など、口走ったこともないのに、「性病クリニック」関係の広告が多いのを訝っていたところ、どうやら「SSRI」は「早漏改善薬」としても用いられていることを、それらの広告から知り、納得した次第である。

外部からの刺激に適切に反応するために、セロトニン、ノルアドレナリンなどの「神経伝達物質」がシナップス末端で急速に生成され、これが次のシナップス上の「受容器」に送り届けられなければならない。これらの物質は、伝達が完了するや否や、直ちに分解される。誤動作を防止し、情報伝達の安全を期する「冗長性」というべきだろう。
「SNRI(セロトニン、ノルアドレナリン再受容阻止薬)」、「SSRI(選択的セロトニン再受容阻止薬)」、は情報伝達後これらの物質が分解され「再取り込み」される過程の化学反応を阻害し、もってこれらの伝達物質の濃度を高いままに維持する役割を担う、らしい。
ならば、そのような薬物が、「性的興奮」を人為的に「長引かせる」作用を持っていたとしても、不思議はない。

「興奮」というのは多かれ少なかれ「攻撃的」なものであって、「躁」期に入って「元気が出た」と錯覚するのは、単に、不機嫌で、とげとげしく、いらいらした状態が「持続」するに過ぎないから、むしろ、弱々しく、無防備で、たださめざめと泣いていたいような「鬱」期の方が、「いとおしく」感じられるほど、すでに「病」に「なじんでいる」のであったが・・・。

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連休明けから、三日ばかり、そんな風に「躁」的に仕事を「がんばって」しまったから、おかげで少しははかどり、ますます影が薄くなっていた職場にも少しは顔向けができようというもので、結構なことなのだが、世間の「水準」からすればたいした働きでももちろんないのに、予想通り週末は激しく疲れ、「クロ」ちゃんにミルクをあげたあと、そのままカゴのわきで寝込んでしまったりした。
弱った「生き物」に対する慈悲なのだろうか?「モモ」ちゃんが、私の顔や額の生え際をていねいに舐めてくれるのを心地よく感じながら、眠り続けた。

今日で24日目、のはずだったんだが、「クロ」ちゃんは、亡くなってしまった。
またしても私は「寝過ごして」、「生」が「死」に替わる瞬間を、「見届ける」ことができなかった。


さようなら、「クロ」ちゃん・「歩く」編

昨日から、ミルクを飲み込める量が減っていたし、鳴き声もか細くなり、動きも鈍くなっていた。
でも、前も一度、そうなってから、ちゃんと回復したから、今度も大丈夫、と、根拠なく思い込んでいた。
10ミリシリンジも4本もらってきたし、「子猫用ミルク200ミリ」もあと2パックある。それらの「数字」が、未来に向かって流れる「時間」を、「保証」してくれるはずだった。


さようなら、「クロ」ちゃん・お食事編

今朝は、ことのほか冷え込んだ。明け方、ようやく起きだして、カゴからすでに冷たくなりかかった「クロ」ちゃんを手のひらに拾い上げ、私が真っ先にしたのは、・・・、電気ポットで湯を沸かすことだった。
「ペットボトル湯たんぽ」を作って、暖めよう、と思ったのだ。もはや否定しがたい事実として現存している「死」を、「見えない」ことにするつもりだった。


さようなら、「クロ」ちゃん・「オー」ちゃん、ありがとう編

お湯が沸騰する頃には、私も「意識」を取り戻した。
カゴの中を片付けた。ミルクをたくさん飲んでいるのに、おしっこがあまり出ないのが実は心配だったのだが、最後にはたくさんしたらしい。新聞紙がしっとりぬれていた。オレンジ色のうんちも、ちょびっとだけ、こびりついていた。
ほかの二人と同じように、新聞紙でお布団を作り、ほかの二人がすでに埋葬されている小さなプランターの上に載せた。

【動画】さようなら、「クロ」ちゃん

目が覚めるたびに、「クロ」にミルクあげなきゃ!と、あわてることも、もうなくなる。
そう、「しあわせ」とは、「しなくてもよいこと」のリスト、なのだ。

2009年05月10日

「林立する、『感嘆符』たち」



当然のように、「ペットロス・シンドローム」ということにして、それに「かこつけて(託けて)」、何もしない、午後。
昨日から、久しぶりの、一月ぐらいぶりの、「慈雨」になりましたの。「異常乾燥」だったんです。「家庭菜園」のウリ科系植物群も、ひからびていたところです。
猫の「おしっこ臭」に囲まれて暮らす我が家では、乾燥気味のほうがありがたいのですが、四囲を海水に囲まれた島国では夏場の「水不足」も心配で、だから、少しは雨も、うれしいのであった。

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みんな知ってますか。我々が使うびっくりマーク「!」と、疑問があるとき使う「?」マークは、猫のお尻のほうから見た模様なんやということを。上の部分は、びっくりしたとき、および疑問を持ったときのしっぽの形、下の黒丸は猫のお尻の穴だということを。「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」川上未映子(ヒヨコ舎)

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「ほんまか!?」、と、ゆうわけで、携帯カメラ構えて、猫の「背後から」の撮影、に、没頭するはめとなった。
警戒心の強い肉食獣なのだから、当然、「後ろに回ら」れることを嫌う。もしくは、「あ、遊んでくれるんや!」とばかりに、顔をこちらに向けようとする。撮影は、難航した。

とくに、いつが猫が「疑問を持ったとき」に該当するか?、を知り得ないから、「?」については、なおさらである。

写真、左は「林立する、『感嘆符』たち」、右は、「やや、疑問を持つ、キキ」

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かこつ・ける【託ける】 [動カ下一][文]かこつ・く[カ下二]直接には関係しない他の事と無理に結びつけて、都合のよい口実にする。他の物事のせいにする。事寄せる。

かこ・つ【託つ】 [動タ五(四)]
1 心が満たされず、不平を言う。ぐちをこぼす。嘆く。「不運を―・つ」
2 他の事のせいにする。口実にする。かこつける。【用例】「酔ひに―・ちて苦しげにもてなして」〈源・藤裏葉〉

2009年05月12日

お尻の穴まで、くっきりと・・・。



「捨て子3兄弟」を拾ってからというもの、一日数回「授乳」し、その様子をそのうち一回はこまめに三脚まで取り出してきてビデオ撮影し、少し気温が下がれば湯を沸かして「ペットボトル湯たんぽ」を作り、などという「ルーチンワーク」を、いそいそとこなし、そしてまたそれをご丁寧に、誰が見てく・れ・て・い・る・、というわけでもない、この「ブログ」に「報告」し、でも、たとえば、

「ほら、今日の『クロ』ちゃん、ちょ〜かわいいでちょ(^_^)v・・・、」

だけで終・わ・ら・せ・る・のは、私の中途半端な「教養」が許さず、そうして、言わずもがなくさぐさのことどもについて縷々論じ、これらの文章をひねり出すのに実は一日の大半を浪費しつつも、結構「充実感」があったのは、・・・、

こうして、3日目に「トラ小」、一週間目に「トラ大」が、3週間目には「クロ」が、それぞれ亡くなり、「行為を、その結・果・か・ら・、評価する限り」、現時点で「蓄積量・ゼロ」、「あってもなくても同じであったこと」に帰した、reduceされた、わけであるが、

あの日私が、あの木立の付近をたまたま通りかかり、段ボール箱に詰められた「それら」を拾ってこなければ、・・・otherwiseって、やつやね、・・・、これら自力で栄養摂取することも叶わぬ、かろうじて「生き物」であったもの達は、翌朝には同じ木立の根元で、間違いなくひからびて、通りがかる人々に「げっ、子猫が死んでるぅ」ぐらいの「ちょっと、いやな感じ」を残したかも知れないものの、今頃は、何の痕跡もなく「消滅」していたであろうから、

いや、「結・果・」としては、もちろん「同じ」なのであるが、この子猫たちが、その後、それぞれ3日、一週間、3週間、「生き延びた」事実に関して、私は「唯一の」目撃証人、・・・witnessって、やつやね、・・・、であるからには、「証拠」を「文書」において「保全」しなければならない、と、感じたまでであって、

「不要なもの」、「迷惑なもの」、は、「外部」に「捨てれば」、・・・abandonって、やつやね、・・・、うるさいっ!、・・・、よい、そこに放置すれば、「何の痕跡もなく『消滅』して」くれるような「何もない・場所」、「外部」が「ある」と、信じている、もしくは、信じた振りをしている、という「やり方」を、私はとても「不愉快だ」と感じるけれども、特にそれを「主張」したいからではない。

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ひなたぼっこに、うってつけの日・黒猫一家「ママ」ちゃん

「言葉」によって、何かが「伝わる」ということに対して、ほぼ、なんらの「信頼」も有していないことが、おそらく私の「病」なのであるが、それでもこんなにべらべらと不必要にしゃべり続けるのは、・・・、むしろ、「言語の不完全性」に対する「健全な」信頼、のゆえなのだ、と、言っても、よい。だ・か・ら・、

「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」

などと、書いてみた。

「証拠保全」のお仕事があったおかげで、この3週間、振り返ってみればかなり「健康」に過ごすことができた。他者を、take_careすることが、自分をcareすることになっていた。その対象が失われてしまったから、時折「ぐらり」と、悲しい。それが「ペットロス・シンドローム」なんだね。

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川上未映子・「!/?」ネタは、続けましょう。「お尻の穴まで、くっきりと・・・。」というタイトルで、異なった「業界」の方が誤ってクリックしてくださる可能性にも、期待しつつ・・・。


「ちょび」さん、「びっくり」する!


「キキ」ちゃん、「疑問を持つ」?

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一番上の写真は、旧式の冷蔵庫の上は、熱がもれて暖かいのだろう、かたまってまどろむトラ(左)とトン(右)。

2009年05月12日

「千成瓢箪」、「ボルヘス的な」意味で、・・・



「千成瓢箪」みたいな、とはいうものの、「せんなりびょうたん」を「見た」ことがあるわけではない。
「目白押し」も、そうだったように、私たちは、「見た」こともないものについても、「言葉」としては、これを「運用」できる、奇妙な生き物なのだ。

だいたい、あなた、1から1000まで「まじめに」数えたこと、ある?私は、ざらに、あるよ。「暗い」子供は、なんでも、数える。
両手の手のひら、合計十本の指が全部使えたとして、いくつまで「数えられ」ますか?正確に言うと、いくつまでの数が「表現」できますか?指を、「伸ばす/曲げる」を一対の「0/1」記号、「on/off」記号に「見たて」て、とは言っても、たとえば、他は全部のばして中指だけ曲げる、などは、多少の「熟練」を要する、「幼少期より音楽的環境に恵まれ、三歳からピアノ習っておりましたのよ!」風の人に教えてもらって、・・・、音楽の教科書の裏表紙に鍵盤印刷してあったやん?あれ指で押さえて「これがドミソです」って、それは一度でも「ドミソ」聞いた「経験」があるからこそ初めて「想像」のなかで「連合」できるんやろ?って、今なら悪態の一つもつける、「劣悪な」音楽的環境に育った私も、もう三十歳近かったが「練習」したから出来るように、出来るようにって、もちろんピアノのことではなくて、単に「中指だけ曲げる」ことですが、なったのだが、それはともかく「曲げ/伸ばし(曲げない)」の対を「on/off」の対に対応させることの出来る指一本を「2進数」の「一桁」に見立てると、片手では2の5乗で、
2^5=32
両手では2の10乗だから
2^10=1024
まで、「数える」ことができます。ちなみにこの1024という数字、コンピュータ技術者には馴染み深いものなのでして、コンピュータも、ある「素子」を電流が「流れる/流れない」を「on/off」ユニットに対応付けた「二進法」システムですから当然だが、たとえば1kB(1キロバイト)と言うときの「キロ」は、通常の用語法とは異なり、10の3乗、1000ではなく、この2の10乗、1024を用いています。
「2の10乗」が「10の3乗」に「近かった」のは「奇跡的」な偶然、なのでしょう。復習です。
1と異なる正の数aに対して、そのaのx乗がPに等しいとき、xのことを、
「Pの、aを『底』とする『対数』」
と、呼びました。
今の話に「適用」すると、
「2の10乗」が「10の3乗」に「近かった」
のだから、
「2の10乗」の10を「底」とする「対数」が3に「近い」
ことになる。Pのことを「真数」と呼ぶが、「真数」の「世界」でのn乗は、「対数」の「世界」ではn倍になる。これは、指数法則、
a^(mn)=(a^m)^n
から言えるのだが、例によって自分から話し始めておいてすでに飽きているから省略すると、
「2の10乗」の10を「底」とする「対数」が3に「近い」、は、
「2」の10を「底」とする「対数」の10倍が3に「近い」、ことになり、これが、
log2=0.3
の「意味」、でした。

「二進数」10桁で千まで「数えられる」ことがわかりましたが、では「半角」アルファベット、大文字小文字それぞれ26文字、合計52文字を「表現」するには「二進数」何桁必要ですか?
2^6=64
で、かつかつ6桁だがピリオドやコンマや数々の「記号」があるからこれではいかにも心細い、かといって、7桁というのは、「ラッキー」ではあろうが、奇数で「素数」で、そんな扱いにくい数だからこそ「ラッキー」なんだろうから、敬遠して、8桁、
2^8=256
「ニゴロク」と呼ばれる「業界」的には有名な数字で、この「半角文字」一つに対応する「二進数」8桁を、「8ビット」と呼ぶのでした。
ちなみに「ビット、bit」は、
just_a_little_bit...
のbitと「語呂合わせ」ではあるんだろうが、
binary_digit
から作った造語で、binaryは「二進法」、digitは、またしても、「鍵盤」の「鍵」、でした。

生物の遺伝情報を担うDNAは「アデニン(A)」、「グアニン(G)」、「シトシン(C)」、「チミン(T)」、の4種の「塩基」の配列だけで「意味」を生成する「4進数」システム、だが、DNAの「設計図」に基づいて作られる「タンパク質」というやつは、・・・、一つの炭素原子は4方向に共有結合が出来、4方向だからこそ、この世で最も「堅い」ダイアモンドのごとき、「安定」した立体構造をもちうる、という話はずっと前にしましたな、・・・、その炭素の「四方」、といっても立体的に四面体の頂点方向4方向のうち3方向に、
1:「水素」-H
2:「アミノ基」-NH2
3:「カルボキシル基」-COOH
が配置しているものを、「α(アルファ)・アミノ酸」と呼び、タンパク質はこれらが、相互に隣接するもの同士の
2:「アミノ基」-NH2
3:「カルボキシル基」-COOH
の間で水(H2O)が「とれて」、形成される「アミド結合(-NH-CO-)」ってやつで細長くつながったものなんですわ。
炭素の4番目の、残り一方向に何が配置するかでアミノ酸にはいくつもの「種類」がありうるが、タンパク質の材料として用いることのできるアミノ酸は、生物種により若干異なるものの、きわめて限られた数の種類でしかなく、人間の場合は20種で、前にセロトニンの「原料」としてご紹介したトリプトファンも、その一つである。だから、別に、豆腐食べなくても、私たちの体内にはすでに「無数の」、そうね、10の24乗個、くらいかしら?、の、トリプトファンが、居る。
さてDNAがタンパク質の設計図である、という以上、「次はどのアミノ酸、つなぐんでっか?」と逐一指示できるためには、「AGCT-4進法」システム、何桁必要ですか?
4^2=16
では、ちょいと足らず、
4^3=64
ではかなり余りますが、これから「進化」によって妙なアミノ酸使う奴が、絶対に出てこない、とは言えんだろう、ための「予備」で、情報理論ではこうゆうのを「冗長性(redundancy)」言いますの。「冗長」って、あんた、たいくつ、って意味でっせ、そんなもんに「性」つけるだけで、急に小難しい言葉になりまんねんな。というわけで3桁、よくできたもので、「現に」、あたし達、も、猫も、「千成瓢箪」ってそれ植物?も、そうなっているんであって、この3桁ユニットを、「コード(暗号)code」をもじって作った造語で「コドンcodon」といいます。

で、話を戻して、って「どこ」に「戻る」のさ?、ま、そんなもんですわ、「ボルヘス的な」意味で、「迷宮」、みたいな?、・・・、私たちは「まじめに」千まで数えたこともろくにないくせに、単に「めっちゃ、たくさん」という意味に「千」を代用する。英語でも
thousands_of...
と言うだろ?「千」が「たくさん」だから「千の千倍」は「たくさん」の「上塗り」で、まず「ミリオン」百万、ができ、以後3桁区切りの記数法がヨーロッパ語に基づいて、できた。
私が幼少の折、六甲山から眺め降ろす神戸の街並は「百万ドルの夜景」と呼ばれておったものだよ。金本位制に裏打ちされた国際基軸通貨1ドル=360円の、時代。

ミルフィーユ【(フランス)millefeuille】 《千枚の葉の意》パイ皮を重ね、その間にクリームなどを挟んだ菓子。

と、御覧のようにフランス語ではすでに「千」が「ミル」で「千の千倍・百万」が「ミリヨン」、英語の「サウザンド」はゲルマン起源なのじゃ、みたいなウンチクの「上塗り」をしたかったんだが、この間、「ラング・ド・シャ」談義のとき探したんだが、京都からもってきたはずのフランス語の辞書が見つからない。もう二度と買うほどのことはないから、もう二度と「フランス語・ウンチク」をすることは、ない。「老い」とは「もう、二度とすることのないもの・リスト」の謂いである。

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さっきから、メジロが激しく鳴いている。ビデオカメラ持って飛び出すと、もういなくなっている。そう言えば「イタチごっこ」と言うのに、私はまだ「イタチ」を見たことがない。「マングース」なら、うちの近くでも、よくお見かけしますけど・・・。で、さっそく調べてみたが、イタチは「イタチ科」、マングースは「ジャコウネコ科」で、それほど近縁種とも言えず「オチ」がつかなくなってしまった。そんなに「Yahoo辞書」ばかり引いていると、あなたも「検索バカ」になってしまいますよ!
いつかメジロの「目白押し」風景を、撮影してみたいものだ。

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「家庭菜園」のウリ科系植物、それを「千成瓢箪」などと呼ぶから、こんな長い話になった。「千成瓢箪」てトヨトミヒデヨシの豊臣家の家紋なんやろ?こんなこと知ってんの関西人だけなんか?別に「瓢箪」はどうでもええねん。ところで「瓢箪からコマ」って?、もう、いいから・・・。

その「鈴なり」になったちっちゃいスイカ様のものの正体が知りたくて、
「そうだ!図書館に行って『植物図鑑』で調べよう!」と、「生きる・目的」ができて「生きる・希望」が湧いたのに、結局時間なくなって、代わりに、コインランドリー、行った。
うちには洗濯機が、ない。洗濯機を置くべき場所に、「トモ」ちゃんというエイズ感染猫専用の小屋を設置し、「彼女」が亡くなってからもう何年にもなるのに、そのままにしてあるからだ。

「なくてもすむものが、実は、たくさん、ある」ことを知るのも、また、「老いる」ことなのであった。

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・・・
ちゃんと使いこなせるかどうか判らないけれど、結婚などして少しの変化の暁にはすんごい大きな冷蔵庫を買ってもらうのだ。でっかい白い冷蔵庫を買ってもらうのだ、という金銭に置き換えることも可能な、あるいは、「大きな冷蔵庫を買ってもらわないのだ」と置き換えることも可能な希望。
・・・
「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」川上未映子(ヒヨコ舎)

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瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出る
意外な所から意外な物が出ること。ふざけて言ったことが実現することのたとえ。

2009年05月14日

「園芸家12ヶ月」、または、エキゾチズムとしての・・・。



結局、図書館に行く時間もなく、また、気力も失せてしまい、つまり、「生きる目的」、「生きる希望」ともに、一時的に見失い、・・・、「検索バカ」でお茶を濁すことにした。

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双子葉植物離弁花類ウリ科オキナワスズメウリ属オキナワスズメウリ(Diplocyclos palmatus)
つる性の1年草。葉は心形で、長さ幅とも10cm程度。掌状に5〜7裂し、裂片は卵形〜卵状披針形で、先は鋭く、縁には細かい鋸歯がある。
花は葉腋につき雌雄同株で、径約1cmと小型で淡黄色。果実(液果)は球形で、径約2cm。赤や緑、茶色に白色の縦縞模様がある。
【花期】1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
【分布】九州・沖縄 【草丈】ひざ〜背丈以上(つる草)
【環境】人里・田畑,山地・低山,森林・林縁

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おおっ!・・・あったぁ(^_^)v
「検索バカ」も「バカ」に出来ないわね!

それにしても、「図鑑」で「おっ!これだ、実のデザインも葉の形も、蔓の様子も、そっくりだ!」とばかりに、求めていた「種」を「発見」する瞬間の「悦び」は、いくつになっても変わらないもの、これこそが「生きる目的」だ、といっても過言では、ない。

何でも「園芸」系の人たちの間では、そこそこ人気の品種であるらしいことが窺われる。種子の「販売」まで、行われているようだから・・・。
「南島」としての「オキナワ」、「エキゾチズム」の「視線の対象」としての・・・、、、ま、「亜熱帯」が商品価値を持つのはこうゆう業界「だけ」なんであって、「猫」や「予備校講師」なんて、「そんなのこっちにもあるから・・・」。

で、そう言われてみると、人間というのは、全くあさましいもので、「なかなか、かわいい実ぃー、やんか!」などとつぶやいている次第。


オキナワスズメウリ・葉/実と蔓。あ、間違えた、逆だ。

あたしは、てっきり、生ごみとして放置したスイカか夕張メロンか、かぼちゃか、なんかそんなんの食べかすから、蔓がにょきにょき生えてきたんだとばかり思ってたから、そんなに「大事」にもしていなかったんだけど、

こんなことなら、花が咲いているときも、もっと、ちゃんと写真撮っておけばよかった。下右の写真は、4月9日の日付がある。まだ、花の痕跡が、残っているでしょ?


オキナワスズメウリ・「鈴なり」/まだ、花の痕跡が・・・。

というわけで、驚きのあまり「一筆をっ執って」見ました。トップの写真は、「ちょび」さん。子猫は昼寝が「仕事」です。あ、沖縄産ですけど、「平凡な」シャム猫です・・・。

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そうそう、忘れてた。オキナワスズメウリの学名のラテン語でもネタに、また偉そうなウンチクひねり出そうとしたんだけど、・・・、無理で、でも、「努力」の経過だけ報告しておくと、
diplo-は「二重」の意味。doubleと関係あるんだろうな。cyclo-は、これは知っている、「環状」だ。何かが「二重巻き」、なんだろうな?
palmatusの方は、palm手のひら、じゃないかしら?説明にも「掌状葉」とあるし、さ。

diplomatが「外交官」なのは、diplomaが「許可状」で、それを受けた人だからだ。diplomaは「学位」だったりもするけど。で、なんで「許可状」がdiplo-ではじまるか?というと、紙が二重におりたたまれてたからなんだって!・・・だから、どうした?この「検索バカ」!

2009年05月15日

いまだ、「名付け得ぬもの」があること・・・。



図鑑などで、名前を調べる、確かにこの植物なり何なりが、そこに記載された「名前」を持つ「種」に間違いない、と決定することを「同定」する、と呼ぶ。まさに、「identify」・「同一化」ということだな。
私たちは、私たちの回りのものを「同一化」することで、それに「名前」を与え、しかるべき場所に「置く」ことで「安心」する。

庭ににょきにょき生えてきた植物が、どの図鑑を調べても載っていない、どうやら、これは、まだ発見されていない「新種」らしいですよ!、と言われて、人は、まず、「喜ぶ」より前に、「そんな、気持ち悪い」と、思うのではないかしら?

私たちは、私たちが手にしているものが、カタログに載っている、ありきたりのもの、紋切り型のもの、どこにでもある平凡なもの、・・・、であることを、「望んで」いる。

それにもかかわらず、
「あなたにしか出来ないことがあるのよ!」
「誰の真似でもない、『あなた』らしい『あなた』でいてください!」
「世界にたった一人しかいない、『特別な』人」
などと言って、脅迫するのは、
いったい、どうゆう、こっちゃい!!

そう、

この植物は、双子葉植物離弁花類ウリ科オキナワスズメウリ属オキナワスズメウリ(Diplocyclos palmatus)といい、

これは、昆虫綱鱗翅目マダラチョウ科オオゴマダラと呼ばれる蝶であり、

この鳥は、トキ科クロツラヘラサギと呼ばれる「冬鳥(Winter Visitor)」であって、

さらに、これは、硬骨魚類スズキ目スズメダイ科に属するミスジリュウキュウスズメダイという魚、

そして、これは、トヨタ社製カローラ1300LX-S(1995年式)と呼ばれる自動車、

この動物は、ネコ科ネコと呼ばれるものだが、実は慢性の病気に罹患しており、その病名は、ストルバイト尿管結石、と呼ばれ、
リン酸アンモニウムマグネシウム6水和物(NH4MgPO4・6H2O)という、結晶が尿中に生じることが原因であるから、リン酸の電離を阻害するため、尿の液性を酸性に保ち、食物から摂取されるマグネシウムイオンの量を制限することが望ましい、のであり、

そして、この写真のネコの後方に写っている動物は、霊長目ヒト科ヒト(Homo Sapiens)と呼ばれるものであって、その罹患している病名は、双極性気分障害(双極2型)、と思われ、

このようにして、私たちは、ちゃんと、平凡な、「世界には、ほかにも、同・種・の・も・の・が・あ・る・」ところの、「名前」をもっているじゃないか!
「世界」に「同じよ・う・な・も・の・」、「似たよ・う・な・も・の・」があるからこそ、私たちははじめて、世界に「同質性」を感じ、世界に「溶け込めた」と感じられるのだ。
ね、「初めて群れに入れられた子ゾウのような気分。」(豊島ミホ「エバーグリーン」・双葉文庫)

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「クー」・「びー」横顔


「ちょび」・「とら」ちゃん
(特に本文の内容とは、関係ありません。)

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北では雑然としていて、なんの興味もわかないままだった植物が、ついで南では、種の一つ一つがそれ固有の意味を私に味わわせてくれる別のものになっていた。それはちょうど、どこにでも見られる村から、石の一つ一つがもはや家の一構成要素ではなく、一証人となる考古学上の遺跡に連れてこられたようなものであった。わたしは興奮して小石だらけの土地を歩き廻り、小さな茎の一つ一つが、たちじゃこうそう、花はっか、まんねんこう、めぼうき、なよしだ、月桂樹、ラヴェンダ、西洋やまもも、ふうちょうそう、にゅうこうと呼ばれ、貴族証明をもち、特権的地位をもらっているのだと、自分に繰り返し言った。
・・・
「悲しき南回帰線」レヴィ=ストロース、室淳介訳(講談社文庫)

で、次の「課題」は、これなんですわ。


これも、「オキナワスズメウリ」同様、どこからともなく飛来し、ベランダのプランターに着床、見る見る成長し、今では1.5メートルくらいの高さの「潅木」である。典型的な双子葉植物らしい「網状脈」、表には多少つやのある「複葉」、・・・、でも今までのところ「花」が見つからず、だから、図鑑で探すのにも手がかりが少なすぎる。
昨日、図書館にちゃんと行ったんだよ。閉館30分前にやっと着いたから、ゆっくり調べられなかったけどね。
まだ、「名付け得ぬもの」があることを、喜びとしようじゃないか!

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ところで、川上未映子・「!/?」ネタ、を続けると・・・、


「ぷー」・半「疑問」


「たま」・「感嘆」


「テン」・ほぼ「疑問」


「ぼーず」・「疑問」


「リー」・逆「疑問」

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一番上の写真は、「びー」近影。この週末私は、それほど疲れるはずもないのに、またしても何もかも「投げやり」で、二日間で40時間ほど眠ったから、さすがにうんこの世話も怠ってしまい、かわいそうに「びー」は一度、オムツの中にちびってしまった。うんこはオムツからあふれ出てはおらず、床は少しも汚れていないのに、「ざっ、ざっ」と前足で引っ掻いている。「本能」とは不思議のものよのぅ、と思った次第。久しぶりに「お尻のまわりシャンプー」、もう水が冷たくないから、よかった。

2009年05月18日

「うんこ・コラボ」、または「お尻を突き出して、おねだり♪ 」



身体のどこかに不調がある、ということが意外な、別の場所に影響を及ぼしかねない、ということは、自分の「病」に徴しても、知る機会に恵まれ、生き物の身体とは、ほんに不思議のものよ、と感じ入っていたところであったが、
たとえば「びー」は、とくに背中の「毛づくろい」が、うまく出来ないようなのである。後ろ足が動かないから、上半身を安定的に起こすことに困難がある。猫の「毛づくろい」を子細に観察して見られたことがあるだろうか。なかなかの重労働である。あんなに勢い良く首を振ったら頭がくらくらするのでは、と心配になるほどである。
春から夏に変わるこの季節、「獣=毛もの」達は、「換毛期」で、抜け毛も一段と多い。年中毛だらけの「我が家」ではあまりかわりばえがないのだが・・・。
そんなわけで、「びー」の背中に抜け毛や汚れがたまっている場所が出来てしまったみたいなので、「ペット用蚤とりコーム」で、櫛けずってあげることにした。このコームは金属製の強力な櫛で、こんなもので頭梳かしたら痛かろう、という代物なのだが、猫達にとっては気持ち良いものらしく、うちの26頭の「統計調査」、「標本抽出」よる「推計」ではなく「母集団」の全件についての調査であることに注意、でも七割近くのお客様から「とても、気持ちいい」との回答をいただいている。
特に、去年の冬亡くなった、猫エイズ陽性/慢性腎不全の「ジェリーさん」は、これがことのほかお気に入りで、背中に櫛を当てると、普段どおりの不機嫌な表情のままではあるものの、お尻を突き出して、「もっと♪」とおねだりするのだった。
「びー」の背中からも、ごっそり無駄毛がとれて、気持ち良さそうである。

なぁ、「びー」、あんたが来てから半年、もう二百回くらい、うんこ一緒にしてきたやんか?最近、なんか、息が「合ってきた」ってゆうか、そろそろこのうんこちぎれて落ちてほしいな、ってあたしが思うと、ちょうどいいタイミングであんたが「んっ!」て力んでくれて、ぽろりってうんこ落ちてくれること、多くなった思わへん?こうゆうの「コラボ」ってゆうねんで!「うんこ・コラボ」や。あたし、そうゆう言葉、あんまし好きやないんやけどな!
はい、お尻のまわり拭いてぇ、おむつ替えてぇ、あと、どこかお痒いところ、ありますぅ?

予想どおり「お尻の穴までくっきりと」の回は、類例ないアクセス数を記録したので、今回も「お尻を突き出して、おねだり♪」

2009年05月21日

資本主義の「外部」



今年度は、病気が「再発したぁ!」ということにして、仕事を思いっきり減らしていただきましたの。
去年までは、週に15コマくらい授業してたんですけど、今年は、わずか6コマ、「らくちん」です。もちろん給料も半減です。なるべく出かけないようにして、消費への欲望が刺激されないようにして、「息をひそめて」暮らしています。

「減らしていただきました」なんて、あたかも「主体性」があるかのように言っていますが、もちろん、これは「会社」からすれば、「パフォーマンスの悪い『無能』な従業員を『干した』」ということであって、だから私は、「敗残者」、「負け組み」、「下流」かも知れません。
でも、いいです。ねっ!「資本主義」って、「降りる」ことができるのかも知れませんね。これは「希望」であるかもしれません。少し控えめに言っときます。なんせ、あたし、長年、「資本主義」って「打倒!」するものだとばかり、思ってきたものですから・・・。

どうやら私には、「限界人獣比(Critical_Human_Animal_Ratio)」みたいなものがあって、日頃出会う「人間」の数が、「動物」より多くなるとうまくやっていけないようなのでした。今は、週6コマの授業で、受講者数もひょっとしたら26より少ないかも知れない!

こうして私は、自分もまた四足獣の「群れに入れてもらった」ような気がして、その中で、稀有な二足獣として存在している「意味」について、考えてみるのでした。



左側の図が「ネコ」であります。頭の重量をW1、頭以外の部分の重量をW2としましょう。これらの2力はいずれも「重力」ですから、地球の中心に向かいます。もしそれしか力が作用していないのなら、このネコは直ちに地球の中心に向かって「吸い込まれて」しまうであろうことが、ニュートンの「運動の第2法則」の教えてくれるところであって、このネコがちゃんと床の上をのうのうと歩いているということは、これら重力にちょうど「つりあう」何らかの力が存在していることがわかります。本当は4点で立っているのだが、面倒なので、ネコの前足と後ろ足2点で重力が床によって「支えられ」ている、これを「垂直抗力」と呼びますが、それをそれぞれN1,N2といたしましょう。
鉛直方向には、このネコが浮き上がりもせず、地中にめり込むこともしていない以上、これまたニュートンの「運動の第1法則」により、これら4力が「つりあい」の関係にあることがわかります。すなわち、
W1+W2=N1+N2・・・(1)

右側の図が「ヒト」であります。同様に、頭の重量をW1、頭以外の部分の重量をW2、足も本当は2本あるからこれらを2点で支えているのだが、やはりめんどくさいから1点と言うことにして、床が人を支える「垂直抗力」をNとします。同様に、
W1+W2=N・・・(2)

大きな違いが生ずるのはここから先なのであって、ごらんのように、「ヒト」では、作用する3つの力がすべて「同一直線上」にございます。これに対して、「ネコ」では4力すべてが「互いに平行な直線上」にありまする。
互いに平行な「作用線」を持つ反対向きの2力は、物体に「回転運動」を生じさせます。これを「力のモーメント(トルク)」と申しまして、回転の中心と作用線の「距離」と、力の大きさの積、で定義されます。
「ヒト」では、作用線がすべて同一ですから、モーメントが現れる余地がありませんね。「ネコ」では、上の(1)式以外に次の「モーメントつりあいの式」がみたされない限り、ネコは「転がって」しまうことになるのでした。「どこを中心にしても転がらない」条件を記述するのが「モーメントつりあいの式」ですから、回転の中心はどこでもかまいません、前足の着地地点にしておきましょう、次のようになります。
aW1-bW2+(b+c)N2=0・・・(3)

この式からお分かりいただける通り、頭の重量W1が残りの身体の重量W2に比して過度に大きくなるかまたは、キリンのように首の長さaが異様に大きくなると、どこかでN2が0になってしまう。それはもはや「垂直抗力」として機能していない、ということであって、その段階で「ネコ」は、後ろ足が「浮き」、前に「つんのめって」いることになります。

これが、「二足歩行」の意・味・です。
人間は直立している限り、かなり重たい「頭」を支えることが出来るのです。というか、直立しない限り、こんな重たい「頭」を支えることが出来なかったのだ、と言うべきでしょう。もちろん「二足歩行」は不安定です。右の図を少し斜めに傾けて見ましょう。どちらに傾けても、3力はすぐさま「互いに平行」になりますから、大きなモーメントが発生し、人間は直ちに「転び」ます。

トイレに行くたびに「立ちくらみ」を起こしながら、私は、こんなことを考えていました。

☆★☆


ちょっと、あなた、「殿様」なの?トノサマバッタって。

上の写真は、オキナワスズメウリ(拡大図)、4月ごろビデオで撮ったのが残ってました。花や蔓の様子がよくわかりますでしょ?

2009年05月25日

「管理されない『性』」、をめぐる一考察。



今日は、「はな」ちゃんの「避妊手術」。「避妊手術」などと言う「婉曲表現」はよくないですね。「卵巣摘出」なのだから・・・。
私がいつもお世話になっている動物病院では、犬でも猫でも、オスの「去勢手術・精巣摘出」は一泊、メスの「卵巣摘出手術」は二泊、料金もまたほぼそれに比例、精巣は体外に露出しているのに、卵巣は奥深くにありますから、それだけいわゆる「侵襲性」の強い手術、と言うことになるのだろう。
哺乳類では、精巣は、・・・、などと言いかけて、本当にそうなんだよな?うちの「爬虫類」代表の「かめお」君の場合、なぜオスとわかったかと言うと、図書館で図鑑を調べ、「甲羅のふちにぎざぎざが」あるのないの、が、確か、雌雄の区別ポイントであることを知ったからで、「彼」の性器を見た、わけではない。


「はな」、動物病院の待合室、血液検査の結果を待っているところ。

「はな」が、「ムースポッキー事件」の舞台、「ペペ」が捨てられていたのと同じ公園に、柱にリードで「くくりつけ」られ、水とえさの容器のそばに「拾ってください」のボールペンの「なぐり書き」、いや、字が下手なことを「責めて」いるわけでは、もちろんなく、そのノートをちぎったとおぼしき「なぐり書き」の紙切れが水の入った2リットルペットボトルで風に飛ばないように押さえられている、という状態で、やはり捨てられていたのが、・・・、近づいている15号、だったかしら?、台風の影響で激しい雨が降り始める直前だったから、「やむなく」リードを解いてうちに連れて帰ったのが、一昨年の秋。

これまで何度か「発情期」を迎え、そのたびに、散歩ごとにすれ違う他人様のオス犬は大騒ぎして離れてくれないわ、いわゆる「放し飼い?」されているオス犬達は、路地の奥まで入り込んできて切ない声で鳴き、例外なくそこで脱糞していかれるから、気がつけば拾うものの、ご近所に対し私も肩身が狭く、・・・、まことに「管理されない『性』」の底深い闇を垣間見た気がしたものであった。

「牧畜」が農業の主要な形態のひとつにはならず、遊牧民族との接触も経験していないから、日本文化には「去勢」という概念が根付かず、洋の東西を問わず広範に見られる「宦官」というシステムを欠いていて、それが平安期の王朝文学にみられるような、「過度にリベラルな『性文化』」をもたらした一因だ、みたいな話を読んだことがある。
なるほどね。確かに家畜の頭数をだらだらと増やすわけには行かないし、その中で、すぐれた個体の子孫だけ残す「育種」という「優生学的」な観点がでてくれば、比較的簡単な方法で安全に出来るオスの「去勢」という方法が採用されるのも当然だろう。で、「人間はみな平等である」みたいな近代イデオロギーが妨げとなる以前の時代であるならば、「王位継承権」や「財産相続」の問題を錯綜させないために、それを「人間」にも適用しよう、と考えるのはむしろ自然のことなんだろう。
私たちの「文化」に「去勢」が欠けているのなら、では「去勢コンプレックス」はどうなるのかしら?と興味は尽きないのだが、苦手な「比較文化論」はこの辺にして・・・。

今までに十数匹の犬猫の「去勢/避妊」手術をしていただいてきたけれど、手術前には「同意書」を提出するのがお約束だ。
麻酔をかけるから、そうでなければ痛みによってショック死する可能性のある手術も可能になる。でも身体が発する重要な危険信号である「痛み」を「感じないようにする」ということは、当然身体そのものを、きわめて「死」に近い、危険な状態に置くことにほかならない。
だから、当然、「失敗」はありうる。
どんなに経験によって検証され、ルーチン化され、マニュアル化された方法であろうと、「失敗」の「確率」を「ゼロ」にすることは、「不可能」である、というのが、「近代」の「知」であるから、「近代」の「知」を学んだはずの私も、それを「わきまえて」いる。
だから、「うちの子に限って、・・・」とは、決して、言わない。

「確率論」が教えてくれることは、「『絶対に○○である』、と断定することは、絶・対・に・、で・き・な・い・」という、これまた「否定文」で書かれたステートメント、なのであった。

だから、私も「人の親」、いや「犬・猫の親」であるから、手術のために「子」を病院にあずけてきた後はいつも心配で、心配にかこつけて「何も手につかない」ことにするのであった。

☆★☆


ゴイサギさん、近接撮影に成功。「おてて」、もちろん足の指ですが、5本くっきり見えますな。明け方、いつも同じ場所で、川の流れをじっとみつめ、獲物、なのでしょうか?「何か」を、待ってらっしゃるようです。

一番上の写真は、「ホウオウボク」。
・・・【マメ科の常緑高木。上部で枝を横に広げ、樹形は傘状。葉は羽状複葉。夏、多数の赤色の5弁花が散房状について咲く。マダガスカル島の原産。熱帯地方で街路樹とする。】・・・
とのことです。ここ「亜熱帯地方」でも、多く街路樹に用いられています。「花蜜食」のメジロが来るはずなので、カメラかかえて公園まで行ったが、おらず、とりあえずは、花だけでも・・・。

2009年05月28日

少しだけ、遅れる「時計」、について・・・。



「はな」の手術は、無事終了。お見舞いに行ってきた。写真撮るの、忘れた。じゃぁ、代わりに「ペペ」の写真でも、と思ったら・・・、

ペペがおなかをこわした。
犬というものは、猫に比べると脳の容積が格段にでかいから、きっと、「賢い」のだろう。現に、「介助犬」や「麻薬捜査犬」など、決して猫にはできないお仕事をしている犬がいるのだから、そうなのだろうが、私にはどうもあまりそう思えないところがあって、犬は猫より、よくて「愚直」だ、だから、猫みたいに好きなときにうんこぶりぶりしたりしないで、「散歩のときにうんこはするものだ♪」と「決められ」ると、律儀に守って、雨が続いたり、飼い主が「鬱」とか言って寝込んだりすると、じっと我慢してしまったりする。
そんなわけで、「はな」は、まだお散歩以外でうんこしたことがない。「ペペ」は、飼い主の「病状」が一番ひどいときを経験しているから、さすがにそうも言っておられず、ベランダの、「彼女」的・に・は・、「決まった」場所に、うんこをする、のだが、今回は、そこまで歩いていく体力もなかったらしく、小屋の中の敷物の上でしてしまった。


「ムースポッキー事件」は「セプテンバー・イレブンス」の翌年の春だから、「ペペ」がうちに来てからもう7年になるのだが、そういえば、調子悪くなったこと、おなかこわしたことさえ、一度もなかった、だから、私も、動揺した。
ビオフェルミン飲ませて様子見よう、と思ったら今度は勢いよく、吐いた。今日は雨で気温も少し低いが、それにしても震えるほどでもないのに震えているのは、悪寒がするのだろうか?

「病院に連れて行かなきゃ!」という段階になって、いつも、葛藤する。もちろん、お金のこともある。今年は給料も減ったし、これからだって、こんな時代だし、こんな歳だし、こんな身体だし、うちの「子」たちに常に「潤沢な」ケアがしてあげれる保証は、もう、ないのだ。
自分の「病」について考えた経験からも、病気というものは、そもそも、「自分の身体の力」で治せないものは、「治らない」というべきなのではないか?などと考えてしまうし、私が家で出来ることは私が自分でするのだ!という「矜持」もある。
実際、病院に連れて行っても、明らかな、何らかの、急性の症状を示している、という場合でない限り、「では、とりあえず、点滴をして、様子を見ましょう」ということになることが多いのだ。
点滴だけなら、うちでも、できる。

でも、そうやって、素人考えで引き延ばしていたら、重篤な病気にかかっていた場合、手遅れになってしまった!ってことだって、ありうるじゃないか?!

だから、「葛藤」する。「葛藤」の末、点滴を入れ、「ペットボトル湯たんぽ」を作り、あとはただ、見守った。
少し落ち着いたみたいだ。「ペットボトル湯たんぽ」は、暑苦しくて邪魔だったらしい、腕で押しのけて、丸くなって休んでいる。息が荒いのも収まったし、表情も緩んでいるように見受けられる。大丈夫かも知れない!
よかった!

夕方、私が仕事に出かけるまでには、ちゃんと立ち上がれるようになって、ご飯も欲しそうにするのだが、腸の粘膜は、荒れた部分が新陳代謝で回復するまで丸一日以上はかかるそうだから、申し訳ないが絶食していただく。ビオフェルミン5粒、おいしそうに噛み砕いて、食べた。
よかった!

☆★☆

「止まっている時計」と、「一日に3分遅れる時計」と、どっちが、正確?

「止まっている時計」は、一日に2回「正しい」時刻を指してくれるが、「一日に3分遅れる時計」は、
(12×60)÷3=240
で、240日、そうね、8ヶ月ぐらい、ごとに一度しか「正しい」時刻を指すことがない。
ただ、「止まっている時計」が「いつ」、正しいのかは、別の「正しい」時計がない限り、決して、知ることはできないのだが・・・。
もう一つ、もし、「一日に3分遅れる時計」が、一日に、かならずきっちり3分、遅れる、と言うのなら、その時計は、「正確」と言うのが語弊があるとしても、きわめて「信頼性の高い」時計だ、と言わねばならない。その時計が示している時刻と、「実際の」時刻との間には、厳格な「関数関係」があるのだから、そうね、その時計の隣にコンピュータを置いて、エクセルでもビジュアルベーシックでもジャバスクリプトでもいいから、その時計の指す時刻を入力すれば「正しい」時刻をたちどころに算出してくれるプログラムを書いて、常時起動していればよい、って、あの、コンピュータに時計付いてますって・・・。

「計測機械」に対しては、人間に対してと同じように「狂う」って言葉、使うじゃない?
だから、こんなことを考えてみた。上の例では、二つとも、「時計」の側のロジックとしては、少しも「狂って」いない、少なくともシステムとしては、とても安定しているわけよ。でも、それを「外から」眺めると、い・つ・も・、「支離滅裂な」時刻を指し示しているわけだから、やはり「狂っている」ことになる。
でも、「狂う」の、もう少し常識的な語感からすると、「正しい」時刻、と言うものが仮に本当にあるとして、その「正しい」時刻からの「ずれ」方自体が、もっと「不可解」で「支離滅裂」な場合の方が、「ふさわしい」気もする。

情報理論や通信工学では、多分使うと思うんだけど、「S/N比」って言葉があるのね。「信号(Sign)/雑音(Noise)比」ってことで、情報を「伝達」する回路ってやつには、どうがんばっても、かならず雑音が発生するから、伝えられた情報を「正しく」解読するには、その雑音を除去する仕組みがなくてはならないのだが、伝えるべき「信号」に比して「雑音」がある程度以上でかすぎると、何が拾い上げるべき「信号」やら何が除去すべき「雑音」やら、訳がわからん状態になってしまう、ということなのであって、
「雑音」と言うのは、何も文字通りの「雑音」ばかりではなくて、私たちの言語による意思伝達の過程を振り返ってみれば、「言い間違い」、「言いよどみ」、「勘違い」、「聞き違い」とか、「ぼおっとしていて聞き逃したのに、聞いている振りをした」とか、「思わせぶりな身振りを加えたために、『誤解』された」とか、そういうのもある種広い意味の「雑音」であって、私たちは、それらを「除去」し、真・の・「信号」とお・ぼ・し・き・ものを「復元」しながら他人の話を聞く、のだから、この場合もやはり「雑音」があまりにでかすぎると、何を言っているか訳がわからなくなる。

でも、ここでもまたしても「どうどうめぐり」っぽい「背理」にぶつかるのだが、どうして情報が伝わって、解読される「以前」に、「ここが信号で、ここは雑音、だ」って言えるのだ?

私は、自分の「病」が、「言葉の通じなさ」と関係がある、と感じている。「言葉が通じないこと」は、多分、少なくとも幾分かは、私が、ここ「沖縄」と言う土地にとって、「外国人=エイリアン」であることと、関係あるのだろう。私は、沖縄などに来ることなく、ずっと京都に住んでいても、やはり「発狂」したかも、知れない。でも、一度しか「生きられない」人間に対して、その「仮定」はあまり意味があるとは思えない。だから、「沖縄に来たから『発狂』した」という「因果関係」は、決して立証できない。だから、安心して憶断を述べよう。
もうじき、私がここに来てから、10年に、なるのだよ・・・。

スティングが、
I'm an arien. I'm a legal arien. I'm an Englishman in New York.
と歌っておりましたでしょ?「ニューヨーク、って英語通じるやん、「外国人」、「エイリアン」て、そないにたいそうにいうことかいな?」って思ってましたけど、きっと「たいそうなこと」なんでしょう、今だから思えます。
名前が思い出せないんだが、あるレゲエ・ミュージシャンの、この曲のカバーが、
I'm a Jamaican in New York.
なんだが、"legal arien"なのか"illegal arien"に変えてあるのか、私の悪い耳では聞き取れないし、また、そうだとしても、その「ジョーク」の「ニュアンス」は、私には、わからないんだけどね。

☆★☆

上のお写真は、もちろん、オキナワスズメウリ♪なるほど、「園芸」系の人々が注目するのも無理はない。みずみずしいプチトマトのように、赤く「完熟」した実は、非常に愛らしい♪
どこからともなく種が飛んできて根付いたのだろうに、こうなってみると、浅ましい、一年草というが、来年も、育ってくれるだろうか?などと、気にしている。来年、あんたが「生きてる」かどうかも、わからないのに、ね♪

「はな」は、明日、退院。「ペペ」もちゃんと元気になっていれば、明日の朝お散歩に行こう!明日は仕事は、ない、「ウィーク・エンド」だ♪

2009年05月29日

「条件付き」の「希望」。



「ペペ」、散歩に行って、「よい」うんこをしたから、よかった。回復だ♪
一日半ぶりに、ごはんを、あげよう!

1:うんこをしない、
または、
2:「悪い」うんこをし続ける、
ことが「停止条件」として付加された、食糧供給を内容とする「条件付き債務」。

写真は、「よい」排便後、の「ペペ」

次は「はな」の退院のお迎え。それが済んだら、図書館に行って、昆虫図鑑と植物図鑑を、調べよう♪さらに、ホームセンターに寄って、大きめのプランターと土木用の砂を買おう。梅雨と台風シーズンに備え、犬達がベランダでうんこ・しっこできる設備を整えるのだ☆

ま、もっとも、これも、
1:そのときも、私が、生きていたら・・・、という「停止条件」、
もしくは、
2:そのとき、私が、死んでいなかったら・・・、という「解除条件」、
のついた、「条件付き」の「希望」、なのであるが・・・。

2009年05月30日

この「蜂」と、この「蜂」が蜜を吸っているところの「花」の名を知りたくて、



この「蜂」と、この「蜂」が蜜を吸っているところの「花」の名を知りたくて、図書館に向かったのだが、どうして私が図書館に着くと、いつも、閉館間際なのだろう?こんな「人生」ではなかった、ちゃんと、物事に「計画」を立て、「時間」を気にしながら、「余裕」を持って、つまり、見よう見まねではあるが、他人様と同じように、「生きて」きたつもりだったのに・・・。

「蜂」の方は、「マルハナバチ」の仲間ではないか?「トラマルハナバチ」ではないのか?と、一時はかなり確信を持ったのだが、いくつも写真をみれば見るほど、腹の模様がこんなに青くないのだ。
人間、自信を失うととめどないもので、そうなるともう、これは「蜂」ですらなく、花蜜食の「蝿・アブ」の仲間かも知れぬ、と思い始めると、捜索の範囲がぐっと広まってしまい、あれも似ているような、いや、全然似てい・な・い・ような・・・、閉館を告げる音楽がなり始める頃には、すっかり疲労困憊、
1:どうして、たがが蜂一匹の名前を探す、ぐらいの「仕事」すら、お前はできないのだ!
とも思うし、
2:いや、そうゆう問題ではなく、どうして、たがが蜂一匹の名前を探せなかった、ぐらいのことで、そんなにも、もう「世も末」のように、お前はいちいち「落胆」しなければならないのだ!
とも思え、
一体どっちが、もしくは両方が、「情けない」のかもわからないほどへとへとになっている自分が、これまた「情けなく」、暗い気持ちで図書館を後にしたのだった。

「花」に至っては、手がかりすらつかめなかった。ほら、こんなに特徴的な、花びら5枚かしら?根元がくっついた筒型の合弁花で花びらの先は後ろに反り返り、オレンジ色の雄しべの花粉嚢が雌しべを取り囲んで、ひときわ重たそうに垂れ下がる。
すぐ見つかりそうだと思ったんだけどね。


まことに、「名を知る」ということは、こんなにも大変なことなのであったが、それ以上に驚くべきなのは、そのような「名」をなんら知ることなくとも、私たちは何の不都合も感じずに、「生きて」行くことができることの方なのでは、ないのか?

「予定」していた「達成感」が得られなかったため、まっすぐ帰宅する気になれず、BOOK_OFFに立ち寄って、「フィールドガイド・沖縄の生きものたち」なる、コンパクトな図鑑を購入。
今回の目標である「蜂」と「花」の名は、これによっても見つけることは出来なかったのだが、いや、これは便利だ(♪)、「トノサマバッタ」も「ゴイサギ」も「オキナワスズメウリ」も、「ミスジチョウチョウウオ」までも、一冊の本に載っていて、1000円なんだもの!これからは、お出かけの供にしよう。

こうして、一体何のためであるかは少しもわからない、「名」を知るための旅は、当分続くことになった。

2009年05月30日

レギュラーサイズと、スモールサイズがございますが・・・?



会話をよどみなく進める、というのはとても高度な技術を要するもので、「言語」の「内部」で、「言語」のルールに従った正しい文を作る、ということだけでは決定的に不十分で、不断に「言語」の「外部」に飛び出して、「そのような発話が、今、なされたのは、なぜなのか?」、「そのような発話を通じて、何が、『期待』されているのか?」等々をつねに判断せねばならず、むしろこれら「メタ(超)・メッセージ」解読こそが、会話を成立させるための労力の大部分を占めるといってもよい。

「そのサラダ、クレソン?」という何気ない質問も、そんなわかりきったことを聞いた相手の「真意」は「一口、食べたい!」であるかも知れず、そうであるならば、
「そうよ、一口いかが?」と、さりげなく答えてあげなければならず、
「そうです。これは、クレソンのサラダです。それは、スズキのグリルですか?」と、初級の語学講座のスキットのような受け答えをしてしまうと「空気の読めないヤツ」になってしまう。

でも、ひょっとしたら相手は、食べたいわけではなくて、最近読んだ村上春樹の小説の話を切り出すための導入に使いたかったのかもしれないし、またはクレソンに関する何らかのウンチクでも披露して、途切れがちの会話をつなげたかったのかも知れない。そうであるならば、
「いいえ、これは、クレソンではありません。ミズナです。」と、答えてはいけないし、「お前はクレソンとミズナの区別もつかんのか?この貧乏人!」と思っていても、おくびにも出さず、
「ううん、ミズナよ。でも、そういえば、似てるわね。」ぐらいのことは、言えなければならないのだ。

同じ冗談を言っても、言う人によって、気持ちよく笑える場合と、特に理由もなく「むかむかする」場合がある、という事実は否定できないね。
私は、つねに後者のカテゴリーだったようだから、子供の頃でも、同じおふざけをしているのに、一人だけ怒られた、みたいな経験が繰り返されると、「自分には何か、他人を『「いらいらさせるもの』があるらしい」ということになって、でも、

「どこかに欠陥があることはわかっているが、それが、どこなのかわからない」という状態は、耐え難いものであって、「原因が特定できない」ということは、「あらゆることが、原因で、あ・り・う・る・」ことであるからして、あるいは私の一挙手一投足が、ことごとく「間違い」であるかも知れず、文字通り、「身がすくんで」しまう。

このような者にとっては、「空気読めよ!」なる表現が人口に膾炙されるようになる遥か以前から、すでに世界は「『空気読め』地獄」であったのであり、
「空気読めよ!」なる表現も、もとより文字通りの「命令文」と解釈されてはならず、
「君は、空気を読み間・違・え・た・」、「君は、期待されたように空気を読・ま・な・か・っ・た・」ということが、事後的に譴責されているのであって、

「人は間違いを犯す生き物である」どころか、あらゆるシステムは原理上、過誤の可能性を決してゼロに出来ないのであるからして、不可能が要求されていることが、真に「暴力的」なのであるよ。

☆★☆

写真は、右:「レギュラーサイズ(ココビー)」と、左:「スモールサイズ(ちょび)」、ほとんどおんなじ柄、お互い、全く「無関係」なのにね♪

2009年05月31日

「出世払い」契約。



正六角形の6個の頂点のうちから、2個選ぶ方法は何通りか?ただし、正六角形を平面内で回転したり、裏返したりして、重なるものは同じものと見なす。
正六角形の頂点のどこか一つを選んでAと名前をつけてしまう。そこから反時計回りでもどっちでもいいのだが、ともかく順に、ABCDEFと頂点に名前をつける。「回転しても同じ」といつまでもつぶやいていてもしょうがないから、Aを「選んで」しまうと、たちまち、「選んだ」ことによって「固定」されてしまって、もう「回転」できなくなる。あとは「裏返し」だけ、心配すればよい。
Aを選んだから、BCDEFからあと一つ選ぶことになる。BとF、CとEは、それぞれ「裏返すと重なる」から、1通りとカウントして、結局、AB(またはAF)、AC(またはAE)、そしてAD、の3通りであった。

ベンゼンという化合物は炭素が6個、きれいに同一平面上に正六角形をなして並んでいる、らしい。えっと、「見た」ことは、ないから・・・。
炭素の最外殻電子は4個だから、4方向に1個ずつ電子を「受け入れて」2個ずつ4対合計8個になると「安定化」するらしいから、その4方向が空間的に「対等に」配置すれば、正四面体になるだろうが!、と言った舌の根も乾かぬうちから、今度は「平面」かい?
だが、事実としてこのベンゼンやら、あと、「黒鉛」と呼ばれる、もちろん「鉛」とは無関係の、炭素のかたまりではあるものの、ダイヤモンドとは似ても似つかぬのがあるのだが、それも、平面上に蜂の巣のごとき完璧な正六角形を描いた構造をしている、らしい。
なぜ?と問う以前に、事実として平面構造で「安定化」している「理由」を忖度すれば、正六角形の一つの内角は120度、平面を3等分したことになるから、完全に「対等」な3方向の結合である、と見なければならない。では、もう一個の電子はどこへ行ったのだ?π電子と呼ばれる「不穏」な電子が存在しており、これがベンゼン環を持つ物質の化学反応の特徴や、「黒鉛」が非金属であるにもかかわらず電気伝導性がある理由を「説明」することになる。

と言うわけで、ベンゼンの6個の炭素は、正六角形の頂点に位置し、隣同士の2個と、あと、それぞれ1個ずつの水素と、合計3方向に結合しているわけだ。では、そのすべてが「対等」の6個の水素から2個だけ選んで、何かにすり替えてみろ。「ベンゼン2置換体」と申しますが、一番上に述べた次第で、これには3通りの異なる「形」が発生します。
クレゾール、といって、消毒薬などに用いる薬品がありますが、ベンゼンの2個の水素が-OH(ヒドロキシル基)、-CH3(メチル基)に置換されたものだが、こうして、以下のように(携帯では見えません)3通りの「異性体」がある。


左から順に、o(オルト)-クレゾール、m(メタ)-クレゾール、p(パラ)-クレゾール

隣同士の炭素が置換されたもの、上の言い方を使うならAB(またはAF)型は「オルト(ortho-)」、
一つ飛ばした2個の炭素が置換されたもの、上の言い方を使うならAC(またはAE)型は「メタ(meta-)」、そして、
向かい合わせの炭素が置換されたもの、上の言い方でAD型は「パラ(para-)」、
と呼ばれている。

前から気になっていたので、調べてみたものの、結局あんましはっきりせず、オチのないウンチクになるが、これが今日の「話題」。

「オルト、メタ、パラ(ortho-,meta-,para-)」はギリシャ語の接頭辞なのだろうが、どれぞれ、
ortho-「正」
meta-「後に、ともに、変化して」
para-「並んで」
みたいな意味らしい。
orthodox正統派の、大文字で始めれば「正教会」、
metaphor「比喩」は「言い換・え・る・」、meta-language「メタ」言語、では訳になってないが、「超」の意味。
parallel「平行」、paradox「逆説」はまさにorthodoxの対語で、「並立する理論」。

一方、数学には「円錐曲線論」というのがあって、円錐形、道路工事のときに境界線を指示するために使う「コーン」、ソフトクリームの入れ物、coneとはまさに円錐のことだが、を思い浮かべていただいて、
円錐を、底面に平行な平面で「切れ」ば、その断面は「円」、その平面を少しずつ傾けていくと、
まず「楕円」、ついで、「母線」、真横から眺めたときの二等辺三角形の等辺、の一つと平行となったとき、「放物線」、それを超えてしまうと、極端な場合底面に垂直な平面の場合など、「双曲線」になる。
これら見かけ上全く異なる曲線が、「極座標」を用いると、

r(1-ecosθ)=e

という全く同一の式で表現でき、この式の中のeは「離心率」といって、ある定直線(準線)への距離に対するある定点(焦点)への距離の比なのであるが、これが1より小さいと「楕円」、ちょうど1のとき「放物線」、1より大きいと「双曲線」になる、という、とても美しい話で、


例えば「惑星」は「恒星」の回りを「楕円軌道」で周回することが「ケプラーの法則」によって知られており、地球の場合、その公転はほぼ「円軌道」に近似できるくらいだそうで、人工衛星だって、「ケプラーの法則」に従う限り「楕円軌道」を描いて飛ぶのだが、打ち上げるときの推進力が大きすぎると、まさに「離心率」が1を超えてしまって、「放物線」ないしは「双曲線」軌道に移ってしまって、「二度と帰って来れなくなる」ことになるのだ。

さて、こんどは、このうち、放物線、双曲線が、
「放物線」parabolic
「双曲線」hyperbolic
であって、hyperbolicは「誇張的」という意味にも用いられる。hyper-だけでもそんな意味だ。
あ、パラボラ・アンテナのパラボラparabolaは「放物線」。
では、「楕円」は、というと、ellipticまたは、ovalで、あんまりつながりが見えない。

ところで、おなじみ「代謝」のことを「メタボリック」metabolicと言うだろ?
気になって夜も眠れない、というわけでもないが、問題はこれなのであって、
ortho-,meta-,para-,hyper-
を何らかの程度を順次表すものだとすれば、当然、metabolicは、少なくとも語源的には、「円、楕円」的なもののはずじゃないのか?「代謝」と言うのは、単純な構造の物質から複雑な構造の物質をつくる「同化(anabolic)」、逆に複雑な構造の物質を分解して単純な構造の物質にする「異化(catabolic)」が「循環」することなんだろう?
楕円軌道や円軌道上を運動する点を真横から眺めたのが「振動」なんだから、ありえない話じゃ、なくなくな〜い??

あぁ、ちゃんと語源まで説明のついた立派な英和辞典があったらなぁ!
「出世したら」、そんな立派な、英和辞典を、買うのだ♪♪

「民法総則」の教科書には必ず載っている、「出世払い契約」の有効性。
「出世したら、返すよ!」と言う賃貸借契約を、どう解釈すべきか?と言うやつだ。
絶対に「出世しない」ことがあらかじめ確定しているのなら、「不可能条件」を付したものとして、その契約は「無効」である。
でも、論理学上は、「条件」が実現不可能ならば、「結論」に何が書かれていても、その命題はつねに「真」である。

絶対に「出世」する心配がないなら、何を言っても「よい」わけだ。

☆★☆

写真は「びー」、猫にも「人恋しい」ときがあるのか?今夜は、何度も切ない声で呼びつけられる。だから、つれづれなるままに、こんなくだらない文を書いた。

2009年05月31日

「inconvenientな、コンビニエンス・ストア」



「あ、袋はいいです。」
「・・・。」
「あ、そのちっちゃな袋も、いいです。」
「え、でも、汁、漏れますよ?」
「いや、いいんです。」
「割り箸、お使いですか?」
「いいです。」
「ストロー、お付けしますか?」
「いえ、いいです。」
「プリンにスプーン、お付けしますか?」
「あ、いや、いいです。」
・・・
「安心できる老後を!」
「いや、いいです。」
「子供たちに、明るい未来を!」
「いえ、それもいりません。」
「誇りの持てる国。」
「あ、それ、結構です。」
「君達には無限の可能性が・・・。」
「いえ、いりません。」
「夢を持ち続ければ、かならず、かなう。」
「あ、それもいいです。」
「かならず治る!『うつ病』治療法。」
「いや、それ、いらないです。」
「錯綜する現代を、読み解くキーワード。」
「いや、いいです。」
「情報社会を生き抜くための、必須のツール。」
「あ、いいです。」
「つねに一歩先行く男の、・・・。」
「いや、それも、いいです。」
・・・

☆★☆

写真は、例の、蜂のやってきた花、実がついているのを発見、これは、大きな手がかりになるかも知れない!
前に引用したレヴィ・ストロースがそうであったように、私が花の「名」を知りたがるのは、私が"arien"であるからかも知れないし、また、ここが「南」であるからかも、知れない。

☆★☆

ところで、相変わらず、「包茎治療」の広告、多いんですけど、あの、それ、注文してないんすけど・・・。

2009年05月31日

「推移律」をめぐる「錯誤」、について。



最高気温は28度にもなると、どこかのテレビが言ってた。快晴だ。ビデオカメラと、一昨日買ったばかりの、「フィールドガイド・沖縄の生きものたち」、それに「老眼鏡」も忘れずにねっ!・・・、これらを肩掛けバッグに詰めて、遊水地までお出かけ♪
「フィールドワーク」初日、である。

こんな平日の昼日中に、他にすることはないのか?どう見たってこれは、「ご隠居の散歩」であるが、
「年金保険料納付期間」が25年にはるか及ばず、65歳になっても、つまりそれまで生きていたとしても、年金の支給を受けることはないから、
そうね、最も高額な「動産」が2005年式のノートパソコンか、または、1992年式のカローラか、といったところだから、資産もなく、
また、老人に代わってその生存のための費用を弁済してくれることを期待された「子孫」というやつ(?)もない以上、
いつまで存命していたとしても、決して「隠居」することのない、「ご隠居」の、散歩、というべきかも知れない。

それはさておき、今日は、「名付ける」ことの困難さ、について、お話しよう。

命題「AならばB」が「真」、かつ、命題「BならばC」も「真」、であるならば、命題「AならばC」もまた、「真」である。「述語論理」の世界では、これを「推移律」という。

数学の「等号」で表されるような、「相等関係」にも、これは適用できる。
A=BかつB=C、ならば、A=C
というわけだが、この「等式」を「言葉」で「読む」と、「AはBである」になる。
「ちょび」は「シャム猫」である、「シャム猫」は「猫」である、だから「ちょび」は「猫」である、
は、全然問題ない。きわめて論理的である。論理的であるために、何の「情報」も伝えてはくれないのだが。


「ちょび」は「シャム猫」である、「ココビー」は「ちょび」と「同じ種類の猫」である、だから「ココビー」も「シャム猫」である、
も、同じことをしているように見えるのに、様子が異なるのは、何が違うのだろう。

「ご隠居」は、こんなことを考えないと、「生きていけない」。人間には、もっと優先して考えるべき重要なことがあることを「ご隠居」も知っている。でも彼が、その、もっと優先して考えるべき重要なこと、を考え始めると、たちまち他人を逆恨みして「殺意」を感じたり、「殺意」を感じたことを恥じて泣きながら寝込んだりしてしまうことに、なぜか、なってしまうから、彼は、「生きるために」、むしろ、つねに「どうでもいいこと」に思いをめぐらすことに、し・た・のだ。

「ちょび」は「シャム猫」である、
このつる草は「オキナワスズメウリ」である、
「AはBである」の形をしているから、うっかり「A=B」と書けそうな気がしてしまうが、「・・・の名前は、・・・である」と口に出す、「名前をつける・名前を呼ぶ」と言う行為は、一体何なのだ?
この場合の「名前」は、「種」もしくは、それが所属しているグループの名称、なのだから、
「お名前は?」、「あ、『ヒト』でございます」とは答えない。私たちは、少なくとも「自分」に関しては、唯一無二の、「一対一対応の」、「名前」がある、と思っている。「同姓同名」はもちろんありうるが、それらは異なる対象を指している、とはじめから確信しているからこそ、むしろ「同姓同名」と言う表現がありうる。

「世界」に「ちょび」と言う「名前」の猫は何匹いるのだろう?でも、何匹いようとも、「ちょび」とは「こ・い・つ・」のことなのだ、と、私は確信してはばからない。
「オキナワスズメウリ」となると、ずいぶん様子が違うね。だいたい、私は、この各種のつる草たちが相互に絡み合って「ジャングル」化した「家庭菜園」の中に、「オキナワスズメウリ」の「個体」がいくつあるか?すら、知らない。それを数えること自体、植物学上の知見と、熟練が要求されるだろう。


テリミノイヌホウズキ(ナス科)


「家庭菜園」の白い花・いまだ不明

ベランダの「家庭菜園」の、例のおなかに青い筋のある蜂がやってくる白い花、ね、「名前」が付けられない、ということは、これだけの言葉を費やさねば、「指し示す」ことも叶わない、こんなにも困難なことなのだ!、仮にそれを「植物A」と呼ぼう。私は、「植物A」を何度も仔細に眺めたし、写真をとりもしたから、その形状は熟知したつもりだった。
「散歩」の途中、路傍を何気なく眺めると、「そっくり」のものがある。「5弁の白い花、緑色の球形の実、赤みを帯びた茎、長円形の葉、互生」などと、使い慣れない「言葉」で記述してみると、「ぴったり」ではないか!
そのとき、私は、知らず、「推移律」的な思考をしたのです。この路傍の植物、「植物B」としよう。
未知の「植物A」と、この「植物B」とは、「同種」である。ところで、今手元の図鑑で、「植物B」の名前を「同定」することが出来たなら、その名を「C」とすれば、やはり、「植物A」の名前も・、「C」である。

アスファルトの道端にしゃがみこんで、老眼鏡を取り出し、「フィールドガイド」のページを繰る。何せコンパクトな図鑑だから、「人里の植物」という章に十数種くらいしか掲載されていないのだが、「あった♪」。これが、私の、「テリミノイヌホウズキ(ナス科)」なる植物との、劇的な出会いであった。

もちろん、今こうして、写真を並べてみると、「植物A」、「植物B」は「似ても似つかない」、葉の光沢が違う、同じ「長円形」といっても、膨らみ方のカーブが違う、実の大きさも違う。

人間の記憶というものがいかにいい加減なものであるか?と思い知ると同時に、植物の「名」を「同定」する、という行為が、どのようなものであるのかについて、考えさせられるエピソードでもあったのでした。
「植物B」が図鑑に記載されている「C」という「名前」を持っている、ということは、図鑑に写真として印刷されている、「植物C」のある特定の個体が示している、あ・り・と・あ・ら・ゆ・る・特徴を、「植物B」もまた示していなければならない、個体間の差異もあろうし、なんといっても植物は季節によって形態を変える、撮影時の角度や光量による印象の違いもあろうから、それを補うために、「言葉」の説明が加わるから、その記述にもいちいち合致して、初めて、やっと、「植物B」の名は「C」である、と言えるのであった。

☆★☆

これは大変なことになってきた。路傍の草に何気なく目を留め、「これは何かしら?」とおもむろに図鑑を繰れば、たちまち見つかり、「おお、これは○○であることよ!」と、優雅に立ち去ることが出来るものと「予定」していたが、そんな生易しいものではない。

例えば私たちは、数学の「公式」を学び、それを少なくとも「本人」にとっては、「未知の」問題にそれを適用する。未知の問題に適用できるのでなければ、学んだ「意味」がないから。
でも、初心者は、「適用」の仕方が正しいかすら判定できないから、「解けるに決まっている」、「答えのわかりきった」、問題を「練習問題」とか称して、日がな一日それに明け暮れている、他人様にそんなくだらないことをさせてお金をもらっているのが私の「仕事」なのだが、ここでは、私も「初心」に帰り、「練習問題」から始めることにした。

つまり、本末転倒なのであるが、実地に存在している植物を図鑑で「見つける」ことがあまりに茫漠として手のつけようがない、と思われるから、逆に、図鑑に載っている、すでに「名前」が明らかになっている植物と「同種・同名」のものを、「対象世界」において「発見」する、という倒錯した行為に出たのだ!

まず、図鑑の数ページに出ている植物の印象を、おおざっぱに頭に入れる。それから、歩く。決して、「すべて」を「見て」はいけない。図鑑に載っていた記・憶・の・な・い・植物に出会っても、気が付かない振りをして通り過ぎる。図鑑に載っていた記憶のある植物だけ、「発見」したことにする。

この「練習」は有効のようだ。


アカギ(トウダイグサ科)

いつも犬の散歩のとき、落ちた実が路上一面にちりばめられているこの植物、「葉は互生、3出複葉」なる新奇なタームを使えるのもうれしく、「同定」の「練習問題」の成果である。
うちのベランダのもう一つのなぞの植物、実がないから決め手を欠いていたのだが、葉の様子はこれに酷似しており、「アカギ」の「雄花」である、と言う「希望」もでてきた、が、すでに、「テリミノイヌホウズキ」の苦い失敗も経験しているから、慎重にしよう。

☆★☆

一番上の写真は、シロノセンダングサ(キク科)。「フィールドガイド・沖縄の生きものたち」によって「同定」出来た、第一号の植物である。遊水地のフェンス際の、いたるところに群れをなして生えている。やがて「草刈機」でばっさり除去されてしまうのだろう。ミツバチが、セイヨウミツバチ、と言うんだ!が「蜜」集めに忙しそうであった。

このところ、毎朝のように、ウグイスの声で目を覚ます。「法、法華経」というのは、やはりいくらなんでも、「牽強付会」と思える、「ほ〜ぉー、ぺきょ♪」ぐらいの感じだが、まさにその「牽強付会」によってこそ、これがまがうことなきウグイスの声である、とウグイスを見たこともないずっと後世の「ご隠居」にもわかるのであるから、「音声」を「文字」にすることの威力を思い知らされる。
ビデオカメラを携えて屋上に上がってみるのだが、どの木の梢から聞こえてくるのか、わからない。図鑑によれば、メジロ、スズメ、並の小さな鳥であるから、探し出すのは困難を極める。

それから、遊水地の草むらの上空を、「ちちっ、ちちっ」と叫びながら飛び回るこれもやはり、メジロ、スズメ並のごく小さな鳥がいることに、以前から気が付いてはいたのだが、これが、「セッカ(雪加)」、やはりウグイスとともにウグイス科、らしい。初めて間近に見ることができた。カメラを向けたが、動転していたため、後から再生しても、コンクリートの土手しか写っていない。
これも、「フィールドガイド・沖縄の生きものたち」の成果である。人間の記憶と言うのは、ものすごい速度で変容する。勝手にディテールを後から付け加えたりしてしまう。
たとえば、海に潜って魚を眺め、その特徴をおぼえた気になって、陸に上がってから図鑑を見ると、「あれ、これかなぁ?これだったかも知れない、こんなところに線あったかなぁ?背びれこんなに大きかったかなぁ?」とまことに心もとない状態になってしまうのだ。
だから、図鑑を持ち歩き、「その場で」調べることには、とても大きなメリットがある。インターネット「検索バカ」に頼ることは、今のところ、当分の間、出来ないのだ。

これらの鳥を、撮影し、「ブログ」で自慢することが、「ご隠居」の、当分の間の、「暫定的な(temporaryあるいはprovisional)」、「生きる希望」である。

2009年06月01日

別の言い方をするならば、・・・、「うぉー・あい・にー」



6月2日夜、大阪南港発、有村汽船「飛龍21」、船中2泊で6月4日早朝に那覇新港到着予定。
ちょうど10年前のことだ。
3月に、土質調査の、ボーリングの会社を、特に理由もなく辞めてしまい、自己都合退職だから、失業給付に3ヶ月の「待期」がかかる。毎日朝からごろごろビール飲んでいられたらさぞかし「幸せ」だろうという「予想」に反して、「働いていない」ストレスから、少しも「失業生活」を楽しめず、だから、「貧乏旅行」を企てた。
「沖縄」を選んだ理由は、特にない。「南」の方が、お金がかからなそうな気がしただけだ。

「いいですね、沖縄♪フェリーから、星が降るように見えますよ!」といわれていたが、3日間とも曇り、自動販売機の「オリオンビール」をちびちび、買ってきた沖縄の道路地図を船室に寝転がって眺めて過ごした。


そのさらに10年前、京都市左京区教育文化センター、「中国映画を見る会」とかいったイベントの会場に、私はいた。上映されるのは陳凱歌の「黄色い大地」だった、と思う。そうじゃなかったかも知れないが、今となっては確かめようもない。

北京での、「広場」の流血から三日もたっていなかったかも知れない。上映に先立って主催者グループの一人が舞台の袖で挨拶をした。「主催団体」はいずれ「親中国派」系の左翼党派の関係ではあろうが、それでもその発言には耳を疑った。
「暴徒が人民解放軍の兵士に襲いかかり・・・、」
客席を埋めていたのは、大半が中国人留学生だったから、日本語のわかる人から順次伝わっていったのだろう、不穏なざわめきが、広がっていくのが感じられた。留学生の何人かが立ち上がって主催者に発言の撤回を求め、開演は大幅に遅れた。

最前列近くにいた私は、後ろを振り返ることもせず、ただ、事態の成り行きを見守った。
「見守る」こと、だけしか、してはいけない、と感じていた。

・・・
父親が死んだ息子を労働者、創造者とみなしていたのは、その落ち着いた態度で分かる。それは、後によく使われた「政治の犠牲」という一語でくくれるものではない。彼は何も恨まず、悲しみと敬意、そして誇りをもっていた。私は、あの小柄な痩せた少年を永遠に忘れないだろう。彼はいつもナタを担ぎ、鹿のように山を走りまわり、そして大木を倒す力をもっていた。労働の場で死んだ少年は、まさに戦士だった。私は文革が終わってから、恨み言を書き連ねた「知識青年文学」を読むたびに、書いた連中は一人の人間を二度殺しているとつぶやいたものだ。辛く厳しい生活など、中国の庶民には当たり前のことだ。私の心を揺さぶるのは、そんなものではない。力強さだ。私は、いつかそう考えるようになっていた。
「私の紅衛兵時代」陳凱歌(講談社現代新書)
・・・

☆★☆

下の文章は、ちょうど10年前、沖縄に来る直前に、書いたものだ。その頃私はちっちゃな「地域合同労組」のお手伝いをちょっとだけしていて、その機関紙に「映画批評」を書かせてもらっていた。京阪神各地の「名画座」で短期間上映するようなマイナー映画を、平日の昼間に見に出かけられるような閑人が、「地域合同労組」に駆け込んでくるわけがない。だから、誰も読まない、鼻持ちならない、「浮きまくり」のコーナーだったんだけど、私は、もちろん、気に入っていた。

☆★☆

『天安門/THE GATE OF HEAVENLY PEACE』

 まもなく10年目の6月4日が来る。
 昼頃のテレビのニュースだっただろうか。戦車、火炎ビンの炎、断続的な銃声、悲鳴。今でもはっきりと覚えている。2、3日前だったと思うが、北京郊外に駐屯している人民解放軍の一部隊の司令官の「人民解放軍は人民に属する、従ってそれは人民に発砲することはできない」なる声明を伝える新聞記事に、最後の希望を託していたのだったが。
 当初、死者の数は数百万とまで報道された。いったい数日間で数百万の人間を殺傷することができるだろうか?「西側」のマスコミも明らかに錯乱していた、でなければある種「はしゃぎ」過ぎていた。
 10年後の現在、ほぼ確認されている事実はおそらくこうだ。あの夜とその後の数日間で数百ないし数千の人々が殺された。ほとんどの死者は、広場に向かって長安街を進軍する部隊を阻止しようとした労働者、露天商、市民だった。広場に座り込んでいた学生たちは、軍隊に包囲され、自主的に退去した。
 死者の数が3桁ほど小さいからといって、「西側」の悪意から中国共産党を防衛しようといっているのではない。学生の犠牲が少なかったといって、この運動を切り縮めようというのでもない。ただ、あまりにも長い間この「事件」はさまざまな色合いの誇張と悪意に彩られすぎてきたのではなかったか?
 『天安門/THE GATE OF HEAVENLY PEACE』(リチャード・ゴードン/カーマ・ヒントン、1995年、189分、「UPLINK」製作2本組ビデオでレンタルショップでも入手可能)
 このほとんど全編が当事者とのインタヴューと、ニュース映像で構成される長大なフィルムが、では「真実」を伝えているのか?という問いには答えることはできない。むしろ、この映画に対して、元学生指導者のいくつかの党派、人権諸団体等から投げつけられた悪罵を見れば、事態はそれほど単純ではなく、憎悪は少しも癒えていないことがわかる。

 この映画を初めて観たのは97年だったと思う。その2年前私は初めて北京を訪れ、天安門広場の毛沢東像をみ、長安街をバスから望み、北京大学のキャンパスも歩いた。言葉も分からない初めての旅行者でもあるし、事件の痕跡を感じさせるものなど何一つ読み取ることはできなかった。
 でも、当たり前のことなんだけど、町の匂いをかいだり音を聞いたりすることで、何か私は「中国」に対する、この「事件」に対するあまり根拠があるわけでもない「こだわり」や「構え」を解除することができたような気がしている。

 インタヴューの対象となるのは、いくつかの「党派」を代表する学生指導者達、広場の運動に関与しようとした知識人達(「文革」期に若き紅衛兵であった人たち、あるいはもっと年配の「大躍進」や「反右派闘争」期からの党員など)、広場の運動に触発されて独立労働組合を結成した労働者、高校生の息子を4日未明の銃撃で失った母親などからなる。
 数ヶ月におよぶ広場の運動を報道する膨大なニュース映像を、製作者たちは北京気象台の気象データと照合することで日時を特定し、再構成した。
 かかる「事実」への探求の冷静さと謙虚さこそが、この映画の、そしてこの「運動」の『希望』を構成する。
 誰でも知っていることだが、「運動」はいつでも清潔で英雄的であるとは限らない。際限ない中傷と派閥の権力争い、卑屈さと怠惰と傲慢。それらの耐え難い醜悪さの中を運動は蛇行し、ときにほんの一瞬の輝きを発する。軍隊の動向を広場に伝令する露天商達のバイクの爆音。学生の宣伝バスから撒かれるビラに群がる人々。対峙した人民解放軍と市民が共に革命歌(「三大規律八項注意」)を歌い、ついには軍が撤退するシーン。
 毛沢東の肖像に「民主の女神」を対置させ、五星紅旗を掲げ「インターナショナル」を歌いながら広場を撤退したこの運動は、ほかのすべての運動がそうであるように、矛盾に満ちている。
 矛盾のただなかを生き、運動自身の速度と力に揺さぶられ、矛盾そのものででしかありえないような人々の中に自分を置いてみること。つまり、あの日あの場所、あの街に、私がいたとして、どんな行動を選び取れただろうか?そんな事を初めて考えてみた。
 製作・監督の一人で作中で主にインタヴューを行っているカーマ・ヒントンは、(確か『翻身』という書名だったと思う)ドキュメントの著者であり、終生中国革命と共産党に対する信頼、といって悪ければ「礼賛」を失わず、中国にとどまり続けたアメリカ人、ウィリアム・ヒントンの娘。彼女の母語は中国語であり、かつては若き紅衛兵であり、彼女もまた「我愛北京天安門」を唄ったはずだ。


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忌野清志郎が亡くなったんだってね。私、新聞もテレビも見ないから、知らなかった。
好きだったな。もう25年くらい前、「雨上がりの夜空に」の頃だ、日比谷野音まで聞きに行ったものさ。
・・・
彼女、教科書、広げてるとき〜♪
ホットなメッセージ、空に溶けてったぁ〜♪
・・・
「トランジスタ・ラジオ」(RCサクセション)
・・・

でも、私の、「ホットなメッセージ」は、「リバプール」や「ベイエリア」ではなくて、
北京放送日本語版の「毛主席最高指示」と番組終了時にかかる「国際歌(インターナショナル)」だったかも知れない。
私は、中国共産党を「支持」したし、「プロレタリア文化大革命」に「あこがれ」もした。
人は誤りを犯すものだ、それどころか、どんなシステムも「過誤」の確率をゼロにすることは不可能だ、などとうそぶいているのは、「責任」を「回避」したいからではなく、
私は今でも、いつまでも、もし運動のただなかにいたとすればその力学に翻弄され右往左往するであろう、「愚昧な」大衆の一人でしかありえないのだし、これからも「正しく」あることができる保証はどこにもない。
できそうなことは、せいぜい、あらゆる「愚かさ」も含めて、「理解する」ということだけなのだと思うのだが、
それは、依然として、10年前に書いたことと変わり映えしないのだが、その時点において「愚か」でしかありえない私が、やはり「愚か」でしかありえない人々のただなかにいたとして、どんな行動が選び取れただろう、と、「想像」してみることでしかない、全然別の文脈からやってきた言葉だけれども、「私に擬して理解する」(大森荘蔵)が、ヒントになるなのではないかと、今は、思っている。

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去年の秋、芥川賞を取った楊逸「時が滲む朝」の中で、梁浩遠と謝志強が市政府前広場の座り込みに参加するとき、街の「Art工房」でつくってもらったTシャツの文字が、「I love You」。

「・・・中国地図の上に"I love You"を入れて、oの中に国旗を挿して。そう、地図と国旗は赤で、字は空の青だよ」・・・
「時が滲む朝」楊逸(文藝春秋2008年9月号)

「Fly Me to the Moon」って、甘ったるいラブ・ソングがあったろ?あれのさいごのフレーズが、
・・・In other words, I love you.・・・
だったんだ。

そうだよ。何の関係もないよ。天安門広場に人民解放軍が突入した日のちょうど10年後に、私は沖縄に来た。それも、何の関係もない。
何の関係もない事柄が、同じ一つの「時間」軸の上に並んでいるように感じられる「錯覚」だけが、「人間的連帯」という、これまた一つの「錯覚」を生み出す根拠だ。ときとして、「人類愛」と「隣人愛」を混同してしまえる、根拠だ。

2009年06月03日

「いえ、いいのです。私はここが気に入りましたので・・・。」



「ダイサギさん、ダイサギさん、あなたは「冬鳥」なのでしょう?
もう、6月ですよ。北に帰らなくていいのですか?」
「いえ、いいのです。私はここが気に入りましたので・・・。」

犬の散歩をしていたら、6月だというのに、遊水地をダイサギが、悠々と飛んでいたので、うれしくなって、翌朝早起きして写真を撮りに行ったのだが、いらっしゃらず、
・・・
朝早くから、なんですか?あの、ゴルフみたいな、芝生の上にいっぱい旗立てて、80センチくらいの棒でボール叩いて、入った、それた、と歓声を上げておられる、遊水地の立て札に「プレーをするには許可証が必要です」と書かれている、あれが、その「プレー」なのね?これこそまさに「ご隠居」の一団、
・・・
その喧騒を避けて、林の中でお休みなのでせう。

放水路のほうに回ると、いつもどおり、ゴイサギさんが獲物を待って、ぼうっと立っておられる。


近くに、「無関係そうに」立っているのは、前に、ゴイサギの若鳥では?と言ったが、「フィールドガイド・沖縄の生きものたち」を見ると、やっぱり、ササゴイ、なのかなぁ?とも思えてきて、・・・。


☆★☆

「家庭菜園」のオキナワスズメウリ、今まさに緑から赤へ色づこうとしているところは、


そうね、何か、きゅうりのぬか漬けのような、いまいちの色合いでございますことね。


そうそう、いまだ名称不明の「家庭菜園」の白い花、キダチイヌホウズキではないか?
なぁんだ!「推移律」もそう悪くはないじゃないか?同じ「ナス科」ですよ。
テリミノイヌホウズキは、「照り実の、犬・『酸漿(ほおずき)』」、
キダチイヌホウズキは、「木立ち、犬・『酸漿(ほおずき)』」、
なのだろうかね?とすれば、「草本」的でなく「木本」的である、と言うこととして、特徴、あってるじゃないか?
本屋で、各種図鑑、「立ち読み」して調べたのです。図鑑ばかり買っているわけにいかない。お金もったいないし、大体、図鑑って、何冊もあったら、意味ないじゃん。
n種の植物を記載した、n冊の図鑑、なんて・・・。

そうすると、私は本屋の店先で、私の記憶の中にある「植物A」と、今眼前にある図鑑の「キダチイヌホウズキ」の、正確に言うと、「キダチイヌホウズキ」という種に含まれる一植物個体の写真とを、比較し、
しかる後、家に帰ってから、すでに暗くなってしまったベランダの「植物A」はもう見えにくいから、コンピュータの中にある「植物A」の写真と、今度は、私の記憶の中にある「キダチイヌホウズキ」と呼ばれる植物の写真、とを、比較する、
という二重三重の「間接性」を含んだ、情報論的にはきわめて信頼度の低い行為を、しているのでした。

図鑑の記載には、「ナス科」の特徴的な花、とあったが、確かにね。食べるあのナスの、ヘタのところ、「面影」が残っていますね。
もう、ナスなんてどのくらい食べてないだろう?日本酒をばかばか飲んでいた頃は、刻んで塩もみにする、という「簡単浅漬け」をよくつくったものだ。
京漬物の、「小丸茄子漬」などを思い出し、「郷愁」に浸ってみました。

☆★☆

一番上の写真は、シロノセンダングサを訪れるセイヨウミツバチでございます。

2009年06月05日

Lunaticな夕べ。



「牽強付会」とはいえ、「法、法華経」があまりにかまびすしいので、音の出所を探索しに、近くの土手の茂みまで、行って参りました、早朝から・・・。

ここだ、ここだ、かなり近くから聞こえるぞ!
この木は、コウトウイヌビワ(クワ科)、と言うのだろうか?うちのベランダの、なぞの灌木、前に「アカギ」では?と言ったばかりであるが、これにも、似ておる。普通のイヌビワ、らしきものもよく見かけるのだが、そっちははっきりとした実があるからね。
この木は高さ5メートルくらいの大木。「法、法華経」、は、どうやらここから聞こえてくるらしい。でも、姿は見えない。
梢で小鳥がチョコチョコしているのでカメラを向けたが、出てきたのはメジロであったし・・・。


これが、その、ウグイスが鳴いていた木、だ。

☆★☆


わが「家庭菜園」へ、ようこそ!オキナワスズメウリがお迎えします。これは、私の家の、入り口なのです。

そうそう、一つ、名前がわかりましたわよ♪
一番上の写真は、沖縄では、「サトウキビ畑の『雑草』として普通に見られる」、シンツルムラサキ(ツルムラサキ科)だそうな?
【・・・葉を食し、実を染料としたと言われる。別名をインディアン・スピナッチ、栄養価の高さで群を抜く。江戸時代からあるツルムラサキの対してこれは明治になってからの移入。・・・】
ツルムラサキ(ツルムラサキ科)は、
【・・・葉と茎をおひたし、味噌汁などとして食用にする。味はホウレンソウに似るが独特の粘り気がある。中華料理では木耳菜(ムーアルツァイ)、潺菜(広東語 サーンチョイ)などと呼んで炒め物にすることが多い。日本でも栽培されており、春に種を蒔けば一年草として収穫できる。栄養価が高く、ホウレンソウよりも優れている。ビタミンA、ビタミンC、カルシウム、鉄などのビタミンやミネラルを非常に多く含む。・・・】

「摂食障害」ですし、特に食べたい、とは思いませぬ。眺めていましょう。ともかく、名前が一つ、決まった。喜ばしいことです♪

☆★☆

遊水地の草むらに「セッカ」の姿を求めて、また行って参りました。あまりに忙しく飛び回られるので、撮影はやはり出来なかったけれど、確かに、いらっしゃいました、ちらりと、お姿も見えました。

で、いつもは放水路の流れの中にたたずんでおられるゴイサギさん、おや、今日は、池の真ん中に、あの、ホテイアオイなんやろか?遠くやからよくわからんが、その水面をびっしり埋め尽くした葉の上で、ぼうっ、とされておった。


「留鳥」化された、かも知れない、ダイサギさんとは、その後、お会いしていません。

☆★☆

昨夜は満月でございましたね。


昔から「月」と「狂気」は縁が深く、「Lunatic」とも申しますでしょ?ですから、猫も騒ぐのです。私は?、私は、それほどでもありません。さめざめと、くたびれています・・・。

風が吹く港の方から 焼け跡を包むようにおどす風
悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕
時を越え国境線から 幾千里のがれきの街に立つ
この胸の振子は鳴らす 「今」を刻むため
飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら道を往く
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕
ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て いのちで笑え 満月の夕
星が降る満月が笑う 焼け跡を包むようにおどす風
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕
ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て いのちで笑え 満月の夕
解き放て いのちで笑え 満月の夕
(ソウルフラワー・もののけ・サミット「満月の夕」)

1995年の1月17日の夜は満月だったのです。ちょうど一年後の長田神社の「長田復興際」でこの歌をはじめて聞いたとき、
「世界」とか「人生」とかを埋め尽くしていた、はずの、「意味」の「序列」みたいなものが、ぐちゃぐちゃ、と、音を立てて崩れたのかどうか、は、はっきり覚えていないのですが、ともかく、変わりました。めっちゃ、変わりました、多分。
そうして、私は、今、ここに、おる、わけです・・・。Lunaticになりながら、「言葉」の通じなさ、について、だけ、ただ、考えておる、わけです。

2009年06月07日

「植物一日一題」・・・「時計回り」と「反時計回り」



オキナワスズメウリの新しい、小さい花がまた咲きましたの。「名前を知った」ことで、また愛着もひとしお、なんですから不思議でございますわね。


復習です。学名(Diplocyclos palmatus)の、diplo-は「二重の」、cyclo-「環状の」、でしたわね?ご覧ください♪これが、その「意味」ざます♪二本の「巻きひげ」様のものが出るんですな。よく見れば、本体はちっとも「つる草」らしくはないわけです。他の草木に、この二本の「巻きひげ」を絡みつけて、自分の身体を「固定」するのでしょう。


実は真っ赤に熟し、したがって本体は少し枯れかかってはおりますものの、その様子はよくわかりますでしょ?


風が吹いたり、藪の中を動物が歩き回ったりして、からみついている植物が大きく揺れても、ちぎれてしまわないように、こんなまるで、まさにばねのような、コイルのような、「弾性」の大きい構造をとっているのですね。


オキナワスズメウリ、シンツルムラサキに「固定」

私は商売柄、黒板の「電磁石」の絵に向かって、「ほら、『電流』がこう流れるから、こちら向きの『磁場』が発生して・・・」、みたいなことをしゃべることが多い経験上、コイルの「巻き方」、当然それが違えば「電流」も、したがって「磁場」も逆になるのですから、を気にしてしまいます。
あれ、これ「左巻き」、数学・物理学では、英語表現に準拠して「反時計回りcounter-clockwise」と申しますが、じゃない?

というのはですね。最近植物図鑑を眺めておりますでしょ?亜熱帯ですから、つる草も多いのかしら?つる草の説明のところに、わざわざ「左巻き」と、表記してある、ということは、「右巻き」が「常識」、「多数派」である、ことが推認されるわけで、

ごらんの通り、おなじみシンツルムラサキ、シンツルムラサキ同士、相互右巻きしてどうすんねん?


シンツルムラサキ、右巻き

で、わが「家庭菜園」には、もう一種、なぞのつる草が、ほぼ判別不可能なほどにからみ合って生息しているようなのですが、それが「ヘクソカズラ(別名:ヤイトバナ、アカネ科)ではないか?と思ったのは、図鑑に「つるは、左巻き」と「明記」してあったからです。
ほら、これが、証拠写真。


ヘクソカズラ(?)、左巻き

ヘクソカズラ、は知ってたんです。子供の頃住んでいた家、社宅だから借家なんですけど、トタン屋根の倉庫があってその屋根の上を這っていたものでした。夏休み「自由研究」的なもので写生したりしたんだろうな?花が咲けばはっきりするんだけど、秋に咲くそうだから・・・。

あの家はどうなってしまったかしら?神戸の震災のあと、「ボランティア」というのに参加して、結局何にも大したことはできなかったが、最初に連れて行かれたのが偶然にも私が卒業した小学校の体育館の避難所だった。その帰り道、私の生家の前も通りかかりましてね、もちろんもう別の家族が住んでいるのだが、庭木などには記憶があって、コンクリートのブロック塀が全部倒れていたけど、家屋は無事のようだった・・・。


キダチイヌホウズキの実

私は、賃貸住宅にしか住んだことがない。この歳になって、「プランター」のしょぼい「土」に「固着」するのは、それと少しは関係あんのかな?田口ランディーに「根を持つこと、翼を持つこと」って本があったな。どんな内容だったか、忘れてしまったけど、
そういえば私は、「セプテンバー・イレブンス」の一年ほど前以来、飛行機に乗ったこともないのだ。単に、「帰るべき」場所が、ない、ことと、「うつ」になったことと、猫を飼い始めたこと、が理由なんだけどな。

で、植物「ウンチク」に目覚め、牧野富太郎「植物一日一題」(ちくま学芸文庫)、などを読み始めたわけです。
2009年06月08日

「招福・まねき猫」、「びー」洗顔中



「ねこログ」の筈が草や花の話ばかりになっている。だからといって特に問題はない。26匹も「猫」がいながら、「特筆すべき」ことが、なかったのだから。それほど私は、この生活に溶け込んでいる。むしろただ一匹の「二足獣」であることに違和感を感じている。
そうこうしているうちに「びー」がおなかをこわした。小屋の床を、「ざっ、ざっ」とあわただしく「掻く」音が聞こえる。「二足歩行」を失いつつある私は、急に起き上がると立ちくらみを起こして昏倒するので、すぐには駆け付けられない。
汚れてしまったおむつを外して、「お尻のまわり・シャンプー」、湯沸器のお湯にしなくても蛇口から出る水がもうそんなに冷たくない。そのせいもあって、「びー」も相変わらず「上機嫌」、ごろごろ喉を鳴らしつつなされるがまま・・・。
お尻が乾くまで、私の膝のうえで遊んでもらって、写真はそんな一コマ、「びー、洗顔中」。
ビオフェルミン二つぶ押し込んで、今日は絶食で御座んすよ♪

沖縄本島はなだらかな島で、一番高い山が名護の近くにある「八重岳」で標高五百数十メートル。京都の「比叡山」なみ。
「伊勢物語」には、東国ではじめて「富士」を見た印象が、「比叡の山を、十重二十重に重ねたる・・・」って書かれてたんじゃなかったかしら?「都人」には、「比叡」が「万物の尺度」なのでした。
で、山が低いから、川も短く、雨が降ってもすぐ海に流れ込んでしまう。だから、雨水が貯められなくて、夏場に水不足になる。
家々の屋上には給水塔が並ぶ、それがまた「沖縄らしい」街のタタズマイってやつなのであった。うちの場合、給水塔からの配管も、賃貸用に改築でもするとき後から付けたものだからなのかな?全部屋外にあるから、二三日快晴の日が続くと、蛇口をひねれば、ほぼ熱湯である。六月から九月くらいまで、シャワーを浴びるのに、ガスはいらない。「地球」と「貧乏人」に「やさしい」島なのであった。
ただ困る、といえば、亀の「かめお」の水槽の水替え、「変温動物」、熱湯に浸けるわけにいかんから・・・。もちろん、「冷まし」ます。

「八重岳」は、桜の名所、本島北部の山々は「やんばる(山原)」と呼ばれ、野生動物の宝庫であります。草木や鳥を見に、久しぶりに訪れてみましょうか?

2009年06月09日

「連座制collective punishment」について。



「びー」の腹下しは、結構深刻であった。二つばかり授業をして帰宅すると、小屋の床の新聞紙が引っ掻き回されていて、おむつのわきから便が漏れたらしい、いろいろなところにこれが付着し、かなり「酸鼻を極める」状況であった。


おなかこわした「びー」・(左)お部屋掃除中だから、そこらへんで遊んでて!(右)シャンプー後、今度は左手?

まずはふたたび、「お尻のまわりシャンプー」、お尻のまわり乾かすのもそこそこに、小屋の床を掃除しなければならない。「びー」本体はそこらへんに転がしておいて、寝床、兼、爪とぎ・噛み付き用、として入れておいた段ボールなどにもうんこが付着しているから、これらを取り除き、床の新聞紙を換え、・・・、などの作業。


「びー」、お尻のまわりシャンプー後、お尻のまわりを乾かそう!

おなかを壊した原因が、わからん。他の猫は、というと、・・・、
「『多頭飼い』では、猫の頭数プラスアルファの個数の、トイレを用意するように」というのが、「鉄則」といわれておるが、これは、本当のことらしく、以前はとんでもないところで排便されていたこともあったのが、現状の、30基以上の各種トイレ導入以来、快適なのであった。で、そのトイレを「視察」してまわるに、いくつかの「よくない」うんこが発見された。私が、いかに閑人であっても、26匹の猫が便意をもよおすたびに「付き添う」わけには行かないのだから、「誰」がおなかを壊しているのかは、わからない。

で、「連座制」、「連帯責任」、「コレクティブ・パニッシュメントcollective punishment」、という「暴挙」に出た。
「なにぃ?宿題忘れたやつがいるぅ?クラス全員、校庭3週走ってこいっ!」
ってやつだ。

下痢をしたときは、腸の粘膜が新陳代謝によって自然に修復されるのを「待つ」以外に方法はない。長引けば、体力が消耗するから、点滴で水分補給とか、その他もろもろのことを考えねばならないが、まずは、「絶食」で回復してくれれば、それにこしたことはない。
下痢を症状とする重篤な感染症に対しては、全員「ワクチン」による防護があるから、それだけでも、年間十数万円もかけている分だけ、何ものにも代えがたい「安心感」があるね。

満月に近い夜でもあるし、「めしはまだかぁ〜(怒)!」と暴れること、暴れること、でも、それを何とかやり過ごすと、やがて空腹のままであっても、眠くなってくるのであろう、おとなしくなってくれる。

で、摂食障害の「飼い主」も、猫たちのギラギラしたまなざしの中で、コーンフレークにミルクをかけて悠々と食べるわけにもいかず、「絶食」に付き合うことにした。
「先生も、一緒に、走るからなっ!」って、わけだ。

一夜明け、たった今、全員に、一日半ぶりのごはんを出したところ。回復していれば、よいのだが・・・。次回の、うんこ、が待たれるところである。

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『オキナワスズメウリ日記』・新しい花と実

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オクラの季節になりました。沖縄の野菜の中ではこれが一番好きです。下の「丸オクラ」以外に、六角形の角がもう少しとがった感のある「角オクラ」もあります。「角オクラ」は少し固くて、筋っぽい感じもしますが、私はあまり気になりません。
てんぷらにしたり、茹でたりするのが「筋」なんでしょうが、摂食障害はそんな面倒なことはしません。刻むだけです。


沖縄の夏野菜シリーズ・「丸」オクラ

どんぶりに豆腐と納豆、刻んだオクラ、あと、もうそろそろ出てきているだろうな、トマト、近所の農家で作られたものが、そこらの商店の店先に無造作に並べられ、小ぶりではあるものの、10個ほども袋に入っているのに140円とか、そういう値段なのだが、それも刻んで、「そうめんつゆ」をぶっかけ、海苔を散らす。上出来です。立派な「料理」です。沖縄の夏の「風物詩」です。


こちらは、オクラの花(携帯では見えません) 、ずっと以前に散歩の途中で見つけた、近所の畑で咲いておりましたの。

【オクラ/okra・・・アオイ科の多年草。日本では一年草。高さ0.5〜2メートル。葉は3〜5裂し、長い柄をもち互生。夏から秋、黄色い5弁花を開く。実は角状で、若いものを食用にする。アフリカ北東部の原産。アメリカねり。・・・ 】

☆★☆

一番上の写真は、今朝、屋上から見た「飛行機雲」。戦闘機から旅客機まで、常時、各種飛びまわっているこの島では、特に「珍しく」も、ないのですが・・・。

2009年06月10日

またお会いできて、うれしゅうございます。



「ダイサギさん、ダイサギさん、こんなところでお休みでしたか?
また、お会いできてうれしゅうございます。」

「えぇ、私はここが気に入りましたので・・・。」

「留鳥」化、されたのであろうか?ただ一羽残ったように思われるダイサギさん、やっとお会いできました。林の中のこんな梢の上で、お休みになっておられました。

喜びのあまり、一筆啓上。動画もさっそく作りましたので・・・。

2009年06月10日

「無花果」と書いて、「イチジク」と読む。



・・・無花果、果たして花はないか。否な花がないのではない。ただ外方より見て見ることが出来ないだけである。実際はその果の内部に小花が填充しているのである。すなわちその花序は閉頭総状花である。言葉を換えていってみれば、これは変形せる一つの総状花穂(raceme)である。そしてその嚢体が裏返って外が内になり、すなわち外にあって咲くべき花がみなそのために内に潜んで天日を仰がずに暗室で咲いているのである。
今ここにそのしかるゆえんを説明するために、私は次の図を創意してみた。(図、略)すなわちこれでみればその状が一目瞭然であろう。誰でもなるほどと合点が行くであろう。すなわち・・・
「植物一日一題」牧野富太郎(ちくま学芸文庫)

優雅な文章でございますな。この、私が生まれる前の時代の偉大な植物分類学者の文章を、読んだからとて、たちまち植物に詳しくなる、などということはありそうもないのだが、
植物を「見る」、その「心構え」みたいなものが、伝わってくるようで、楽しいでござる。ずっと以前に買った本なのだが、「退屈」と思って放り出していた。だから、本との出合い、というのは、むずかしい。

亜熱帯には「クワ科」のうちの「イチジク属(Ficus)」がとても多いようで、そう、「ガジュマル」もそうでございますね。で、そのイチジク系のものはことごとく、上に引用した牧野先生の文章にあるような、「無花果」を持っているようなのでございます。


公園の街路樹に用いられていたこの木(↑)は、「アコウ」ではないかしら?

で、以前ご紹介したウグイスの鳴いていた木(↓)は、「コウトウイヌビワ」ではないか?と、私は一人合点しておるのだが、というのは、図鑑によると、これは「雌雄異株」であるらしい。


ということは、見かけ上、例の「無花果」がなかったとしても、雄株、ってことになるのではないか?


さらに、それと、「似ている」と思われる、わが「家庭菜園」に忽然と現れたこの「木」(↑)も、やはり、「無花果」は見られず、だからこそ、どう見ても平凡な「長円形」の葉以外にこれといって特徴が見られないからこそ、決め手を欠き、こうして私は、毎日、ああでもないこうでもないと、「頭を悩ませ」ていられるのであったが、これも 「コウトウイヌビワ」(雄株)で、どうじゃ?

それにしても、「頭を悩ませ」ていられるものがある、というのは結構なことであるようだ。
す・な・わ・ち・、私、このところ、体調が、「いい」のだ。

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一番上の写真は、「オオバイヌビワ」、と思われます。遊水地の川べりに生えていました。これの写真を撮りに出かけて、ダイサギさんと再会できたのです。

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「びー」は、そんなに完璧に、「いい」ウンチ、ではないものの、「合格」ウンチ、を、した。これまた、結構なことである。

2009年06月10日

「生きている」こと「そのもの」であったりもするような、・・・、例えば、「ビォフェルミン投与」



また、ウグイスが鳴いている。いつものあの木のところだろう。隣の家の庭からは、メジロの声も聞こえる。とても近くに聞こえるから、ケーブルの上にのっかって歌っているのかもしれない。シロガシラに至っては、「騒々しい」くらい、
の、そんな美しい明け方なのだが、すっかり「二足歩行」が不自由になってしまった私は、何頭かの猫を「重石」にして棒のように固まったまま仰臥しつつ、起き上がることが出来ないでいる。

野良ちゃんが、ご近所の門前でウンコしてしまってるかも知れないぞ!早く起きて点検に行かねば・・・、えっと、今日は何曜日?何のごみの日だっけ?

・・・

いつの間にこんなに「衰弱」してしまったのだろうね?お酒を毎日、がばがば飲んでいた頃は、ただ「また、二日酔いだ!」と思ってたから、目立たなかっただけなのだろうかね?

それでも、「生きている」からには、働きもしなければならず、それ以前に、「生きていく」ために、こなさなければならない各種「用事」といったものが「世の中」にはあり、しばしばその「用事」を処理すること自体が、「生きている」こと「そのもの」であったりもするわけだから、
さらにそれ以前に、まずは、・・・、起き上がらなければならない。

あぁ、「びー」が叫んでいるぞ?!床をこする音が聞こえるぞ!すわっ、手遅れであろうか?

何とか間に合った。しかし、「わるい」ウンチ、に戻ってしまった。オムツが汚れている。

左手の手のひらで「びー」の腋の下を押さえつけ、頭が上になるように持ち上げる。そうやってかかえたまま、かつ、汚れたお尻がまわりの物に付着したりしないよう注意しつつ、右手で手早く汚れたオムツを新聞紙にくるんでゴミ袋に入れ、シャンプーのビンを取り出して右ポケットに突っ込み、流しのところまで行って蛇口をひねり、まずは被毛にこびりついたウンコをこそげ落とす。左手はずっと暴れるケモノを固定するのに使うのだから、すべて片手の作業だ。

一応汚れが取れたら、今度は右ポケットからシャンプーを取り出し、親指を用いてキャップを緩め、
そう、まるでカクテルバーのバーテンダーがシェィカーでも捌くような鮮やかさで、ビンを軽く半回転させて手のひらの上にシャンプー適量を取り出す。
その「職人芸」、ぜひとも一度ご覧に入れたいものである。

きれいにシャンプーを洗い流した後は、まずは、美容師さんのごとき熟練した手つきで、濡れた被毛を十分に絞る。そうして、棚の上から、キッチンタオル、正確に二枚だけちぎり取って、残りの水分をふき取る、のだ。

ほらほら、だんだん、調子が出てきたでしょ?「世の中」と、ちゃんとやっていけそうな、「生きていけ」そうな、気がしてきたでしょ?

まことに、「労働」こそが、「労働」を構成する一つ一つの「作業」のステップこそが、人間の「生きる」よ・す・が・なのであるよ。

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さぁ、ごめんな、「びー」、また絶食や。今度は、一人で頑張ってなぁ!ビォフェルミン、呑ませたげるわぁ♪

で、「ビォフェルミン・飲み人形、『びー』」、という動画作りましたから・・・。

2009年06月11日

雨上が「り」、オキナワスズメウ「リ」、・・・、お、脚韻を踏んでおる♪



瓜売りが、瓜売りに来て、
瓜売り切れず、
瓜売り帰る、瓜売りの声・・・、

子供の頃、これ聞いて、とても悲しかった。「あぁ、売れなかったんだぁ・・・」って、いや、子供の頃だけじゃない、今でも涙出る。「売ろう」としたものが、「売れない」、悲しいですね。身につまされますね・・・。

「びー」の深夜の絶叫にまたたたき起こされて、足もとあやしく駆けつけたところ、オムツにおもらししていたものの、やや、固めの、やや「よい」ウンコであったので、少し、安心。


絶食中の、「びー」様、近影。

昨日はすごい雨だった。「世間」は「梅雨」に入ったのか?知らない。一週間後くらいに古新聞、猫トイレに敷きながら、「今日、梅雨入り宣言」とか、「事後的に」、確認しよう。
激しい雨を浴びて、「家庭菜園」の植物達は、元気そうである。
野良猫たちは、もちろん、大変である。朝の晴れ間をぬって、「食いだめ」にやってきた。


雨上がりの、黒猫一家。今朝のお食事は、「ヒラメのから揚げ」、もちろん「半額」、つまりもう少しで「売り切れなかった」ヒラメ、ざんす。

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植物一日一題。

遊水地の遊歩道沿いの植樹、突然鮮やかな黄色い花が咲き始めた。
「ナンバンサカイチ(別名ゴールデンシャワー)」(マメ科)、なのか?タイの国の花だそうで、マメ科も熱帯では、こんなに巨木になる。そういえば、デイゴもホウオウボクも、マメ科だが。5弁の花びらが「対等」だから、マメっぽくないが、長く湾曲した、そうね、ツルの首のような雌しべは、確かにエンドウ的である。


ナンバンサカイチ

こっそり「検索バカ」して見たら、あるわあるわ、通販だらけ、種子をハーブティーにするのだそうである。人間、いや、日本人、というべきなのか?何でも「口に入れる」生き物なんですな。下の写真は、別の場所で撮った、他人様の庭木であるが、花が少し地味に見えたから、はじめは別種かと思った。でも、長大な豆の鞘(サヤ)ができているのが、わかりますでしょ?


ナンバンサカイチ(別名ゴールデンシャワー)マメ科、実


ナンバンサカイチ(別名ゴールデンシャワー)マメ科、花

ということは、ずっと前に、ご紹介した写真のメジロがとまっている木は、このナンバンサカイチ、ということになります。


・・・

「練習問題」に飽きたので、少し「応用」しようかと思って、私の家のある路地の雑草を、ことごとく撮影して、名前を調べよう!と決意したのだが、「ありふれた」風な花、3枚くらい撮って帰って、調べても、ことごとく、名前が判明しない。愕然とした。少し「落胆」して、もう寝ようかと思った。

「植物」の「世界」は、果てしなく広そうである。知らないことが、「果てしなく」あること、それを「希望」として留保し、「生きて」、いや、起きて、いることにした。

「路地の植物」シリーズ。
私の、幼少期の記憶では、これがヘクソカズラ、なのだが・・・。ベランダにあるものとは、もちろん葉の形状が異なる。図鑑の小さな写真に写っているのは、また、これらのいずれとも異なる、ような気がする・・・。ただ、この写真のものも、つるが「左巻き」であることは、確認できる。



2009年06月12日

「纏繞(てんじょう)」する、「私」・・・。



「柳宋民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)、夏の章、ヘクソカズラの項で、面白い記述を見つけた。年末ごろ、私が「力説」しておった「鏡像問題」ともかかわる、きわめて興味深いテーマである。

・・・
蔓植物は他物にからむ時、いろいろなからみ方をする。ウリ科の植物は葉先から巻鬚を出して、これが他物に巻きついてよじ登るようにからむし、ツタは吸盤によって吸いつきながらよじ登る。このほか、蔓より根を出して、これを樹皮や岩の隙間に食い込ませて張りつくものもある。多いのは蔓を他物に巻きつかせるタイプで、アサガオやツルインゲンなどはその典型的な植物だが、ヘクソカズラもこの部類に入る。
巻きつき型のものには、巻く方向が右巻きのものと左巻きのものとがある。アサガオなどヒルガオ科の植物は、ほとんど左巻きとなる。ヘクソカズラはどちらだろうと調べてみたら、『牧野日本植物図鑑』では「左方に纏繞(てんじょう)する」と記されている。これは左巻きということだろう。ところが、念のためにと、わが家に生えるヘクソカズラを調べてみたら、どう見ても右巻きである。一体、どちらが本当なのか。
アサガオは左巻きが定説となっているが、学者によっては右巻き説をとなえる人がいるという。巻く方向は決まっているから、この右巻き説というのは不思議である。ところがこの逆説も実は間違ってはいない。巻く方向は、上から見た場合で定めてあるようだが、蔓を下から見ると反対となる。物は見方、ということか・・・。この場合にはどちらも間違いではないということが理解できるが、ヘクソカズラの場合には、定説に従って上から見て「左方に纏繞する」となっているが、私が直接調べてみると、明らかに上から見て右巻きである。植物図鑑のミスプリントか、私の見間違いか、誰かに判定してもらう必要があるようだ。
「ナニ?左へ巻こうが右へ巻こうが、天下の大勢には影響がないって・・・?」
そう云われれば、そうかもしれないが、どうもこのこと、気に掛かって仕方がない。
・・・
「柳宋民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

3次元座標軸の取り方に「右手系」と「左手系」の2種類があることは、お話しましたな?
xyzをこの準に「親指、人差し指、中指」に「なぞらえた」時、普通の人間の骨格の構造からして、相互に直角を成すように出来る「形」は限られているから、そうやって決めましたのです。
では、右手を出してください。次は「右ねじの法則」の登場です。「右手系」x軸をy軸に「重なるように」回転させたとき、その回転を「右ねじ」の回転に「なぞらえて」いただくと、「右ねじ」が進む方向が、z軸になっておりますね?
「左手系」では、当然逆になりますでしょう?

さて、「蔓草」の「蔓」に、「なった」気持ちになりましょう。「私」は、「太陽に向かって、伸・び・た・い・」と「思い」ます。太陽を「右手系」z軸とした場合、x軸正方向からy軸正方向へ「纏繞」した、とすれば、それは、「私」にとって、「右巻き」ということになりませんか?
同様に、太陽を「左手系」z軸に取れば、x軸正方向からy軸正方向への回転が「左巻き」であります。

そうなんだ!私は、ヘクソカズラや、シンツルムラサキを見るとき、「私」がヘクソカズラや、シンツルムラサキに「なって」いたのだ!
覚えてらっしゃいますか?これが大森荘蔵言うところの「身入れ法」です。「私に擬して」理解する、ことであります。
これに対して、植物を「上から見た場合で定めて」、という方法は、植物を「私」ならざる「他者」として、「対象」として、見ている、ということなのです!
どうです?感動的、では、ありませんか?

というわけだから、私の蔓の見方は「定説」に反していたわけで、したがって、ヘクソカズラについては、もし、うちのベランダのツル性植物がヘクソカズラであったとして、私は、「牧野説」ではなく、「柳説」に与することに、なります。
お二人とも、故人ですから、確かめようもございませんが、私もまた、「どうもこのこと、気に掛かって仕方がない」ので、ありました。

てん【纏】仏語。まつわりつくもの。煩悩(ぼんのう)のこと。
しまく【繞く】[動カ四]とりまく。とりかこむ。

上の写真は隣家の庭の「ノアサガオ」(ヒルガオ科)、蔓の巻き方は、わからんが・・・。

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久しぶりの「かめお」君です。亀は、甲羅を正しく形成するために、多量のカルシウムを摂取しなければならないのですが、カルシウム含有量が抜群に多い「小松菜」、確かに、彼も好んで食べます。

コマツナ(こまつな)【小松菜】[学名:Brassica campestris L.]
アブラナ科の二年草。植物学上はカブやハクサイと同一の種で、カブから改良されてできたものといわれる。栽培の起源はつまびらかではないが、江戸時代初期には各地で栽培されていた。東京都江戸川区小松川も産地の一つであったが、5代将軍徳川綱吉(つなよし)がこれを好み、小松川にちなんで小松菜の名をつけたといわれる。・・・

2009年06月12日

ノアサガオの蔓を探して・・・。



一日絶食してもらって、「びー」にごはんあげたのは、昨日の出勤前だから、午後3時くらいか?夜、帰ってきてから、ウンコひねり出したら、まぁまぁ、の出来だったから、安心してたのに、今朝、ふたたびおもらし。それほど、ひどい便でもないのだけど、なかなか回復しないと心配だわねぇ。


おなかの不調にもかかわらず、ご機嫌の、「びー」氏

また、「お尻のまわり・シャンプー」ですわよ。そして、それがすんだら、「お尻のまわり・乾燥」ですわよ。


「びー」氏、お尻のまわり乾燥状況・左側面/同・右側面

トイレ視察の結果、他にも数名、おなかの調子のよくない者がいるようである。ここしばらく、猫の腹の調子に、一日中、一喜一憂している気がする。
もっとも、「世界」には、
1:「株式市場(かぶしきしじょう)の動向」に、一日中、一喜一憂したり、
2:「対立候補(たいりつこうほ)の演説会動員数」に、一日中、一喜一憂したり、
3:「模擬テストの合格可能性判定(ごうかくかのうせいはんてい)」に、一日中、一喜一憂したり、
4:「夫の態度から推測される不倫関係(ふりんかんけい)の存在」に、一日中、一喜一憂したり、
といった方々がたくさんいらっしゃるのだから、私の境遇が特にそれらに比して、不当であると直ちに言える訳ではないから、ありがたく甘受すべきであろう。

そこで、ふたたび「連座制、コレクティブ・パニッシュメント」を発動することにした。週末だし、私はどこにも行かない。どうぞ、存分に、騒いでくれ。絶対に、めしは、出さんから!


「一斉絶食措置」に抗議して集まった群衆

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柳宗民の前掲書に、「ヘチマは、途中から蔓の巻く方向を変える。張力がかかっても、抜けにくくするためだ」みたいな記述があった。
早速、「研究」である。
オキナワスズメウリの「2本」の巻きひげも、当然、相互に逆巻きをしていて、一方向からの張力にももう一本で抵抗する、という構造になっていることが、推測されるではないか!
それこそ、「diplocyclo-」の意味ではないか!


オキナワスズメウリ(ウリ科)、diplocyclo-は相互逆巻き

見よ!その通りじゃないか!

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「アサガオは左巻きが定説」を、確認したくて、ノアサガオの蔓を探して、出かけてまいりました。
ごらんの通り、これから伸びるべき、ノアサガオの蔓の「立場」から見て、「右巻き」、す・な・わ・ち・、
これに対向して、客観的な「観測者」として振舞う「立場」から見ると、まことに、「定説」どおり、「左巻き」となるわけであった♪


ノアサガオ(ヒルガオ科)の蔓、「身入れ法」による「右巻き」


ノアサガオ(ヒルガオ科)、「身入れ法」による「右巻き」

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路地の花・シリーズ、一つだけ、名前、わかったかも?


フクマンギ(ムラサキ科)

図鑑の記述、葉は「全縁であるが上の方で3裂することがある・・・」、が決め手!

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一番上の写真は、
リュウキュウボタンヅル(キンポウゲ科)、手前の白い花、「葉は対生、3出複葉」というが、もうどれがどれだか・・・?
赤いのはハイビスカスで、青いのはノアサガオ。

2009年06月13日

チーズ・ケーキは、い、か、が?



何か、胸騒ぎのする浅い夢を見ながら、何か、胸騒ぎのする、不穏な物音で、目覚めた。
プラスチック、ビニール、セロファン、・・・、的なもので、猫がたわむれる音、それは、きわめて「不穏」である。ましてや、今夜は「一斉絶食」令下にある。

大量の猫たちと暮らし始めてはや8年、神経質なまでの厳格な健康管理を貫こうとしてこそ、「メランコリー親和型」という「鬱」の病前性格の本領発揮、犬猫の肝臓には負担が大きい人間の食物を「おいちいでちゅか?」などとだらしなく分け与えたりは、絶対にしないよう、冷蔵庫のドア、戸棚の扉などには、つねに細心の注意怠りなく、・・・、だからこそ、発病した、とも、いう。

何匹かの猫がおなかを壊しているからこその、「一斉絶食」令下、という重要なときに、やってしまったぁ〜。
お酒をやめてから11ヶ月、とりたてて「健康」になったようにも思えないが、摂食障害ますますひどく、同じものしか食べれない。でも、ときどき、心弾むことだってあり、「あ、これ食べよ♪」、そうやって買ってきて、「大事に」してあった、や、もちろん大した値段じゃない、いつもどおり賞味期限切れ寸前「半額」セールのものであはあるものの、「ベィクド・チーズ・ケーキ」だったのだ!
「あ、あれ食べよ!」と思って、冷蔵庫から取り出し、冷蔵庫の上に載せ、大方、ちょうどそのとき、他の部屋で猫が乱闘始めた、とかそういった理由で私は「現場」を離れ、そのまま「チーズケーキ」のことを忘れて、眠りについてしまったものと思われる。

犯行現場は酸鼻を極めるものであった。引きちぎられたビニールのパッケージの破片が散乱しており、ごく微量のケーキの破片と見られるものが検出され、間違いなく、それ以外の部分はすべて、食べられてしまったようである。

あぁ、こんな肝心なときに、消化に悪い人間の食べ物などを与えてしまった!
それもある、が、いざ食べられないとなってしまうと、あのチーズケーキ、実はとても食べたかったのに、という悔恨が頭をもたげてきて、
「絶食、もう一日延長じゃぁ!」
と、すれ違う猫たち誰彼かまわず捕獲し、「おいっ?食ったのはお前か?」と、荒々しい「職務質問」を行ってうさを晴らす私であった。


第二期絶食中、の「びー」氏

無論、小屋の中にいる「びー」は、「無罪」である、から、「絶食延長」措置はためらわれた。

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さて、一夜明けて、翌日の午後、二日ぶりに食事を出してしばらくたったところだが、「びー」の便意はまだないようだから、回復ぶりは確認できず、他の猫たちも、「チーズケーキ」食によると思われる不調は、今のところ見出されていない。

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続報。柳宗民前掲書の「ヘチマは途中から逆に巻く」について。なんと、うちのオキナワスズメウリの一方の巻きひげも、ごらんの通り、図中向かって左側の巻きひげ、いったん「左巻き」(「身入れ法」による、「定説」では「右巻き」、以下同様)の後、「右巻き」に変わっているじゃないか?


なに?こいつも途中で巻き方変えてる?オキナワスズメウリ。

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さて、質問です。諸君はこの図中(↓)に何種の植物が描かれておるか、よく言い得るか?


「解答編(↓)」作ってみました。


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「家庭菜園」の新しい仲間を紹介!コンクリートの階段の裏にたまった土に着床。「互生、3出複葉」以外手がかりなし。

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相似形・兄弟だから特に仲がよいわけでもなく、特に仲のよい 兄弟でもない、ニコプーとイチコプー

☆★☆

一番上の写真は、
ウラナミシジミ(昆虫綱鱗翅目シジミチョウ科)と、これは、オオアレチノギク(キク科)か?

2009年06月14日

「ベン」を待ちながら・・・。そう、「固い」の、お願いね♪



6日ぶりの「快便」に、喜びを隠せない「びー」氏。
本当は、私のほうがもっと、うれしい。
ごはん食べたのは昨日の午後3時ごろ、「もっとくれぇ!」と騒ぐのを無視して、量は控えめに、「ビフィズス菌」とかが消化助けてくれること念じて、ヨーグルトちょびっと添えて、食後にはビオフェルミン二つぶ。
口から「入った」食物が、胃、小腸、大腸を経て、うんことして「出て」行くのに、通常どれぐらいの時間がかかるのだろう?
本質的に一本の「管」、位相幾何学的には「ドーナツ」、「コーヒーカップ」と同じ、一つながりの「穴」に過ぎない私たちは、そんなことも知らないくせに、たとえば「存在」について「論じ」たりしている。けだし「噴飯物」である、という話は、前もしたな?
十数時間経過しても、下痢の兆候がない、ということは、腸の機能が回復している、と判断してもよいのだろう、とは思うものの、やはり「hard_evidence」ちゅうんですか?「物的証拠」、いや、ほんま、思いっきし固いやつお願いしますわ!・・・が「出る」まで安心できず、けさから何度、「びー」を小屋からひっぱりだし、おむつを外して、おなかをさすって、便をひねり出そうとしたことだろう?
あぁ、よかった♪喜びの余り、一筆・・・。

2009年06月15日

無限ページのメニューのある、料理店。



オクラ、ご近所の畑で花盛りであった。「アオイ科」なのですね?
方言名で「ゆうな」と呼ばれる、黄色い大輪の花「オオハマボウ」が、沖縄の浜辺を彩る代表的な花であるはずなのだが、これが同じく「アオイ科」で、でも今まで「花の名」など気にかけていなかったからなのか、あまり記憶がない。梅雨が明けたら、・・・、「梅雨入り」したかどうかは依然として知らないのだが、この降り方はどう見たって梅雨だろう?、・・・、また、海に行って、しっかりと見てくることにいたします。


沖縄の夏野菜シリーズ・(左)「角」オクラ/(右)「丸」オクラ

雨上がりには、ごらんのように、カタツムリがいっせいに道路を横断しますの。踏み潰さないように注意します。10年前に沖縄にはじめてきたとき、やはり、梅雨の季節だったから、あちこちの植え込みや、鉢に、異様なほどの数のカタツムリがいるので驚いたものです。今ではあたりまえに感じられますが。 どうも、すべてのカタツムリが、等しく、道路の一方の側から他方の側へ向かって「渡って」いるのだが、別に彼らは「渡り」たくて、危険を冒してまで「渡って」いるわけではなく、これは、彼らにとっての「目的地」が確固としてどこかにあって、そこへ向かう最短距離の直線をたまたま人間の作った舗装道路が横切っていた、ということを意味するのだろうけれども、その「目的地」が「どこ」なのか?また、「なぜ」そこへ向かうのか?は、なぞであります。 「世界」は、わからないことだらけですね。こんなに何もわからないまま、生きていていいのか?と、夜も眠れなくなるほど、わからないことだらけ、です。


雨上がり、道路を横断するカタツムリ。「オキナワウスカワマイマイ」、のようである。

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「ヘチマ、途中から逆巻き」問題、続報。なるほど、同じくウリ科のおなじみ「ゴーヤー」、近所の畑で観察しますと、ほら、


ごーやー(苦瓜、ツルレイシ【蔓茘枝】)(ウリ科)[Momordica charantia L.]確かに途中から逆巻き!

わかります?上の方の実の手前に見える太目の蔓も、下の方のロープに絡まっている蔓も、途中で巻き方変えておりますでしょ?
で、学名に「diplocyclo-」はございませんね?巻きひげは1本、ということなのでしょうか?

ついでに、沖縄・野菜シリーズ。「島トウガラシ」と呼ばれております。これの実を泡盛に漬け込んだもの、「コーレーグースー」というarienには不可解な発音の名称のそのスパイスは、沖縄料理店なら、どのテーブルにも置いてあるものです。沖縄そばにも振りかけたりする様でございます。


トウガラシ(ナス科)、わが家庭菜園の「キダチイヌホウズキ」と同じ「ナス科」、といわれると「親しみ」も湧く・・・。

「観光客」であった頃には、もちろん好んで「沖縄料理」の店に足を運んだものですが、いまでは、沖縄料理、どころか、どんな飲食店にも、参りません。
ウェートレスさんが「メニュー」を持ってきてくださる。その写真を眺めながら、「あ、これにしようか?こっちもおいしそう!」、などという会話を楽しむことが、もはや出来そうにありません。
「このリストの中から、君の『食べたいもの』を、選べ!」
「食べたいもの」が「ない」もしくは「わからない」者にとって、それは地獄の責め苦にほかならない。忙しいところを待たされているウェートレスさんの視線を背中に感じながら、
「きっと、次のページには、ほら、もっとすごい、私がまさに食べたい!と思っている料理があるに違いない!」
と、むなしくページを繰り続けるのでした。

私が「本当に食べたい」ものが掲載されている、「無限ページ」のメニューのある料理店。
私に「本当に」ふさわしい仕事が掲載されている、「無限ページ」の「求人ファイル」のある職業安定所。
今手元にあるこの植物とそっくりの植物が、「かならず」掲載されている、「無限ページ」の植物図鑑。
・・・

沖縄そばはときどき食べます。ときどき「無性に」食べたくなりますの。
「牛丼、カレー、沖縄そば」みたいな看板の、ファースト・フードなんですけどね。入り口の自動販売機で食券買えばいいのです。「選ぶ」ものは、そんなにありませんから、自動販売機の前で天を仰ぎ、茫然自失する必要は、ありません。
「選択肢」は少ないほど、よい。それが「自・由・」の・意・味・、です。

☆★☆

さて、「ねこログ」です。


絶食令解除を待ち受ける群衆

「びー」も含め、猫たちの、腹具合は、ほぼ復調したようで、その点では「平和」が戻ってまいりました。


相似形・シリーズ、
(左)無関係な二人、「ちょび」と「ムー」
(右)兄弟だから特に仲がよいわけでもなく、特に仲のよい 兄弟でもない、ニコプーとイチコプー

2009年06月16日

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや・・・。



鳥は全部で一万種くらいあるらしくて、その過半数が「燕雀目」、この言い方はちょっと古いらしく、「スズメ目」、その中の約5分の3が、「鳴禽類」、その名のとおり「さえずる」鳥たちであり、これも現在の言い方では「スズメ亜目」となる。

「バードウォッチング」歴4ヶ月の私がこれまでに「知る」ことのできた鳥たちも、そう言われればほとんどが「燕雀」であって、
リュウキュウツバメ(ツバメ科)、キセキレイ、ハクセキレイ(セキレイ科)、シロガシラ、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、イソヒヨドリ、シロハラ(ツグミ科)、セッカ(セッカ科、ウグイス科から独立)、ウグイス(ウグイス科、まだ「目撃」してないんだけど・・・)、メジロ(メジロ科)、スズメ(ハタオリドリ科)
ら、が、「スズメ目スズメ亜目」

それ以外の鳥といえば、
ダイサギ、コサギ、ゴイサギ、ササゴイ(コウノトリ目サギ科)、クロツラヘラサギ(コウノトリ目トキ科)、サシバ(タカ目タカ科)、バン(ツル目クイナ科)、コチドリ(チドリ目チドリ亜目チドリ科)、セイタカシギ(チドリ目チドリ亜目セイタカシギ科)、イソシギ、ダイシャクシギ(チドリ目チドリ亜目シギ科)、カワセミ(ブッポウソウ目カワセミ科)
みたいな感じに、なる。

で、
「燕雀安知鴻鵠之志乎」(『史記』陳渉世家)
だそうで、返り点、送り仮名を付すと、
「燕雀安(ゾ)(二)知(ラン)鴻鵠之(一)志(ヲ)乎」、
訓読すれば、
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」、
となるわけですが、なんともまぁ、エリート主義的なステートメントでして、閑人としては、「燕雀」は、わかった、では、「鴻鵠(こうこく)」とはなんぞ?ということで、「検索バカ」して見ましたところ、

【鴻】(ひしくい、おおとり)
【鵠】(くぐい)
【鴻鵠】(こうこく)オオハクチョウ(カモ科)

ということでしたが、オオハクチョウの写真はございませんので、類縁種ということで、


しかし、この龍譚池の「ダッキー」たちに、たとえば、うちのベランダで猫の餌をくすねとろうとしている「燕雀」たるイソヒヨドリ、等、と比較しても、それほど高い「志」があるとも思えませんでしょ?


一番上の写真は、これまた「燕雀」、ちょうど雨上がり、お仕事に遅刻しそうになって急いで出かけようとしているときに、そんなときに限って、隣家の「ケーブル」上が騒がしい。スズメが何羽も集まって、雨に濡れた羽の毛づくろいをしているのかも知れないが、そこに一羽、明らかに少しサイズの異なるシロガシラが混じって、何事もないかのように同じく毛づくろいをしておった。
面白いので、一度閉めかけた部屋の鍵を開けて、ビデオカメラ取りに走った。遅刻したのはもちろんである。一羽のスズメとシロガシラ、性別不明だが傍から見ると「夫婦漫才」のごときその様子、動画にしましたから・・・。
それにしても、彼らは、「種」というものを一体どう「考え」ているのだろう?まことに、その「志」、計り知れないのであった。

参考文献:
「生き物をめぐる4つの『なぜ』」長谷川眞理子(集英社新書)
「受験生のための一夜漬け漢文教室」山田史生(ちくまプリマー新書)

☆★☆ オキナワスズメウリ「売り」日記 ☆★☆


オキナワスズメウリ「売り」日記・オキナワスズメウリの実(緑、赤)と、シンツルムラサキの花と、カタツムリ
オキナワスズメウ「リ」、シンツルムラサ「キ」、カタツム「リ」、お、脚韻だ!


オキナワスズメウリ「売り」日記・はえたばかりの2本の蔓、やがて「diplocyclo-」になるのであろう。

☆★☆ 梅雨の合間の晴れ間の、「黒猫一家」 ☆★☆


梅雨の合間の晴れ間の、ぼうや。乾き始めたアスファルトのぬくもりが心地よいのであろう、でも、こんな道の真ん中で・・・。背後は、路地の突き当たり、隣家の、そう、大きな庭があってその庭を横切るケーブルにとまって「シロガシラ」や「ヒヨドリ」が鳴く、その隣家の門。だから、車はめったに通らないけどね。


梅雨の合間の晴れ間の、ママちゃん。手前がうちのベランダで、向こうに見えるのがこれまた別の、隣家の壁、日当たりがよいのでお気に入りの「昼寝」スポットらしい。それらを隔てる空間が、二メートル近くはあるだろうが、器用に「跳んで」行き来する。私が猫の餌の袋をがさがささせると、その音を聞きつけて「跳んで」来る。餌の袋じゃないものを「がさがさ」言わせてしまったときも、わざわざ「跳んで」来てしまうので、申し訳ないから、何か彼女のお気に入りの餌を、チーズとかミルクとか、を、出す。


梅雨の合間の晴れ間の、べび。うちのベランダに雑然と積み上げられた各種ガラクタの中で、さまざまな場所を適宜「選んで」昼寝する。彼は、そもそも、ここで、育った。まだ、手のひらに乗っかるくらいの子猫のときから、これらの物陰のどこかに隠れていたものだ。もう一匹「とらベィビー」という、もう少し「控えめな」性格の、兄弟または姉妹がいたのだが、亡くなった。彼の名前は、本来「くろベィビー」だったのだが。

2009年06月19日

もし私がキャベツだったら、もし私がトマトだったら・・・。



七、八月の暑い日、温度を測ってみたところ、草のところの温度は、外気温が二八、九度の時、いつも一八度から二四度の間でした。一方、刈り取ったところはガラスの反射熱があるのかもしれませんが、三〇度を超えていました。
これではリンゴの木も暑いだろう。人間や動物は暑いと日陰に移ることができるのに、樹木たちは移動できません。もしも自分が木だったら、と考えるようになりました。
もし私がキャベツだったら、もし私がトマトだったらと自分を作物に置き換えてみると、草ぼうぼうにしているということは、日陰をつくっていることじゃないだろうか。
これは間違っていないと思いました。
「リンゴが教えてくれたこと」木村秋則(日経プレミアシリーズ)

☆★☆

「身入れ法」にちなんで、うちの「家庭菜園」、・・・、10年以上にわたる無収穫の年月を耐えて、「自然栽培」リンゴを作り上げた木村秋則氏の書物を読んだ後では、こんな表現は恥ずかしさに耐えないのだが、・・・、の植物たちを、「植物になった」気持ちで、「下から見上げて」見ました。
左がキダチイヌホウズキの花、右がシンツルムラサキの花。「緑」の葉を透かして、太陽が見えるでしょ?

「光合成=炭酸同化作用」とは、空気中の二酸化炭素と水を原料にして、糖をはじめとする有機化合物を生成し、副産物として酸素を放出する作用の謂いなのです。
二酸化炭素のような分子量高々44の「単純な」化合物から、グルコースとして、C6H12O6=180、分子量180の「複雑な」化合物を作り出すこと、それ自体「エントロピー増大則」の圧倒的な力に抗する「ありえない」出来事なのであって、ましてや、
C6H12O6+6O2=6CO2+6H2O+Q
糖が酸化して二酸化炭素と水になる、その際エネルギーを発生する、という「呼吸」に対して、ちょうど真反対の化学反応を起こすには、
二酸化炭素の炭素が「還・元・」さ・れ・、水の酸素が「酸・化・」さ・れ・る、という「とんでもない」事柄が平然と起こってなきゃならないのだよ?!
そのための、まことに「とんでもない」量のエネルギーを供給しているのが、ひとえに、「太陽」なのであった・・・。

「世界」には、びっくりしなきゃならないことが、あるんだよ。ほんでもって、びっくりするためには、知らなきゃならないことが、あるんだよ!

・・・

生物の身体を形成するタンパク質は、R-CH(NH2)COOHという形のα-アミノ酸が構成単位となっているから、炭素の量に比べたら小さいものの、その構成単位一個当たり少なくとも一個の窒素原子が必要なんです。
空気はその20パーセントが酸素で残り80パーセントが窒素でできてますから、窒素なんてよゆうじゃん、と思いきや、動物はもちろん、ほとんどの植物もまた、その空気中の窒素を取り込んで「固定」することが出来ないのでした。
マメ科植物の根のことにできる「根粒」、そこに巣食う「根粒菌」というバクテリアが、その生き物だけが、空気中の窒素単体N2を、アミノ基R-NH2と同じ還元状態にまでしてくれるのでした。
だから、大豆はタンパク質を蓄えられるのね!
マメ科植物が生えることで「土地が肥える」というのは、そういうことなのね!

空を見て、土を見て、緑を見て、ちゃんと「びっくり」して、・・・、
そうして「生きて」いきたいものです。


「根粒菌」が空気中の窒素を固定するマメ科植物の例:オジギソウ(マメ科)


「根粒菌」が空気中の窒素を固定するマメ科植物の例:アメリカゴウカン(マメ科)

2009年06月21日

「カモメが飛んだ日」、はぁ?アジサシ系?



海に行ってきた。どこの海かは、言わない。「秘密」だ。観光客はもちろん、地元の人もめったに来ない。どこまでも遠浅で、そう、今日みたいな干潮のときは、500メートルくらいも歩いていける。
今日は泳いだり、潜ったりするつもりじゃなくて、オオハマボウとか、花の写真でも、と思ってやってきたんだけど、

でも、そうだ!夏には、「夏鳥」がいるんだね?
風も強かったし、動きが激しいし、撮影は難航したが、後から調べてみると、「カモメ科」に属する「アジサシ類」のうち、沖縄の「夏鳥」、「渡来・繁殖鳥」(migrant_breeder,summuer_visitor)として「普通に」見られるのは、
ベニアジサシ、エリグロアジサシ、コアジサシ、
の3種のようである。

こんなボケボケのビデオの画像では、やれ嘴は赤いの黄色いの、頭頂は白いの黒いの、細かいところまで判らないから決められない。
でも、一度、私のごく近くをすり抜けたんだ。そのとき、はっきり見た!ということにしておいて、「エリグロアジサシ」に、決定。


下の方、ボケボケに写ってるだろ?頭の色合いからして、エリグロアジサシ、と、見た!えっ?こんな写真で決めるの?

グンバイヒルガオ。柳宗民「雑草ノオト」にも記述がある。
・・・
ハマヒルガオと住処も同じく海辺の砂浜で、草姿、花容もよく似ているため、同属の近縁種かというと、実は別属でサツマイモと同じイポモエア属(Ipomoea)の植物である。大きな違いは、ヒルガオ・グループのように萼を包む苞片がないことだ。
・・・
なるほど。


グンバイヒルガオ(ヒルガオ科)

オオハマボウ。なんだ。見れば見るほど、「オクラ」そのものじゃないか?それに、図鑑見てて気がついたけど、かの「ハイビスカス」も「アオイ科」なのね?


オオハマボウ(アオイ科)

とりあえず、「夏鳥」関係、報告、終わり!

2009年06月22日

愚劣な「罪の算術」に陥ることなく、・・・。【前編】



6月には本当にたくさんの花が咲きます。街路樹に用いられた熱帯性の木など、そう、前にご紹介した「ナンバンサカイチ」などもそうですが、「北」からやってきたarienの目からすると、「これでもか!」というほどの原色の、「場ちがい」と思えるような色合いの花々が、一斉に、唐突に前触れもなく、開き始めるのでした。
地面が梅雨の雨をたっぷり含んで、植物達が一斉に花芽を出し始めるこの季節のことを、土地の言葉では「うりずん」と呼ぶそうですが、arienであり、かつarienとしてやってきた土地で「言葉」をめぐる「病」を得てしまった私には、その言葉のニュアンスを説明することは出来ません。
ただ、この「美しい」季節が、同時にどことなく「死」の匂いを含んでいて、「悲しみ」に彩られていることを「感じる」ことはできます。それは人間の「歴史」に関することであり、多くの「南」が共有することであるかもしれません。

1945年の4月上旬に、アメリカ軍はすでに沖縄本島中部の西海岸、読谷、北谷の海岸から上陸を開始、東西に狭く細長い島ですからこれによって以後南北の連絡は絶たれます。日本軍は旧琉球王朝の王府である首里城に総司令部を持っていましたが、アメリカ軍の南進に撤退を開始、石灰岩地帯の「ガマ」と呼ばれる地下の自然洞窟に次々と本拠を移動しつつ敗走を続けます。
明日6月23日は「慰霊の日」として「沖縄県民の休日」となっているのですが、この日はウシジマという名の日本軍司令官が、「徹底抗戦せよ」と命じながらかつ自殺をする、という残された「部下」にとっては「ダブルバインド」にしかならない行為をとってしまった「記念日」なのでした。「勝てない」ことが明らかだからこそ「自殺」したのであろうから、そのような「命令」が「有効」であるとして、敗走する兵士から「降伏」する自由も奪ってしまったわけですから。
司令官がいなくなることで日本軍の「指揮系統」は崩壊し、この日をもって日本軍の「組織的抵抗」は終結した、ということになるのですが、占領軍は当然、残存する戦闘員を掃討、もしくは確保、することになるだろうから、「ガマ」をめぐる戦闘はこの日以降も、それどころか8月15日の「終戦」以降も続くことになります。その過程で、「戦意を喪失」した戦闘員が非戦闘員を「Human Shield人間の盾」として用いる、等の、およそいかなる「戦場」でもありえた事態が生じ、多くの人が亡くなりました。

「数」について語ることは、止めましょう。「沖縄県民の『四人に一人』が命を失った」という言葉を、私は使いたくありません。「人間の尊厳」に対する「冒涜」であるからではなく、数学上の「比」の概念の「誤用」だからです。
私がこの島にやってきてから10年になるのですが、あるいはそれ以前からかも知れない、「病み」ながらも、「発狂」しながらも、考え続けてきたのは、唯一つの単純な事柄です。
私たちの「言葉」が通じないのは、私たちの「言葉」の「数・字・」の・扱・い・方・が、「間・違・っ・て・い・る・」からではないのか?

目の前にコップ一杯の水を思い浮かべてください。あなたは水というものがH2Oなる「分子」で出来ている、と教わりました。もちろんそんなものを「見た」人は誰もいません、これからも、いません。その「分子」は、「いくつ」あるんでしょう?さっそく、計算です。
原子は原子核にある陽子と中性子というほぼ質量の等しい粒子と、その約2000分の1くらいしか質量のない電子いくつかずつから出来ています。2000分の1は「ない」ことにして、かまいません。前に「千成瓢箪」のところでお話したように、私たちは1000という数すら「まともに」数えたことがない、だから、1000倍隔たったレベルの「違い」を「感知」することが出来ないからです。これを「近似」といいます。
普通の水素は原子核に陽子が一個だけ、普通の酸素は8個の陽子と8個の中性子でできているそうですから、H2Oは「何か」の18倍の重さを持っているはずだ。どうせなら私たちに「感知」出来る重さの単位と「関連付け」よう。H2O「分子」が一体何個集まったら、本・当・に・、18グ・ラ・ム・になるのだろう?「グラム」が選ばれたのは、単に当時、フランスが化学の「先進国」だったという「偶然」からでしょう。その答えが「アボガドロ数」、「10の23乗の6倍」、です。
コップの容積が180mL、「一合」ってやつやね、としよう。水の「密度」は、1mL(もしくは立方センチ)あたり1グラムであるから、コップ一杯の水の質量は180グラム。18グラムに「アボガドロ数」だから、180グラムにはその10倍、「10の24乗の6倍」が答です・・・。

アーウィン・シュレディンガーという物理学者が「生命とは何か?What is Life?」という書物のなかで、「分子というのは、どうしてこんなに小さいのだろうか?」という、ほぼ「幼稚」とも思える問を真顔で提起しています。逆に、私たちが「感知」している生物の身体の「サイズ」は、どうしてこんなにも「でかい」のだ?ということになります。
私の身体は「無数の」タンパク質で構成され、そのタンパク質はアミノ酸という炭素化合物なんだけど、では、私の身体には何個の炭素原子があるの?という概算を、また今ここでお目にかけることも出来ますが、上の話と「ほぼ」同じ、とわかっていただけるでしょ?ようするに、10の24乗とか25乗とか、そんなうんざりするような数なんです。

シュレディンガーの答えは、こんな感じです。「ミクロ」の世界では、小さな粒子が、局所的な力学にしたがって、一見「支離滅裂」の動きをします。そのような粒子が、「確率論的」、「統計学的」に扱いうる「桁数」個集まって「マクロ」世界を構成すると、その「支離滅裂」な挙動が、まさに「確率論的」、「統計学的」に「安定化」する、予測可能になる、から、なのです。生命を維持するには、「安定化」が可能なスケールが必要だったのです。だから、でかく「なった」んです。

さいころの6の目が出る「確率」は6分の一だ、と「習い」ましたね。私もそう「教えて」います。でも、それはあなたが今、まさに投げようとしているさいころの目の出方とは、「何の関係もない」。6が立て続けに10回出ることは、ざ・ら・に・、あります。「私だ・け・が、不幸」な事態も、ざ・ら・に・、起こりえます。
「確率論」が問題に出来る「数」のスケールは、「大数の法則」が、成り立つスケール、つまり、上で出てきた「うんざりするような」数のスケールなのでした。いや、10の二十何乗もなくてもいいです、3桁で充分、繰り返しますが、私たち、1000まで数えたことすら、ないのですから・・・。

【続く・・・】

写真は、そんな、「南国」風な、ランタナ(クマツヅラ科)

2009年06月23日

愚劣な「罪の算術」に陥ることなく、・・・。【後編】



「人類愛について語ることは容易いが、隣人を愛することは難しい」と、ドストエフスキーは言ったそうで、って話もしましたな。「スモール・ワールド」理論の話もしましたな。
「世界が100人の村だったら」という仮定が愚かしく見えるのも、「人間の命は地球より重い」という比喩が「下品」に聞こえるのも、実は、私たちは、その「ミクロ」と「マクロ」の数字の桁数、「確率論を適用しても意味がないスケール」と「確率論を適用して何事かを知ることが出来るスケール」との「違い」を、ち・ゃ・ん・と・知・っ・て・い・る・、のに、私たちの「言語」には、それを「使い分ける」方法が組・み・込・ま・れ・て・い・な・い・、からなのではないですか?
何年か前に、そう、それは「発病」してから、「セプテンバー・イレブンス」からしばらくたってから、ってことになりますが、こんなことを、唐突に考えるように、なったのです。

藤谷治「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」(小学館文庫)のラストシーンは「セプテンバー・イレブンス」の貿易センタービル倒壊のテレビ映像です。
私は、そのときもテレビを持っていなかったから、「それ」をはじめてみたのはもう何日か後、沖縄上空を旋回していた台風16号の暴風もおさまって出かけた北谷町の定食屋のテレビででした。
そう、200年でいい。200年前を想像してみよう。「海の向こうでい・く・さ・か、または、災害があり、数千人が死んだらしい」という情報を、私たちが「人づてに」聞くのに、数ヶ月程度の「時間」が必要だった。
20世紀の初めに「量子力学」とともに、いや、「量子力学」によってこそ可能になった人類の「通信手段の革命」は、またしても、「10のマイナス8乗メートル」の波長、「一秒間に地球を7まわり半」というそれ自体「比」の概念の「誤用」としか言いようのない表現で記述される速度の、「電磁波」を用いている。
有限な距離を、「無限」の速度で「割れ」ば、「ゼロ」になることになっている。地球の裏側で起こったことを「知る」ために必要な「時間」が、「数ヶ月」から「ゼロ」にまで変化する環境に「適応」する進化を遂げるには、200年は短すぎた。地球の裏側で数千人が死んだ、という事実を、「今」受け入れる心の準備が、私たちには、な・か・っ・た・、し、これからも、当分、な・い・。

私たちが小学生だった頃、この国は「高度成長期」だったから、「メガロマニアック」な表現はおなじみだった。小学生向きの科学雑誌には、当時日本の造船所が建造したタンカーの容積が、「甲子園球場の○倍」、「ドラム缶に入れて立てると富士山の△倍」みたいな言葉があふれていた。
タンカーの石油を甲子園球場にためることは「できない」し、ドラム缶を富士山の高さまで積み上げることも「できない」。
「県民の4人に一人・・・」も、「地球の半分が飢えている・・・」も、そこに用いられた分数が、実際に数え上げて比較することが「できない」ことにおいてこれらと同じ、「誤用」ではないか?
10の24乗といわれるときと同じで、私たちは、それをただ「たくさん」としか、感じられない。意味ありげな数字を挙げて見せるのは「もっと、たくさんだと、思え!」という「脅迫」に見えるから、「下品」だと、言っている。

「セプテンバー・イレブンス」直後、アフガン空爆開始直前の頃、インターネット上で、スラボイ・シジェクが「絶叫」していた。私もまた、多くの人々と同様に、「絶叫」していた。その後私は「病」を得たから、もう「絶叫」することは身体に悪いから、しないけど。
私たちは「隣人」を「愛する」ことも「憎悪」することもできる。「憎悪」できるのは人間が「言語」を獲得したからだ。
チンパンジーの母親は、子供が頭をぶつけると、「同情」して舐めてあげるしぐさをするそうだ。「生き物をめぐる4つの『なぜ』」長谷川眞理子(集英社新書)。
「リンゴが教えてくれたこと」木村秋則(日経プレミアシリーズ) には、畑のわなに掛かった子ギツネの足を、母ギツネが逃げもせず、舐めてあげていた、という話が出てくるね。
うちの「オー」ちゃんも、すっかり弱ってしまった「捨て子3兄弟・クロちゃん」をていねいに舐めてあげていたものだ。
それらの「本能」的な行為は、「言語」を持ってしまった人間の行為に「たとえられる」ような「連続性」を欠いているだろうか?そのような「同情sympathy」について語ることは、誤った「擬人法」なのだろうか?

☆★☆

・・・ただ一つの適切な立場は、すべての被害者に対する、無条件の連帯である。罪悪感と恐怖を配分する算術を道徳化することでは、肝心なポイントを見失ってしまう。それぞれの諸個人の恐怖に満ちた死は、絶対的であり、比較不可能なのだから。簡単に言えば、例えば、単純な心理的な実験をしてみよう。もしあなたが自分自身の中に、WTC崩壊の被害者に対して、全面的に同情することに対して、何らかの心理的抑制が働いていることが感知されたなら、そしてそれに対して「そうだ、しかし何百万人もの苦しんでいるアフリカの人のことを考えれば・・・」などという言葉によってその同情を補強したのならば、それはあなたの第三世界に対する共感なのではなくて、あなたが暗黙のうちに第三世界の被害者に対して、支配者としての人種主義的な態度をとっていることを示しているものに過ぎないのだ。もっと正確に言うならば、このような比較論的言説は、必要であり、なおかつ同時に受け入れることができないものである。世界中で、日常的に、これよりももっと悲惨な事態が発生していることを必ずはっきり伝えなければならない。しかし同時に、愚劣な「罪の算術」に陥ることなくしなければならないのだ。
・・・
「現実界」の砂漠へようこそ。スラボイ・シジェク、2001年10月13日

... the only appropriate stance is the unconditional solidarity will ALL victims. The ethical stance proper is here replaced with the moralizing mathematics of guilt and horror which misses the key point: the terrifying death of each individual is absolute and incomparable.In short, let us make a simple mental experiment: if you detect in yourself any restraint to fully empathize with the victims of the WTC collapse, if you feel the urge to qualify your empathy with "yes, but what about the millions who suffer in Africa...", you are not demonstrating your Third World sympathize, but merely the mauvaise foi which bears witness to your implicit patronizing racist attitude towards the Third World victims. (More precisely, the problem with such comparative statements is that they are necessary and inadmissible: one HAS to make them, one HAS to make the point that much worse horrors are taken place around the world on a daily basis - but one has to do it without getting involved in the obscene mathematics of guilt.)
...
Welcome To The Desert Of The Real by Slavoj Zizek Sat Oct 13 '01

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実は、なかのよい親子、「ママ」と「べび」


なかがよいのかよくないのかよくわからない、他人の、「ペペ」と「ハナ」


くつろぎのひととき、「びー」様。

一番上の写真は、ヒメマツバボタン(スベリヒユ科)

2009年06月23日

渚にまつわる、・・・、エトセトラ。



同じことをたて続けに繰り返さなければ気がすまないのも、「病的」なのでしょう。また、海に行ってまいりましたわよ。今度は、南部、わりと有名な、観光客もよく来るようなビーチの、そのまた少しはずれのところに、とっておきの場所があるのです。
今日は「大潮」、午後2時過ぎが干潮ですから、その前後は海岸線は大きく後退して、普通のビーチでは、泳げません。地元の人は、潮干狩りのようなことをしたりします。
観光客だった頃は、何にも知らないから、そんな日を狙いすまして「泳ぎに行こう!」とか思って出かけていって、「あれ?全然、水がないっ!」と、動転したこともありました。
ひなびた飲食店などの壁に貼ってあるカレンダーには、その日の旧暦の暦や、満潮・干潮時刻、「大潮・中潮・小潮」の区分などが、ちゃぁーんと書いてある。さすが、「海人」の邦だ!、と感心したものですが、住んでみると、そんな感動は日々薄れてくるもので、
日常生活では、旧暦や潮を意識することなんか、まるでありませんけどね。

今は便利なもので、携帯インターネットで「潮汐」が一発でわかります。もちろん、調べてから出かけます。「大潮」の「干潮」なら、なんせ水がないのだから、観光客の半裸の男女が、ビーチボール投げたりして遊びたわむれている「心配」は、ないのです。「観光客」に、特に恨みがあるわけではない、ただ、人間一般が「苦手」なだけです。

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もうほぼ真夏の6月、チドリ類はほとんどが「冬鳥(Winter_Visitor)」であって、こんな季節にいるはずが、ない。沖縄でのほぼ唯一の「留鳥(Resident_Breeder)」が、「シロチドリ」なんだそうで、だから、これもきっと「シロチドリ」。


砂浜から、干上がった海面に向かって、きっとそこには、餌になるゴカイ類などがうじゃうじゃいるのであろう、猛烈なスピードで走り抜けていった。「ぴゅぃ」みたいな鳴き声もはっきりと聞こえた、のだが、なにせ世に「千鳥足」と申しますほどに、動きがちょこまかしておって、やはり撮影は難航。この写真も、ボケボケ。でも、こちらに少し顔を向けていて、可愛い、でござろう?

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このあたりの海底は、古代のサンゴ礁が、隆起、沈降、侵食などをくり返し、複雑な地形となったのであろう。干潮で海水が後退するとともに、湾曲部に海水が残って取り残された「礁池(ラグーン)」が現れる。そんな場所は、稚魚たちの絶好の隠れ場所であるらしく、何もかもサイズが縮小された、さながら「ミニ・水族館」の様相を呈する。青く輝くのが、多分、ルリスズメダイ。これまたいかにも、これでもかっ!と、「南国」情緒でございましょ?でも、千葉県あたりにもいるらしい。
その他、こんな写真ではわからないけど、フウライチョウチョウウオとか、オヤビッチャとか、何年か前に喜んで「名前」を覚えた、そんな魚の稚魚たちが、うじゃうじゃ、泳いでいるのであった。

で、天然の防風林となっているアダンなどの根元には、これまたびっくりするほどの数の、「ヤドカリ」たちがうごめいているのだ。


ヤドカリに限らず、およそ生き物というものは、こちらがじっとして「気配」を消さない限り、なかなか動いてくれない。だから、息を殺して何分か、待つ。すると、「カサ、コソ」と枯葉がすれるかそけき音が、ここかしこから聞こえ始め、目を凝らすと、ほら、ここにも、あそこにも、・・・、動き始めた。


で、これが、アダン(タコノキ科)。鮮やかなオレンジ色の、パイナップルみたいな、実をつけます。人間が食べてもおいしくないんだそうだ。でも、ヤドカリは食べるんだそうだ。見たことはないけど。

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たまには、「観光案内」でも、しますか?


パパイア、の、花、と、実。当地では、パパイアは、むしろ「野菜」であって、炒め物にしたりいたします。
この木の幹は、たいそう柔らかいらしく、そういえば、この木の幹のくぼみに「ち○こ」をつっこんでオ○ニーをするってくだりが、「夜になる前に(Before_Night_Falls)」にございました。レイナルド・アレナス、ゲイのキューバ人作家、カストロ政権に追放され、1990年AIDSによりニューヨークで客死。
って、どこが「観光案内」やねん?


バナナ、の、花、と、実。実はともかく、バナナの「花」、御存知でした?私は、知ってました。生まれた家の、庭に、あったんです。小指くらいの大きさの実しかなりませんでしたけどね。


そして、グンバイヒルガオ、ほぼ、「群落」。そう、早めに出かけてよかった。帰り際に見ると、みんなしおれていたから・・・。

☆★☆

南部の「サトウキビ畑」の間の道を車で走っていると、開けっ放しの両側の窓から、どちらからも、「ちちっ、ちちっ、ちちっ、ちちっ」というまがうことなき「セッカ(ウグイス科、またはセッカ科)」の声が聞こえてくる。毎日のように犬の散歩に出かける遊水地の草むらにもいるのだけど、一度だけ、間近に見たことがあるのだけど、急上昇と急降下を繰り返す目まぐるしい飛び方で、かつ、めったに止まって休んでくれないので、まだ写真を撮ることができないのだ。
気になって気になってしょうがない。一度だけ見たその鳥の姿は、記憶の中で脚色され、どんどん美しいものになっていく。
「名前」を知る、ということは、どういうことなんだろうね?今ここを飛んでいる、この鳥が「セッカ」という名前だ、というだけじゃ、満足できないのかね。「ほら、これだ!」って、誰かに「見せて」自慢しなきゃ気がすまない、のかね?
「体験」、というものは、「語られる」ことによって初めて完結する、ということなのかね?

はい、これら、「シロチドリ」やら「ルリスズメダイ」やら「ヤドカリ」やら「セッカ」の声だけやら、各種動画作りましたから・・・。えっと、「半裸の男女」も「パパイアの幹でオ○ニー」も出てきませんが、あしからず・・・。

2009年06月24日

「淡雪センダングサとはうまい名前・・・



「柳宗民の雑草ノオト2」を読んでいたら、私の「知っている」植物が、いくつも(!)、出てきた。「友達が、テレビに出た♪」ら、興奮して誰かにしゃべらなければならないのと全く同様に、うれしくてしょうがないから、しゃべる。
まずは、「イヌホウズキ」。上の写真は、わ・が・「家庭菜園」のキダチイヌホウズキの実と、シンツルムラサキの花。

・・・
我が家の農園には、幸いにも今のところワルナスビは入り込んでいないが、その代わりに同属のイヌホウズキはよく生える。この植物は世界各地を股にかけて広く分布している植物の一つで、やはり有毒植物である。漢方では「龍葵(りゅうき)」と称して解熱や利尿剤として用いるようだが、素人はみだりに使わぬ方がよい。一年草で、畑、空き地、道端などに生え、角張った枝分かれする茎を茂らせ、夏になると白く星型に開く小花を小房状に咲かせる。普通は花後に黒熟する球果をならせ、これが落ちて翌春芽を出して殖えてゆく。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト2」(ちくま学芸文庫)・夏、ワルナスビ

この章の「ワルナスビ」の話は、牧野富太郎が「植物一日一題」(ちくま学芸文庫)の中で、その命名のいきさつを話しているところの紹介から始まる。これは、私も最近読んだ。
・・・
下総の印旛郡に三里塚というところがある。私は今からおよそ数十年ほど前に植物採集のために、知人達と一緒にそこへ行ったことがある。ここは広い牧場で外国から来たいろいろの草が生えていた。そのとき同地の畑や荒れ地にこのワルナスビが繁殖していた。
・・・

牧野先生は、この珍しい外来植物を根から取って帰り自宅の庭に植えられたのだが、強力な地下茎でもって激しく繁殖し、手に負えない雑草と化したところから「ワルナスビ」と命名されたのだそうであるが、牧野富太郎が亡くなるのは1957年、私が生まれる前年で、「下総の印旛郡に三里塚というところ」に新東京国際空港建設が決定されるのが1960年代の中葉。ここはもともと「御料牧場」、天皇家の所有土地だったそうで、牧草として多くの外来植物が移入されていたのであろうことは想像できる。広大な「御料牧場」を含んでいたからこそ、土地所有者の数が少なかろう、と空港建設地に選ばれたいきさつであったはずだ。
私がはじめて「三里塚」を「見た」のは、1977年4月17日。主催者発表2万3千人の三里塚第一公園の集会に、夜行の貸し切りバスに乗って参加した。明け方千葉県内に入ると何度か検問で止められ、バスから降ろされ両側を機動隊のジェラルミンの盾で固められた「通路」を一人ずつ歩かされたものだ。そのとき私は、大学に入学して2週間、「過激派」の「オルグ」に「だまされ」て、連れてこられたわけじゃない。はじめから、「革命派になる」つもりで、受験勉強をし、て大学生になった(!)のだから。京都大学を選んだのは、もはや「昆虫学者」日高敏隆先生にあこがれた少年時代の遠い記憶は薄れ、時代は「学生運動」から遠く離れていたにもかかわらずいまだに常時数百人の動員数を誇り「人民の海に浮かぶガラパゴス」と揶揄された「赤ヘル」系ノンセクトが、そこには残存していたからに過ぎない。
すっかり夕闇が迫る頃になって長大なデモ隊が出発した。生まれてはじめてかぶったヘルメットも居心地悪く、土地勘もなければ、周りに知る人もいない、ただただ無事に逮捕されずに一刻も早く終わってくれればよい、と念じていたのだと思う。
機動隊の強力な投光機に、見渡す限り「草木一本もない」巨大な茶色の更地のかたまりが、浮かび上がったことだけ、はっきりと記憶している。その「土地」を「守る」ために、私たちは「闘って」いるはずだった。「守る」べき「土地」は、「緑なす農地」は、もうそこには、なかった。これこそが、「暴力」なんだ、と思ったかどうかは、覚えていないけれど・・・。

☆★☆

次はシロノセンダングサ、写真はこちら(↓)。モンシロチョウ、とともに。かつては、「アワユキセンダングサ」と呼ばれていた、と、図鑑に記述もある。柳先生もこうして褒めてくださっているのに、どうして改名しちゃったんだろうね?


・・・
センダングサは、わが国の関東以西に広く分布していて、湿り気の多いところを好み、河原や道端に生えることが多く、時に群落をなすこともある。高さ一メートル近くにまで伸びて粗く枝を出して、九月から十月へかけて、その先に目立たない黄色い頭状花を咲かせるが、同時に大小不規則な小さい舌状花も数枚付ける。キク科植物の舌状花は虫を呼ぶ標識とも考えられ、頭状花の周囲に整然と並ぶのが普通だが、センダングサの舌状花はあってもなくてもいいような存在だ。実際、舌状花の欠けている花のほうが多い。
葉は小葉の縁に鋸歯のある羽状複葉の形で、それが花木のセンダンの葉に似ているところからセンダングサと名付けられた。ただし、このセンダンは古く楝(おうち)と呼ばれたセンダン科の花木で、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀とはまったく別の植物である。双葉より芳しの栴檀とは、香木として有名なビャクダン(白檀)のことで、本当のセンダンとは関係がない。植物名には、このような誤解を招きやすいものがよくあるので注意しなければならない。
・・・
わが国に野生するセンダングサ類は、舌状花がないか、あっても目立たぬものが多く、お世辞にも美しいとは云えないが、四国、九州や沖縄などの暖地に多いアワユキセンダングサは、白く目立つ舌状花を持ち、群がって咲くところは大変美しい。もともと中南米原産の一年草で、特に沖縄に多く野生化していて、道端や空き地などに群生している。ほぼ一年中咲いていて、遠目にも雪が積もるように白く、淡雪センダングサとはうまい名前を付けたものだ。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト2」(ちくま学芸文庫)・秋、センダングサ

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そして、スズメウリ。写真は、もちろん「オキナワスズメウリ」。こちらも、スズメウリ同様、地下茎から来春も発芽してくれるのなら、うれしい♪


・・・
属は全く違うが、同じウリ科の野草にスズメウリという可愛らしい名前をもった種類がある。葉の形は、どちらかというとカラスウリに似ていて、湿っぽいところに好んで生える蔓草の一種。これも秋になると、アマチャヅル同様、蔓先が地に潜って地下茎を作り、翌春、ここから芽を出す。株自体は、もとの地下茎とともに一年で枯れてしまうので一年草とされているが、地中に作った地下茎で生き残るわけで、"多年草的一年草"とも云えるだろう。こちらのほうは雌雄同株で、雌花には花後、白くて可愛い卵形の果実をならせる。この果皮は熟しても白く、その可愛い果実からスズメウリと名付けられたものだ。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト2」(ちくま学芸文庫)・秋、アマチャヅル

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もう一つ、報告。キダチイヌホウズキの花にやってきた、マルハナバチ系と思われる蜂の名前、わかりましたわよ♪


アオスジコシブトハナバチ(コシブトハナバチ科)でござった。青筋、腰太、なるほど。いわゆる、「そのまんま」ってやつやね。
本屋さんで図鑑立ち読みして突き止めました。
目にするすべてのものの「名前」を知らなければ気がすまない、というのは一つの「病気」でしょうが、でも、
目にするすべてのものの「名前」を知るまでは、「死ねない」というのなら、それはそれで結構なことではございませんか?

2009年06月26日

「トゥワイライト・ソング」




Twilight_Songといって、明け方に百鳥(ももとり)が一斉に鳴き始める「暁の大合唱」や、俄雨があがって、再び陽光が射しはじめたときに、ここかしこで小鳥たちの合唱が湧き起こるのは、採餌やなわばり確保のような「個人的必要」によるものでなく、まさに太陽の再来を迎えるよろこびを謳歌し、そこの森や林や草原に棲む鳥たちの社会的なまとまりを示す、社交的な歓喜の歌と考えてよい情緒的な現象である、と鳥の専門家も言っているのである。
・・・
「カラスの早起き、雀の寝坊―文化鳥類学のおもしろさ」柴田敏隆(新潮選書)

写真は、そんな「トゥワイライト・ソング」中のシロガシラ(ヒヨドリ科)。奥の、いままさに囀(さえず)り、歌っているのが雄で、手前の、囀らず、歌っていないのが雌、ではなかろうかね?


こちらは同じく「Twilight_Song」絶唱♪中の、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

「絶唱♪」動画集も、ありマス。シロガシラヒヨドリ

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ところで、その「卓抜した言語センス」を各界から絶賛される川上美映子氏の、
「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」川上未映子(ヒヨコ舎)
には、
「名前も知らんなんか茶色くてときどき見かける焼きおにぎりみたいな鳥よ・・・」
という表現があったのだが、私はこれを見たときただちに、「ヒヨドリのことではないか?」と、「考証した」わけです。わたしもまた「卓抜した言語センス」を共有できているような気がして、少々うれしかったわけです。


「卓抜」した「焼きおにぎり」、ヒヨドリ、「夫婦」、でしょうか?

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そして、本日の、「沖縄雀瓜」売り・状況

2009年06月27日

ダイサギさん、また、お会いしましたね・・・



リンは、人間はもとより、動物の生存に不可欠な必須構成元素の一つであるが、代謝の結果、体外に排出されると、いろいろな経過を経て、究極には、深い海底にマリンスノーのように堆積してしまう。だから、どこかで補給しなければなくなる一方である。地球が宇宙空間に浮かぶ球体である限り、ひとつの閉鎖系であるので、宇宙からリンが補給される望みはまずない。
となると、地球の上では、限りあるリンを、何回もリサイクルしないと、動物は(少なくとも陸上動物は)その生存がおぼつかなくなってしまう。
海底に堆積したリンは、海底火山の爆発、寒い海での冬期の逆対流、そして局地的に起こる湧昇流などによって舞い上がり、浅いところにまで至ることが多い。それがプランクトンの体内に取り込まれ、イワシのようなプランクトンイーターに捕食されて魚の体内に移行蓄積される。ウやペンギンやカモメのような魚食性の海鳥は、魚の体内に蓄えられたとはいえ、水の中にしか存在しない大切なリンを、再度、陸上に運び戻すという重要な役割を担っているのである。
南米ペルーの沿岸に多いグアナイシロハラヒメウは、アンチョビーと呼ばれるカタクチイワシを大量に捕食するが、律儀なこの鳥は、「大切な漁場を汚すまいぞ」とするのか、陸地に戻って排泄する。それが永年にわたって蓄積し石化したものをグアノ(リン鉱石)と呼んだ。これはインカの時代から肥料として重用されていたが、一八四〇〜八〇年の四十年間は、ペルー史上最大の輸出産物となり、一〇八〇万トンを輸出、六億ドルの外貨収入をもたらした。一八六九〜七五年頃には、歳入の八〇パーセントに達したという。乱掘と化学肥料の登場で、一八八〇年以降、急速に衰微するまで、リン鉱石としてのグアノは、世界中に知られていた。
・・・
「カラスの早起き、雀の寝坊―文化鳥類学のおもしろさ」柴田敏隆(新潮選書)



元素の周期表を用意いたしました。携帯では見れません。見れても読めないでしょうが・・・。
右上が「非金属元素」、左下が「金属元素」でございますね。生物が生きていくためには、ナトリウムやカリウムのイオンが、細胞内外の物質流動に大きな役割を果たしたり、鉄イオンが2価と3価の間を適宜変化することによって呼吸、光合成などの酸化還元反応を媒介するなど、「金属元素」もなくてはならないのではありますが、なんといっても生物の身体の構成要素として大量に必要なのは、「非金属元素」の方なのでありました。
タンパク質の構成要素はアミノ酸、その構成元素は、圧倒的に、炭素C、水素H、酸素O、でありますが、窒素Nはどのアミノ酸にも少なくとも一個ずつ必要、イオウSはいくつかのアミノ酸に含まれており、タンパク質の立体構造形成などに重要な役割を果たしているようであります。リンPは、アミノ酸には含まれませんが、細胞膜を構成するのは「リン脂質」だし、なんといっても生命内での「エネルギー」はす・べ・て・、アデノシン3リン酸(ATP)と呼ばれる分子に、そこにはリン酸が3個ぶら下がっているのだが、そのリン酸間の結合が「高エネルギーリン酸結合」と呼ばれ、そこに蓄えられる。酸素呼吸という酸化還元反応で作られた膨大なエネルギーは、すべていったんこのATPとして蓄えられ、必要に応じてそのリン酸結合がぽこぽこ切れて消費されることになる、そうであります。
だから、おおざっぱに言うと、H,C,N,O,P,Sという、わずか、というべきか、たくさん、というべきかはわからんが、これだけの元素で、ありとあらゆる生命の身体はできている、というわけなのでした。
H,C,Oから糖などの有機化合物を作り出せるのは、この世で光合成のできる緑色植物だけです。私たちはそれを摂食する、直接の場合も、草食動物やさらにそれを捕食する肉食動物を食べることを通してであれ、ともかく、C,H,O化合物の「入り口」はそこ、食べること、以外にはありません。

では、次に、窒素Nはどうだったかしら?マメ科植物の根に寄生する「根粒菌」という微生物の・み・が、空気中の窒素を取り込み水溶性のアンモニアや硝酸塩の形にして、土壌に、ひいては緑色植物に供給している。植物や動物の死骸には当然タンパク質由来の窒素が含まれるのだが、これを分解する微生物が今度は、窒素を供給する。

で、リンPだ。そうだったんだ。魚食性海鳥が、リンの「循環」に重要な役割を果たしていたのですね!

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と、感動しながら散歩していたら、また、ダイサギさんにお会いしました。
ダイサギもコサギも、こんな遊水地に来ることからも、海の魚を主食にされているのではないのでしょうが、海岸の干潟にいらっしゃることもあるし、こうして「リン循環」のお話を伺えば、ますます、ありがたさもひとしおでございますな。
梢でお休みになっているふもとまで近づいてお姿を撮影しようとしたところ、ぷいと飛んで行かれてしまった。あぁ、申し訳ない、お邪魔をしてしまいました。
ところで、ずっと「ダイサギ」さんと呼んでいましたが、以前なら、この遊水地に、ダイサギもコサギも群れ集っていたから、大小の判別がついたのに、単独だと、よくわからなくなってきた。図鑑を見るとダイサギは嘴が黄色い。確かに以前ここにいたダイサギは、そうだった。でも、こちらの方は、今見ると、嘴が黒いではないか?
ダイサギは「夏羽のときは嘴が黒くなる」とも書かれてもいるが、そもそも、6月末に「冬鳥」がいること自体、「おかしい」といえば「おかしい」。
よくわからないことだらけだが、よくわからないことが、あればあるほど、また、「ありがたみ」も増すというもの、これからも、よろしくお願いいたしますね♪

遊水地の上を羽ばたく、ダイサギさん、動画にしましたから・・・。

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で、今度は「窒素循環」。木村秋則氏の著書にも、傷んでしまった土壌を回復するには、まずマメ科植物を植えてみなさい、みたいなことがしばしば書いてあったから、うちのプランターにも植えてみようかな?と。ガーデニングばやりで、ホームセンターどころか100円ショップでも、花の種などが売っているから、そこで何か買ってくる、という手もあるが、ここは一つ、あくまでも「雑草」にこだわりたい、という心意気、もあるから、
シナガワハギ、という黄色いマメ科植物、柳宗民氏の「雑草ノオト」にも載っていて、そこらへんの空き地にたくさん生えている。ちょうど今、花が終わって穂先が茶色く色づき、種子ができているようなので、さっそく、その穂先からぽろぽろこぼれる種子を、「採集」してきた。さて、うまく発芽するだろうか?どうなりますことやら?

その、シナガワハギの花にいた、アシナガバチ系の蜂。名前がわからない。また、図鑑を立ち読みに参りましょう。「生きる」希望が、できましたわ。



シナガワハギ(マメ科)、と、アシナガバチの一種

☆★☆それでは、また、観光案内でも♪☆★☆



グアバ(フトモモ科)、方言名「ばんしるー」。
【guava[Psidium guajava L.]フトモモ科の常緑小高木。バンザクロ(蕃石榴)、バンジロウともいう。熱帯アメリカ原産。紀元前800年、すでにペルーでインディオが果実を利用していた。いまでは世界の熱帯ないし亜熱帯に伝わり帰化植物として、ニュー・カレドニア、フィジーなどでみられるように繁殖しすぎて害をなしている所もある。沖縄にも古く伝えられた。分枝が多く葉は草質で卵形または長楕円(ちょうだえん)形で交互に対生、つぶすと強い芳香がある。花は腋生(えきせい)し径約3センチメートル、多くは単生する。他家受精率が高い。果実は球形、倒卵球形または洋ナシ形で長さ5〜10センチメートル、径5〜7センチメートルで宿存萼(がく)がある。熟果は表面は滑らかで黄ないし黄白色を呈し芳香がある。果肉は淡黄ないし黄白色または淡紅紫色で甘味があり、パルプ状の心部には多数の小さな硬い種子がある。】



グアバ(フトモモ科)、方言名「ばんしるー」。実を拡大してみると・・・。



鈴なりマンゴー(ウルシ科)、ご近所の「庭木」です。

2009年06月27日

「クロサギ」さんからお手紙着いた・・・?



なんだ、ダイサギさんのお仲間、たくさんいらっしゃるじゃない?
ここは、有名な、「ラムサール条約」にも登録されている河口に近い干潟だ。
ところが、「難題」である。写真左上方には、「黒い」サギがいるだろう?その名も「クロサギ」(サギ科)で、主に海岸に住み、水田などには来ない、とある。まさに、「魚食性海鳥」なのであった!沖縄県のサギ類の中ではほぼ唯一の「留鳥(Resident_Breeder)」で、だから今の季節にいても不思議はない。ここは、河口に近い干潟、海水と淡水が出合う「汽水域」だし。
問題は、このクロサギに、白化型(アルビノ)がしばしば存在し、しかも南方に向かうほどその頻度は高まり、沖縄あたりでは、「ほぼ半々」と、言うではないか?
とすると、写真右手前の、「見慣れた」はずのもともと嘴の黒いコサギ(?)、または、ダイサギの「夏羽」で嘴が黒くなったヤツ(?)も、実は、「白化型」クロサギ、かも知れないではないか?とすれば、うちの近くの遊水地の、ダイサギさん、ひょっとしたらコサギさんかも知れないのだが、の「仲間」では、ないではないか?

「俄(にわか)バード・ウォッチャー」となった当初、図鑑で「サギ類」の命名を見て仰天した。「ダイサギ、チュウサギ、コサギ、ただしダイサギのうち沖縄でよく見られるのは亜種チュウダイサギで、・・・」とか、真顔で書かれているのだから・・・。
もうちょっと「気のきいた」命名はできんのか?・・・、「アワユキセンダングサ」、とかね。



「淡雪」改め、「シロノ」とは「白」、「野」か?シロノセンダングサ

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次は、「離間型」と「向触型」。
・・・
本来孤高なワシやタカならば当然であろうが、割合に群れて仲の良いツバメやムクドリが、電線などにとまったときよく見ると、決して身体が触れ合うようにはなっていない。見事なくらい、等間隔に離れて並ぶものである。あれは、接近するときに嘴が触れ合わないギリギリの限界で止まるためで、身体の大きさが、種属によって大体同じなので、まるで測ったように等間隔に離れるのである。
・・・
ところが、ジュウシマツやメジロは、同じ社交的(?)な小鳥であるが、これは見事に身体を寄せ合わせてしまう。目白押しという言葉があるし、ジュウシマツも漢字では十姉妹と書くほどである。
これらの小鳥は、嘴を触れ合わすどころか、お互い相手方の羽毛の羽づくろいまでしてやるのであるから、まるでサルのグルーミングのようである。
鳥の学者は、ツバメやムクドリのようにくっつかないのを離間型、メジロやジュウシマツのようにべったりくっつき合うのを向触型と呼んでいる。
・・・
「カラスの早起き、雀の寝坊―文化鳥類学のおもしろさ」柴田敏隆(新潮選書)

さっそく、見てみましょう。



「離間型」、ハト。無関係そうな、二人。



「離間型」、シロガシラ。グルーミングしそうないきおいなのにね。



「向触型」のはずのメジロ。「目白押し」画像は、まだ撮れないが。花は、ナンバンサカイチ。

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今日の「沖縄雀瓜『売り』日記」



散歩の途中、「野生」のオキナワスズメウリ、発見!ちゃんと、「同種」のものが、現実に、他にも、「存在」している、という事実は、とても、人をして安心させるものである。

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ところで、諸君はお忘れかも知れないが、私は「病んで」いるのであった。病んでいるからこそ、こうしてほとんど仕事もせず、まことに「蝶よ♪、花よ♪」、海よ♪、鳥よ♪、猫よ♪と日々を過ごしているのも「療養」ということにしておこう。



「蝶よ♪」、ツマグロヒョウモン

・・・
ものの考え方がすっかり変わってしまう。雨が降ると、庭に雨が降っている、と思う。日がさしても、たださしているのではない、庭にさしているのだ。日がかくれると、庭がねむって、今日一日のつかれをやすめるんだ、と思ってほっとする。
・・・
「園芸家12カ月」カレル・チャペック(中公文庫)

2009年06月29日

「私は、その『名前』を、知っているよ♪」



今日、三月三十日午前一〇時、わたしの知らないまに、レンギョウの最初の花が咲いた。この歴史的な瞬間を、どんなことがあっても見のがしてはならないと思って、小さな黄金の鞘に似た、いちばん大きな芽を、三日前からわたしは見はっていた。雨が降るかな、と思ってわたしが空を見あげたあいだに、その瞬間が来た。あしたはもう、しなやかな若い枝が、どの枝もいちめんに黄金の星をまきちらしたようになるだろう。ひきとめようとしても、ひきとめることはできない。
・・・
「園芸家12カ月」カレル・チャペック(中公文庫)

「花が開く」のような、何か劇的な変化の瞬間、というものは、まさに「瞬間」というものの性格からして、決して「現在」のこことしてはとらえられず、ごく微小であっても、す・で・に・一定の時間が経過してしまった後に「過去」のこととして「振り返ら」ざるを得ないのであった。
そう、だから、ふつう、「花が咲い『た』」、と「過去」を表す助詞を使ってるじゃない?

わたしたちが、自分が「病気だ」というときも、実は「病気」に「なって」からずいぶん時間が経過し、軽い初期症状は見のがしていたが、ほらこうして熱があるの痛みが出るの、重篤な症状が出てきて、それらをいよいよ「感知」できるようになって初めて、「あ、わたしは、す・で・に・、もうずっと以前から、病気に、なってい・た・のだ」ということを知るのである。
そうして、それらの感知できるいくつかの重篤な症状を手がかりに、わたし達は、「病気」に「名前」を付ける。
それはちょうど、目の前の植物の名前を図鑑で探すのと同じ、特徴がす・べ・て・ことごとく一致して、「平凡」な、ありふれた病気であることがわかってはじめて、わたしたちは、安心できる。

ちょうど7年前の今頃の季節だ。わたしは、「病名」を得た。正確には「気分循環症(Cyclothymia)」、ね、オキナワスズメウリの学名みたいだろ?「医療費公費負担」の申請のために市役所に提出する診断書に、「ちょっと、重め、にしときましたから・・・」と先生が書いてくださった病名は「躁うつ病」。

それにしても、「名付け得る」とは、なんとありがたいことなんだろう!
「耐えがたい、やりきれない、死・に・た・い・、・・・」、そうやって日々大騒ぎして身もだえしていたさまざまのことどもが、たとえば「DSM-IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」みたいな、マニュアル、つまり「図鑑」には、どこにでもある「平凡」な「症状」として、ちゃんと、記載されていたのだった!

今日も犬の散歩の途中に見かける白い花が、「アワユキセンダングサ」改め、「シロノセンダングサ」なる「名前」を持った、あ・り・ふ・れ・た・雑草であることを、知・っ・て・い・る・のと同じくらい、それは、すばらしい・・・。

2009年07月01日

「鷺を烏と言いくるめる」を論ず。



白黒「鷺」問題、少し、解決。今日犬の散歩のとき、遊水地の芝生に入ろうとしたら真っ白い鳥が飛び立った。ごめん、ダイサギさん、またお邪魔しちゃったわね!
あれ、こ・の・、ダイサギさん、くちばし黄色い?
そうこうするうちに、別の方向にも、もう一羽の白い鳥がゆらり、こっちはくちばしの黒・い・、先日お見かけしたば・か・り・の・ダイサギさん?

どうして「冬鳥」が、もう7月になったのにいるの?という疑問は残るものの、ともあれ、この遊水地には、
1:くちばしの黄色い、一羽の「ダイサギ(サギ科)」と、
2:くちばしの黒い、やや小型の、一羽の「コサギ(サギ科)」が、
ともに「留鳥」化して、生息しているらしいのだ♪

犬の散歩の途中だから、ビデオカメラは持っていなかったし、二羽を同時に撮影することはかなわなかったが、あとからもう一度出かけると、「ダイサギ」さんだけ、いらっしゃった。
それが、こちら(↓)



遊水地のダイサギさん、嘴も黄色い。間違い、なし♪



で、先日の「コサギ」さん、再録。

☆★☆

海へ行ったんだ。今日は、今年初めて泳いだの。
海岸には鳥がたくさんいる。去年までも、毎年、海に行っていたのに、チョウチョウウオだのスズメダイだの、細かいことを「見て」いるはずだったのに、「海辺にこんなに鳥がいる」ことすら、気づかずに、済んでいたのね?
「世界」には、こんなにもたくさん「名前」のついているものがあるのに、その大部分を知らないままでも特に不都合も感じず、例えば都市銀行や家電メーカーやビール会社の名前か、例えば地下鉄の駅名かお笑い芸人の名前か、・・・、その程度をいくつか「列挙」できれば充分だと考えていた。いや、これからも別に、もちろん充分なのだけど・・・。

ほら、一番上の写真、これが「クロサギ(サギ科)」だ。波打ち際、侵食されてぎざぎざにとがったサンゴ礁だから、人間だったらはだしで歩き回ったら足が血まみれになってしまう、そんな場所を、器用にちょこまか往復して、採食しておられる。

こちらの写真中央、小さいけど見えるかな?白いサギがいるだろ?な、これがまたまたわからんのだ。クロサギ(白化型)かも知れんからな!



真ん中の白い鳥、ダイサギさん?クロサギ・白化型さん?

シロチドリも大挙、飛び、駆け、まわっていたよ。こちらは、シロチドリ群が舞い上がった直後。



海の中の写真も、どうぞ。満潮が近い時刻だったのかなぁ?「潮汐」を調べるの忘れたから・・・。水が流れ込んでくるとき、砂を運んでくるから、透明度が落ちてしまうのだ。だから、いまいち鮮やかでないけど、フウライチョウチョウウオ、おもろい顔がくっきり写っておる。


2009年07月01日

「焼きおにぎり」鳥・クロニクル



ここは、市内中心部にポツリと取り残されたような、うっそうとした木立の残る公園。
木が茂って日陰を作っているところには、かならず鳥がやってくる。鳥を「気にかける」ようになって、初めて、そんなことに気がついた。
街中のどこにでもいる、「平凡」で「雑草」のような、鳥たちといえば、
スズメ、ハト、シロガシラ、イソヒヨドリ、ヒヨドリ、メジロ、・・・、
ということになろう。
シロガシラ、というのは、もともと愛玩用に飼育されていたものが放され、つまり、捨てられ、野性化してこんなにも増えたらしい。沖縄にいるシロガシラは、「台湾シロガシラ」と呼ばれる「亜種」であって、無論「移入種」である。
鳥が何を食べているのか?みたいな肝心なことが、結構図鑑には書いてないことが多くて、困る。イソヒヨドリがうちのベランダに現れて猫の餌をくすねることはご報告したが、ということは肉食なのだろうか?でっかい芋虫を引きずっているのを見たこともある。あるいは、これらは繁殖期に雛に与えるための餌で、自分が「常食」するものとは異なるのだろうか?なぞは、尽きない。繰り返すが、「なぞが、尽きない」ことは、結構なことである。
ヒヨドリは、とりわけ「木の実」が好きらしい。植物の種を散布するのに役立つ、などという話にも引き合いに出されるくらいだから・・・。
そんなわけなのだろう。実のなる木の多い、こんな公園の裏手の林には、ヒヨドリ、そう「焼きおにぎり」鳥がたくさんいて、「ぴーぃ、ぴーぃ」とかまびすしい。



飛び立つ寸前の、「焼きおにぎり」鳥。顔がまん丸で、目が真ん中、で「髪の毛」がぼさぼさ、まるで「まわりが少し、こげた」、「焼きおにぎり」、ではないか?

木のくぼみを模して作ってある水がめ様のものは、鳥たちのための水飲み場なのだろうか?そこに、入り込んだのは「水浴び」なのか、それとも「事故」なのか?上の写真は、その直後の様子。動画、「『焼きおにぎり』鳥、水浴もする。」もどうぞ。
わたしは、この、見た目もそれほど「愛らしい♪」というわけでもなく、鳴き声もただ「騒々しい」、この鳥が、好きだ。「焼きおにぎり」という「卓抜な」たとえも、気に入ったし・・・。

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こんな公園には、かならず「ガジュマル」の木が植えられている。



ありふれた、公園の光景。ガジュマル(クワ科)

熱帯の土壌は、有機物の分解があまりにも早いので実は「痩せて」いる。だから、地中に根はあまり発達せず、「板根」の形で地上に出ているものが多い。
熱帯に対する植物の「適応」の代表例は、
1:板根、2:「絞め殺し植物」、3:幹生実、
「絞め殺し植物」は、密生した林の中で「気根」を他の植物上に垂らしてその上に茂り、結果、光合成を妨害して「宿主」を殺してしまうもの、
「幹生実」は、密林中では、種子を運ぶ小動物が飛来するより幹を伝って「歩いて」くることが多いから、幹に直接実をつけたものを言う、
で、クワ科植物はこのすべてを備えているものが多い。

また、クワ科植物の多くを占めるイチジク属が「無花果」をつけることは、前にお話しましたな?地上に数千種ある「イチジク属」の、一つ一つにそれぞれ固有の「イチジクコバエ」という昆虫がいて、これが受粉を媒介する。
参考文献:「花はふしぎ」岩科司(講談社ブルーバックス)

熱帯の生態は、まことに「冗長性」が高いシステムなのであった。
熱帯の海は、透明度が高い。「汚染していない、美しい海」、というのとは、違う。紫外線が強すぎるので、プランクトン濃度が低いのだ。だから、熱帯の海もまた「貧栄養」である。
「サンゴ礁」という「局所的」な高栄養部分に少数・多品種の生物が集中する、という形で「適応」しているのだ。
参考文献:「サンゴ礁の生物たち」本川達雄(中公新書、現在絶版)

「南」は「豊か」である、というのは、「寒帯」や「温帯」出自の「資本主義」がつくりだした「イデオロギー」に、過ぎない。「北」が「南」に向けた「まなざし」、だ。少品種・大量生産を旨とするそのシステムと「南」が絶望的に不適合であったこと、それが、「悲しき熱帯(レヴィ=ストロース)」、の意・味・だ。

本川達雄氏は、瀬底島にある現・琉球大学付属熱帯生物圏研究センター・瀬底実験所、が沖縄復帰以前から東大の施設だったときの所長さんだ。
「サンゴ礁の生物たち」は、沖縄に「移住」するとき、すでに遠い熱帯の国に住んでいる友達に勧められて、読んだ。私にとっては、「沖縄」につ・い・て・書かれたどんな本よりも、この土地を「理解」するために、役に立った、と思っている。

☆★☆ひきつづき、観光案内?☆★☆



パッションフルーツ【passionfruit】 トケイソウ科の蔓性の多年草。葉は三つに深く裂けている。花はトケイソウに似て、白色。果実は球状で、紫色に熟し、多汁で芳香があり、生食のほかジュースにする。ブラジルの原産。くだものとけいそう。



マンゴー【mango】 ウルシ科の常緑高木。葉は長披針形で革質。黄白色の小花を群生し、中に大きな種子が1個はいった楕円形の実を結ぶ。果肉は黄や橙黄色をし、多汁で甘く、食用。インド・東南アジアの原産で、古くから果樹として栽培。



とう‐がん【冬×瓜】 《「とうが」の音変化》ウリ科の蔓性の一年草。茎に巻きひげがあり、葉は手のひら状に裂けている。夏、黄色い雌花と雄花とが咲き、実は球状から長楕円状で長さ30〜50センチ、主に煮て食べる。ジャワの原産で、古くから栽培。かもうり。とうが。《季 秋》「―やたがひにかはる顔の形/芭蕉」

2009年07月01日

「動かぬ証拠」だ!「現場」を押さえたぞ!・・・、しかし君達は「種」というものをどう考えておる?



散歩の途中、遊水地で、「お二人」で休まれているところを、目撃。
左が、多分、くちばしが黄色いし、「ダイサギ」さん。少なくとも、今までそう呼んできたところの、トリ。
右が、くちばしが黒いし、頭の後ろに「飾り羽」様のものが伸びていて、これが「コサギ」の特徴であるからして、多分、「コサギ」さん。

今日は念を入れて、犬の散歩にもデジカメを持参したのであった。



あぁ、申し訳ない。少し近づこうとすると、犬の気配もあることだし、逃げてしまわれた。
で、飛び立ってしまうともはや、左、右、どっちがどっちだか?

それにしても、「仲が、よい」。

「ねぇ、ダイサギさん、コサギさん、仲がよろしゅうございますね。あなた方は『種』の異なる生き物なのでございますよ?」

「いえ、よいのです。わたくしは、ここが気に入りましたので・・・。」
「はい、よいのです。わたくしも、ここが気に入りましたので・・・。」



そうして、近くの梢へ、二人で退散。

2009年07月02日

飛びかうカモメは・・・。



飛びかうカモメは、B.O.A.C.、
・・・、
気になるラジオは、B.B.C.、
・・・
「渚にまつわる、エトセトラ」Puffy/奥田民生・井上陽水

B.O.A.C.は「British Overseas Airways Corporation」ですかね?今はBA(英国航空)ですかね。もう10年ばかり「飛行機」というものに乗っておりませんもので・・・。
B.B.C.は「British Broadcasting Corporation」、井上陽水氏、さすがに「イギリス」がお好きのようでござる。

この歌がはやっていた頃、それは多分、神戸の震災の年の夏、なのだが、
「そうだ!海に行こう♪」
てなことになって、京都で「海」といえば日本海しかありません。
私が生まれた阪神間の海は、汚染の先進地帯で、私が小学校に入学する年、ですから1964年になりますか?遊泳禁止になりました。今は、汚染の方はだいぶ回復したに違いありませんが、海岸そのものが、「なくなって」てしまいましたね。震災のしばらく後、生家の近くを歩いてみて、あ、あの防波堤の向こうが、「懐かしい、海」、登ってみると、そこは陸地で、はるか先に阪神高速湾岸線の橋脚が見えましたから・・・。
神戸の須磨海岸、という海水浴場がありますが、盛夏には銭湯のごとき混雑、海中で目を開けても半裸の男女の太ももなどがおぼろげに浮かび上がる以外には何も見えないのは、もちろん、「温帯の高栄養の海だから、プランクトン濃度が高いのだ!」とも言っておれない状態で・・・。

で、山陰海岸。レンタカーを借りて、レンタカー屋の在庫がなくて大型の4WDしか残ってなかったのも楽しく、民宿に一泊して、ビール浴びるように飲んで、イワガキ食べて、・・・。
カキは月の英名に「r」が入っている季節以外は食べられない、と申しますでしょ?イワガキは夏場も食べられるんでした。
「掛け値なし」に、楽しかったですね。「人生でいちばん」、楽しかった記憶かも知れない。

イワガキという生き物に関心を持つこともなく、もちろん「ビーチ」で「遊んだ」んだろうが、そこにどんな鳥がいたか、どんな魚がいたかも、どんな花が咲いていたのかも、何も「見ていなかった」のは、何も見る「必要」が、なかった、「見なくても」、幸福、だったからなのでした。

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でも、私は、「幸福ではない」、今の私が、少し、気に入っているのでござる。「幸福」って、落ち着かないでしょ?不安定で、頭が、くらくらして・・・。



ふたたび、エリグロアジサシ。前回よりもさらにたくさんいるみたい。大潮に近い日の干潮、だからか?それともこちらの目が慣れたから?



「nose dive」とでも言うんでしょうかね?激しく急降下して、海面すれすれまで「落下」して捕食、すぐさま急上昇。ものすごい「運動」ですわね。

で、海岸近くまで茂っている草むらから、ずーっと「セッカ」の、「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ」が聞こえていたのですが、ついに写真が撮れたか・も・知れない。



ぼけぼけだから、この写真だけでは何の鳥なのかわからないわね。ビデオを再生すると、「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ」にあわせて、この鳥が鳴いているように「も」、見えるのだが、姿は「平凡な」シロガシラ、にも思えたりして・・・。

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沖縄雀瓜「売り」日記・おっ?オレンジ?



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【イワガキ (岩牡蠣)】[学名:Crassostrea nippona]軟体動物門二枚貝綱イタボガキ科の二枚貝。大形のカキで、陸奥(むつ)湾以南、九州までに分布。潮間帯下の岩礁に左殻で固着する。殻長は20センチメートルに達し、殻は厚く大形であるが、肉量は少ない。右殻は膨らみが弱く、殻表は檜皮(ひわだ)状で黄褐色の殻皮をかぶる。卵生種であり、地方によってはクツガキなどとよばれ、食用にされる。

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エリグロアジサシ、動画3本立♪123

2009年07月03日

現在「スリープ・モード」中です・・・



このごろうちの「びー」ちゃんたら、ウンチしたくなったらわたくしのこと、「呼ぶ」んざますの。賢いでしょ?んもぅ、誰に似たのかしら?

おなかの調子、そんなにいいわけでもないのだが、まずまず健康のようだから、他の猫たちも、ときどきおなかこわしてるけど、特に問題ないようだから、だから、もう一週間以上も「猫」の話題していない。これでは商標に偽り、だから、急遽書くことにしたまでだ。



現在「スリープ・モード」中です。:「テン」と「にょろりん」、「ニコビー」、「ココビー」

ふしぎなことに「仕事」も、「問題ない」のだ。去年、毎日が「地獄」のようで、「息も絶え絶え」に「身もだえ」していたのが、「ウソ」のようだ。
もちろん、客観的に何かが変わったわけではなく、こちらの「症状」の変化に過ぎない。
仕事の量は半分に減り、給料もほぼそれに比例して減った。「人生」そのものが、「縮小」したようなものだ。

毎日「蝶よ♪、花よ♪、鳥よ♪、海よ♪」と暮らしていれば、少しは「回復」もする。だから、かえって「仕事」も「うまく」いく、みたいなありふれた話だ。
だけど、では、どうやったら「うまく」いくのかを、この「経験」を「教訓」化して、「将来」に役立てる、ということは、できない。
それができれば「病気」にはならない、とも言うし、それができないのは、「私」の欠陥でもあるかも知れないが、「人間」そのものの欠陥かも知れないじゃないか?



現在「スリープ・モード」中です。:「モモ」、「イチコプー」、「たま」

「戦争を語り継ごう」という言葉に異を唱えるつもりはない。
しかし、戦争を語る必要があるのは、世界には、それを「語り続け」なければ決して「癒される」ことのないひとびとが、大量に存在していることを「知る」、ことがぜひとも必要であるからなのであって、
「将来」にわたって戦争を「予防」するために、それが「役立つ」から、ではない。

ヒヨドリの「水浴」で思い出したのだが、ドゥーシャン・マカベイエフというユーゴスラビアの映画作家がいて、「ゴリラは真昼に水浴す」という奇怪な映画があったのだ。
記憶が違っているかも知れないが、こんなせりふがあった。

この世にあってはならないもの、
例えば、川にかかる高い橋、
夜と昼の間の時間、
そして、冬、
これらの絶望が人々を、戦争と殺戮に駆り立てる。

この映画は、ユーゴスラビアの戦争が始まる前に撮られた。ボスニア・ヘルツェゴブナの戦火が止んでから、私たちはそれを見ることになるのだが・・・。

2009年07月03日

「『千成瓢箪』の正体見〜た〜り〜♪」



「目が覚めて」、初めて、眠ってい「た」ことに気がつく。仕事が「半分」、収入が「半分」、に減ったから、起きている時間の長さも「半分」、とは、これは、ほぼ「生物学的」な「適応」と呼ぶべきなのであろうか?
本を読んでいても急に意味が取れなくなったり漢字の形すらわからなくなる、とか、身体のあちこちを机の角や壁にぶつけたり物を取り落としたりする、とか、何かこう「禍々しい(まがまかしい)」想念が去来して「いやぁ」な気持ちになる、とか、・・・、
そういう時は、身体が、「危ないよ、すぐ、休みなさい」とメッセージを出しているのだから、私はあっさりその「禍々しい」力に「屈服」して、遵う(したがう)ことにする。
「いや、大丈夫、気のせいだ、頑張ろう!」とは、決して思わない。
「生きる」ということは「意思」が「身体」をコントロールすることではなく、「身体」の発する言葉にただ「耳を傾け」、「その通りに、する」ことなのだ。それを学べただけでも、「病気」になってよかった、と思っている。

そのように「生きる」ことが、「正しい」生き方、なのか、また、「幸せ」であるのか?、は、知らない。

人間が「客観的」に「幸せ」かどうか?を示す「指標・index」があるとしよう。「年収」でも、「納税額」でも、「資産評価額」でもいい、また、そんな金銭的なものでなくてもいいから、「精神的な豊かさ」とか「愛情に恵まれた環境」とか、でもいいのだが、ともかく、そうして一人ひとりの「しあわせ度」が、0から100までの数値に「換算」できたとしよう。
標本数を限りなく大きくしていくと、さいわい人間は65億、10の9乗の桁数、という「千成瓢箪」すら数えたことのない私たちには、充分多すぎる数存在しているのだから心配ない、と、お決まりの話で、その分布は「正規分布」に近づき、「いったいどこから『上』が、『しあわせ』なんだよ?」という方のために、これまたおなじみの、「平均値プラス1標準偏差」より「上」を「しあわせ」、「平均値マイナス1標準偏差」より「下」を「不幸」、その間を「どちらでもない」とすれば、
「理論値」によれば、
「世界」は16パーセントの「しあわせ」と、16パーセントの「不幸」と、68パーセントの「どちらでもない」で、つ・ね・に・、構成されていることが、わかります。

なんか、私、「統計学」って苦手だったんだけど、最近、わかっちゃったような気がするんですぅ♪それに、「人生」も、ネ♪

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ユウガオ(寿司に用いるかんぴょうの材料)は豊臣秀吉によって、滋賀県で日本最初の栽培が行われたといわれています。秀吉が戦いの馬印として用い、勝利の度に数を増やしていった千成瓢箪はユウガオと同じ植物ですので、一緒に植えておくと簡単に交雑します。ユウガオは千成瓢箪の大型品種といえます。
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「伝承農法を生かす家庭菜園の科学」木島利男(講談社ブルーバックス)

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また右のヒルガオ、アサガオとは関係ないが、ついでだから記してみると、今日民間で夕顔と呼んでいるものはいわゆるMoon_flower(Calonyction Bona_nox Bojer)で、これは夕顔の名を冒しているが、その正しい称えは夜顔(田中芳男氏命名)である。そして本当の夕顔は瓜類の夕顔(Lagenaria leucantha Rusby var. clavata Makino)で、これは昔からいう正真正銘のユウガオである。ここに四つの顔が揃った。すなわち、朝顔、昼顔、夕顔、夜顔である。
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「植物一日一題」牧野富太郎(ちくま学芸文庫)

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写真は、「千成・沖縄雀瓜」。

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ユウガオ(ゆうがお) 【夕顔】[学名:Lagenaria siceraria Standley var. hispida Hara]
ウリ科の一年草。同じくウリ科のヒョウタンと近縁の種で、祖先種は西アフリカ原産。かんぴょうの原料植物として知られる。なお、ヒルガオ科のヨルガオを俗にユウガオとよぶことがあるが、本種とはまったくの別種であり、この俗称は正しくない。茎はつる性で枝分れして10メートル余に伸び、巻きひげで他物に絡まる。葉は心臓形でやや浅く裂け、茎葉全体に軟毛がある。雌雄異花。葉腋(ようえき)に1個ずつつき、深く5裂した白い花を夏の夕方から開き、翌朝にはしぼむ。花期後30日ほどで大形の果実が成長し、完熟するとヒョウタンのように果皮が堅くなる。果実の形によって丸形のマルユウガオと長形のナガユウガオに大別される。マルユウガオは果実は直径約30センチメートル、重さ10〜30キログラムになる。発育しきって、果肉が堅くならないうちに収穫し、果肉を果軸を中心として外側から円周に沿って削り、幅3センチメートル、厚さ3ミリメートルほど、長さは2〜3メートルの連続した帯状にする。これを天日に干してかんぴょうをつくる。ナガユウガオは長さ50〜80センチメートル、太さ直径15センチメートルほどになる。これも輪切りにしてむいてかんぴょうとするが、かんぴょう用にはマルユウガオより品質が劣り、あんかけにして煮食されるが、やや苦味のあるものが多い。かんぴょうの主産地は栃木県南東部で、この地域ではもっぱらマルユウガオが栽培されている。

ヨルガオ(よるがお) 【夜顔】[学名:Calonyction aculeatum House]
ヒルガオ科の不耐冬性の一年生つる草。俗にユウガオ(夕顔)ともいうが、ユウガオはウリ科の植物で、かんぴょうの原料植物であり、本種とは別種である。熱帯アメリカ原産で、高温下で旺盛(おうせい)に生育し、つるは約10メートルに達する。葉はサツマイモ(ヒルガオ科)の葉に似た心臓形で、さらに大きい。夏、各葉腋(ようえき)から長い花柄を出し、乳白色花を数個開く。花冠はアサガオ(ヒルガオ科)に似たらっぱ形で細長い筒状部があり、径約12センチメートル、日暮れに開いて芳香を放ち、ヤガ(夜蛾)を誘う。花は翌朝しぼみ、花期後に砲弾形の大きな莢(さや)をつける。鉢や生け垣に植え、夕刻の開花を楽しむ。種子は象牙(ぞうげ)色をして大きく堅いので、飾り物に利用する。繁殖は実生(みしょう)により、播種(はしゅ)は5月ころとする。種子は堅くて吸水しにくいので、一部に傷をつけると、よく生育する。近縁のベニバナユウガオは花は紅紫色で径6センチメートルと小さく、つるに多くの刺(とげ)がある。

2009年07月05日

リラッ・ねこ



ローソンの「リラックマ」って、今でもやってるの?
あと二週間で「禁酒・一周年」になるんだ!
お酒をやめるとローソンにも行かなくなる。うちの近くのローソン、それまで毎日、缶ビール「スーパー・ドライ」ロング缶4本1120円、とか、日本酒「鬼ころし」1L紙パック680円、とか、赤ワイン720mL700円、とか、そう、毎・日・、買ってた。
店員さん、ご家族でやってらっしゃるみたいで、とても感じいい方たちで、駐車場にしゃがんで赤ワインラッパ飲みしながら猫に餌やってても、文句一つ言われなかった。
ここの駐車場にいついている野良猫は、「ローソン市立病院前店一号」って名前のメスで、4年くらい前からの付き合いだったんだ。裏手の住宅街のどこかにねぐらがあるのだろうが、夜になると、ヤンキーが投げてよこす「からあげ」の食べ残しとかを期待してか、コンビニの駐車場にやって来て、一時は3匹くらい子猫従えて、車から車へと「営業」していたものだ。
人間の食べ物は猫の肝臓によくない。特に鳥の骨は鋭角的に割れるから、猫の胃腸を痛めて致命傷にもなる、なんて、猫に言ってもしようがないし、ヤンキーに言っても、やはりしようがない。
だから「せめて」私がコンビニに行ったときは、ちゃんとしたキャットフードを買って食べさせてあげて、でも、そんなことするとコンビニにも迷惑だし、だから、せめて猫缶は少し高いんだけどコンビニでその場で買って、床を汚したりしないように、ちゃんと食べ終わるまで見届けて後片付けして、ついでにヤンキーが散らしていったごみ拾いなんかして、・・・、で、猫たちが食べているあいだ私もひまだから、ついついラッパ飲み・・・、という「事情」だったのだ。

・・・

「野良猫に餌なんかやるから、野良猫が増えて、迷惑する!」
「〜から〜」の部分の「因果関係」については疑問を留保するが、「正論」である。
「そんな心の狭いことを言わず、地球は『人間』だけのものじゃないんだぞ!」
これまた、「一理」ある。
「正しく」ありたい、と思っていた私は、葛藤する。
「立場が違えば『正しさ』も変わる。『正しい』立場が複数あってもいいじゃないですか?」
そんな程度のことを言ってくれる「価値相対主義」なら、別に、いらない。
「葛藤」のあまり、私は、人としゃべらなくなった。そうやって、「沈黙」してしまった人、ほかにも、結構、いると、思う。

・・・

「ローソン私立病院前店一号」は、もう見かけないから、亡くなったかも知れない。野良にしては、長生きした方ではないかな?二代目がいるようなのだけれど、私はお酒をやめ、「病気」もひどくなって「ヒキコモリがち」になったから、コンビニに行くことも、ほぼ、なくなりったから・・・。

二週間後の「禁酒・一周年」には、盛大な「パレード」でもするから、それはそれで置いといて、今日は、「なごめる」猫の写真でも、いくつか。
上の写真は、リーちゃん。「伸び」をしているところとか、「あくび」の瞬間とか、いくら私が閑人だから言っても、なかなか撮るのは難しいのだよ。



リラッ・ねこ、後:「チェリーさん」、前:「ちょび」



リラッ・ねこ、左:「ちー」、前:「トン」



リラッ・ねこ、後:「オー」ちゃん、前:「とら」



蝶よ♪ツマグロヒョウモン、♀は「つま黒」ではないのだ。♂だけ毒蝶(アサギマダラだっけ?)に擬態するのだ。だから、前にご紹介したのは、♂だ。

2009年07月05日

「生き物」の、密度。



「飛びかうカモメ〜」の海にまた行ってきましたの。今日は、中潮、正午ごろが干潮、午後7時半くらいが満潮、昼過ぎまでうなされながら眠り続けていたから、急いで猫たちの世話して、このまま夜になったら、「週末を有効利用できなかった」という悔恨によるストレスで、また「絶望」して寝込まなければならないから、とにかく日のあるうちに出かけた、わけだ。

毎年、初めて海に入るときは、少し、勇気がいる。私たちは、こんなにうじゃうじゃ「生き物がいる」という「環境」に、もはや「慣れていない」から、はじめはちょっと「恐い」くらいなのだ。
観光客の皆さんが、半裸のままで、平気でビーチボール投げあったりできているのは、きっと彼らは、水中眼鏡をつけていないから、自分の足元に、どれほどたくさんの、可愛いのも気持ち悪いのも含めて、「生き物」がうごめいているかを、「見て」いない、からだ。
はじめ、少し、恐くて、・・・、やがて、興奮し、そして、しばらくすると、と・て・も・、疲れる。猫26匹とともに生きている私にして、この「生き物」密度は、高すぎるのであった。

さて、ご案内いたしましょう。


縦筋がオヤビッチャ、オレンジはネッタイスズメダイ?青いのはデバスズメダイ(いずれもスズメダイ科)、黒いの不明。


真ん中の岩にへばりついているのが、ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)。背景は、海草藻場。


真ん中のでっかいのは、そう、「近鉄特急」みたいな派手なペイント、ムラサメモンガラ(モンガラカワハギ科)。

初めて沖縄の海に入って、シュノーケルつけて、水中眼鏡から海の中見るでしょ?青や黄色の「艶やか」な色とりどりの魚たちに「魅せられる」わけです。
チョウチョウウオや、クマノミ、スズメダイとか。
でも、ある程度慣れてくると、このトラギス(↓)やテッポウエビの共生ハゼ(↓)、みたいに、砂地の海底に、じぃっ、としている地味な色合いの魚の「表情」とかまで見えてきて、親しみが湧いてくるのでした。


ダンダラトラギス(トラギス科)。


テッポウエビ類と共生するハゼ科の魚。テッポウエビの方はお見えにならないが・・・。

実は、海の生き物を撮影したくて、「ウォタープルーフ・デジカメ」を買ったのです。ろくに働いてもおらんのに、結構なご身分やの?へぇ、すんまへん。
今まで、「使いきりカメラ」の防水型、27枚撮りで980円くらい。固定焦点だし、写真屋さんに出して何日もたってからCDもらって、コンピュータにいれて、あっ、ボケボケだ、ショック、みたいなこと多かったし、海の中って酸素少ないからかな?ますます頭ぼけるから、あと何枚やったっけ?とか、ケチってしまってチャンス逃したりとか、・・・。
で、「清水の舞台」ですねん。今日のここの海も、中潮の満潮でも、腰の深さで500メートルくらいいける。それに、私の「潜る」能力からしても、「3m防水」でじゅうぶん、一応オートフォーカスやし、多少のズームもある。別売りSDカード込みで、ちょうど2万円、でござった。
なんか、普通の、ブログ、みたいな「語り」やね。恥ずかし・・・。


だから、今日はビデオカメラもって来てなかったの。そんなときに限って、セッカが、近くまでやってきてとまる。ちっこいけど真ん中に写ってるでしょ?

一番上の写真は、ギンネム(マメ科)と、入道雲。

2009年07月05日

深刻な「サギ」問題。



まず、上の写真を見ていただきたい。以前ご紹介した河口近くの干潟である。これは昨日なのだが、満潮から徐々にひき始める刻限なので、今は水深が深すぎて採餌には不向きなのであろう、このようにマングローブの樹上で、羽を休め、潮が引くのを待っておられる。
手前の白い3羽は、「ダイサギ」であろう。嘴まではっきりとはわからないから、「コサギ」も混じっているかも知れぬ。「クロサギ」白化型、という可能性も除外できない。
だが、問題は、もはや、そういうところには、ない。写真中央、ひときわ大きな黒っぽい鳥、先日はもっと晴れていたため、落日の反射で却ってよく見えなかったのだが、これは「クロサギ」では、ない。なんとも、申し上げにくいのだが、・・・、「アオサギ」である。


参考までに、先日、別の海岸地帯で目撃した「クロサギ」を再録。首まで真っ黒で、ぜんぜん、違うだろ?

さらに、困ったことがある。下の写真をご覧いただきたい。


左が、「百歩譲って」、「アオサギ」さん、としよう。右は、えっ?これは、どうゆうこっちゃねん?「クロツラヘラサギ」さん、やないかいっ?

物事に「例外」ということが、しばしば生ずることを、私もそれなりに学んできたつもりである。
しかし、このセミの声もかまびすしい盛夏の昼下がり、マングローブ上に「集合」したこの大量の「サギ」団たちが、
こ・と・ご・と・く・、「旅立ち」に「乗り遅れ」た「冬鳥」、だというのか?

ほら、世界は、かくも「悩まし」い。

2009年07月05日

「見る」ことの、技術



水の中では音の伝わり方も、振動の伝わり方も、「水」という媒質であるだけに、私たちには計り知れないことが多々あるのだろう。
魚が、びっくりするほど近くまで寄ってくる、と思えるときも、あるいは、こんなに離れているのに、「気づかれて」しまった、と思うときも、どちらもあるから、結局、魚の挙動を、「読む」ことはできない。


枝サンゴ。もう枯死しているのだろうが、に群がる、デバスズメダイ、などの皆さん。

ただひたすら、息をひそめ、じっとしている。彼らの捕食者や、彼らの被捕食者が、そうやって「気配を消す」のとまさに同じように、私もじっと「気配を消して」いると、・・・、やがて、ここかしこから、魚たちが顔を出し始め、動き始める。


テッポウエビとハゼの共生。今日は、テッポウエビもいらっしゃる。


ダンダラトラギス

それが、「見る」ことの「技術」。

上の写真は、オヤビッチャの稚魚たちをはじめとする皆さん。窒息するほどの、「生き物」密度。

2009年07月07日

「早期警戒システム」が起動します。



「びー」、また、おなかの調子が悪くて、今日は、オムツ、3回も取り替えた。
その作業にかけられる私の「時間」は、それがなければ、より「有用」な労働や、「生産」に振り向けられたであろう、ということは特にないのだから、別にかまわない。それより、パンパースがもったいない、いや、というより、新しいオムツに替えた直後にまたちょびっとおもらししてしまったりすると、なんで履き替えさせる前にもう一度「便意」を確認しておかなかったんだろう、と悔やまれ、自責の念に駆られる。
えっと、「便意」を確認する、といっても「もうちょっと、うんち、ちたいでちゅか?」と問うことではない。おなかを緩やかにさすりながら、表情を窺いつつ、しばらく、じっと、待つ、といったことだ。

でも、人間というものはふしぎなもので、一人でいても「声をかけ」ないと作業の調子が出ないものだから、やはり、「もうちょっと、うんち、ちたいでちゅか?」に類することは、私も声に出している。
人間のみが「言語」を獲得した特権的な生き物であることは、疑いがない。だから、犬猫やぬいぐるみに向かって「語りかける」者は阿呆である。それは、私も同意する。
でも、逆・に・、・・・、
えっと、
命題「相手が人間でないならば、言葉は通じない」、に対して、
命題「相手が人間ならば、言葉は通じる」、は、
論理学上は「裏」というが、それはさておき、・・・、
「語りかけ」ている相手が、「人間である」、というだけの理由で、当然言葉が「通じる」というのも、錯覚であって、その限りで、犬猫ぬいぐるみと選ぶところがないのではないか?
と、いいたい気持ちも、ある。


今日は「大漁」であった。
ハリセンボンに出・会・っ・た・のだ。ごらんのように愛らしい顔をしているが、まさに愛らしい顔をしたそれほど強くない生き物だからこそ、とも言えるが、うっかり脅かしたりすると針を逆立てて、「警戒態勢」に入ってしまうのだから、「森のくまさん」と同様、危険ではある。


スズメダイの写真を撮っているつもりだったのだ。砂ぼこりや泡が消えて視界が開けてくると、眼前の岩陰に、ほら、こんなにでっかい「おめめ」。


右、階段の手すり上、ゴイサギさん、左、川の中、ササゴイさん。

今日は、ほかにも、うちの「菜園」にオオゴマダラが訪問してくださった。隣の庭をツマベニチョウが横切った。
犬の散歩中、頭上をゴイサギが悠々と飛んでいった。いずれも写真が撮れなかったのが、残念でしかたがない。
今まで10年間、オオゴマダラもツマベニチョウも、ゴイサギも、近くを通り過ぎていたはずなのに、・・・、ふしぎなものである。

2009年07月08日

観光・植物・ウンチク一題



グンバイヒルガオのお話をしたとき、それが、サツマイモと同属でイポモエア属(Ipomoea)なのだ、という柳宗民「雑草ノオト」の記述をご紹介したが、わが「菜園」のこちらの植物、実はこれだけは「出所」がわかっている。
まだ、お酒をがばがば飲んでいる頃で、部屋で鍋料理みたいなものを作っていたのだから、一昨年の冬なのだろうか?こちらではいろいろな品種の「サツマイモ」が栽培されていて、皮の色も茶色、赤、切ってみた中身の色も黄色、茶色、紫、とさまざまなのだが、スーパーの売り場では区別もつかず、用途もよくわからず買ってきて、確かそれは、皮は白っぽく中身も白っぽかったと思うが、鍋で煮込んでみてもなかなか軟らかくはなってくれず、結局食べきれずに、すでに芽や根の出かかった残りのイモを、プランターの土の上に放置していたのだ。
昨日書店で「沖縄の野菜作り」風の書物を立ち読みして確認した。間違い、ないっ!

ようこそ、わが「家庭菜園」へ!とは言っても、君を「収穫」して食べようとは思っていないから、存分に繁茂してくれたまえ。花でも咲かせてくれると、うれしいな♪


本日の「沖縄雀瓜売り」状況。隣家の庭にも発見!

「土壌の酸性・塩基性」ということが「野菜作り、ガーデニング」系の書物には頻繁に出てくるのだが、他人様に「化学」を教えることを生業(なりわい)としているにもかかわらず、私にはそれがよくわからない。
造岩鉱物のほとんどすべては、ケイ酸塩である。ケイ素(Si)は炭素(C)と同様、最外殻電子が4個で、したがって空間的に等価な4方向への広がりを持った「正四面体」という、きわめて安定な立体構造をとることができる。ありとあらゆる「生物」の形を作り上げているのが、炭素を骨組みとする四面体構造であり、ありとあらゆる「無生物」、つまりは、「土」の形を作り上げているのが、この場合はケイ素(Si)そのものではなくて二酸化ケイ素(SiO2)という「分子」がユニットではあるものの、ほぼ同様な四面体構造である、つまり、「生物界」と「無生物界」が、ともに「周期表」の上下に並んだ最外殻電子4個の「原子」を中心に組み立てられている!という、ほぼ、奇跡のような、感動的なお話は、すでに、いたしましたな?

ちなみに、ケイ酸塩ではない岩石のほぼ唯一のものが、石灰岩であり、CaCO3、これは炭酸塩、つまり「生物由来」であるからこそ炭素を含んでいるのだ!サンゴ礁は、生命活動によって生じる二酸化炭素が、海水中のカルシウムイオンを固定して出来上がった、というわけだ。


実のそばからまた花が咲く、キダチイヌホウズキ(ナス科)

「塩」が水溶液中で示す液性(酸性か塩基性か?)は、その「塩」を構成しているイオンの由来する「酸」、「塩基」の強さで決まる。
おおざっぱに「酸」は、非金属元素をいくつかのOHが取り囲んだオキソ酸、「塩基」は、金属元素の同じく水酸化物(OH)、といってしまおう。
非金属元素は「陰性」、電子を引き寄せる性質が強く、なかでも酸素はフッ素を除けば最強である。生き物がこのような強力な、見ようによっては危険な元素を呼吸の道具に選・ん・だ・こともまた一つの奇跡、ではあるが・・・。
OHの酸素の隣に非金属元素がいると、酸素は同じ陰性の非金属元素からは充分な電子供給が得られないから、水素から思い切り電子を吸引し、もって丸裸となった水素が「水素イオン」、実際は周りの水分子のこれまた酸素部分に引かれて、ということではあるが、となって離れていく。これが、「酸」。
OHの酸素の隣が金属元素だと、酸素は電子を放出しやすい(陽性)金属から、容易に電子供給を得られるから、さっさと金属から電子を奪ってしまって、金属・酸素間はもはや結合力を失い、結果、電子を失った金属陽イオンと、水酸化物イオン(OH) に別れる。これが、「塩基」。

金属の「陽性」の強さ、すなわち最外殻電子の「失いやすさ」には順位があり、「貸そうかな?まぁ、当てにするな」などという愚かなごろあわせで暗記させられている「イオン化傾向」がほぼこれに当たるのだが、理の当然、から言えば、周期表の左に行けば行くほど、下に行けば行くほど、最外殻電子の個数が減り、原子核との距離も大きくなるから「取れやすく」なるであろう、と理・解・す・る・ことが、できる。


家のまわりの動物シリーズ・アオカナヘビ

これで材料はだいたい揃ったかな?
地球ができたとき、それは太陽が高速回転して「ちぎれた」んだそうだから、地球もまた回転していて、そうなるといわゆる「遠心力」ってやつで、軽い金属ほど地表近くまで運ばれる。地殻を構成する造岩鉱物に含まれる金属イオンはこうして、ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム、アルミニウム、鉄、などの軽いものばかり。このうち、ナトリウム、カリウム、カルシウムは、その名も「アルカリ金属」、「アルカリ土類金属」などと呼ばれるように、陽性が極めて大きい金属だから、水酸化物の電離度も大きく、強塩基性を示す。アルミニウムと鉄、近代資本主義文明を可能にしたのは、たったこの2種類の金属なのだ!というウンチクに入るとまた二時間くらいかかるから、これはまた後ほど、ということにして、の水酸化物は水にほとんど溶けないから、強い塩基性を示すことは、ない。

岩が「風化」する。振動によって砕かれ、水に浸される。ケイ酸塩の金属部分のうち、水によく溶けるナトリウム、カリウムは速やかに流されてしまう。水に溶けないアルミニウムが、残る。
強塩基性を示すナトリウムやカリウムのイオンを多く含んでいるものが「塩基性土」であり、まさに水によく溶ける、というその特性から、細胞内外の物質移動に重要な役割を担うこれらの金属イオンが大量に存在しているということは、植物の生育にとって好ましい環境であるはずだ。
水酸化物の電離度が高く、塩基性を示しえた金属イオンが雨水などによって流されてしまい、不溶性のアルミニウム化合物ばかりが残されたものが「酸性土」であり、
風化が進んだ土、また、粒径が小さく表面積・体積比が大きくなって水分子との接触確率が高くなってしまっている土(砂礫よりも粘土)、の方が「酸性土」になりやすいだろう。
そして、不溶性の塩を形成しやすいアルミニウムイオンの存在は、植物にとって死活的である水の流れによる物質移動を阻害する要因になるであろうことも、容易に想像できるのであった。
風化が進むと、空気中の酸素や水と接触する機会が増えるから、鉄イオンは2価から3価に酸化される。3価の鉄イオンは赤い色をしているから、「赤土」は風化の激しい土であり、したがって「酸性土壌」であることが多い。
大学受験の化学では、2価の水酸化鉄の沈殿は「淡緑色」、3価の水酸化鉄の沈殿は「赤褐色」と、丸暗記させられ、そんなことが「人生、何の役に立つんだ!」と義憤に駈られた方も多いだろうが、いや、これは間違いなく「人生」の根幹部分において、「役に立つ」知識である。
酸素というきわめて陰性が強く反応性の高い元素を「呼吸」の道具に選び取ることによって、酸素が関与する酸化還元反応によって生ずる膨大なエネルギーを利用することができるようになって、「生き物」は生じた。私やあなたの「人生」も、生じた。「呼吸」において、この酸化還元反応を媒介しているのが、2価と3価の鉄イオンの相互変換なのであった。ヘモグロビンのど真ん中には鉄イオンがくっついているそうだ。酸素と結合しているとき、それは3価だから、だ・か・ら・、動脈血は、「赤い」のだ!、よ。


干潮の砂浜の、シロチドリさん

沖縄北部の土は、赤い。
例えば読谷(よみたん)村、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が最初に上陸したのがこの土地だ。基地だらけだったその土地が少しずつ返還され、「不毛」の赤土、酸性土でも、生育できる ヒルガオ科イポモエア属を、人々はそこに植栽したのだろう。沖縄名物「紅イモ」の始まりである。それはやがて読谷の「村おこし」にも繋がっていく。
復帰に伴う農地改良事業で、東村などの北部の森林が切り開かれ、やはり酸性土に強いパイナップルが大量に植栽された。山の保水力が落ち、激しい亜熱帯の雨で表土は流され、赤土は海底を覆い、かつてこの島の四囲を覆っていたサンゴ礁は、ほぼ、全面的に壊滅した。
アメリカの巨大食物資本ドール社が、フィリピンのある島を丸ごと買い取り、全体をパイナップル畑にした。流出した表土が、沿岸域のマングローブ植生をやはり壊滅し、マングローブ域での漁業を生業としていた大量の人々が職を失った。

私は「政治問題」を語っている、と思われるだろうか?
「少品種・大量生産」を旨とする資本主義は、まさにそれしかできない、貧・し・い・「北」に生まれた。「単相」であるから「貧しい」ともいえるし、「単相」であるからこそ、その環境に適応した品種にとっては「大量」に生育できるから「豊か」ともいえる。
「多品種・少量生産」は「南」の生存戦略であった。高濃度紫外線や高温は、厳しい環境であって、海も土壌も、本来「貧しい」。サンゴ礁や熱帯雨林、といった「局所的」な「豊かさ」が、「複相」を支えたのだ。
・・・。

2009年07月09日

ふたたび、「びー」様、絶食中。



ふたたび、「びー」絶食である。他の猫が食事をしているあいだ、小屋の中から「うぇーお、うぇーお!」と切なく呼びかけてくるが、心を「オニ」にする。

園芸の世界には、「胚軸切断挿し木法」という手法があるらしく、シクラメンやサツマイモの組織内には病原性を持たない微生物が共生しており、これによって病害虫に抵抗性を持つ、といわれている。

・・・
本葉展開〜本葉3枚までの期間は、親からの従属栄養(種子)から自分自身で栄養を作り出す独立栄養への転換期間です。この時期に微生物を組織内に取り込むことができることは、動物が腸内細菌を定着させる時期と似ており、生命として共通する不思議な世界が感じられます。
・・・
「伝承農法を生かす家庭菜園の科学」木島利男(講談社ブルーバックス)

一番初めに拾った猫、「にょろりん」はものすごく腸が弱かった。片手の手のひらに載るくらいの大きさで、その頃わたしは猫の「育て方」なんて何にも知らなかったけれど、きっと、まだ「従属栄養」期、えっと、緑色植物以外に「独立栄養」は考えられないから、つまり、「乳離れ」以前、ということ、だったのだろう、軟らかい固形物は食べられたから、「子猫用」と銘打たれた缶詰類、ありとあらゆるものを与えたけれど、何を食べてもひどい下痢だった。三日に一度くらいお医者さんに連れて行って、「寄生虫もいる」、「消化酵素の分泌が十分ではないのでは?」、・・・、そのたびにいろいろな薬、注射、・・・、猫を飼うということは、なんとお金が掛かることか、と激しく後悔したものだ。


シリーズ「寝顔」・にょろりん

お金も大変だったけど、当時は「ペット不可」のこ・じ・ゃ・れ・た・ワンルームに住んでいたから、ウンコ処理に激しく気を使って、ほとんどそれが私の「発病」の引き金だったといっても言い。「トイレを覚えてくれない」どころの騒ぎではない。常時、腹下しなのだから無理もない、いたるところでもらしてしまっていた。生き物を「飼う」ということは、都市化した人間の住居に生き物を「迎え入れる」ということは、徹頭徹尾、糞尿の世話に始まり、糞尿の世話に終わるのだ!、と、骨身にしみて「理解」できたことは、しかし、今から思えば「収穫」なのである。

それが、成長とともに、ふっと、治ってしまった。今、上の文章を読んで、少し腑に落ちるところがあって、思い出したのである。
「びー」が事故にあったのは、おそらく、もう、じゅうぶん大きくなって自由に走り回れるようになって、自由に走り回れるようになったからこそ、事故にあったのであろうから、「乳離れ」という段階はとうに過ぎていたはずだから、同列に論じることはできないのであるが・・・。

生き物の身体は、自分のものも含め、不思議極まりないものであるから、「予測」したりそれに基づいて「計画」を立てても、例外なく裏切られる。だから、日々、淡々と「なすべきことを、なす」以外に方法は、ない。
「こんなことが永遠に続いたらどうしよう?」、心配には及ばない、あなた、「永遠に」、生きてないから・・・。

☆★☆では、水族館ツアー、続きです。☆★☆


ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)、オヤビッチャとそっくりだが、尾びれの縁取りが特徴、とのこと、魚の顔を正面から見るのも珍しいことで。


ルリスズメダイ(スズメダイ科)、近影。


ハリセンボン(ハリセンボン科)、手前の赤っぽい小魚は、キンセンイシモチ(テンジクダイ科)、白黒の縞は、オヤビッチャ(スズメダイ科)

2009年07月09日

V.A.C.A.T.I.O.N.



昨日で本年度の「前期」が終わって、「夏期講習」ってやつが始まるまで、今日から、一週間、お仕事はお休みなのだ。「V.A.C.A.T.I.O.N.〜夏休み!」、なのだ。
ちょうど一年前、「夏期講習」が始まる直前に、お酒を、やめた。
32年間、ほぼ、毎日欠かさず続けた「飲酒」の習慣から、離れよう、と思ったのだから、よほど、それこそ「生命の危険」を感じるほどまでに、体調が悪かったのだろう。
「国際通り」のど真ん中に、当地の地ビールのブルワリーが経営しているビアホールがあって、結構いい値段するけど、もちろん、とてもおいしい。常のごとく「気分が晴れない」から、一丁奮発して「盛り上げよう!」とけなげにも思ったんだろうな、でも、そのおいしいはずの「ヴァイツェン」トールグラス1杯700円が、ま・る・で・味がしなかった。
「終わりかな〜、と思ったら、泣けてきた〜♪」ってな感じで、・・・、絶望した。
どんなにぼ・ろ・ぼ・ろ・でも、現にぼ・ろ・ぼ・ろ・だったけど、お酒を飲んでいるときだけは、喉から、食道、胃、へと、徐々にアルコール分が浸透していくその瞬間だ・け・、「生きている」手ごたえがあったのに・・・。「アルコール依存症」から「アルコール」を奪ったら、何が残るのだ?まさに、「飲む」ことは、ほとんど、私の「アイデンティティー」だった。

結論から言うと、別に、「アイデンティティー」は、なくても生きていけるのだった。実のところ、禁酒が一年も続くとは、さらさら思っていなかった。
絶対に、「それなしでは、やっていけない!」、と思われていたことどもが、一つ一つ、実は別になくても大丈夫、とわかってくる、というプロセスが、「老い」なのかも知れないが、それは「悲しい」ことだと言ってもいいし、「喜ばしい」ことだと言っても、別に、同じことだ。


快便後、「びー」

「びー」のおなかは、快癒した。すばらしい。天気は快晴、仕事は休み、犬の散歩はすんだし、朝からまた海にでも行こう。今日は午前9時が満潮のはずだ。
毎日のように、泳いだりしているから、身体も、健・康・のようだ。夜には、快い「睡魔」が襲ってくる。同じ「眠気」でも、あの何か神経が磨耗して身体まで硬直してしまったかのような「病的」な「多眠」とは、一味、違う。

なんだ!うまくいってるじゃない?でも、「どうやったら」う・ま・く・いったのか、覚えてないから、もう一回繰り返してみろ、と言われても、できない。明日にでも、壊れてしまうかも、知れない、・・・。

「双極性障害」加藤忠史(ちくま新書)、を読んだ。
自分が「双極II型」なのか?、「メランコリー型(大)うつ病」なのか?は、素人にはやっぱり、判断できないわね。どちらにもそれぞれに「当たっている」ところがあるわけで、でもそれって、ちょうど、これ、トゲチョウチョウウオかしら、フウライチョウチョウウオかしら?、ゴイサギの幼鳥かしら、ササゴイかしら?、・・・、とか、図鑑見ながら「悩んで」いるのと、そっくりだから、笑えてくる。

そう、オキナワスズメウリ(Diplocyclos palmatus)の学名、どおりで気になったはずだ!
「双極性気分障害」・・・Dipolic Temper Disorder
「気分循環症」・・・Cyclothymia
なんだもの!

☆★☆本日の、「家庭菜園」だより


本日の、沖縄雀瓜「売り」日記。新しく延びた部分から、また次々と花が咲く。


本日の、イポモエア日記。例の、ヒルガオ科イポモエア属、つまり、サツマイモの一種。


本日の、キダチイヌホウズキ(ナス科)の、これは実が落ちたあとのがくなのだ!


本日の、右に「纏繞(てんじょう)」する、シンツルムラサキ。

☆★☆本日の、水族館、ツアー。「クマノミ」と「ツノダシ」が揃うと、一気に「華やか」になりますな♪


シロチドリ、今は、ほぼ満潮。
育雛(いくすう)期に巣やヒナに人や犬などが近づくと、親鳥は怪我をしたようにふるまい、自分に注意をひきつけてヒナを守る、これを「擬傷行動」と呼ぶそうなのだが、別に危険は迫っていない、どう見ても雄雌でじゃれあってるようにしか見えないときにも、一方がそれらしいふるまいをしておった。動画も作りましたし・・・。


ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)、干潮の礁池。


クマノミ(スズメダイ科)。かなり警戒心が強いみたいだし、今日は満潮で水深深かったし、あまり近づけなかったけどね。
ところで、どうして「熊の実」なのだ?
「検索バカ」したけど、・・・、「検索バカ」できず、「検索バカ」帰る、「検索バカ」の声、・・・。


右端、ツノダシ(ツノダシ科)です。平べったい魚は、間、魚はほとんど平べったいけど、・・・、写真撮るのに苦労する。上から見たら、単に「線」にしかならないもの。

☆★☆本日の、観光案内。


グァバ(ばんしるー)、花。

一番上の写真は、赤とんぼ、本土の赤とんぼ(ナツアカネ、アキアカネ)とは別のグループで、ショウジョウトンボ。

2009年07月11日

今日は、「大漁」でぃっ!



今日は、「大漁」でござった。中潮の干潮少し前、潮が引き気味のほうが、砂を運んでくることが少なくて、透明度が高いのかも知れない。
チョウチョウウオが3種類、同時に見られるなんて、初めてのことである。
少し茶色めなのが、チョウチョウウオ。多分。図鑑の印刷の色とはどうしても、ちょっと違うから・・・。


左から順に、ツノダシ(ツノダシ科)、トゲチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、チョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

背びれの周りに黄色いところが大きくて、黒い点が一つ、よく見るとその先にトゲが・・・、というのが、トゲチョウチョウウオ。


中央:ツノダシ(ツノダシ科)、右上、白っぽいペアがフウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、その左とツノダシの左、茶色っぽいのがチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、白黒の縞はロクセンスズメダイ(スズメダイ科)

そして、身体のまわりが黄色くて、真ん中は白くて、黒い帯があって、みたいなやつが、フウライチョウチョウウオ。
チョウチョウウオ類は、雌雄の「ペア」で行動を共にすることが多いようなのだが、今日も、そう、3組の「カップル」ということになるね。


右:ツノダシ(ツノダシ科)と、左:トゲチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

ツノダシ、も2匹いらっしゃった。大きいのと小さいの、これも「ペア」なんであろうか?


中央:ツノダシ(ツノダシ科)

干潮の礁池に群れ集っていた、オヤビッチャ、や、ロクセンスズメダイ、両者は尾びれの細かいところを見ないと全然区別がつかないのだが、の稚魚たちをご紹介したが、もう少し深いところには、こうして成長したロクセンスズメダイがたくさんいらっしゃるようだ。魚は、稚魚と成魚でずいぶん形が異なるものが多いけれども、これはほぼ「相似拡大」であるな。


手前:トゲチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、奥:ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)

水の中にいると、やはり酸素が少ないからなのか、「アタマ・弱く」なる気がする。巨大なテーブルサンゴ状の岩の陰に、まさに、気持ち悪くなるほどたくさんの魚がいたわけだが、興奮して「夢中でシャッターを切った」わけだが、・・・、水から上がってきて、「はて?」、写真を撮ることに「夢中」で、実は何も「見て」いなかったことに、気づく。
あわてて、もう一度水に入る。でも、また、夢中でシャッターを切り、・・・、これではまるで「日本人観光客」ではないか?
「見る」ことそのものを、目的にする、いや、そもそも「目的」を持つことなく、ただ「見る」、・・・、それ自体が、難しい・・・のであった。

一番上の写真は、フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)のペア、と、ミズジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)

2009年07月14日

ふたたび、「園芸家」風。「栄養生長」と「生殖生長」、・・・



上の写真は、ハマスゲ(カヤツリグサ科)。
これは、屋上に前の住人が放置して行ったとおぼしきプランター、亜熱帯の直射日光は激しいから、もうプラスチックは風化して原型をとどめないものの、ちゃんと土があり、ちゃんと植物が生える。
以前はもっと違う草が生えていたように思う。「リンリン」というメス猫がいてね、もう6、7年前になるかな?仕事先の近くのコンビニ、入ろうとすると、入り口近くにたむろしていた野良猫のうちの一匹が、何のためらいもなく店内についてきた。その「何のためらいもなさ」が、私には「運命的」に思えた。もう「病んで」いたし、それに、「トモ」ちゃんというエイズ感染猫が、ちょうど数日前になくなったばかりだったから・・・。
そうして「リンリン」は、うちの何匹めかの「家族」になり、拾ったときすでに妊娠していたのか、あるいは、ほとんど「意識なく」生きていた私の不注意なのか、子猫を何匹か出産した。でも、どれもすぐに死んでしまって、私はそれらをこの屋上のプランターに「埋葬」し、そのときそこに生えていた、無論当時は「名も知らぬ」潅木風の雑草を、「子リンリンの木」などと呼んでいたものだ。
そこに生えていた草は、何代か入れ替わったのだろう、今は、ほら、こうして、ハマスゲ(カヤツリグサ科)が、びっしりと実をつけている。単子葉植物ばかりが生えるのは、土壌がすでに低栄養状態となっているからだろう、などといっぱしの「園芸家」風のことも口走るようになった今日この頃。「子リンリン」たちももうすっかり無機質に分解されて、どこかに吸収されたんだろうね?「リンリン」も、一昨年の秋に亡くなったけどね。

また、観光・植物・ウンチク・一題。
・・・
沖縄県の島ラッキョウ(小玉ラッキョウ)、福井県の花ラッキョウ(同)、鳥取県の大玉ラッキョウを同じ場所で栽培すると、いずれも同じ大きさと形に生育します。これらは、産地が違うだけで、同じ品種だからです。小玉ラッキョウは密植して、3年目に収穫します。いっぽう、大玉ラッキョウは株間を十分に確保して植え、2年目に収穫します。小玉ラッキョウは開花しますが、大玉ラッキョウは開花しません。しかし、2年目で収穫する大玉ラッキョウを密植すると、老化し分球が多くなり、開花して小玉ラッキョウとなります。これは生育条件が良いといつまでも個体維持の栄養生長を続け、生育条件が悪いと速やかに種族維持の生殖生長を始めるからで、生物に備わった栄養生長と生殖生長の矛盾から生じるといえます。
・・・
「伝承農法を生かす家庭菜園の科学」木島利男(講談社ブルーバックス)


いまだ不明の潅木(対生、三出複葉)、「栄養生長」中。

ベランダのこの「木」ね、やっぱり「雄株」なのかしら、花らしいものも、もちろん実も、何にもできないから、特徴なくてね、依然として名前わからず、ただ、こう、新芽ががんがん出てきて、そう、がんがんひたすら「栄養生長」のみ、続けとるわけです。


本日の、沖縄雀瓜「売り」日記、花や実の上には、まるで「隠す」ように、葉が覆っている。


本日の、イポモエア日記。新芽。


何かの双葉が出ている♪
このプランターには、窒素固定根粒菌のいらっしゃるマメ科を、ということで、シナガワハギの種をばら撒いておいたのだが・・・。

2009年07月15日

「でも、心の中は、嵐が吹いているんです」、、、「誰の心にも、嵐が吹いているよ」



精神病の治療の進展にとっては、睡眠がちゃんと取れているかどうかが、まずは第一のハードルであるらしい。
参考文献:「救急精神病棟」野村進(講談社+α文庫)。(タイトルも、この本から。手元にないから、正確な引用じゃないかも・・・。)

そういえば私も「問診」のときに、「夜は眠れますか?」と何度も聞かれた。
でも、私、「不眠」だったことが一度もない。こうしてまもなく丸一年、お酒をやめてみて初めて気がついたのだが、今までただの一度も、「眠くなった、だから、寝よう!」と「意識」して眠ったことが、なかった。毎日毎日、来る日も来る日も、ただひたすらに「酔いつぶれて」、「意識を失って」いたのだ。
私は、お酒を「飲み終わる」ことができない。酔っ払ったから「今日はこの辺で・・・」がない。昔、まだ他人様と「飲みに」出かけるようなことがあったときも、最後まで、「もう一軒行こう!」とくだを巻き、迷惑がられるタイプだった。その相手となんら会話が弾まず、むしろ険悪な雰囲気のときでさえも、だ。「相手」なんかどうでもよかった、とにかく、「飲み終わる」ことが耐えられなかったのだ。全員に、ほぼ、「逃げるように」去られると、やむなくコンビニを「はしご」して、道端でビールを飲み続けた。そのまま公園などで眠ることも、しばしば。
部屋で一人で飲むときは、もっとひどい。お酒を「買い置き」することができないから、・・・、なくなるまで全部飲んでしまうからだが、夜中に何度もコンビニに買い足しに行く。深夜勤の店員さんにも顔覚えられて恥ずかしいのだが、酔いがまわるにつれ羞恥心も麻痺してくるから、・・・。で、どこかで、ベッドに倒れこんで眠り込んでしまう。目を覚ますと、最後に買ったビールが、口を開けたまま、ほぼ丸々残っている。朝、真っ先にする「仕事」は、すっかりぬるくなってしまったそれをかまわず「飲み干す」こと。こうして、「飲み終わる」ことなく、新たな一日を迎えられた、というわけだった。

お酒をやめて、自分が少しも「眠れて」いないことに、初めて気がついた。一年前、禁酒を始めたばかりの頃は、一睡もできなかった。喉が焼けつくほど、「飲みたくなる」気持ちを、牛乳を流し込んでごまかし、まさに、「まんじりともせず」明け方を迎えた。明け方、さすがに疲労困憊で、少しだけ、眠りに落ちる、そんな日が一週間近く、続いたかな。
ちなみに牛乳は、その名も、お肌の「メラニン」と「セロトニン」を組み合わせてつくられた「メラトニン」という「快眠成分」が含まれている、と聞いたからだ。

だいぶ経ってから、いつの頃からか、「あ、これが、眠くなったか・ら・、眠る?なの?」、と、もう何十年も忘れていた「感覚」を取り戻したわけだ。
今は、むしろ「病的」なほどの、「多眠」かも知れない。
もうすっかり慣れ親しんでしまった「うつ」症状なのだが、ふと、急に何もかもやる気が、まったくなくなって、身体さえ思い通りに動かなくなる。そんなときは「横になる」以外、何も手立てがなくて、やりかけていたことすべてを中断して、ただ眠ろうとする。これがまた、いくらでも、眠れるのであった。

あれは昨日だったか、一昨日だったか?遅れ気味の「夏休み絵日記」だから、いつのことかすでによくわからないが、そんな風にして、過ごした。二日間で、おそらく10回以上も、眠ったり目を覚ましたりの繰り返し、もはや今が朝なのか夜なのか、何日目なのかもあいまいで、でも、猫たちはむしろそんな生活リズムがお得意のようで、「添い寝」をしてくれたり、時にはおなかの上に乗って邪魔してくれたり、・・・、「付き合って」くれたものだ。

「今週はよくがんばったか・ら・、疲れた」とか、人は「因果論」的に考えたがるものだが、「病気」になったことのある人は知っている、人間の身体は、もうちょっと「複雑系」で、「理由」を問うても仕方がない。ただ、身体自身が「解決策」を探し、新たな「平衡状態」に達して「安定化」するのを、「邪魔をしない」ようにして、じっと「待つ」しか、方法がない。


「びー」横顔

「びー」のオムツ換えだけが、心配で、鳴き声がすると飛び起きようとするのだが、立ちくらみでままならず、何とか排尿を済ませるとその場で寝込んでしまったこともあった。
「びー」は後ろ足が動かないのだから、あちこち歩き回ってどこかに挟まったりして怪我するのが心配で、小屋に戻さなきゃならないのだが、それすらできず、気がついたら、私のわきの下で、腕に頭載せて、眠っていた♪

一番上の写真は、「そんな」ひとこま。
リビヤヤマネコという野生動物が、こ・こ・ま・で・「無防備」に振舞えるようになるまで、4000年、猫の一生4年として1000世代の進化・突然変位・確率論的過程、の、「賜物」である、ねっ!みけどん。


「ジャスコで会いましょ♪」猫、ぼうず。

こいつは、「ぼうず」。鼻をこすりつけてくるあいさつが好きみたいで、時々気が向いたら、少し臭い鼻先を、こすりつけにやってくる。この猫は、「ジャスコ」の「二階」の入り口にいたのだ。どうしてそんなところにいたのか?は、問わないことにしよう。「ジャスコ」の「二階」で、生き続けることはできそうにないと思われたから、連れて帰った。2年ほど前の冬、だったかな?
だから、あんたのテーマソングは、「ジャスコで会いましょ♪」なの。私が子供の頃から、あの歌、変わってない。阪神電車の西宮駅前の「ジャスコ」、震災で全壊した。
沖縄にも「ジャスコ」何軒もあって、「病気」になったばかりの頃、開店したばかりのどこかの「ジャスコ」で、あの歌流れてきて、突然、涙がぼたぼたっーて、流れてきた。なんでかわからんけど・・・。だから、「病気」に「理由」は、ないって!

2009年07月15日

新たな「サギ」問題。



毎日が「夏休み」だから、昨日何して、今日何して、・・・、だんだんわからなくなってきたけど。
ともかく、毎日のように、海に行ったり、・・・、それから時々一日中眠ったり、・・・、ますます「人」と言葉を交わすこともなく、・・・、それは何よりではないか?

新たな「サギ」問題、が、生じた。上の写真は、いつも、魚を見に行く南部の海岸、海から上がると、間近に、これはまがうことなき、黒・い・、「クロサギ」さん。
ところが、今日は、そのすぐ近くに、白・い・、サギ類が飛来した。


新たな「サギ」問題。これが問題、「クロサギ」白化型?、あるいは?

ここには写っていないが、右側100メートルあたりのところに、「クロサギ」もいる。相互に「知り合い」かどうかは、わからない。「つかず離れず」、の、ようにも見えれば、「無関係」にも、見える。「同種」なのか?そうでないのか?
つまり、例の「クロサギ」白化型なのか?あるいは、「普通」の「ダイサギ」など・・・、なのか?

次の写真は、そこから数キロ、十数キロくらい、かな?、人里離れた海岸。背後には余り人手の加わっていない森もあるから、恰好の「集会場」なのだろう。こんなにたくさん集まっておられる・・・。ここにも、見えにくいが、2羽くらい黒・い・「クロサギ」さんも、混じっているのだ。


なぞは、尽きない、・・・。

☆「蝶よ♪花よ♪」シリーズ


ツマグロヒョウモン、♂♀。前にも申し上げたが、♂のみが「つま(端)黒」、♀は普通の「豹紋」、である。

☆観光案内・シリーズ


7月15日は「マンゴーの日」と、沖縄県農水産物販売促進協議会、が、決めたそうだ。これはご近所の庭木。どおりで、ヒヨドリが騒がしい。

2009年07月15日

「水生生物」が「陸生成物」に対して負っている、「ハンディ」



水の「分子量」は18、それは、H2Oというものを構成する二つの水素原子と一つの酸素原子に、普通含まれている「陽子」と「中性子」の個数を数えたものの合計、を言ったに過ぎない。
何の「意味」があるか?というと、「陽子」と「中性子」の質量の差は「十分、小さい」、つまり「千成瓢箪」数えてる程度では誤差が蓄積しても「大過」ないくらい、ほとんど同じ、であるから、水分子一個の質量は、「何か」の18倍に違ぇねぇ。日常生活上の「質量」の単位である「グラム」と、無理やり「関連付け」ると、
水分子が「アボガドロ数」、6かける10の23乗、個、集まると、本・当・に・、18グラムに、なる。


ニザダイ(ニザダイ科)の一種

「一立方メートル」の空間を想像してみよう。縦、横、高さ、すべて一メートル、そうね、水が詰まっているのがお望みなら、すし屋の生簀?それでは息苦しそうなら、服屋さんの試着室、のちょっと狭め?
水の密度は1立方センチ当たり1グラム、だから500ミリリットルペットボトルの重さは、ほぼ、500グラム、ミリリットルと立法センチは同じ。
一立方メートルは、縦、横、高さすべて100センチの立体だから、100の3乗、百万、10の6乗、立法センチ、その重さは、10の6乗グラム、10の3乗キログラム、1トン、とも言う。
このなかに「存在」する、無論誰も「見たこと」がなく、これからも誰も「見ない」が、水分子の個数は、18グラムあたり「アボガドロ数」個だから、
「アボガドロ数」を18で割って、それを10の6乗倍すればよいが、18は面倒なので20にしようか?
6かける10の23乗は、60かける10の22乗、これを20で割れば、3かける10の22乗、これを10の6乗倍するから、3かける10の28乗、でした。


スズメダイの一種、の稚魚たち

あらゆる気体1モルは、その種・類・に・関・係・な・く・、摂氏0度、1気圧(1013ヘクトパスカル)のもとで、22.4リットルの体積を占める、という。
奇妙奇天烈ですね。分子の大きさなんて、ま、もちろんこれも「誰も見たことない」んですが、気体の種類によって全然違うはずなのに、それは全く影響しない、ただ「個数」だけが問題なのでした。
液体や固体は、粒子が相互にかなり近くにいるから、その大きさや相互作用が関係するのに、気体というのは、あまりにも広い「空間」の中を粒子が「自由に?」飛び回っているものだから、一個あたりの空間がでかすぎて、一個「自体」の大きさは「無視できる」、またしても、・・・、「千成瓢箪」数えてる程度では誤差が蓄積しても「大過」ない、・・・、「大数の法則」が成立するほどの、確率論的過程、「さいころ振ったら6が出る回数は振った回数の6分の1よ!」と真顔で言ってもよ・い・「回数」の世界、・・・、となるわけでした。


ミツボシクロスズメダイ(スズメダイ科)

ですから、今度は、空気を構成する分子、8割が窒素、残り2割がほぼ酸素ですが、が、「何」であるか?、その分子量はいくらであるか?を一切顧慮することなく、「一立方メートル」の空間に存在する空気の粒子数を、ダイレクトに求めることができます。
摂氏0度、はちょっと無理っぽい、ことに「亜熱帯」ではね!、が、我慢して、地表面付近の気圧は、私たちが頭の上に「のっけている」空気の柱の面積一平方メートルあたりの重さ、ってわけで、そんなもん大体どこでも同じで、それを1気圧と呼んだんですから、
体積22.4リットルに1モルすなわち「アボガドロ数」という比率をそのまま利用すればよいわけで、では、「一立方メートル」、10の6乗立方センチ、10の3乗リットル、には何個か?
22.4は割り切りにくいので温度が上がればもちょっと増えるし、思い切って25にしましょか?
10の3乗を25で割って、それに6かける10の23乗をかけよう。100割る25が4だから、1000割る25は40、これに6かける10の23乗かけて、240かける10の23乗、はいっ!でました。2.4かける10の25乗、でした。


オグロトラギス(トラギス科)

同じ空間に「存在」する粒子の個数が、水と空気とでは、水のほうが1000倍以上「濃い」わけです。
これが「水生生物」が「陸生成物」に対して負っている「ハンディ」でした。


ミツボシキュウセン(ベラ科)

新しいデジタルカメラが嬉しくて、毎回、200枚ばかりも写真を撮っているのですが、ほとんどがボケボケです。だからデジカメでよかったのだが、水の中ではどうしてこうも、「おさかなの様に」は、身動きができず、また、大きな屈折率のおかげで、距離を測ることもままならない、実際、私は、「見て」来たはずのさかなの、「大きさ」も、わからない、・・・、そんなことから、例によって、こんなどうでもよいことを考えて時間をつぶしていたのでした。


ノコギリハギ(カワハギ科)

2009年07月16日

人の「排泄生活」を、笑うな!



抑うつ気分は、やる気がないとか、意欲が出ないといったことと間違われやすいのですが、そういうものは抑うつ気分ではありません。抑うつ気分とは、あるべき意欲がないというものではなく、普段あるはずのない、筆舌に尽くしがたいうっとうしい気持ちが襲ってくる、というようなものなのです。
・・・
「双極性障害」加藤忠史(ちくま新書)

精神科のお医者さんは、自分で病気になったわけでもないのに、どうしてこんなことまでわかるのだろう?不思議に思う。
初めて診断を受けたときも、
「いちばんひどい『うつ』のときはどうしていますか?」
と、問われ、
「何にもできないので、ずっと寝ています。・・・。」
その先言葉に詰まっていたら、
「トイレに行くのも、おっくう、とか?」
そう、尋ねられ、えっ!あんたは「見た」んかい?どうして私の、そんな、「排泄生活」まで、知ってんねん?と、仰天したものであった。

そう、まことにもって、「筆舌に尽くしがたい」、暴・力・的・な・、無気力なのである。


珍しく、なかのよさそうな、「黒猫一家」、ぼうや(左)、ママちゃん(右)

明け方、「ぼうず」がおなかの上に乗ってきた。両方の前足を交互に私の腹部に押し付ける。本来、母乳の出を促進するために「組み込まれ」た、子猫のしぐさなのだが、早期に母猫と引き離されてしまった、といった「履歴」が影響を及ぼすのかどうかは定かではないが、猫は大人になってからでも、時々、こんな甘え方をする。
今「腹部」といったが、正確ではない。「婉曲」表現、である。母猫の腹部には前足の付け根から後足に向かって、4対、合計8個の乳房が配列しているが、どうやら「下流」に当たる後足の付け根付近が最も「出」がよいらしく、複数の子猫が育つ場合、いちばん元気な態度のでかいのがそのいちばん「よい」乳房を占有し、ますます成長、兄弟間に差ができる、ということにもなる。
だから、という「理由」と推測されるのだが、うちの猫たちも、特に冬場で暖を欲しているとき、私の「股間」は人気の場所なのである。


おっ?「本葉展開」なのか?

で、私は、・・・、そう、「生殖成長」を休止し「栄養成長」のみを行っている「雄株」、であるから、雌猫の「よい」乳房があるべき場所には、「陰嚢」があるのだ。
雄性生殖器が身体の「腹」側に移動したのは、「二足歩行」の獲得に付随した出来事なのだろうか?だって、雄猫が歩いていると、キ・ン・タ・マ・は後ろから見えるじゃないか?

「ぼうず」の爪を切らなきゃいけないな、・・・。「陰嚢」の痛みをこらえながら、考えた。

・・・
まことに愛らしき野の花だが、その姿の愛らしさとは裏腹に、イヌノフグリ(犬の陰嚢)という口憚る名が付けられている。実際にその果実を見ると、まさに犬の陰嚢そっくりの形をしていて妙に感心させられて、・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

イヌノフグリは春に花をつける野草。春には、私はまだ「園芸家」ではなかったから、その花に気がついたことがない。沖縄の野草、風の図鑑にも載っていないようだから、あるいは沖縄には生息していないのかも知れない。そうだとしたら、私は、その「愛らしき」花を見ることは、もう、決してないわけで、そう思うと、・・・、痛切に、悲しい。

上の写真は、「落果」。キダチイヌホウズキ、と、オキナワスズメウリ。
シロガシラが、オレンジ色の実をくわえて飛んでいるのを見かけた。キダチイヌホウズキの種を「散布」してくれているのであろうか?


「蝶よ♪花よ♪」シリーズ:ハイビスカスと、ナガサキアゲハ

2009年07月17日

「擬態」・被「擬態」問題



新たな問題が生じた。
まことに、天も落ちよ、地も割けよ、と言わんばかりの、「筆舌に尽くしがたい」絶望感と焦燥感に、日々身悶えし、「息も絶え絶え」となっているは・ず・の、
「メランコリー型大うつ病」または「双極性気分障害・双極II型」患者であったが、
こうして次々に、やれ「クロサギ」の白いのと「ダイサギ」がどうの?とか、「人生」や「世界」の大勢にはど・う・で・も・い・い・「悩み事」が生じて、おかげで結構元気そうではないか?

まず、訂正をしておかねばならない。
「白黒サギ問題」で、白・い・「クロサギ」をもって、「白化型(アルビノ)」などという言い方をしたが、誤りであった。

・・・
遺伝子の突然変異により先天的に色素が欠落した個体が白色化することを白化という。アルビノともいう。虹彩や瞳孔の色素もないので血液が透けて目が赤く見える。これに対し、目や嘴・脚などは正常な色だが羽毛だけが白いものを白変した個体と言う。
・・・
同一種の中で明らかに形質が違うものを型という。例えばクロサギには白色型と黒色型があり、・・・
「鳥の名前」大橋弘一・他(東京書籍)

白・い・「クロサギ」さん、は「白化」でも「白変」でもなく、「クロサギ・白色型」、・・・、なのであった。

もう一つ訂正。これは、本日の「論点」に関連するものなのだが、
「『ツマグロヒョウモン』の♂のみが、毒蝶であるカバマダラに擬態して『つま(端)黒』であり、♀は通常の『豹紋』柄である」、と書いたが、逆・で・あった。
つまり、
「『ツマグロヒョウモン』の♀のみが、毒蝶であるカバマダラに擬態して『つま(端)黒』であり、♂は通常の『豹紋』柄である」、が、正しい。

カバマダラは、その植草「トウワタ」に、なんという名であったかメモを取るのを忘れたが、今日は、「検索バカ」ではなく♪図書館で調べたのだ♪、アルカロイドが含まれており、その毒によって、もしくは「毒をもっている」という「威嚇」によって、捕食者から身を守っている。
図鑑によれば、マダラチョウのグループは、幼虫にも成虫にも「まだら模様」があって、人間の目から見ても、いかにも毒・々・し・い・。

捕食者である鳥や小動物は、その毒で、死ぬことはないまでも、逆に、死んだら「毒があるよ!」って、伝わらないじゃん?、食べてまずかった、とか、おなかこわした、とか、え?でも、それ、「経験」から学ぶんだとしたら、すべての捕食者は、少・な・く・と・も・一回、食べなきゃならない。食べてなくても、「毒がある」と、代々、わ・か・る・ようになるには、「経験」から学んだこと、獲・得・形・質・が・、遺・伝・す・る・ことになるんちゃうん?
なぞは、尽きない。

それはさておき、捕食者がカバマダラを「敬遠する」ものであることを前提とした場合、毒を持っているわけではない他の蝶が、これに「擬態」するのは、有効な戦略に見える。
では、なぜメスだけなのか?
実は、ツマグロヒョウモン以外にも、カバマダラに擬態するものがいて、「メスアカムラサキ」と言うのだが、これもその名の通り、もともとはオオムラサキなどと近い種の紫色のチョウなのだがそれはオスだけで、メスのみ、カバマダラと似たデザイン、なのであった。
一匹のメスに対して精子を提供する可能性のある数あるオスのうちの一匹が捕食されるよりも、すでに受精した卵を大量に体内に持ったメス一匹が捕食される方が、「種」の維持にとっては、はるかにダメージは大きい、と、「説明」されるのだろう。

遺伝に関する事柄を説明する言葉は、どうしても、「目的論」的な色合いを含んでしまう。でも、一方で、
オスもメスも『豹紋』柄であった蝶がいて、長〜い長〜い、「確率論的」な回・数・の世代交代のうち、「突然変異」によってメスのみ『つま(端)黒』となったら、それは偶・然・、毒をもつカバマダラに似ていたため、捕食者を逃れることができ、結・果・と・し・て・、その「変異」体は子孫を多く残すことができたんですよ・・・、
と言われてみても、もはやそれは「突然」と言う言葉の「濫用」ではないか?と感じられてしまうのであったが・・・。

これまた、それはさておき、・・・、
カバマダラは、「南の」蝶である。本州にはいない、いや、正確にはどうだったか?少なくとも、そうそこら辺をぼこぼこ飛んでいる、という風には、いない。
類縁種のオオカバマダラは、冬の寒さを避けて、まるで渡り鳥のように、何千キロもの海を渡って、メキシコや南カリフォルニアまで旅をすることで有名だ。
日本の蝶でいちばんでかいんだったっけ?これまた沖縄には割と普通にいるが、本州では見かけられないオオゴマダラもふくめ、マダラチョウのグループは、不思議な習性がいろいろある。オスがフェロモンを発してメスを誘引する、というのもその一つ。

日高敏隆先生にあこがれて、「昆虫学者になりたい!」と念じていた小学生だった、私が、そんな「あこがれの」カバマダラを、近所の草むらでちゃんと見・か・け・ておきながら、平・凡・な・、これは本州にもいる、私も知っていた、ツマグロヒョウモンだろう♪と「誤認」していたことが、驚きなのである。
そう、写真をコンピュータの画面で眺めて、初めて気がついたのだった!

上の写真は、私がツマグロヒョウモンだとば・か・り・思・っ・て・い・た・、カバマダラである。頭・胸・腹にちゃんと、まだら模様があるでしょ?それに、「豹紋」にしては斑点が少ないし。
実は図鑑によるとメスアカムラサキ(メス)にも、まだら模様があるのだが、こちらは山地にしかいなさそうなようなので、カバマダラと断言することにする。

さぁ、今まで掲載した写真、上記の♂♀問題の訂正もかねて、洗いなおしてみよう♪


これはカバマダラ、と思われる。


これが、ツマグロヒョウモン、♀、である。


左:カバマダラ、右:ツマグロヒョウモン(♂)


これらも、ツマグロヒョウモン、♂


左:細かいところは見えないが、♂♀揃っていることだし、ツマグロヒョウモンであろう。右:ツマグロヒョウモン(♂)


これも、翅の裏に豹斑があることから、カバマダラではなく、ツマグロヒョウモン♀、だろう。

けだし、「生き物は、不思議である」そのこと以上に、私たちがそれら生き物を「見ている」、と、考えている「経験」自体が、不思議である。
不思議であるなぁ、と思っている間だけ、「筆舌に尽くしがたい」はずの「痛み」は、遠のいているのだから、これまた、人間の身体は、不思議である。

2009年07月18日

お・め・で・と・う・♪



午前0時が過ぎて、お・め・で・と・う・♪、「禁酒開始から一周年」だよ。
こんなに長く続けられるとは、全然、思っていなかったけど、ほら、今も、深夜スーパーの酒類売り場の前を通り過ぎても、何にも「動揺」しないもの・・・。このまま、永久に、やめてしまえるかも、ね。

お酒、という「薬物」を用いてまで、得・な・け・れ・ば・ならなかったものを、
もはや、得・て・も・しょうがない、と、先にわかってしまったからだな。

それがなければ、「生きていけない」、と思っていたことどもを、一つ一つ、失ってみても、
やはり、ちゃんと「生きている」のは、結構なことじゃないか?

煙草はちょうど九年前にやめた。テレビを見なくなって四年くらいになるかな。
最後に観た映画は、「ブエナビスタ・ソーシャル・クラブ」、ヴィム・ヴェンダース、2000年の秋だったかな?
最後に買ったCDは、モンゴル800、「メッセージ」、・・・五年前。

そのうち、「生きている」こと以・外・の・すべてを「やめる」だろう。
「生きている」こと自体を「やめる」のと、どちらが先になるかは、単に、偶・然・の問題、というべきだろう。

☆★☆

「ツマグロヒョウモン/カバマダラ問題」を調べに図書館に行く途中、久しぶりに首里城そばの龍譚池。
春ごろ撮影した「ダッキー」達、今は、このくらいに成長したのかしら?家族で、お休み中。


新・龍譚池の人々:「新・ダッキー」もいましたよ。


新・龍譚池の人々、片足上げてみました。

☆★☆


イソヒヨドリさん、こんなところでお休みですか?


ゴイサギさん、夜行性なのに、昼間もお仕事?

2009年07月19日

クマノミだぁっ♪・・・で、いつまでも「毎日が夏休み」なわけが、・・・。



少し前にご紹介した、「クマノミ(スズメダイ科)」に続き、今回は「ハマクマノミ(スズメダイ科)」、しかも、近影でござる。
クマノミが、「頭部、体側、尾柄」、合計3本の「白色横帯」を有するのに対し、こちらは、「頭部」に一本のみ、「白色横帯」を有するのが特徴でござった。


ハマクマノミ(スズメダイ科)、胸の白一本線が特徴。夫婦か?

一番上の写真にご紹介した、このハマクマノミ集団の中でも一匹だけ、とびぬけて、で・か・い・、体色も少し黒ずみ気味の、が、「メス」であってこの「家族」を、仕切っているのだ。
とびきり小さいのは子供なのだろう。「母」は、人間が近づくと、果敢にもこちらに「向かって」来る。だから、写真を撮ろうとすると、いつも「正面」になる。
その顔が、
「あんた、何すんのっ?来んといてっ!」
って、不満を述べてるみたいに見えるから、笑える。


ハマクマノミ、「母」は、家族を守るべく向かってくるから、いつも顔は正面。

ミツボシクロスズメダイも、クマノミと同様に、イソギンチャクと共生するらしい。ここでも、同じイソギンチャクに、小さくて見えにくいが、稚魚が何匹かくっついていた。


右側、ミツボシクロスズメダイの稚魚も、同じイソギンチャクと「共生」。

ところで、改めて、なんで「熊之実」なのだ?「隈魚」と、当て字だろうが、書かれている図鑑もあって、この方が、特徴を言い当てている気もする。
悩みは、尽きない・・・。

「蝶よ♪」シリーズ。
王朝時代の城跡がわずかに残る「公園」。あまり人での入っていない林に食草があるのだろう、ツマベニチョウ、アオスジアゲハ、ナガサキアゲハまたはジャコウアゲハ風?など、多くの蝶と、すれ違った。ごく近くにとまってくれたため、撮影できたのが、こちら。


図鑑によれば、「スミナガシ」なのかな?タテハチョウ科の「オオムラサキ」などの仲間だと思う。

「昆虫少年」だった私は、「オオムラサキ」はもちろん、「スミナガシ」だって、図鑑でしか、見たことがなかった。だから、「子供のように」、はしゃいでいる!

で、はしゃいでばかりで一生を終えるわけにもいかず、いつまでも「毎日が夏休み」なわけがなく、今日から、お仕事、なのであった・・・。

☆★☆

クマノミ(くまのみ) 【熊之実】anemonefish[学名:Amphiprion clarkii]
硬骨魚綱スズキ目スズメダイ科の海水魚およびクマノミ属の総称。英名はアネモネフィッシュ。千葉県以南の太平洋、インド洋に広く分布。体は卵形で、ほかのスズメダイ科の魚類とは、鱗(うろこ)が細かく1縦列に50枚以上あること、歯が円錐(えんすい)状で1列に並ぶことなどで区別される。大形のクマノミイソギンチャクと共生し、1尾の大きな優位な雌、2〜3尾の中形の雄、数尾の幼魚からなる雌中心の集団をつくる。雌がいなくなると、雄のうち最優位の個体が性転換をしてボスとなる。夏に2週間に一度くらいの頻度でイソギンチャクの近くの岩を掃除し、200〜300個の楕円(だえん)形の卵を産み付ける。親はつねにひれで新鮮な水を送り、また死卵を取り除く。卵は数日後の夜に孵化(ふか)し、仔魚(しぎょ)は数日以上の浮遊期を通じ分散し、その後クマノミイソギンチャクに定位する。クマノミイソギンチャクと長期間接しなかった個体は、クマノミイソギンチャクに捕食されてしまう。
日本には南西諸島に本種を含め6種のクマノミ類がいるが、いずれも大形イソギンチャクと共生し、特異な泳ぎ方と斑紋(はんもん)で互いに区別される。クマノミ属のうち和名クマノミが分布が広く、もっとも北方にまで生息する。普通カクレクマノミがハタゴイソギンチャクを、ハマクマノミがタマイタダキイソギンチャクを、トウアカクマノミが砂底のイソギンチャクを、ハナビラクマノミがシライトイソギンチャクを、というように共生する相手は種によって異なる。・・・。

2009年07月20日

「生きとし生けるものの同一性は永遠であり、多様性は無限だ。」



丸一週間以上、人間と口を利いていなかった者が、いきなり「授業」などといって他人の前で「発話」しようとしても、特に支障なく、できてしまうとは、「人間」というものはよくできたものである、と感心している。
「お仕事」再開初日は、大過なく過ごせた。よくあることなのだが、いきなりのし・ゃ・べ・り・すぎで興奮し、とげとげしく「躁転」しそうなのがやや危険ではあったが・・・。
テーマは「気体の状態方程式」であって、先日ここで展開した与太話と、似たような話だから楽勝だ。

一立方メートルの水槽、そう「寿司屋の生簀」風、に、牛乳パック1000本分の水が入るのよ!信じられる?
コンビニの壁面に並んでる冷蔵庫、あれ一個取り出したら容積一立方メートルくらいじゃないか、と思うんだけど、そこに牛乳パック1000個は入らないわよね?もちろんそれは、「パック」を並べようと思ったら隙間だらけで容積に大量の「無駄」ができるからだけど、・・・、
それにしても、人間の「想像力」って、2次元(面・積・)、が、限界で、3次元(体・積・)には、「対応していない」んじゃないかしら?
だからこそ、タンカーの容量が「ドラム缶に詰めて積み重ねたら、富士山の何倍・・・」みたいなバ・カ・なたとえ話が、真顔で通用してしまう。
「数の現象学」森毅(ちくま学芸文庫)、にも、そんな風なことが書かれていて、今日、しゃべりながら思い出したんだけど・・・。

☆★☆夏休み・読書日記:「鳥の名前」大橋弘一・他(東京書籍)

・・・伸び:鳥も人間や哺乳類同様「伸び」をする。翼を片方ずつ広げて足をそえる形が一般的だが、両翼を同時に上に伸ばす形などもある。・・・


なるほど、先日紹介した「龍譚池」のアヒル、片足上げているのは「のび」だったのね?

・・・直接頭掻き、間接頭掻き:嘴の届かない頭部の羽づくろい方法として脚で頭を掻く行動が見られるが、これには、脚を翼の外側から直接頭へ持っていく「直接頭掻き」と脚を翼の内側をくぐらせて頭へ持っていく「間接頭掻き」の二通りがある。種によってどちらの方法を取るか決まっているのでその種の特徴ということになり、識別に役立つことがある。・・・

・・・ウォーキング(walking)、ホッピング(hopping):脚を交互に前へ出して歩くように前進するのが「ウォーキング」で、これに対し両足をそろえてぴょんぴょん跳ね歩くのは「ホッピング」という。この行動も種によって決まっている。・・・

(なるほど、イソヒヨドリは「ホッピング」ね?)

・・・囀り(さえずり):おもに繁殖期に鳴く特別な節回しの鳴き方。英語でsong。繁殖期につがい形成やなわばりの宣言のためにさえずる。一般的にはスズメ目の小鳥の雄の行動だが、種によっては雌もさえずる場合がある。・・・
・・・ソングポスト(song post):さえずり場所。個体ごとによく止まってさえずる場所がいくつか決まっていて、その場所のことをソングポストという。見通しのよい場所であることが多く、なわばりの維持のために一日に何度も回ってきてはさえずる。・・・


「野鳥」にも数えられていないシロガシラ、であるが、マングローブの上だと、ほら、ちゃんと絵になってる。ここが、「彼」のソングポスト?

・・・ゴイサギ(五位鷺):天皇から五位の位を授かった鳥という平家物語の話にもとづく名。この話は、醍醐天皇が庭の池にいた鷺を捕るよう家来に命じたところ鳥は逃げずにおとなしくつかまったので、神妙であるとして五位を授けたというものである。・・・


なるほど、「神妙」な顔、といえるかも知れない。

☆★☆

タイトルは、「チャペックの犬と猫のお話」カレル・チャペック(河出文庫)、より。
一番上の写真は、「果・果、オキナワスズメウリ(左)、と、キダチイヌホウズキ(右)」

2009年07月20日

「雄性先熟」・「雌性先熟」、問題



ハマクマノミさんの「ご家族」と親しく対面する機会も得たことだし、そのとき引用した百科事典のぶっきらぼうな記述にもあったように、サンゴ礁域の魚には「性転換」するものがとても多いようで、気・に・な・っ・た・から、
「性転換する魚たち」桑村哲生(岩波新書)
という本を古本屋で見つけて、一気に読んでしまった。

まずはクマノミの生態について、「訂正」から・・・。
一つのイソギンチャクには、数匹のクマノミが棲むが、これは「家族」ではない。少なくとも親・子・の「血縁」はない。
メスは、イソギンチャクの定着している岩に産卵、これにオスが精子をかけ受精する。孵化した仔魚は水面近くに浮上、プランクトンを食しながら浮遊生活を行い、ど・こ・か・の・イソギンチャクに流れ着く。

ということは、つまり、例えばこの写真でも、


いちばんでかい、クロっぽいのがメス、二番目にでかいのがオス、そこまではいいだろう。
ただ、「彼ら」の子・供・に見えた小さめのものたちは、どこかから「流れ着いた」、ど・こ・の・馬・の・骨・と・も・わ・か・ら・な・い・、ただ同種の魚の子、「未成熟個体」、なのであった。
これら「未成熟個体」はやがて、ま・ず・、オスにな・る・。これを「雄性先熟」と申す。
そして、同じイソギンチャクに定住している集団の中で、いちばん体長が大きいもの一匹のみが、メスに性転換する。
もし、なんらかの事情でこの集団のメスがいなくなると、二番目にでかかった個体が、メスにな・り・、成熟してオスになった他の個体と「夫婦」になる。

「彼女」が、私・を・威嚇して、守っていたのはそこらへんをうろついている、彼女とは「無関係」の子・供・では、なく、おそらくどこかに産みつけられていたのであろう、卵・、なのであった。

この本にもやはり瀬底島の琉球大学の実験所が登場するが、ほとんどの、と言ってもいいくらい多くのサンゴ礁域の魚、私が近年名前を覚えたばかりの魚たちも「軒並み」、性転換するのであった。
ホンソメワケベラ(ベラ科)、という小さな細長い魚がいて、他の魚の体表に付着した寄生生物を餌とするので「掃除魚」と呼ばれたりする。掃除される側の魚にとっても、それは健康維持にとって好ましいので、「相利共生」ということになる。よく見かける魚で、これまで紹介した写真にも、どこかに写りこんでるかも知れないのだが、
困ったことに、これに「擬態」するやつがいて、「掃除魚」は、そうでなければ捕食者であったような大型の魚をも「掃除」してそれに利益を与えるのだから、捕食されない、それをね・ら・っ・た・「擬態」なのだろうが、ニセクロスジギンポ(イソギンポ科)。それが、そう、カバマダラ/ツマグロヒョウモン問題どころではなくて、素人にはまったく見分けがつかない。

例えばこの写真にも、おそらく、


上の方にホンソメワケベラ、または、ニセクロスジギンポ、がちらり。

で、ホンソメワケベラは、「雌性先熟」、である。
複数のメスがそれぞれの「なわばり」を持ち、メスより身体の大きいオス一匹が、これらのメスのなわばりを包含するような大きな「なわばり」を持つ、「一夫多妻」システムをとる。
これまた、何らかの事情で、オスがいなくなると、なわばり内のいちばんでかいメスが、オスにな・る・。

この違いは何によるのだろう?「素人」なりに「理解」したところを、まとめてみよう。
例によって私の「理解」は間違っているかも知れない。
あらゆる「読み」は「誤読」である、と開き直ってもいいのだが、・・・、
私が、こう、鳥やら虫やら花やら魚やら、次々に「興味」を持ち、「知り」たがっているのは、それ以・外・の・、おそらく、もっと重・要・な・「ことがら」を「知ら」なくてすむための方便、・・・、
もはや一体ど・こ・に・「回復」したらよいのやらもわからぬ、「リハビリ」のためなのだから、・・・、
「正しい」か否か?は、すでに二の次、なのであった♪

1:「オスとは小配偶子をたくさん作る性、メスとは大配偶子を少しだけ作る性」である。大配偶子、「卵」は、一回限りの「受精」で役目を終える小配偶子、「精子」と異なり、それ自身がその後成長するために多くの栄養を含んでなければならず、つくるのに大きな「コスト」がかかる。

2:水生生物には「性転換」するものがしばしば見られるのに、陸生生物、特に、動物にはほとんどこれがないのは、水中に放卵・放精するという方法が、空気中での生殖器の接合、に比べて、より単純な構造の生殖器ですむから、「性転換」のための「コスト」が、小さいからだろう。

3:メスでは、年齢を重ねる、体が大きくなる、につれて、一般に、たくさんの「卵」が生める。

4:オスでは、年齢、体のサイズ、と、「繁殖成功」の関係は、さまざまであり、それが「配偶システム」を決・定・する。
(1)オスの大きさに対する「繁殖成功」率の増加率が、メスのそれより急激である場合:成長した「後」、オスに「変わる」ことで、「個としての適応力」、すなわち、自分の遺伝子組成を分け持った子孫を残す可能性、を、高めることができる。このとき、「雌性先熟」が生じる。
集団の中で、「自分が一番大きい」とわ・か・っ・た・ときだけ、そのときだけ確実にすべてのメスを占有できるのだから、その最大の個体に、オスへの転換が生じる。これが、ホンソメワケベラ型・一夫多妻制で、起こっている事柄?

(2)オスの大きさに対する「繁殖成功」率の増加率が、メスのそれより緩やか、あるいは全く不変である場合:体の小さなオスにも、繁殖する機会が充分あるから、小さい頃はオスのほうが、「個としての適応力」、において「有利」であるが、成長するにつれメスの「繁殖成功率」が上回り、メスに「なる」方がより「有利」に、なる。このとき、「雄性先熟」が生じる。
ばらばらにイソギンチャクに「漂着」した、は・じ・め・の・2匹のクマノミのうち、より成長して体が大きかったものが、メスにな・り・、もう一方と配偶する。3番目以降は、まだ小さかろうから、とりあえずオスとなって、「順番を待つ」、ということなのか?

(3)オスの大きさに対する「繁殖成功」率の増加率が、メスのそれと変わらないとき、・・・、「性転換」のための大きな「コスト」を払ってまでも、「利得」が得られないから、「現状維持」、となる。

悩ましい♪、しかし、「頭痛」がするほど、お・も・し・ろ・い・。

☆★☆

こちらは、もう、す・ん・だ・話題、だけど、、、うまく撮れたから、


シロノセンダングサと、カバマダラ。

冒頭の写真は、種をつけた、シロノセンダングサ。サヤにとげがついていて、動物の身体などに付着して散布される。
「黒猫一家」の「ぼうや」、隣家の庭で昼寝後、うちに戻ってきたら、きっちり被毛にこの種をつけていた。彼も、シロノセンダングサの「繁殖戦略」に、一役買っていたのであった。

2009年07月22日

ファインディング・「ハマクマノミ」一家



クマノミ類の「暮らしぶり」に、にわかに詳しくなったものだから、ぜひもう一度お会いしたくなって、
同じ場所、同じ「潮目時」とおぼしきころに、潜ってみたのですが、見つかりません。

もちろん海の中は、「タバコ屋の角を右に曲がって、3本目の電柱・・・」、というわけにはいかない、のは当然、
どれを見ても、見たことのあるような形の岩、同じような海藻、・・・、
このあたりの岩は、古い時代にサンゴがつくったものだろうから、それなりに特徴のある形態をしているにもかかわらず、
区別がつかず、「もう一度、同じところに、行こう♪」、として、行けなかったことが今までにも何度もありました。

まぁ、こんな「ド素人」の「シュノーケラー」にやすやすと見つかってしまわない、方が、彼らの生存にとっては望ましいことですから、どこかでご無事なら、それでよし、としましょう。

「目印が、ない」ということ以上に、こんな「リーフ」の内側の入り江、穏やかな海であっても、海底の微地形によって、また、潮目によっても、水の流れが変わるのだろう、
魚や鳥を見て、改めて「驚愕」するのは、
移・動・する「媒質」の中を、移・動・する、
という、私ども、陸上生活二足獣、にはなかなか想像できない経験なのでありました。


各種スズメダイ系、の皆さん

色とりどりの「宝石のような」、て、私、宝石、見たことないですけど・・・、熱帯魚の姿にしばし我を忘れ、顔を上げてみると、いつの間にか予想と異なった方角、かなり沖合いに来てしまっていたりして、あせることもしばしば・・・。


ネッタイスズメダイ(?)

上の写真は、「シマスズメダイ(?)」、のあとをついていく、「ネッタイスズメダイ(?)」。
昨日、「性転換する魚たち」桑村哲生(岩波新書)、と一緒に、「ダイバー、スノーケラーのための、海中生物図鑑」、というのも古本屋で買ったのですが、
特にスズメダイ類は、「宝石」か「アクセサリー」の「通販カタログ」のよう、「あれにも似ている、これも、そっくり」と、一向に名前が決まりませぬ・・・。


カンモンハタ(ハタ科)、方言名、イシミーバイ

☆★☆

「びー」のおなかの調子は、まず順調。海から帰ってくると、もう仕事に出かけなければならない時刻、あわてて準備に忙しいさなか、
「うぇーお」、と呼びつけられる。


「んっ!」と力んで、かちかちの優良「便」、私が外出する前に排便してくれるのが、何よりの「親孝行」なんざんす♪、ほほっ!

☆★☆「観光」シリーズ


ミニ・マンゴー、は、いかが?

2009年07月23日

「紋切り型」辞典



慣れてみると、カバマダラとツマグロヒョウモン、遠くからでも識別ができる。
タテハチョウ系のツマグロヒョウモンは、あわただしく羽ばたき、小刻みに上下しながら「せわしなく」飛ぶ。
マダラチョウ系のカバマダラは、羽を広げて固定したまま、風に乗って「滑空」する。「グライダー」のよ・う・に・。
・・・
「グライダー」には乗ったことがないし、ほとんど見たことすら、ない。
カバマダラが飛ぶ様子を「見て」、「グライダーのようだ」と思った、のでは、ない。「滑空」という言・葉・から、「縁語」的に「連想」して、引き出しただけだ。終始一貫、徹頭徹尾、「言語」の内部の出来事であり、「対象世界」とは関係ない。カバマダラも、グライダーも、見・な・く・て・も・言える。
例えば平安時代の文学に、大量の花や鳥や虫や・・・、が、詠み込まれていたとしても、この時代の文人達が、「自然」をよく「観察」していた、という証拠にはならない。

メジロとスズメの区別のできない人でも「目白押し」、と言うことができるし、蝶の飛び方を観察しようとは決して思わない人でも、いや、むしろ、思わない人だからこそ、「蝶のように舞う」という表現が使える。
だって、ほら、蝶の飛び方は、「種」によってそれぞれこんなにも「多様」であり、したがって、「蝶のように舞う」蝶・、なんて、どこにも存在しないのだから。

「紋切り型」が、時として暴・力・的・な・ほど無作法に感じられるのは、「対象」に対する「無関心」の、あからさまな表明だからだろう。
「絵画のような風景」、「映画のワンシーンのような情景」、などという言葉から、その筆者が「絵画」や「映画」に関心を持っている、と想定することは、困難である。

だから、こうして、今まで見たことのない、新しい蝶を見つけた私は、「胸が高鳴った」、けれども、決して「子供のように」、胸が高鳴ったわけでは、ない。
少なくとも、私は、そ・ん・な・子供じゃなかった。
「無邪気」であることは、恵まれた、平均値プラス1シグマを超える、「モデル・マイノリティー」の、子供にだけ許された「特権」であって、
凡庸な子供は、もっと瑣末なこと、・・・、こんなことしたら「友達」に笑われる、いじめられるんじゃないか?教師に、親に怒られるんじゃないか?・・・、に日々くよくよ、おどおど、はらはら、つまりは、「大人」である今と同じように、「地獄のような」世の中を身もだえしながら、生きている。・・・。えっと、「地獄」も見たことないですけど・・・。

そんな、新種発見♪、のよろこび(↓)、のご報告。
タテハモドキ、と言う名の、タテハチョウの一種、とは、これまた面妖な?


タテハモドキ・表

羽の表は鮮やかなオレンジ色で、大きな目玉状の「紋」がある。「大きな生き物」の振りをして、捕食者を敬遠させるた・め・、と言われる。
裏は、茶色っぽい地味な色だが、やはり大きな目玉。


タテハモドキ・裏

本屋で立ち読みした図鑑によると、「夏型」には裏面に目玉模様があるが、「秋型」にはこれがなく、羽を畳んでとまったところはまるで枯葉のようで、これも「擬態」であるそうだ。
もちろん、これ(↑)は「夏型」であろう。常緑広葉樹を主とする亜熱帯では「枯葉」はあまり見かけないから、「秋型」はどうなるんだろうね?

☆★☆

・・・全く、大船に乗った気がする。触目の草の一茎、花の一輪、それを先生はたちどころに説明される。しかも心からの好意を以ってである。慈父の愛を以ってである。・・・
・・・牧野の生きがいは植物学者になるよりも、植物を知ることから生まれる幸せを、多くの人に伝え広げる方が強かったのかもしれない。・・・
(牧野富太郎の主催する「植物採集会」に参加したことのある著名人たちの術懐)
「牧野植物図鑑の謎」俵浩三(平凡社新書)

目にするものすべての「名」を「知る」こと、いや、目にするものすべてに「名」が「あ・る・」ことを「知る」こと、の喜びを、私も今になってはじめて得ることができた。
もっと早く気が付いていればよかったのだが、それは無理だ。
人は、「世の中には、そんなことよりもっと大事なことがあるだろう?」という「脅迫」をつねに受けていて、実ははじめからありもしない、その「大事なこと」のために右往左往して、大部分の時間を使う。
あまりにもたくさんのものを「失・っ・て・」はじめて、た・だ・「見る」という技術を習得することが、できるのだ。すくなくとも、凡人は、・・・、凡人である私は、・・・、そうだ。

ときに、この本、「牧野植物図鑑の謎」俵浩三(平凡社新書)、はと・て・も・おもしろかった。
偉大な、でも、ひょっとしたらかなり「性格悪かった」かも知れない、植物学者、と、凡庸ではあったが世知に長けた、今は忘れ去られた一人の植物図鑑編纂者、との確執を、100年ほど前に一世を風靡した2冊の植物図鑑から読み解く、まさに、「良質のミステリーを読むような」・・・、
おぉっと、またしても「紋切り型」、ごめんなさい私「ミステリー」、多分、読んだこと、ない・・・。

☆★☆

キダチイヌホウズキの実、オレンジ色に完熟しているが、根本を見てもあまり落ちている気配がない。
そういえば、珍しくメジロも来ていたから、咥えて持って行ったのかも?
こんな果実は、ヒヨドリも好きそうだが、ベランダまではやって来そうにない。


キダチイヌホウズキの実、他はメジロかシロガシラが持っていったらしい。


「焼きおにぎり鳥」さん、おはよう♪、ヒヨドリ


失礼ですが、ご夫婦でらっしゃいますか?シロガシラ

☆★☆

「メランコリー親和型」は、「たしなむ程度」ができないから、「海へ行く」ことも「義務」になる。
「今日はもっとすごい、別の種類のチョウチョウウオを『発見』するかも知れないじゃないか?」、と心配になるのだ。
それを「我慢」して、ベランダの住人と遊んで、「ごろごろ」することにした。


仲がよさそう?実は、棒切れか何かを、わりと浅ましく、奪い合っている、ペペ&はな


お昼寝・熟睡中、黒猫一家「ぼうや」

一番上の写真は、さぁ、カバマダラ、ツマグロヒョウモン(♀)、どちらでしょう?

2009年07月24日

「スズメ」関係・三題



毎度、新種「発見」、「新ネタ披露」、とは、参りません。
全体が白っぽくて、胸鰭が青く光る、頭から背びれにかけてオレンジ色、こんな派手なのが、「クロスズメダイ」の幼魚だなんて?、ぐらいが新しい驚きですな。


クロスズメダイ(スズメダイ科)、の幼魚。

同じことを繰り返したら、「飽きて」きます、当然。でも、飽きれば、飽きたなりに、ものの「見方」は、変わってくるわけで、「見え方」の変化もさることながら、自分自身の「変わり」様を「観察」するのも、一つの楽しみであって、無論、そんな「病的」な自己分析をするようになったのも、「病気」にな・っ・た・からでは、ありますが・・・。


ロクセンスズメダイ(手前)、デバスズメダイ、ネッタイスズメダイ(いずれもスズメダイ科)、他。


ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)

「防水デジカメ」買ってから3週間になりますか?少しは、慣れましたから、水の中の液晶画面、反射光で何がなんやらわからん、ままにシャッター切っとったものですが、やっと、画面の中の「対象」を目で追う、ことも時にはできるようになり、そういう「熟練」も、掛け値なしにう・れ・し・い・。
だから、「自慢」します。


ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)


デバスズメダイ(スズメダイ科)


ルリスズメダイ(スズメダイ科)

一番上の写真は、そう、「お花畑のような・・・」。
「残骸」ではあるものの、枝サンゴのは、サイズの小さい魚たちにとっての、格好の隠れ場所、また、表面に付着したプランクトンなどが、餌にもなっているのでしょう。

☆★☆

では、「雀」つながり、ということで・・・。


オキナワスズメウリ、完熟を過ぎ、やがて干からび始める、実。


スズメ(ハタオリドリ科)。

☆★☆

いやはや、「奇遇」、ですな♪
「ダイバー、スノーケラーのための、海中生物図鑑」、というのを古本屋で買いましてね、クマノミの性転換のところでもお話しましたが、今回も、これと「首っ引き」で、「このスズメダイ、あのスズメダイ、・・・、」と悩んだわけだが、その図鑑の出版社が、なんと、「誠文堂新光社」、あれっ?どこかで聞いたような?
そうでした!
牧野富太郎が亡くなるのが1957年、その前々年に出版されたのだから、おそらく最・後・の・図鑑なのだろう、「原色植物大図鑑」全五巻、・・・、この版元が、「誠文堂新光社」♪、だったのでした。
何の関係もなかったはずの事柄が、まるで、「口裏を合わせ」でもしたかのように、突然「意味ありげに」、つながって見えるようになる。単なる偶然に過ぎないのだが、サイコロを3回振ったら3回とも「6」でした・・・、くらいの、ありふれた偶然なのだが、これが、「濫読」、のよ・ろ・こ・び・。

2009年07月24日

そう、少し、「躁」なんです。「躁転」でんねん、そうでんねん♪



久しぶりに働いて(!)、1時間も2時間も、相手が半分居眠りしているのもお構いなしに、まくしたてるからかな?、軽「躁」気味で、気持ち悪い。
「しゃべる」などという「外向的」な行為には、エネルギーが必要だから、「空(から)・元気」を出すべくアドレナリン等の興奮物質が誤って産生されてしまうんだろうな。でも、身体状態としては、なんら「興奮」すべき「原因」があったわけではないから、そのような「ハイ」な状態になってしまったこと事態が、また、ストレスになる。悪循環、ってやつですな。

「元気」なんか、なくていいから、さめざめと泣いている方が「安全」だから、そうしていたいんだけど、「人生は、た・た・か・い・だ!」ってことになっているから、「勝ち目」もないのに、また、「勝ち」たいとも思ってないし、「勝つ」必要もないのに、・・・、「ゲーム」に参加しているふりをするために、「さぁ、がんばるぞぉ」って腕まくりでもして見せなきゃならない。

本・当・は、「因果関係」なんて、ない。「確率論的過程」としては、「うまくいく人」と「うまくいかない人」が、ともに適当な割合で、かならず、存在する。そこには「理由」は、ない。
「理由」なく「うまく」いった人が、「理由」なく「うまく」いったことに対して感じるであろう「罪悪感」を軽減すべく、「人生はた・た・か・い・であって、うまくいかなかったやつは、た・た・か・い・に負けたんだから、負けたやつが悪・い・んだ!」という「イデオロギー」が「発明」されたのさ♪

特に「参考文献」てわけでは、ない、が、
「問題は、躁なんです」春日武彦(光文社新書)

☆★☆「雑草」シリーズ。

・・・
オオバコは根性葉の中から直接花茎を立て、目立たない小花をぎっしりと穂状につけるが、この花、二度咲きをするという面白い性質がある。というのは、まず白い糸状の雌蕊を突き出した雌花が先に咲き出し、その後、先端に葯をつけた糸状の雄蕊を四本突き出した雄花が咲き出す。夫婦全く別々に登場するわけだ。自家受粉による近親繁殖を避ける巧みな構造となっている。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)


オオバコ(オオバコ科)、自家受粉「忌避」システム。これは雌花なのか、雄花なのか?よくわからないわね。明日、もういっぺん、見てみましょう♪

「ぼうや」・「ママちゃん」が仲良く昼寝をしている(↓)のはコンクリートの上なのだが、ごらんのように、奇妙な草がそのわずかな割れ目から生えてくる。キンチョウ(ベンケイソウ科)。
このグループは「CAM植物」と呼ばれ、特別な光合成をする。夜間、二酸化炭素からリンゴ酸、これは分子内に炭素原子4個持っているから「C4化合物」というのだが、を作るが、日光のエネルギーを受け取れないから糖を合成するまでの反応はできず、これを細胞内の液胞に蓄え、翌日、ふたたびこれを「C3化合物」から二酸化炭素へといったん戻してから、糖を組み立てる。
何でこんな無駄なことをするかというと、水分の少ないところでは日中、二酸化炭素を取り込むために気孔を開けると、ますます水分を失ってしまうから、というわけで、乾燥に対する「適応」だったのでした。サボテンなども「CAM植物」なのだそうです。ちなみにこの、キンチョウ(ベンケイソウ科)は、南アフリカ原産、だって。
参考文献:「光合成とは何か」園池公毅(講談社ブルーバックス)


これまた、仲のよい、「ぼうや」・「ママちゃん」。「ぼうや」の手前はキンチョウ(ベンケイソウ科)、CAM植物。

☆★☆

あんた、主・人・公・なんだから、もっと出なきゃね♪本文の話題とは、特に関係ありませんが、・・・、「びー」は元気で、いつものように、「上機嫌」。


「びー」、左「手」を出す。

「ちょび」、「びー」の「毛づくろい」映像、も、どうぞ。

☆★☆

冒頭の写真は、本日の・沖縄雀瓜「売り」日記、・・・、「干し柿」のような風情。

2009年07月25日

Each Raindrop Is A Kiss From Heaven./雨滴は天よりの接吻也。



一月ぶりくらいになるだろうか?やっと雨が降った。遊水地の池も水位が下がり、干上がってしまったところもあった。ベランダの「菜園」の植物達も、毎日灌水しないと「息切れ」しているようだった。
野良猫たちは、雨宿りのことを心配しなくてもいいし、乾いたコンクリートで昼寝できるから、よかったのだろう。
私も、部屋を開けっ放しにして、室内の猫のおしっこが速やかに揮発し、アンモニア臭が分解されて、快適だった。


雨上がり、シロガシラも・・・?何してるの?「囀り」ではなく、「地鳴き」中。

夕べから今朝にかけ、何度か、短時間の激しい雨が降って、いかにも「南国の」、「スコール」、みたいな、この降り方は、好・き・だな。大洋に浮かんだ島だから、上空の風が強いのだろう、今はもう忘れてしまったが、初めてここに来たときは雲の動きの早さに驚いたものだ。空の半分が真っ黒な雨雲なのに、ほら、もうあちらには青空が広がっている、そんなのが、好きだな。


雨上がり、たっぷり水分を含んだ遊水地の芝生、お散歩。ペペ&はな。

そして雨上がり。蝶は、翼を乾かすかのように一斉に飛び始める。小鳥達、えっと、つまり「燕雀」系、は「トワイライト・ソング」で太陽を言祝ぐ(ことほぐ)。水鳥達、こちらは「鴻鵠 」系、は雨水で増水した川に、餌が流れ着いてはおらんか?と、忙しい。
人も、犬も、はしゃぐ♪。さっそく遊水地方面へ、散歩。


雨上がり、カバマダラの吸蜜(翼「閉」版)、花は、もちろんシロノセンダングサ。


雨上がり、タテハモドキの吸蜜(翼「開」版)、花は、これも、もちろんシロノセンダングサ。

動画、「タテハモドキ、吸蜜・翼開閉映像」、「カバマダラ、吸蜜・翼開閉映像」、も、ございますよ。

池が干上がっていたからかも知れないが、このところしばらくダイサギさん、コサギさんもお見かけしなかった。
今日もいらっしゃいませんでしたが、きっとどこかの木陰で、
「えぇ、雨、どすなぁ♪」
などと、お休みになっているのであろう。


雨上がり、放水路増水、やっぱりゴイサギさん、緊急出動。


雨上がり、放水路増水、バン(クイナ科)、も忙しい。

昨日の話しの続き、CAM光合成植物、よく見ると、小さな花のようなものが・・・。


キンチョウ(ベンケイソウ科)、CAM植物。拡大図。


キンチョウ(ベンケイソウ科)、CAM植物。拡大図。少し色合いが違う。

それから、公園のオオバコの花、すでに、受精後のように見受けられた。

2009年07月26日

ビューティフル・サンデー



さぁ、日曜日だ♪今日は何をして遊ぼうかな?
リュックに、デジカメと、たいして入ってないおさいふ、家で沸かしたほうじ茶詰めたペットボトル、途中で知・り・合・い・の野良猫に出会ったときのためのキャットフードの小袋、帰りにスーパーに寄ったときのための「マイ・バッグ」・・・、などをつめ、意気揚々と出かける。

これほど「屈託」がな・い・のも、すでに「病的」である。まことに、「糸の切れた凧」のように、「人生」のとらえどころが、ない。
「仕事」のこととか、「将来」のこととか、・・・、多分、そんなもろもろを「思い悩んで」発・病・し・た・はずのことどもを、今度は、「考えること」が、で・き・な・い・。
あるいは、病が「悪化」した、と見るべきなのかも知れないが、

さしあたり、鳥の声に耳をそばだて、花の姿に立ち止まり、蝶が止まっていると息を殺し、・・・、
そんな風に「無邪気」に、歩いているのは、「中ぐらい」に、し・あ・わ・せ・であるから、特に不都合は、ない。

三叉路の角のような場所には、戦火を免れたのであろうガジュマルの古木が植わっていることが多い。たらした「気根」がぐじゃぐじゃに絡まって、一人でジャングルになってしまったようなそんな木には、確かに沖縄の昔話の「きじむなー」と呼ばれる、魔物だか妖怪だかが、生息していそうでもある。
そんな木の「中」から、けたたましい鳴き声がした。


「焼きおにぎり鳥」さん、こんなところで?ガジュマルの木の、中。

聞き覚えのない声にも思えたのだが、きっと、ヒヨドリなのだろう。二羽か三羽ばかりいるのだろうか、その「ジャングル」の中を器用に飛び移っている。
そうか♪ガジュマルの「クワ科」、やはり「無花果」をもつのであった!これが、ヒヨドリさんたちの、ねらい、だったのね!


ガジュマルもクワ科で、「無花果」をもつ。ヒヨドリの「目的」は、これだった!

☆★☆

今朝の、カバマダラ、タテハモドキの近接撮影成功に続き、今度は、ツマグロヒョウモン(♂)。
カバマダラほど、「なれなれしく」人間のそばまでやってこないし、タテハチョウ系のせわしない飛び方だから、うまく撮れたので、「子供のように」、嬉しい。


ツマグロヒョウモン(♂)の吸蜜(翼「やや閉」版)、花は、もちろんシロノセンダングサ。

表は、オレンジ色の地に黒い豹柄だが、裏の方が、そう、先日、メスの羽の裏をご紹介したでしょ?雄の方もあんなふうに、金色がかった白が混じって、不思議な色合いなのであった。それを撮りたかったのだが、大きく広げた羽の表面をこちらに見せてくださって、その「サービス」には痛み入るのだが、裏面があまり明瞭に写っていないのが、「不満」と言えば「不満」である。
そう、そんなことで「不満」とかいってる場合じゃないだろ?「人生」には、「世界」には、もっと「大事」なことがたくさんあるだろ?・・・、という「声」が、このごろ、もう、あまり、聞こえてこないのです・・・。


ツマグロヒョウモン(♂)の吸蜜(側面版)、裏の模様を撮りたかったんだが・・・。花は、シロノセンダングサ。

それにしても、カバマダラといい、タテハモドキといい、ツマグロヒョウモンといい、みなさん、ことのほかシロノセンダングサを気に入ってくださっているようで、
私も、この花、「他人のような気がしない」、ので、とても、・・・、嬉しい。

☆★☆

明日からまた一週間、仕事なのだけど、特に、「い〜ぃや〜ぁだ〜ぁ〜」、というほどでも、ない。もちろん、「さぁ、がんばるぞ!」という心意気も、かけらも、ない、が・・・。
先生、私、治ったんでしょうか?

2009年07月26日

「みんなただ〜い〜ま♪、ずいぶん待〜ぁ〜った〜?」



ずっと昔の矢野顕子の歌に、タイトルも忘れたが、こんなフレーズがあった。
一人で暮らしている部屋に帰ってくるのはとても淋しい。犬や猫がたくさんいて、
「わんわわわわ〜んわんわん、にゃにゃにゃにゃにゃ〜んにゃんにゃん」、
と、お迎えしてくれたら、楽しかろう、・・・、みたいな、「要約」してみると、たわいもない歌だが、
好きだったな。
まさか、後年、本当に、こんな大量の犬猫とと・も・に・、「一人暮らし」をすることになる、とは、想定外だったけどな・・・。

仕事から、「落ち込んで」帰ってくる。例えば、まず、
1:軽「躁」状態でぺらぺら調子に乗ってしゃべっても、生徒が退屈している、つまり、「客」が引・い・て・い・る・、のは、わかる。私は、やっぱり「嫌われ者」なんだ!、と思い悩み、次に、
2:「客」に「受けた/受けない」、みたいな、つ・ま・ら・な・い・ことにくよくよ「思い悩ん」でいる「小さな」自分が情けなく、さらに、
3:だが、「そんなことはどうでもいいことだ、他にもっと大・事・な・こ・と・があるだろ?」、というのは、ありふれた問題のすり替えだろう?と、自分を、責め、・・・、
等々、おおよそ、n,n+1,n+2ぐらいの隣接する3レベルぐらいで「葛藤」し、もはや、自分の「落ち込み」の「原因」が何であるかも不分明で、今度は、そんな「落ち込み方」をする自分が、いらだたしく、・・・。
以前「無限マトリョーシカ問題」としてお話しましたが、「Aであるか否Aであるか?」という問を「無化」する「外部」は、必ず存在するのだが、「外に出た」と思った瞬間そこはまた新たな、Aと否Aを包含する、集合Bの内部なのであって、今度は、「Bであるか否Bであるか?」の問に逢着せざるを得ない。「逃げる」ことは、かならず、できる、ただし、ずっと、「逃げ続け」るならば・・・、というわけなのだ。

そんなこんなで(?)、たいして働いてもいないのに、すでに身も心も、へとへとにくたびれて帰ってくると、こんなの(↑「ママ」ちゃん、↓「ぼうや」)が、「お・迎・え・」してくれるのだ。


去年の春に亡くなったジェリーさん、彼がまだ野良だった頃も、私の足音を耳ざとく聞き分けて、路地の入り口まで「お迎え」に、出てきてくれたものだ。
そうしてベランダまで、「一緒」に歩いてきて、そこで彼は、私が餌を出すのをじっと待つ。
いつもどおりの愛想のない無表情なんだが、その無表情が、「愛情」といった言葉が妥当かどうかはわからないが、少なくとも、
「あなたが帰・っ・て・く・る・ことは、私にとって、利・益・である。あなたがい・る・ことは、私にとって、好・ま・し・い・ことである。」
と、伝えてくれているような気がして、「うつ病」というのは極端に「自己評価」が低下することを特徴とする病でもあるからして、
「自分が、必要とされている」という感覚が、ひりひりに干からびたココロを生暖かい液体で潤してくれるみたいで、生き返った気持ちになったものだった。

「犬猫にしか心を開けない人間」(香山リカ)と言われても、まさにその通りなんであって、
本・当・は・、「人間」から、「あなたのことが必要よ!」と言って欲しいのだろうが、言語のもつ「間接性」そのもののゆえに、「人間」との関係は、それ自体が新たな「葛藤」を生み出してしまうだろう。

2009年07月27日

「浸透圧」の、記憶



海に行かない日が二、三日、続くだけで、「不安」になってしまい、「行かなけ・れ・ば・・・」と焦ってしまうのは、
「来年は、もう、生きていないかも知れない!」
とか、
「来年は、もう、海が、・・・、例えば、埋め立てられてしまって、なくなっているかも知れない!」
とか、
もちろん、当然、ありうる想定とは言え、「心・配・」しても、仕方のない「心・配・」をしてしまう、「病」の所為であろうが、
こうして、水の上に「浮かんで」、 底を覗き込んでいるだけで、そう、別に「新種」の魚を「発見」できなくとも、「安心」でき、
仕事の合間の30分とか、あわただしい時間に過ぎないのだけれども、来てよかった、と思えるのは、
・・・
私たちの細胞液は、もはや現在の海水とは浸透圧を異にするけれども、
私たちが、海に由来する生き物であること、か・つ・て・は、この「等張液」の中で物質交換ができた生き物であったこと、
の「証」である、ことに、しよう・・・。

上の写真の中に、何匹の小魚を見つけることが、できますか?
はっきり見えないとしたら、それは撮影が下手、だからなんだが、
海草に似せた「保護色」の完璧さ、ということに、これまた、しておきましょう。

何かの稚魚なんだろうが、図鑑を隅から隅までひっくり返しても、よくわからない。
アミアイゴ(アイゴ科)の稚魚を沖縄の方言で「すく」といい、塩漬けにして瓶詰めにしたものが「すくがらす」という名前で、国際通りの土産物屋でも売っている。「がらす」は「辛し」であって、とても塩辛いからなんだろう、豆腐の上に薬味のようにして載せたりしたものを「観光客」であった頃は食べたこともあった。
この季節に、稚魚が大挙して沖合いからサンゴ礁に向かってやってくる、ということだから、ひょっとしたらこれかも知れない。


わざわざカメラの方を向いてくださって、恐縮です。ダンダラトラギス(トラギス科)。

☆★☆


「イポモエア」日記・こんなに大きくなって・・・。この下、コンクリートなんだけど?どうするの?


沖縄雀瓜「売り」日記・赤く熟した実は、次々に干からびて「干し柿」状態に。でも、まだまだ、新しい実も・・・、ほら。

2009年07月29日

「纏繞(てんじょう)」し、「葛藤(カットウ)」する、私。



市役所の前のガジュマル(クワ科)の巨木(↑)、その「無花果」(↓)を食された後、


街路樹のホウオウボク(マメ科)の枝で休まれる、「焼きおにぎり鳥」・ヒヨドリ(ヒヨドリ科)御一行様(↓)。


それらを撮影するために、スクランブル交差点の信号一回分の長い時間をやり過ごすのを、いとわなくなっている自分に、驚く。

☆★☆

「葛藤(カットウ)」という言葉、「葛(クズ)」と「藤(フジ)」、これは「植物ウンチク」にうってつけ、と思いさっそく「検索バカ」したところ、
・・・葛(かずら)や藤(ふじ)のこと。枝がもつれ絡むところから・・・
程度のことしか書いておらず、失望。

・・・
本来藤はカズラ、すなわちツルのことであるから、今日花を賞するあのフジは藤の一字を用いたのではそのフジすなわちWisteria(Wistaria)のフジにはならない。
・・・
「植物一日一題」牧野富太郎(ちくま学芸文庫)
音読してみたら、何のことやらわからぬ文章になりますな。

・・・
クズは、わが国至る所の山野はもちろん、都会地の空き地にまで野生するマメ科の蔓草で、太い蔓を縦横にはびこらせ、三枚の小葉からなる大きな葉を茂らせるため、他の植物を圧倒してしまい、これがはびこりだすと始末に負えなくなることもある。雑草といえば雑草だが、名前はクズでも屑にならないほど有用な植物でもある。まず、その太く長く延びる蔓は強靭な繊維を持ち、昔は縄代りに用いられていたし、その繊維を利用して葛布が作られていた。地下には太い根があり、良質の澱粉を含むため、葛粉として食用にもされる。葛餅は、この澱粉を加工したもので、黄粉と糖蜜をかけて食べるその味わいは、独特の舌触りと風味があって喜ばれる。この根を刻んで乾かしたものは「葛根」と称し、薬用として用いられる。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

・・・
クズはさらにシナの南部から日本にわたって、同じように根から澱粉をとるのに使用されている。クズという植物は温帯植物だから、シナ、日本の場合は不思議ではないが、それがメラネシアまで伝播したことは、温帯の原産地でクズ利用を含む文化複合が熱帯へ伝播をおこすまえに成立していたことを示すものである。
・・・
「栽培植物と農耕の起源」中尾佐助(岩波新書)

☆★☆

オキナワスズメウリから始まった私の「にわか・植物/園芸・熱」、「つる性」のものに、親しみを感じるのであった。
例えば、このアサガオ系(↓)、切れ込みの深い葉は見慣れないぞ?なんだろう?



2009年07月29日

「パンパース・を履いた・猫」



「パンパース」って、どうゆう意味?、と、気になってさっそく「検索バカ」。
・・・
pamper[動](他):〈人・動物を〉だいじにしすぎる, 甘やかす;〈欲望を〉十分に満足させる
・・・
へぇ〜?いい感じじゃない?当たってるじゃない?
よし、「びー」♪、今日から君を、「パンパース・猫」と呼ぼう♪
「パンパース・猫/びー」がうちに来てから9ヶ月、くらいになるかな?

私がお酒をやめてからの一年間、それから、・・・、い・ろ・い・ろ・あ・っ・て・、「うつ」が「再発」したみたいになっちゃってヘロヘロになってた半年間、
と、ほぼ重なっていて、「活力」とかはどんなに希薄でもいいから、ともかく「地味」ではあっても、比較的「規則正しい」生活を組み立てることが、私自身が「生き延びる」ためにぜひとも必要だったから、
「びー」の「強制排尿」、一日少なくとも2・回・、「強制排便」、一日少なくとも1・回・、という決まりごとを「遵守」することが、無論「びー」にとってもそれを怠れば生命の危険が訪れるわけだが、私にとっても、「生きるよ・す・が・」と、なっていたかも知れない。

「びー」はその9ヶ月間、私に対しても、他の猫に対しても、毛を逆立てたり、うなり声を立てたりして「攻撃的」なそぶりを見せたことはもとより、「機嫌が悪かった」事が一度も、ない。
この「クー」(↓)なんかは、ほぼ同じ境遇でも、もともと臆病な性質だったからなんだろうな、はじめの頃は大変だった。餌を取り替えるために小屋に手を入れただけでも噛み付かれたものだ。


あいかわらず、どきどき、クー

相手は「言葉」の通じない生き物なのだから、例えば無理やり口をこじ開けて薬を飲み込ませようとしたりすれば、「恐怖」のあまり全身で抵抗し、爪で引っかいたり、噛み付いたりしても当然なのだが、人間である私たちには、どうしても、「相手のた・め・を思って、やってあげてるのに・・・」、と、不満が残り、でも同時に、そんな「言葉」の通じない「ケモノ」相手に真顔で「不満」を感じたりしている自分が愚かであることも知っているから、自己嫌悪、・・・、てなわけで、そういうときが、いちばん、疲れる。

その意味では、「びー」の世話は「楽」、だったが、もし本当に「楽」がしたいのなら、動物など飼わなければすむだけの話で、・・・、
「疲れ」たり、困ったり、「葛藤」したり、・・・、そういうことこそが、自分が生きている「手ごたえ」であったからこそ、生きる「理由」も「必要」もない生き物を生・き・さ・せ・て・、そういう「過剰」なことをしている自分が、少しだけ、自慢でもあるのだ。

「犬猫にしか心を開けない人々」と呼ばれても、別にかまわないが、・・・、やはり、ちょっと違うね。
「言葉が、通じない」ことにおいて、人間も、人間以外の動物も、選ぶところがない。動物に「言葉」をかけても、何も返ってこないが、人間にうっかり「言葉」をかけると、か・な・ら・ず・、「不適当な」答えが返ってくるように思えて、だから、人間の方が、「苦手」な、だけだ。

2009年07月30日

「花はどうして、美しいか?」



高校生のころ、N市の市立図書館で、そんなことが書かれている小冊子を読んだのだ。
日本共産党か、新日本文学会か、そんなところの出している「教宣パンフレット」ではなかったかしら?
執筆者が、安部公房。30年以上も前の記憶だから、「時代考証」としておかしいかも知れない。でも、日本の文学者で、戦前戦後を通じで一度も「党員」でなかったほうが珍しいくらいだろうから、ありえない話じゃ、なくなくな〜い?

日本の米軍基地からベトナムに運ばれる武器を積んだ輸送車の列を、デモ隊が「身を挺して」止めた、といったニュースが流れてくる時代だったから、同時代の子供達の、少なくとも何割かの子供達と同様、はやく「大人」になって、「闘わ」なければならない、と考えていたけれども、「共産主義」といったことについては世界史の教科書並の知識しかなかった。

その小冊子は多分、「唯物論とは何か?」風のタイトルだったんだろう。1950年代のものだろうから、よくも、図書館の棚の片隅からそんなものを見つけ出したものだ、これが私がはじめて出会った「唯物論」の教科書になった。

「人間が自然を征服し、自然が『対象世界』として利用可能なものとしてたち現れてきてはじめて、自然は、人間にとって『美しい』ものに、なる。
使用できること、価値があること、が、『美しさ』の条件である。」
みたいなことが、書かれてたんだろうな。びっくりしたね。「美しさ」の「理由」なんて、誰も説明してくれなかったし、そもそも、「理由」が必要だとも、誰も言ってくれなかったものね。・・・。

シロノセンダングサ(キク科)、を眺めながら、そんなことを思い出したのです。


あっという間に、ピンクに変色、オキナワスズメウリ。

2009年07月30日

「気持ち悪いほどの」・数



「人間」と付き合うのは苦手でストレスフルだ、などと「自慢」しておりますが、だったら「自然」に触れ合ったら「癒される」んか?と、そんな生易しいものではございませんで、
「自然」というのは、きっと、怖くて怖くて、気色悪い気持ち悪いものなのだろう。自分の回り、それこそ1立方メートルくらいの空間に、こんなにもたくさんの「生き物」がうごめいているなんて、気が遠くなりそうです。
気持ち悪いものは「絶滅」してしまえばよかろう?という「立場」もありえますが、そうでないなら、「気持ち悪さ」に「なれる」訓練も必要なのであろう。


ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)の稚魚。


セグロチョウチョウウオ(手前)、トゲチョウチョウウオ(奥)、それぞれ稚魚。いずれもチョウチョウウオ科。


ダンダラトラギス(トラギス科)、近接撮影。

さて、先日来のなぞの「魚群」、ですが、やはり、アミアイゴ(アイゴ科)の稚魚、ということにしておきます。何度も図鑑眺めてたら、似ているような「気が」してきましたので。
海草に付着したプランクトンを、ものすごい勢いで、食べておりました。それにしても、この「数」、は、「感動」する以前に、ほぼ「暴力的」だと思いましたね。
「数え切れないほどの・・・」とは、気楽な表現ですな。まじめに数えたら気持ち悪くなるかも知らんから、数える気、ないんですよね?


アミアイゴの稚魚。横になって腹を見せているのは、「闘って」いるのか?


手前二匹はヒメジ科系の稚魚か?

動画、海草藻場の、「魚群」、も、あります。

2009年07月30日

立羽蝶を擬き(もどき)て・・・。



「新種発見」でござる♪ アオタテハモドキ(タテハチョウ科)。「お仕事帰り・ピクニック」、デジカメぶら下げて公園を歩いていて、見つけましたの。帰りに本屋で図鑑立ち読み、「海岸に生息している」みたいなことが書いてあって、でも、その公園全然海岸ではなくて、でも、沖縄って、細長い島だから、ど・こ・で・も・海岸から、それほど遠くもないし、柄はそっくりだからそういうことにしました。
雄だそうである。例によって、表面の鮮やかな青色は雄のみ、雌は茶色っぽい地味さ。またしても、
栄養豊かでしたがって産生に「コスト」のかかるがゆえに少数しか作られない雌性配偶子に対し、
栄養を持たず大量に産生される雄性配偶子の持ち主である雄は、自己の遺伝子を残すために、他の雄とのあいだで厳しい競争関係に立つ、
から、突然変異により、た・ま・た・ま・、「青い」羽をもった個体が出現したところ、云々、・・・、なる、長い長い、数千世代くらいの長いお話・・・。


アオタテハモドキ(タテハチョウ科)・裏面
動画、アオタテハモドキ、吸蜜・翼開閉映像。

それにしても、以前ご紹介した「タテハモドキ」にせよ、「・・・」のようであるが「・・・」ではない、ものを「・・・もどき」と呼ぶのではないのか?
タテハモドキもタテハチョウ科、アオタテハモドキもタテハチョウ科、とは、これ如何に?

もうひとつ。こちら(↓)。
同じ公園で見つけた、このアサガオ風の花。もう夕方だったから、アサガオにせよ、ヒルガオにせよ、しぼんで当然ではあるが、葉が特徴的でござろう?深い切れ込みがあって、まるで5枚の小葉のようだ。


このアサガオ系(↓)、切れ込みの深い葉は見慣れないぞ?なんだろう?

名前は、・・・、そのまんま、「モミジヒルガオ」、であった。
前にグンバイヒルガオのときにご紹介した柳宗民先生の教えに従って、がくを包む包片がないから「イポモエア属」だ!と、見当つけてたんだが、図鑑見たらちゃんとipomoea_cairicaだったから、ちょっと、得意だった♪

明日は、また、ウィーク・エンド♪なにして、あ・そ・ぼ・?

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もど・く【擬く/抵=牾く/牴=牾く】[動カ五(四)]
1 さからって非難する。また、従わないでそむく。
・ 「御頼みとあれば―・きませぬが」〈露伴・寝耳鉄砲〉
・ 「をさをさ人の上―・き給はぬ大臣の」〈源・常夏〉
2 他のものに似せて作る。また、他と同じように振る舞う。まねる。
・ 「この七歳なる子、父を―・きて、高麗人(こまうど)と文を作りかはしければ」〈宇津保・俊蔭〉
もどき【▽擬き/抵=牾/牴=牾】《動詞「もど(擬)く」の連用形から》
1 日本の芸能で、主役にからんだり、前に演じたものをこっけいにまねたりすること。また、その役・演目。里神楽のひょっとこ、能の「翁」に対する「三番叟(さんばそう)」など。
2 もどくこと。
・ 「たをやかならぬさまなり、といふ―はあれど」〈栄花・初花〉
3 名詞の下に付いて、それに匹敵するほどのもの、また、それに似て非なるものであるなどの意を表す。「梅―」「がん―」「芝居―のせりふ」

2009年07月31日

「写真家」・12ヶ月



例えば、降り注ぐ陽光のもと、お皿のミルクをなめている子犬の、感動的なシーン。子犬の生活のこの印象的な光景を永遠にフィルムに収めようと、急いでカメラを取りにいく。けれども、カメラを片手にして戻ってみると、お皿はもちろん空っぽだ。「早く早く、ダーシェンカにおかわりを上げて」と、写真家は命じて、手慣れた手つきで素早く絞りを調節し、ピントを合わせる。一方ダーシェンカは、堂々と二杯目にとりかかっている。「よし、今度はいいぞ」と、写真家はほっとする。と、カメラにフィルムを入れ忘れていたことに、はっと気づく。フィルムをセットし終わる頃には、ダーシェンカは二杯目のミルクを平らげてしまう。・・・
「チャペックの犬と猫のお話」カレル・チャペック(河出文庫)

チャペックの時代に比べれば、楽になったものだ。デジカメをポケットから取り出しながら左手の人差し指でスイッチを入れる。ズームを最大にするには右上のボタンを押し続ければいいのだから、手探りでもできる。さぁ、液晶画面の真ん中の十字マークのところに被写体、そう、樹上のメジロ、をあわせて半シャッター。よしっ♪完璧だ。
と、最後にもう一度画面を確認、と「目を離した」瞬間、まるでずっとその瞬間を待っていたかのように、・・・、メジロは飛び去る・・・。


メジロ(メジロ科)。マメ科の街路樹、名前は調査中、の上にて。

20年以上前になるか?「バブル」時代で、私も人・並・み・に・「分不相応」な給料をもらっていたから、当時発売されたばかりの、全自動一眼レフ、「ミノルタα-7000」を、新宿東口のディスカウント・カメラ屋はなんと言ったっけ?あそこで、ぽ・ー・ん・と、現金10万円払って、買った。
人生のその他のすべての局面と同じように、そのときもまた、「行き詰まっている」と感じていたから、耐久消費財の購入、という「消費」の刺激によって、局面を「打開」しようと、していたのだろうな?
それから十年間くらい、撮り続けた膨大な写真もネガも、今は一枚も残っていない。

あの時「撮りたい」と思ったことどもには、今、私はカメラを向けようとは思わないし、
今になって「撮っておけばよかった!」と思うようなものには、あの頃、何の関心もなかったのだ。
その痛切な「取り返しのつ・か・な・さ・」こそが、「時間の絶対的不遡及性」なのであった。

一番上の写真は、「目白押し」とはいかないが、3羽も写っとるぞ!メジロ(メジロ科)。場所は、どちらかの豪邸の庭木。

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うちの、「イポモエア」日記。


方向転換。これ以上、上向を続けても、もはや、「からむ」べきものがないことに、気・が・つ・い・た・のだろう。昨日から、横に伸び始めた。

2009年08月01日

「配偶行動の誘引」に、尽きるわけではなく・・・。



週末、お仕事が終わって帰り支度。私だって、人並みに、心浮きたち、あるいは「軽躁」症状、傍らの「同僚」や「顧客」に思わず声を掛けたりもする。

「個体の適応度」の最大化を唯一の「目的」とする、遺伝子の単なる「器」に過ぎない私たちであっても、その「コミュニケーション」が、
1:「テリトリー」の宣言(なわばりのせんげん)
2:配偶行動の誘引(はいぐうこうどうのゆういん)
に、尽きるわけではない。

「言語」という「過剰」を引き受けてしまった「人間」ばかりではなく、ほら、たとえば「燕雀」類であっても、
そう、今みたいな「雨上がり」、「トワイライト・ソング」は、
「晴れましたなぁ〜♪」
「そうでんなぁ〜♪晴れましたなぁ〜♪」
というような、それ自体「意味」のない、「社会的一体性の確認行動」、だと言うじゃないか?

だから、「思わず」声をかける。何か、「伝えたいこと」があるわけでもなく、得たい「情報」があるわけでもない。また、
1:「こういう場面では、挨拶代わりに冗談の一つも言うものだ」と言う「規範」を遵守しようとした、わけでもなく、
2:「ここで、何か一言気の利いた冗談でも言っておいた方が、『愛想のない人』と思われなくて、後々『有利』だ」みたいな、「メタレベル」の利害判断をしているわけでもなく、
まことに「他意」なく発話するのだ。

でも、会話の途中で相手の表情がかすかに「くもった」様に感じられ、「目を合わせない」ようにしている、様に思われ、
しまった!何か「不適切」なことを言ってしまった!も・っ・と・気の利いた冗談を言って「修復」しようと試みるが、
「何」が「不適切」であったかを理解していない以上、ますます、「不適切」の上塗りをしてしまうこと必定であって、
「這う這うの体(ほうほうのてい)」で「会話」を強制終了、退散する。

私たちは、み・ん・な・、こんなコミュニケーション「地獄」を、生きている、ん、だよね?

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龍譚池の「新・ダッキー」
前にここ通りかかったのは、今日返しに行く本、図書館で借りた日だからちょうど二週間前。少し大きくなったね?


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ヒメジョオン(キク科・ムカシヨモギ属(エリゲロン属Erigeron))なの?


ヒメジョオンは姫女苑と書く。女苑を「ジョオン」と発音するのは間違いないが、近縁のハルジオンの場合には「ジョオン」ではなく「ジオン」と云い、漢字では春紫苑となっている。紫苑=シオンはわが国原産のシオン族(アステル属Aster)の代表種で、エリゲロン属とは縁の遠い別属の植物だ。よく観賞用として庭植えされる宿根草で秋日を飾る。これと同属の近い種類に、白色花を咲かせる小型のヒメシオンというのがあり、昔の学者がこれに漢名、女苑を当てたが、これが誤りであって、この辺からジョオンとシオンとの混同が起こってしまったように思う。・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

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もう「すんだ」話ですけど・・・。ツマグロヒョウモン(♂)、裏面、撮れましたので・・・。


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ほうほうのてい【這う這うの体】
今にもはい出さんばかりのようす。ひどく恥をかいたり、さんざんな目にあったりして、あわててその場を逃げ出すようすにいう。「―で退散する」

2009年08月02日

航海者の花



ハイビスカスのことを沖縄の言葉では「あかばなー」と呼んで、本・当・の・沖縄の「あかばなー」はもっと小ぶりの花で、今、公園の境界、国道の分離帯など、ど・こ・に・で・も・咲いているハイビスカスは、戦後、占領者の「あめりかー」、・・・、お気づきだろうが、沖縄方言は語尾を延ばす特徴がある、・・・、が持ち込んだか、または「あめりかー」の歓心を買うために、園芸品種が持ち込まれたからなのだよ、と言う話を何度も聞かされたけれど、私にはその違いがわからなかったし、それ以上に、「違い」を見・よ・う・、とも思っていなかったのだろう。

でも、同じく「そこらへんに」植えられているものでも、例えば、一番上の写真とこれ(↓)とでは、葉の形、花びらの先端の切れ込み、雄蕊のつき方、・・・、など、言われてみれば細かい「違い」はいくらもあげられそう。開花してからの時間にもよるだろうけどね・・・。
そう、ものごとは、まず、ちゃんと、細かいところも、「見」なければ・・・。見ないでしゃべるから、「イデオロギー」になるのだよ♪


・・・
ハイビスカスの原種はたくさんあって、それらがハワイで交配されて今のハイビスカスの多様な美しい品種ができたのである。その原種はインド洋上の小島、南太平洋の島などにある。ソコトラ島、ザンジバル島、セーシェル諸島、マスカリン諸島、マダガスカル島、モーリシャス島、ロドリゲス島など、航海者でなければわからないようなインド洋の小島にそれぞれ別種があって、それらが交配親になった。ほかに南太平洋のフィジー島やハワイ群島の野生種も参加している。これらが一ヵ所のハワイに集められた経緯は明らかではないが、大航海時代からの船乗りたちの仕事であろう。ハイビスカスは航海者の花である。・・・
「花と木の文化史」中尾佐助(岩波新書)

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「熱帯庭木」ついでに、


ブーゲンビリア (Bougainvilleae)オシロイバナ科ブーゲンビリア属
これはブラジル原産で、フランス人探検家ブーガンビルにちなむ命名。確か、パプア・ニューギニアにその名を冠した島がある。コロニアリズム(植民地主義)うんちく。
「花」に見えるのは、実は「萼(がく)」なんだ、と聞いたことがある。そう、ちょうど、ホオズキみたいに・・・。
でも、今調べてみたら、
ホオズキ(Physalis alkekengi L. var. franchetii Makino)ナス科ホオズキ属
で、縁もゆかりもない植物なのね。おぉっ!ここにも、牧野先生のお名前が♪

2009年08月02日

カワセミを追いかけて・・・。



遊水地の放水路で、カワセミさんに会いましたわよ♪「バードウォッチング」はじめたばかりの頃だから、2月ぐらいだったかしら?一度だけちらりと見かけて以来、わずか2度目であります。
昼間があまりに暑かったので、ベランダで、同じく暑さにぐったりとした犬猫たちとともに昼寝をして過ごし、夕方ようやっと、「ピクニック」♪
何気なく橋の欄干から覗き込んでみた瞬間、鮮やかな「コバルト・ブルー」、間違いございません。半年間、ぜひ、もう一度お会いしたいと、恋焦がれておりましたから・・・。
お食事中、お邪魔してしまったのかもしれない、すぐに飛び去ってしまわれるので、抜き足差し足、上流に向かって、そう、200メートルばかりも追跡、何とか撮影させていただきました。
直線距離で20メートルくらいまでしか近づけませんで、廉価版のデジカメですから、ズームもこれが限界、一応「証拠」と言うことで・・・。


カワセミ(カワセミ科)、夫婦。左岸上:メス、右岸下:オス。

今回は、「夫婦」でいらっしゃいました。


カワセミ(カワセミ科)・拡大図。左:オス、全体に青っぽい。右:メス、下側が赤っぽい。

あの、頭と肩を一緒に、え?鳥に「肩」あるんかい?、・・・上下して、「頷く」様なしぐさが愛らしいですな。この川の上流には、木がたくさん茂った場所がまだ残っていますから、普段はそのあたりにいらっしゃるのだろう。またお会いしたいものでござる♪

2009年08月02日

システムが、「流動化」しています。



例えば、この写真の、今飛び立たんばかりのこの鳥。無論、「飛び立たんばかり」を撮ろうとしたわけではなく、鳥にはものすごい能力があって、シャッターを切る瞬間がわかるのか?と疑ってしまうほど、しばしば、シャッターを切る瞬・間・に・、飛び立つ・・・。
たぶん、あ・り・ふ・れ・た・イソヒヨドリ、なのだが、その名の「磯」にもかかわらず、こんな海岸の際で見かけたことはなかったので、何か違う、「新種」の、鳥のような気がして、
そういえば(!)、さっきから周りの木立から、聞・き・な・れ・な・い・、声も聞こえてくるような・・・。
聞きなれない鳴き声を聞くと、たとえば「ぴーひゃら、ひゅるるー」みたいな感じで「オノマトペ」化して覚えようとするのだが、5分もするとほかのことを考えているあいだに、忘れてしまう。

今まで平凡な「イソヒヨドリ」だと「認識」していた鳥のうち、一部がそうではない「別種」の鳥であるかも知れない。ということは、私が、これがイソヒヨドリで・あ・る・ことの「決め手」だと思っていた諸特徴の「認識」に実は誤りがあるのかも知れず、そうなってくると、例えば、私がこれまで、「これはイソヒヨドリ、これはシロガシラ、これはヒヨドリ、・・・」等々と「分節化」していた、「名前」のシステム、自体が、「流動化」してしまうのだ♪

白黒サギ問題、「ツマグロヒョウモン/カバマダラ」問題、のときもそうだったわけだが、まことに「名付ける」とは、そう単純な行為ではないようだ。

「触目の草の一茎、花の一輪、をた・ち・ど・こ・ろ・に説明する」という、牧野富太郎は、やはり偉大と言わざるを得ないし、
「名前の一覧表」に過ぎない、安定した体系、のごとく思われがちな「博物学」の、底深さを感じさせられる、ひと時、なのであった・・・。

☆★☆

海辺の植物・シリーズ


ハマゴウ(クマツヅラ科)、左側が種子、「海流散布」だそうだ。上を覆っているのは別種のつる性植物。

「そこらへんに生えている」草・シリーズ


シマニシキソウ(トウダイグサ科)、「シマ」も「もどき、ニセ」と同義のようだ

沖縄雀瓜「売り」日記


一面に繁・殖・した、「野生」の、オキナワスズメウリ

2009年08月04日

息がつまるほど・・・♪



中潮の満潮まであと2時間ほど、3メートルくらい水深がある。干潮に近い時間に、間近に魚を眺めるのもいいが、このくらいの深さだと、透明度があれば、水面を泳ぎながら、海底を「空から」眺めるみたいで、また気持ちがよいものだ。

ツノダシやチョウチョウウオを見つけて、デジカメの準備をしているその矢先、この「大群」に、巻・き・込・ま・れ・た・。
魚の名前?そんなものわからん。身体はまるで透明で、中心だけ一筋、銀色に光っている。あるいは、アミアイゴのもう少し小さい稚魚なのかも知れぬが、正直、ていねいに観察する余裕は、ない。えっと、田舎の国道で暴走族の大群に遭遇した・・・、ちょっと違うけど、こちらは、ほぼ、なすすべもなく、「彼ら」が、通過してくれるのを待っている、という意味では、似ている。

以前、テレビで見たことがある。あれはアマゾンの淡水魚だったけど、ある種の小さな魚は、編隊を作って、その集団全体として前から見るとまるで巨大な魚であるかのように、そう、まさに「擬いて(もどいて)」、捕食者の目をごまかすらしい。
一体何匹いたのだろう?この写真一枚、ほぼピントが合うような範囲に、おそらく150くらいいるのじゃないかしら?こんなのが「入れ替わり、立ち代り」やってきて、その間私は、数秒に一回、文字通り「夢中で」シャッターを切り続け、今手元には大半はボケボケの10枚近い写真がある・・・。

ピラニア、なわけじゃないから、「喰われる」とは思わないけど、仮に私が「藻」のようなもので、彼らが、私の体表に付着したプランクトンのごときものを食するために、一匹につき一回ずつ、「キス」をしてくれたとして、・・・、やはり、失・神・しそうである。

彼らが通り過ぎたあと、気がつくと、ツノダシなどがいた岩から、10メートルくらいも「流されて」いた。(ちなみに写真左中央あたりにツノダシのペア、2匹、魚群にかすんで写っているでしょ?)もちろん、満潮に向かう時間だから、潮の流れは結構あるのだが、まるで、魚群の「魚・圧」とでもいうものに押された、みたいな気がした。


シロチドリ、飛んでます。


海辺の植物シリーズ・ウコンイソマツ(イソマツ科)
黄色い花だから、「鬱金(うこん)」すなわちターメリックの色?、で、「磯松」?なるほど・・・。岩礁の隙間に生えている。

2009年08月04日

「亜熱帯」的、「シ・エ・ス・タ(Siesta)」



上山:温帯ということばに幅があるわけですね。
中尾:北半球の文明国はどこでも、自分の住んでいるところが温帯だと思っている。(笑)
吉良:どちらが正しいという決め手はない。寒帯、温帯、熱帯の三区分は、古代ギリシアまでさかのぼるのですが、その当時の温帯というのは、地中海沿岸が中心じゃなかったかと思います。先ほどの私の区分では「暖温帯」です。どころが文化の中心がアルプスを越えて北に移動したものですから、温帯も北へついていって、「冷温帯」に定着した。
われわれは冷温帯というと、ブナのような落葉広葉樹のある東北地方のようなところを考えるのですが、ヨーロッパの連中はまさにそこに住んでいて、そこを標準の温帯だと思っているから、その北にあって、エゾマツやトドマツの針葉樹林のあるスカンジナビアやシベリアあたりを冷温帯と呼ぶ人もたくさんいるんです。そういう連中が明治になって日本にやってきて、関東や関西の平地の常緑広葉樹林を見てこれは亜熱帯だと考えた。タケがありヤシ(シュロのこと)があり、ハスの花が咲いているじゃないか、これは亜熱帯に違いないというわけです。
・・・
「照葉樹林文化」上山春平編(中公新書)、上山:上山春平、中尾:中尾佐助、吉良:吉良竜夫

この本が書かれたのは1969年、吉良竜夫のの気候区分では「ほぼトカラ列島以南が亜熱帯」ということだが、沖縄はそのときまだ「日本」じゃなかったんだね。

そんな「亜熱帯」の、昼下がり、上の写真は、「黒猫一家」の「シエスタ」、私もそばに横たわり、読書に、いそしむのでした。


こちらは「シエスタ」、というより、冷・房・の・な・い・室内、みんな、ばたばた、倒・れ・て・います。

・・・

シエスタ【(スペイン)siesta】昼寝。スペイン・イタリアなどラテン系の国の風習をいう。

2009年08月04日

引き続き、「名付ける」ことについて・・・。



上の写真は、セイバンナスビ(ナス科)。まるで、うちのキダチイヌホウズキの「相似拡大」みたいでしょ?
ベランダに放置されたプランターに、にょきにょき茂ったつる性植物が、スイカ様の実をつけ始め、それが「オキナワスズメウリ」という「名」をもつことを知ったことから、私の「俄か(にわか)」植物観察、は始まったわけだったが、2ヵ月も経つと、それなりの「熟練」、犬の散歩の途中に見つけたこの植物が、「あ、ナス科だ」くらいは言えるようになったことに我ながら驚き、同時に少し自慢でもある。

思うに、花でも鳥でも虫でも、その「名」が「わかる」瞬間というのは、
花はこうで、葉はどうで、実はこんなだから、・・・、という個々の「証拠」が積み上げられて次第に、・・・、というのではなく、
それら数々の特徴を、同・時・に・「見る」ことができたとき、突然に「降って湧いてくる」ものであるらしい。

「名付ける」とは、「言語の恣意性」そのものと同じように、あるものが「Aである」のは、「Aでない」ものとの「関係」においてそうであるに過ぎないのだから、
実際に「Aでない」ものを唯一つでも「知らない」限り、「A」がどのようなものであるかをいくら説明されても、それが「A」であることを「知る」ことができない。
は・じ・め・て・花を見た私が、その「花」の名を決められなかったのは当然なのである。
見てきたばかりのシロノセンダングサが、図鑑の見開き1ページに掲載されているすべての植物と「似・て・い・る・!」、と、愕然としたたった二ヶ月前を、懐かしく思い出す・・・。

それにしても「セイバンナスビ」とは、・・・、「博物学」と「植民地主義」の出自が、その名に刻み込まれてしまっているのですね。

☆★☆

今日は「トウダイグサ科」について、お勉強しましょう。

コニシキソウは、コンクリートの狭い割れ目などにへばりつくように生えていることが多い。花は長さ一〜二ミリメートルで小さい。しかも、一本のメシベと一本のオシベしかないめずらしい花である。・・・普通の植物にオシベが多いのは、風や虫に託すには、花粉が多いほうが有利だからである。
オシベが一本しかないのに、けっこういろいろな場所、特にコンクリートの割れ目やコンクリート・ブロックの隙間などに、この植物が繁殖できるのには、それなりの理由がある。その理由は、花粉を風や飛びまわる虫やチョウチョウには託さないことである。コニシキソウは、花粉の移動をアリに託すのだ。アリとは、同じような地べたに生きる仲間同士なのである。小さい花であるが、蜜を持ち、アリを集めて、花粉の移動を託している。
「雑草の話」田中修(中公新書)


ハイニシキソウ(トウダイグサ科)。「ハイ」は「這い」の意であろう。
これもアリが花粉の媒介をしているかどうかは知らない。写真を見る限り、コニシキソウとよく似ているが・・・。

春の訪れとともに、株元より何本もの茎を出して伸び始め、その先に丸みを帯びた葉を五枚ほど輪生し、そこらかさらに枝分かれして苞葉という皿に載せられたような無弁の小花を付ける。その様子が昔、灯を受ける台を思わせるところから「灯台草」と名付けられたもので、岬に立つ灯台のことではない。この花は、他の草の花とはかなり変わっていて、数個の雄花と一つの雌花で一輪の花を作るが、これが枝分かれしたそれぞれの頂きに三輪ずつつくために、全体の花房が一輪の花に見えるという風変わりな花だ。これがトウダイグサ属(ユ−フォルビアEuphorbia)の花の特徴と云える。このような花の付き方を杯状花序という。
・・・
トウダイグサ属の植物は海外にも多くの種類があり、この中には園芸化されてなじみ深いものが幾つかある。
クリスマスの花というと、まず大きな苞葉が真っ赤に色付くポインセチアがその代表だろう。このポインセチアもトウダイグサ属の植物で、生れ故郷はメキシコ。日本名を、その苞葉の赤さからショウジョウボク(猩々木)といい、これは草ではなく「ボク」の名がつくように樹木で、熱帯へいくと庭木として植えられていることが多い。
・・・
トウダイグサ属の植物は、世界中に九〇〇種もあると言われる大一属で、アフリカ大陸にはサボテンのような多肉化した種類が多くあり、・・・
「柳宗民の雑草ノオト2」(ちくま学芸文庫)、「トウダイグサ」の項


シマニシキソウ(トウダイグサ科)。「シマ」はここでは「島」ではなく、「ニセ、モドキ」と同様の意味のようだ。

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生番/生蕃(せいばん):台湾原住民(中国語圏では、「先住民」に「今は存在しない」という意味があるため、「原住民」が用いられる)のうち、清朝時代に漢化の度合いの薄かった9種族の総称。俗に「生蛮」とも書く。旧中国では古来、周辺の少数民族に対し、漢民族の習俗の浸透や統治への服属の度合いに応じ「生・熟」の区別をつけていた。日本では、1895年(明治28)の台湾割譲に伴いこの呼称を引き継いで使用し、一般に流布した。しかし蔑称を避けるため、大正の末から徐々に「高砂族(たかさごぞく)」にかえられ、第二次世界大戦後、台湾では「高山族(カオシャンツー)」「山胞(シャンパオ)」とも称されていたが、人々の意識の高まりとともに、「原住民」が通称となりつつある。

しょうじょう【猩猩】
1 オランウータンの別名。
2 想像上の動物。オランウータンに似るが、顔と足は人に似て髪は赤く長く垂れ、よく酒を飲むという。
3 酒の好きな人。大酒飲み。
4 能面の一。童子の顔を赤く彩色した面。「猩猩」などに用いる。
5 歌舞伎の隈取(くまど)りの一。薄い赤地にまゆや目の下などを紅でくまどるもの。

2009年08月05日

「台風一過」



台風8号が来ていたのです。
関西生まれなものだから、台風というのは、南西からやってきて、北東に抜けていくものだと思いこんでいた。ここでは、台風が「真西に向かって進む」こともあるのだ。
フィリピン沖あたりで発生した「熱帯低気圧」は、小笠原方面に張り出した「北太平洋高気圧」の外延を時計回りに回るように進むのだそうだ。
風は気圧の高いところから、低いところに向かって流れるのだから、等圧線に垂直に吹くべきところ、地球は自転しているから、そう簡単にはいかず、反時計回りに回転する座標軸に拘束された観測者から、移動する対象を眺めたとき、対象のもつ速度の方向に垂直で右向きの「慣性力」がはたらくか・の・よ・う・に・観測されるのだが、これを「コリオリ力」と呼び、北半球ではまさにこのようになるから、高気圧から吹き出す風は「右」に曲げられ「時計回りの渦」を描き、低気圧に吹き込む風もまた「右」に曲げられるから今度は「反時計回りの渦」を描くことになる。
だから、低気圧である台風は、「北太平洋高気圧」から吹き出す風に流され、その外延を時計回りにまわる、というわけだ。
その「北太平洋高気圧」の強さいかんによって、回転半径は異なるから、沖縄近辺では、台風は南東から北西へ抜けることも、ほぼ逆に南西から北東に抜けることも、つまり、ありとあらゆるコースを取りうるわけだ。南東から北西に向かうコースだった場合、中国大陸に近づくと、水深も浅くなるからだろう、鋭角的に角度を変えて今度は東ないし北東に向かうから、その「往きと帰り」二度沖縄近辺を通過することさえ、ある。

今回は、沖縄本島の南方300キロメートルくらいの海上を、ほぼ真西に進んだようだ。
新聞を取らず、テレビもないから、そもそも台風が来ていること自体は、職場からの「暴風警報発令時の授業実施について」みたいなメールで知った。後は携帯電話の天気図をみながら、猫たちと固まってじっとして暮らした。いつもいちばん心配なのは、ベランダにやってくる野良猫たちなのだ。彼らには、私たちが進化の過程でとうに失ってしまった、「自然の変化の予兆を感じ取る」能力のようなものがあるらしくて、台風の前にはちゃんと食いだめに来る、とも、思える。来たるべき自然の猛威に対して、少し「緊張」しているように、見えなくもない。ベランダの一角には、そこそこ風雨をしのげる「設備」がなくもないから、そこにいてくれれば安心なのだが、彼らには彼らなりの「考え」があるのだろう、「利用」してくれる、とは限らない。

何時間かおきに携帯の「台風情報」を見ると、
「南大東島の南方海上300キロにあって・・・」、
「那覇市の南方海上380キロにあって・・・」、
「宮古島の南方海上200キロにあって・・・」、
「与那国島の南方海上100キロにあって・・・」、
みたいな感じで進んでいくのだが、沖縄に10年住んでいるのに、こんな風に大量の犬猫をかかえてしまい、「うつ」でもあったから、沖縄本島以外の「離島」に行ったことがないから、全く「土地カン」がないのだ。
そこで、ひ・ま・で・も・あ・る・こ・と・だ・し・、「検索バカ」使って「緯度・経度」データを調べ、本来数学で使う「グラフ・ソフト」に入力して、簡単な地図作ってみたら、やっとわかった。ほら♪



地球の半径は6400キロメートルだそうだ。πをかけると円周が出るでしょ?40212キロ。
それを360で割ったら、「緯度・経度」1度あたりの距離になる。112キロ。
図中の赤線は、「緯度・経度」5度ずつの区切りですから、これが、560キロであります。
できたばかりの台風は、どんどん「成長中」であって、見る見る中心気圧も落ちていくものだが、海洋の真ん中で障害物がないからなんだろう、強風半径がものすごく大きいのに驚かされる。今回も、一時期600キロと言うこともあったから、そう、ちょうど緯線・経線5度分である。図中の巨大な円が、強風域のイメージであります。
そしてまたこのエリアにいるときの台風は進行速度が、きわめて遅いことが多いようなのだ。時速15キロというから、自転車並だろ?

那覇市の南方300キロにあって、強風半径が600キロ、進行速度が時速15キロで、真西に向かっているとしよう。Cos60°=1/2だから、那覇市は、半径600キロの円の3分の一を切り取った中心角120度の扇形の弦をたどることになるから、その長さ600×√3で約1040キロ、これを15で割って、約70時間「強風域」内にあることになる。確かに、そんなものだな・・・。

で、一夜明けて、「台風一過」です。黒猫一家も、無事です。ベランダでくつろいでくださってます。


台風一過、ママちゃん


台風一過、ぼうや


台風一過、べび

2009年08月07日

「さかあがり」考



「さかあがり」のできない子供だった。小学校でも、中学校でも、でも、体育の教師は、「どうしたら、さかあがりができるか?」については何も教えてくれず、ただ、「できるはずだ!」といって笛を鳴らした。
5人くらいの生徒が一斉に走り出して鉄棒につかまる。首尾よく「さかあがり」ができたものだけが、鉄棒を離れて反対側の列に加わって座ることができる。で・き・な・い・者は、「できるまで」、無様に脚を蹴り上げてみるしぐさを、繰り返さなければならない。身体のどこにどんな力を入れればあんなふうに軽々と足が上がるのか、全く見当がつかなかった。
私の所属する「班」は、私が鉄棒をいつまでも占有しているから、他のメンバーの順番が回ってこず、「連帯責任」を負わされて、また「びり」になってしまうから、そんな風な「ため息」が聞こえてくるようで、ますます心そこにあらず、30センチも上がっていない足がむなしく土を蹴る。

体育の時間は「地獄」だった。ずっと大人になってからでも、体育の時間にクラスで一人だけ体操着を忘れた、みたいな夢を見てびっしょり汗をかき、目を覚まして、人生に「体育の時間」がも・は・や・ないことの、「幸せ」をかみしめることが、何度もあった。

スポーツはみんな不得意だった。長距離走とかも、三周くらい遅れてゴールインして、すでに退屈しきっているクラスメート達が、「拍手で迎え」てくれる・・・。
「勝ち負けが問題じゃなくて、参加することに意義がある」みたいなことを言うけれど、嘘でしょ?「スポーツマンシップ」というのは、今日は負けたけれど、今度は勝つぞ、みたいな「平等性」の前提の上に成り立ってんでしょ?三週送れてゴールインするのは、毎回同じメンバーだぜ?「さらし者」、にしてるだけじゃないか?と、憤慨しなくもないが、それ以上に、ただ、さめざめと、情けなかったね。

「努力すればかならず報われる」、「やればできる」といった言葉が、嘘でもいいから「激励」したいという善意に基づいて用いられているのだとしても、しばしば「暴力的」なのは、もちろん、
「努力すれば、かならず、できるようになる」、し・た・が・っ・て・、「できなかった、君は、努力を怠・っ・た・のだ!」という脅迫に転化してしまうからだ。
「努力すること」と「できるようになる」ことの間に「因果関係」がないことは、楽々証・明・できる。
ほらここに、「努力しなくて・も・できた人」と、「努力して・も・できなかった人」が存在するじゃない・・・。

・・・

でも、「さかあがり」には、そんなうらみごとばかりじゃなくて、ちょっと「いい話」のオチがあるんだ。
しばらく東京に住んでいたのは、もう20年以上前か?国鉄分割民営化の直後だもんな。緑とオレンジのツートンカラーの東海道線の電車の車体に「JR」って真新しいペイント、覚えてるから。そう、「ミノルタα―7000」買った頃だ。
「生活を変えよう」と思ってたんだろう、そのときはそう長続きしなかったが、何・度・目・かの禁煙・禁酒して、「ジョギング」まで始めた。
私鉄沿線のF市は、財政が潤沢だったのかしら?市営の公園が充実していて、テニスコートやプールの設備まであったりした。
夜中の3時くらいだったな?「ジョギング」の途中に、そんな公園に立ち寄って、そこに「鉄棒」があったのだ!昼間で周りに人の目があったら絶対そんなことしなかったろう、ふと、「魔が差した」とでもいうべきか、私は鉄棒に手をかけて、「さかあがり」を、やってみたのだ。

気持ちよく世界が回転して、そう、で・き・た・。
30歳になって、もう、だれもほめてくれない、誰も「拍手」してくれないけど、・・・、で・き・た・。
「どうしたら、さかあがりができるのか?」の「コツ」は結局わからずじまいだが、ともかく、わからないままに、何度でも、で・き・た・。

うれしかったね。頭がふらふらになるまで、何度も何度も、まわった・・・。

10代の前半だったとき、私は、「さかあがりが出来なけ・れ・ば・、この世は真っ暗闇だ」とおののいていた。
今、私は、「さかあがりが出来て・も・、やはり、この世は真っ暗闇だ」ということを、知・っ・て・い・る・。
どっちが、いい?

・・・

「ちょっとがんばりすぎたか・ら・、疲れている」、「ストレスたまらないように注意しているか・ら・、調子がいい」といったような「因果律」が、何一つ成立しないような形で、「症状」は唐突にやってくる。ある朝突然起き上がれなくなり、ありとあらゆる「禍々しい」想念が去来して、そうなるともう、ただ身体を横たえて浅い眠りを眠り続けるしか、なすすべがない。
「症状」というのは、本来、そういうものなのだろう。
そんな風に二日ほど寝込んで、横になっているときに、思い出した。「因果関係」なくても、いいじゃない?つながり、ってことで・・・。

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上の写真は、ヤマトシジミ(シジミチョウ科)。
写真を撮ろうとかなり近づいても逃げようとしない。夕刻だったし、すでに、「お休み」の時間なのであろうか?1センチくらいのサイズの小さな蝶です。だから、しがみついている花もとても小さい。花の名前は、まだ、「調査中」。

この蝶の名前はもちろん、沖縄に来る前から知っていた。ど・こ・に・で・も・いる、平凡なシジミチョウ。なぜ、どこにでもいるか、というと、その食草がカタバミ、というこれまたどこにでもある平凡な雑草だからなのだった。
ところが、振り返ってみると、「カタバミ」という名前も、それから、JR、もとい、国鉄の「グリーン車」、今でもあるのか?鉄道のない島を10年出ていないから・・・、のマークのような、その植物の葉の形は知っていたのに、どこにでも生えているはずのその草が、生えているところを、見た、記憶がないのだ。
別のところで、今日、初めて、見たのだ♪写真も撮ったが、いまいちの出来だったので、ご紹介するのはまたの機会にする。道を歩くたび、「これは○○、あれは△△・・・」と、その名を列挙できる草花が増えてきた、たったそれだけのことが、「生きている実感」といってもいいほどの喜びである。こんな「安上がり」の喜・び・が得られたのも、ひとえに「病」のおかげである。

カタバミ・ウンチク。カタバミはOxialisという。何語なのだろう?ギリシア語かも知れない。「酸っぱいもの」の意である。茎葉に蓚酸(シュウ酸)が含まれているのだって。
化学でシュウ酸のことをOxialic_Acidというから何のことだろう?と思っていたのさ。ということは、呼吸の「クエン酸回路」に出てくる「オキサロ酢酸」ってやつも、関係あんのか?と調べたら、当たってた。
シュウ酸は、HO-C=O-C=O-OHと、カルボキシル基が2個連結した構造。
オキサロ酢酸は、酢酸のメチル基の水素と、シュウ酸の一方のカルボキシル基の-OHが「脱水」した形。H2C(COOH)-CO-COOH、炭素数4個、C4化合物であります。

「カルボキシル基」とか「カルボン酸」ってへんな名前でしょ?英語で言えば、carbon、カーボン、「炭素」、そのままなんだけど、「西洋」由来の「学問」の世界では、ラテン語風に読むのが「通」なのだ、ということなんだろうね。現代イタリア語は当然ラテン語風の発音を濃厚にとどめているから、似てます。
さぁ、なにが、でしょう?「スパゲッティ、カルボナーラ」、これは「スパゲッティ・炭焼き風」であります。スパゲッティを炭で焼くんじゃありません。山に入って木を切り、炭を作る人、「炭焼き」を「カルボナーリ」と呼ぶのです。まさに「カルボン」をつくる人だからです。茹でたスパゲッティに生卵と生クリームを和えるだけ、「炭焼き」の人たちが作った、山の中で簡便にとれる食事のレシピだったんでしょうね?

世界史を勉強していると、19世紀前半、イタリア独立運動のところで、「カルボナリ党」というのが出てきます。「炭焼き」を職業とする人たちの職能組合みたいなものなのか、あるいは単にそれは名前だけの革命政党なのかはよくわからないけれど、このネタ、私たちの同時代の多くの人が知っているのは、1950年代の日本共産党をその名になぞらえた、倉橋由美子「スミヤキストQの冒険」という小説があったからでした。陰鬱であった、という印象以外、どんな小説だったかは覚えていませんが・・・。
川上未映子「そら頭はでかいです。世界がすこんと入ります。」に、倉橋由美子のことが出ていて、こんな若い人でも読むのか!と仰天、ま、埴谷雄高まで読むすごい人ですけれども・・・。

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ツマグロヒョウモン(♂)withシロノセンダングサ、裏面。


ツマグロヒョウモン(♂)withシロノセンダングサ、拡大図。

「台風一過」、犬の散歩の途中に撮影。右後ろの羽が傷んでいるわね。「捕食者」にやられたか?台風のせいか?、あるいは、「配偶行動」に伴う「雄間闘争」なのか?
「無・心・に・」花の蜜を吸っている、などと、誤った「擬人法」を用いてしまいそうな光景ですが、生きていくには、やはり、いろいろ大変なことがあるのでございましょう・・・。

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タテハモドキwithシロノセンダングサ。表面。


タテハモドキwithシロノセンダングサ。裏面。

こちらも、「台風一過」、シロノセンダングサの草むらで吸蜜中。こちらは、「餌場」や「なわばり」をめぐる問題でもあるのか、カバマダラを追っ払おうとしていたぞ!

2009年08月09日

「読み終わる」ことだけが、目的の、読書。



去年の夏、今頃、何をして暮らしていたか、覚えていないんだ。
仕事は、ちゃんと休まず、していた。働きすぎるくらいに、働いていた。よ・り・よ・い・仕事をしようと、「努力」さえしていた。
でもそれが、のっぺりと何の取っ掛かりもなくて、思い出せない。
3月ごろの「再発」にいたる、「原因」となる事実はすべて出・揃・っ・て・いたであろうから、思い出したくないのだろう。
記憶が「抑圧」され、「隠蔽」されているのだ、きっと・・・。

何もしないでいると、またぞろ、さまざまの「禍々しい」想念に悩まされるから、何かで時間を埋め尽くす必要があったから、
「読書」をしていたはずだ。
考えてしまってはまずい事柄を、考えないで済ませるようにすることを唯一の目的とする「読書」は、「古典」に限る。

夏目漱石の小説を、ほぼ全部、「虞美人草」から、「明暗」まで、読んだのだ。

・・・

「花はどうして、美しいのか?」にさえも、「理由」が必要であったのだから、小説なら小説の作品が「すぐれている」というのなら、その作家が「偉大だ」というのなら、ちゃんと「理由」を説明して欲しかったのだが、高校生くらいのときに読んだ、「文芸批評」の大家、小林秀雄、とか?、江藤淳、とか?、その後二度と読んでないから、私の「読み方」が間違っているからかも知れないのだが、どう読んでも、「○○という作品は、非の打ち所なくすぐれている、すべてが完璧である、なぜか?その作家△△が偉大だからである。なぜか?作品が完璧だからである・・・」、みたいなトートロジーとしか思えなかったので、・・・。
小林秀雄や江藤淳なら、「保守主義者」、「右翼」とでも呼んで打っちゃっておいてもよかった、現にそうしてきも不都合はなかったのだが、蓮実重彦や柄谷行人まで、こと夏目漱石に関しては、ほぼ手放しでほめるのが不気味で、実はずっと「夏目漱石」が、「苦手」だった。

私には夏目漱石が、わ・か・ら・な・か・っ・た・のだ。「草枕」の読書感想文を書いてしまうような嫌味な小学生だったが、不遜なことをしたものだ。「草枕」は、今読んでも意味わからず、半分も読めずに投げ出すだろう。
「坊ちゃん」とか「我輩は・・・」とかの「ユーモア」と呼ばれるものが、ひりひりして笑えなかったし、「こころ」などの小説にいたっては、何をまたそんな「瑣末」とも思えることに大げさに「悩んで」いるのだろう?と、まことに、わけわからんかった。

ひょっとしたら「若かった」から、わからなかったので、今読んだらまた違う風に見えるのかも?と、あまり期待せずに、あくまで「時間つぶし」を主目的に、読むことにしたわけだ。
古本屋めぐりをして、ぼろぼろでいいからなるべく安い新潮文庫とかを探してくるのも楽しかった。大概ずいぶん昔だが一度は読んだことがあるものだから、「あらすじ」の記憶はある、だから、結構な速度で読み進めた。子供の頃の読書と同じ、夏休み絵日記に「今日は、■■を読みました」と書くた・め・に・、読むのだから、なるべく速く読み終わってしまえば、いいのだ。
そうやって、私は、去年の夏を、「やり過ごした」はずだ。

で、どうだったか?、というと、やっぱり、「面白く」は、なかった。だから、ある意味、安・心・、した。
でも、依然として「瑣末」としか思えない事柄に、真顔で「苦悩」して消耗し、本人が胃病を発症してしまうまでに、ストレスを蓄積してしまう、そんな「ひ弱な」この作家を、少しは、近しく感じることができるように、なったかな?

勢い余って、水村美苗「続・明暗」まで読み、これまた出版当時、柄谷行人がものすごい絶賛の仕方をしていたから長年「敬遠」していたのだが、読んでみると、「あれっ?わりと、普・通・じゃん?」、これまた「安心」して、「本格小説」も読んだ。ま、これが収穫だったかも知れない。

☆★☆

上の写真は、「台風一過」の「びー」。いや、室内なんだから、「台風」はそれほど問題ではなかったが、飼い主がまた二日ほど寝込んだものだから、呼んでるのに来ない、何度かウンチまみれになってしまったり、大変だったのだよ♪ねぇ、「きば」、も、可愛いでしょ?


台風一過・落果、台風で落ちたわけではないが。オキナワスズメウリ。

2009年08月09日

「南・国・の・、楽・園・の・鳥・」、あるいは、「見る」ための熟練について・・・。



「台風一過」の海に行ってまいりました。お天気は快晴とはいきません。
上の写真は、海岸でお食事中の、「クロサギ・白色型」さん、でらっしゃいますが、背後のはるか沖合い、波頭が立っているところが「リーフ」のエッジ、その先はつい先だってまで、強風半径600キロの台風がい・た・、太平洋なのですから、まだまだ波は高いです。
私もこうして、大洋上に「浮かぶ」島の住人だから、「半径600キロ」とこともなげに言いますが、わかってらっしゃいます?中心が、えっと、大・阪・だったとしたら、東京から福岡くらいまですっぽり入るんですわよ!

水温は少し下がったみたい、な、気がする。サンゴに共生している褐虫藻は水温が上昇しすぎると生きていけない。台風は、適度に海水を撹乱して、水温を下げる効果があるから、あまりに台風が来ない年は、サンゴの、褐虫藻が抜けてしまう、「白化」現象が起こりやすい、といわれているしね。

サンゴについておさらいしておきましょう。サンゴは、プランクトンなどを捕食して生きることも・、できる「動物」であるが、その「内部」に、褐虫藻という緑色植物を住まわせ、その光合成産物の大部分の供給を受けることで、より安定した栄養補給ができるように進化した、らしい。褐虫藻「側」としては、サンゴの作る炭酸カルシウムの「礁」が、ちょうど陸上の植物にとっての「土壌」と同じように、安全な住処でありかつ、サンゴの排出する窒素、リン、などの無機栄養分を「肥料」のごとく取り入れることができるので、好都合だったのであろう。つまり、「相利共生」である。

・・・

サンゴが「造礁」するのは、海水中のカルシウムイオンと、呼吸の産物である二酸化炭素が海水に溶け込んでできる炭酸イオンとを体内で結合させ、炭酸カルシウムの個体として排出するメカニズムを持っているからだ。古代のサンゴ礁などが堆積してできた岩が石灰岩で、まさに「生物由来」だからこそ、炭素化合物なのであった。無生物たる造岩鉱物はほとんど「ケイ酸塩」であることは、前にお話しましたな。

炭酸カルシウムの沈殿については、化学でおなじみの問題がある。二酸化炭素は2価の弱酸だから2段階に電離して水素イオンを放出する。水素イオンを1個放出したときにできるのが「炭酸水素イオン」、2個放出してできるのが「炭酸イオン」、このうち後者の「炭酸イオン」のみがカルシウムイオンと結合してできた塩の溶解度が非常に低く、沈殿を形成する。どちらのイオンが卓越しているかは、水溶液が酸か?塩基か?、水中に溶存している二酸化炭素の濃度、それに影響を及ぼすのは水温や水に接している空気の圧力・・・、などによって決まるだろう。
石灰岩地帯にできる「鍾乳洞」では、岩の間に閉じ込められた、空気中の二酸化炭素を含んだ雨水が、石灰岩の「炭酸カルシウム」の固体を可溶性の「炭酸水素カルシウム」に変え、これが洞穴の広がりに染み出すと、今度は圧力が下がったり温度が上がったり、で、溶存する二酸化炭素が減るから、また固体に戻って、・・・、などと説明される。

サンゴの場合も、「動物」たるサンゴも、「植物」たる褐虫藻もともに呼吸をして二酸化炭素を放出するとともに、褐虫藻は光合成の過程で二酸化炭素を消費するわけだから、「造礁」のメカニズムは化学的に見ただけでも複雑怪奇としか言いようがない。まだ十分には解明されていない、とのことだから、私も、安心してお茶を濁す。

・・・

サンゴ礁がどうやってできるかを初めて説明したのは、ダーウィンなんだそうで、「進化論」を提出せずともサンゴの研究だけで充分後世に名を残せたくらいの功績なのだという。
海に突き出した火山がゆっくり沈降する。サンゴは褐虫藻の光合成産物を当てにする限り、太陽光が充分に届く浅い海、水深20メートルくらいのエリアにしか生息できないから、火山の回りの、水際から、その深さまでの帯状地帯に礁を作り始める。沈降とともに、上へ上へと積み重なっていくから、上面が平べったい構造物が出来上がる。
サンゴ礁からできた島には3種類の形態があり、
1:環礁。もとの火山が完全に沈降してしまって、そのはるか上に作られたさんご礁のみが水面に露出している。中央部分にも海水はたまるが、浅すぎるため干上がることもあれば紫外線も強すぎサンゴはあまり発達せず、くぼむ。
2:裾礁(なんと読むのだろう?)。もとの火山は完全に沈降はせず、その周りの部分に、造礁する。海岸から数十ないし数百メートルぐらいまでが、水深の浅い平らな礁で取り囲まれる。
沖縄本島は、これだね。飛行機から眺め降ろしたとき、いわゆる「エメラルド・グリーン」に見える部分が、これだ。そのはしっこが、上の写真で波頭が立っているところだ。
3:堡礁。その名も「バリア・リーフ」であって、上二つの中間形。火山がもっとでかくて、2よりもう少し深く沈降すれば、裾礁は陸地に平行でかつもっと遠くに大規模にできることになるだろう。「生き物が作った最大の構造物」といわれるオーストラリアの「グレート・バリア・リーフ」が、これだ。

以上、参考文献は、前にもお話した、「サンゴ礁の生物たち」本川達雄(中公新書、現在絶版)、でした。

☆★☆

こんなにべらべらしゃべるとは、「躁転」気味なのだろう。明日から、またお仕事だから、緊張のあまり、な・い・ノルアドレナリンやセロトニンを無理やり産生して、「盛り上げて」くれているのだろう。健・気・な・、私の身体であるが、とげとげしい気持ちになってしまわないうちに、早く寝てしまおう。


またしてもアミアイゴの幼魚の群れ。目、目、目、目、・・・。

前回は、まさに陸に向かって泳いで来る「群」のど真ん中に、私が「障害物」として立ちふさがった形になったから、この小魚たちは、すべて正面を向いていたのだが、今回は、満潮に向かって潮の流れもある時間だったし、外海もまだ荒れ気味だから、海岸付近に大挙「避難」しているところと真横から目撃した形になったようだ。潮に流されつつも懸命に「泳いで」定位置を保とうとしている。私もまたカメラを構えたまま、必死で泳いで、いるのだった。
今度は2度目でもあることだし、少しは余裕を持って、魚の「顔」を眺めることができた。写真に撮ると光ってよくわからないのだが、上半分の網目模様のごときものが図鑑の記載とそっくりだから、きっと、アミアイゴの幼魚で間違いない、だろう。厳密な使い分けはよく知らないのだが、このくらいの大きさは、すでに「稚魚」とはいわないみたいだ。

アミアイゴの大群に、「阻まれる」形で、早々に陸に上がってくると、白・い・サギが波打ち際で、波の音が大きいからか、かなり近づいてもなかなか逃げないほど、「一心不乱に」採餌しておった。やがてそばに、もう2羽、今度は白と黒、が飛来して加わった。どういう「関係」かは定かではないが、少なくとも「同種」と思われ、だから、これらは、「クロサギ(黒色型)」、および「クロサギ(白色型)」、だ。


台風一過、海岸で採餌する、こちらは、クロサギ(黒色型)。

サンゴ礁域での採餌行動には、白色であることが「有利」であるらしく、クロサギは分布が南にいくほど「白色型」の割合が多くなるらしい。
参考文献は、「メジロの眼」橘川次郎(海游社)。グレートバリアリーフに浮かぶ「ヘロン島」、その名もサギの島、で撮影された、白色型と黒色型の「つがい」の美しい写真を、その本で見たばかりだったから、そんな南・国・の・、楽・園・の・鳥・の「実物」が、目の前を「うろちょろ」しているなんて、何日かぶりに「しあわせな」気持ちになれたのも、「躁転」の一因かも知れない。

・・・

そう、そういえば、遊水地の「ダイサギ、コサギ」さん、昨日犬の散歩のとき、あれは多分「コサギ」さんの方だろう、頭上を美しく滑空して行かれた・・・。
ポケットのデジカメを取り出すもを忘れて、「見とれて」いたんだが、それが、意外でもあり、うれしくもあった。
「写真を撮ろう!」と思わない限り、そもそも「鳥」を見ることはなかっただろうが、「写真」を撮っているときは、実は「対象」は見ていないのだった。もはや、「撮らなくても、よく」なるくらいまで、充分写真を撮ったからこそ、やっと落ち着いて「見る」ことができるようになる。
単に「見る」ことにも、それなりの「熟練」が必要なのであった♪


海の生き物・シリーズ、海の中にいるヤドカリ。種名はいまだ不明。

2009年08月09日

「用」のない、遺伝子の「容器」



ご紹介が遅れましたが、こちらが、「カタバミ(カタバミ科)」でございます。近所の人家の前、アスファルトとコンクリートの狭間のとても狭いエリアに、こんなスモール・サイズの「雑草」ばかりが、各種茂っているのです。まるで、「雑草」の箱庭。
中央から右に向かって突き抜けていて、こちらのほうが目立ってしまっているのは、シマニシキソウ(トウダイグサ科)、すでにご紹介しましたね。
カタバミは中央の黄色い花と、ハート型を三つ束ねたような特徴的な葉。
この「箱庭」、ここに写っているだけでもあと2種類くらい不明な種がある。カタバミの花の左側のマメ科系の葉、それから右下エリアに繁茂している、そう、スプーンのような、スープを注ぐ「おたま」のような形状の、厚みのある葉・・・。それらの「名」を知る「喜び」が、まだ未来に向かって「留保」されているのでした♪

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イヌビユ(ヒユ科)

犬の散歩をしながら、ときおり、気になった路傍の雑草の写真を撮り、図鑑で名前を調べる。家にあるのは小さな図鑑だから、決められないことの方が多い。いつか図書館に行って調べよう、と「宿題」にしておいて、さいわい名前が決まったら、今度は柳宗民先生や牧野富太郎先生の書物を繰って、何かその雑草についての「ウンチク」はないものか?と探す。
あるいは、逆で、これらの著作を読んで印象的だったものについては、その記憶がどこかに残っているからこそ、路傍の数ある雑草群の中から、ある種の草花だけが、選択的に「目に入った」、ということなのだろう。
いずれにしても、それが「ご隠居」の日々の楽しみだったのだが、さて、この「イヌビユ」、・・・、

・・・
その辺に生えている草の中で、意識して見ないと見過ごしてしまうような諸々の草が、一からげにして雑草とされてしまうが、このイヌビユなどもその一つであろう。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト2」(ちくま学芸文庫)

よほど書くことがなかったのだろう、話はすぐに同属の園芸品種「ハゲイトウ」の方に、無論、園芸のプロの人なんだから当然だが、流れてしまって、
そんな、「ウンチク」のネタに・も・ならない、憐れなイヌビユが、私としてはちょっと愛・お・し・い・気がして・・・。
だから、ご紹介してみました。

☆★☆


シマニシキソウ(トウダイグサ科)

そのシマニシキソウ、トウダイグサ科に特徴的な「杯状花序」を観察してみむとして、拡大してみたが、・・・、更に虫眼鏡でも用いないことには、よくわからないね。

☆★☆

・・・
リチャード・ドーキンス(『利己的な遺伝子』)のように極端な見方をすれば、肉体は遺伝子が宿る寄主にすぎないので、次世代に遺伝子を複製できなくなった寄主には用がない。
・・・
人間では生殖不能になってもまだ子育てが残っているが、孫の時代まで包括適応度を高めることもある。それもなくなった人生には、社会に貢献することで自己保存を正当化してきた文化や、姥捨ての慣習を築いた社会があった。老後の命が尊いのは、生命そのものとその人がもつ個性の存在価値を認める多様性許容の社会があっての話である。弱肉強食の世界では、生殖不能になる前にほとんどの命が絶たれている。
・・・
「メジロの眼」橘川次郎(海游社)

はっ、はっ、はっ♪、耳が痛うございますな・・・。

2009年08月10日

「用無し」の「容器」、「多様性」を論ず。



イポモエア日記。まだお酒を飲んでいて、鍋料理などもときにはしていたのだから、一年半以上前の冬あたりだろう、食べきれなかった「サツマイモ」の一種、食べ残しの芋をプランターの上に放置したのが、始まりだった。
コンクリートの上を這い、我が家の「門」、ちょうつがいで動ける金属製の高さ70センチくらいの軽い扉なのだが、そこに巻きついてさらに天を目指したが、「からむ」相手がおらず、やむなく転向、ふたたび庭の内側に向かって、水平に伸び始め、日々新芽を出してガンガン「栄養成長」している。


イポモエア日記。いったん下向の後ふたたび上向中。

この豊穣な生命力はどこからやってくるのか?と、下を見てみると、無論コンクリートの上に小さなプランターが並んでいるだけだから、「土」は、ない、はずだ。が、・・・。

実は、通い猫である「黒猫一家」がご近所にかける迷惑を少しでも軽減すべく、このベランダにはいくつか、「野良猫用トイレ」がしつらえられている。
室内用の「猫トイレ材」は、鉱物性(ベントナイト)にせよ、食品廃棄物再利用型にせよ、「水分の吸着性」を眼目に開発されているから、屋外で雨に当たったら、それを吸い取って固まってしまうだろう、・・・。「猫トイレ」本体の方も、当然穴は開いてないのだから、激しい雨が降れば水がたまってしうだろう、・・・。と、いささかの誇張もなく、真顔で「葛藤」した後、・・・、一計を案じ、
ホームセンターで、園芸用の少し大きめのプランター、建築資材売り場にある「海砂」、を、買って来た。なかなかの、ヒットであった♪。特に「べび」がまだ子猫だった頃は、もっぱらここでウンコしてくれた、から、少しは、助かった。

で、その「屋外猫トイレ」の一つは、現在、「家庭菜園」の「つる性植物群」が繁茂して上部を覆っているので、使用不能となっているのだが、で、付け加えておくと建築資材用「海砂」は当然多量の塩分を含んでいるから、普通の植物は着床できない。

なんと、そこに、わがイポモエアは根を張り、芋さえ作ろうとしているようなのだ。恐るべき生命力である。さすがグンバイヒルガオの同属である♪
この分では、ナス科、ウリ科、ツルムラサキ科、アカネ科、など、その「多様性」を誇っているわが「菜園」が、イポモエアによって「駆逐」され、「単相化」するのではないか?と危惧されるのである・・・。

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カタバミ(カタバミ科)

カタバミは、直射日光が当たったりはしないが、それほど湿り気も多くないような場所に、「群れ」をなして生えるもののようだ。
植物は、さまざまな化学物質を分泌しつつ、それが他のある種の植物にとっては「忌避物質」となり、別の植物にとってはそうでもない、といった風にして、相互に「相性」の距・離・をとっているらしい。植生が「多様性」を持つ一つの要因なのであろう。単一の種類の植物が密集して生えている場合、結構強力な「忌避物質」の存在を推定できるのかも知れん。カタバミ、の「シュウ酸」と関係あるのかな?また調べてみよう・・・。


カタバミ「群落」の、ヤマトシジミ。

で、そんな「カタバミ群落」、毎日歩いているのに、今まで気がつかなかったが、なるほど、「食草」のまわりを常時たくさんの「ヤマトシジミ」が舞っている。
産卵場所を探している雌なのかも知れん、と、犬達は近くのフェンスにつないで待たせておいて、撮影に集中することにした。
が、こうして「カタバミ群落」のど真ん中に腰をすえてカメラを構えているのは、単に、「彼女」らの真剣な「繁殖活動」の邪魔をしているのに過ぎないではないか?と、
「『栄養成長』しかしない、『用無し』の『容器』」は、反省し、立ち去ることにしたのだ。

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「トウダイグサ科」シリーズ・新種発見♪


キダチコミカンソウ(トウダイグサ科)

まさに路傍のアスファルトの隙間に生えているような、高さ15センチくらいの草ですよ。だから、葉腋から突き出した長い柄の先に、確かに「みかん」様の球体、と言ってもサイズは超ミニチュアです。
50年間生きてきて、「トウダイグサ科」なる名前、一度くらいは聞いたことはあったかも知れないが、今になってこんなに「なじみ」になれるとは思ってもいなかった。
こうして3種、登場したわけですが、それぞれサイズも全然異なるのだが、そう言われてみれば、確かに、似た「構造」を持っているようにも、見えますな。


左:ハイニシキソウ(トウダイグサ科)、右:シマニシキソウ(トウダイグサ科)

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一番上の写真は、ヒメジョオン(キク科)。園芸品種が野生化した、という由来の花だから、「雑草」らしくなく、ち・ゃ・ん・と・、端整な花、でございます。

2009年08月11日

「人間でな・か・っ・た・ころ」の記・憶・



お仕事に向かう途中、ほんの30分くらいしか余裕はないのだけど、そういうところは「マメ」だから、
「今日は仕事しかしてな〜い!」とあとで絶・望・しなくていいように、ちゃんと、海に行った、という事実を作って、
そう、そして、「浸透圧の記憶」にひたって、「人間でな・か・っ・た・ころ」の記・憶・を頼りに、「間・人間的ストレス」に「自滅」しないように、あるいは、「自滅」しても大丈夫なように、「免疫」をつくっておくのだ。

月は半月(はんげつ)だから、大潮ではないと思うが、かなり大幅な引き潮だった。ひまなときは携帯で「潮汐」調べてから、それなりに「予定」立てて出かけるが、仕事の時間は決まっているから、調べてもしょうがないし、わざと見ないで出かける。満潮は満潮なりに、干潮は干潮なりに、「楽しみ方」、はある。
水深が浅くて、光がたくさん入るから、岩陰に隠れた稚魚や幼魚など、サイズの小さい魚がほとんどだけれど、きれいな写真が撮れそう。


手前:ダンダラトラギス(トラギス科)、右:多分、これ、例の群れなしてたアミアイゴ(アイゴ科)のもう少し大きくなったやつ、左:サラサハゼ(ハゼ科)。
光のせいもあるだろうけれど、魚の目、って青いのね。

沖縄で初めて海に潜ったのは、まだ観光客だったときの、「一日体験ダイビング」だった。渡嘉敷島の水深五メートルくらいのところ、ちゃんとスキューバつけて、もちろん「右も左もわからない」状態だから、インストラクターさんに手を引かれて・・・。どんな魚を「見た」のか、一つも覚えていない、そのときは魚の名前なんか何にも知らなかったんだから、当然だ。「名付け」なければ、「覚える」こともできない♪
沖縄に「移住」するなら、ダイビング・ライセンスでも取得して、「悠々自適」の老後になるはずだった。「双極性気分障害・双極II型」なんかになって、猫と泣きながら暮らす「予定」では、もちろんなかった。
「病状」がいちばん重かったときは、丸二年間、海、海岸、の見える場所に、近寄ったことさえなかった・・・。


新種発見♪図鑑では発見できず。ベラの仲間かしら?いや、ベラ科の特徴、などがわかっているわけではないが・・・。

少し回復して、でも今度は、すっかり「人間」との付き合いもなくなってしまったから、いっそ、魚でも眺めて暮らすかい?と思い始めたのがもう五年前くらいだから、「シュノーケリング歴」はそれなりに、長い。
なのに、依然として見てきた魚を図鑑で探して見つからないことが、昆虫や植物や鳥の場合よりもずっと多いのは、どういうわけだろう?
図鑑のどのあたりを探してよいかすら、わからないのだ。トンボと蝶の「違い」は知っている。単子葉植物と双子葉植物も、見分けがつく。見知らぬ鳥を見て、それが、スズメと白鳥のどちらに「近いか?」くらいは、言える。


新種発見♪まだ幼魚なのか?頭の「こぶ」といい、斜めストライプといい、・・・。

魚については、そんなことすら知らない。魚の「どこ」を見れば、「比較」ができるのか?さえ、わからない。
「水」という環境への「適応」の仕方が、陸上生活者の想像をはるかに超えているから、「多様性」のあり方が全然違う、ということなんだろう。
きっと、そういうことなんだ、ということにして、単に私の「もの覚え」が、特に、悪い、のではないことにしておこう。

・・・

一番上の写真は、左から順に、ミスジリュウキュウスズメダイ・横顔、レモンスズメダイ・やや斜め前から、ロクセンスズメダイ・真正面。いずれもスズメダイ科。

2009年08月11日

果実の中・に・咲・く・花・、「矛盾」の上・に・咲・く・花・。



「メジロと、無花果と、イチジクコバチ」

1:イチジク類の「無花果」は、果実の中・に・咲・く・花・の花粉をイチジクコバチという寄生虫が「媒介」して運ぶ。
2:結実したイチジクの実を、メジロが食べて、糞とともに別の場所に排出するから、これがイチジクの種の「散布」になる。鳥が散布することを「期待」する植物の種子は、一度鳥の体内を通り抜けた方が発芽しやすい、という性質を持っている。
3:イチジクの種類によって寄生するイチジクコバチの種類も異なり、またイチジク類にも雌雄別株のものと雌雄同株のものがあるのかも知れないが、雌雄別株のある種類では、
イチジクコバチが、イチジクの雄果に虫えい(虫こぶ)をつくる。ここで先に羽化した雄のイチジクコバチが雌の入っている虫こぶに穴をあけ、交尾する。雄は交尾後、果実から脱出しようとするが、通常それ以前に死ぬ。その際雄が撒き散らしたイチジクの花粉を、雌が集めて今度は、他のイチジクの果に向かって飛ぶ。
4:イチジクの果の先端には小さな穴が開いていて、そこからイチジクコバチの雌が入るが、穴が小さいので、いったん入ると触覚や羽を破損して二度と出られない。
イチジクコバチの雌は、集めた花粉を降ろし、産卵器を花柱に差し込んで産卵する。
ここで問題は、イチジクコバチの雌には、イチジクの雄果と雌果の区・別・が・つ・か・な・い・(!)ということだ。
4a:イチジクコバチの雌が、イチジクの雌果に入った場合。雌花の花柱は長く、イチジクコバチの産卵器は、届・か・な・い・から、イチジクコバチの雌は産卵できないままそこで死を迎える。この際、イチジクコバチの持っていたイチジクの花粉が、イチジクの雌しべに付き、受粉する。
イチジクコバチにと・っ・て・は・、「繁殖失敗」である。
イチジクにと・っ・て・は・、「繁殖成功」である。
4b:イチジクコバチの雌が、イチジクの雄果に入った場合。雄花の花柱は短いので、産卵器が届・き・、イチジクコバチの雌はそこで産卵を完了、で、「3」に戻る・・・。この場合、イチジクは受粉できないのは言うまでもない。
イチジクコバチにと・っ・て・は・、「繁殖成功」である。
イチジクにと・っ・て・は・、「繁殖失敗」である。

・・・

イチジク、イチジクコバチ間、イチジク、メジロ間、いずれも「相利共生」なのだが、イチジク、イチジクコバチ間は、
「お互いが、お互いの、『失敗』を、あ・る・程・度・、期待する」
という、それだけ聞けば、何か「擬人的」なたとえ話をしてみたくなるような・・・、ね・じ・れ・た・「相利」といえよう。
「あ・る・程・度・」が大事なのであって、
イチジクコバチは、自分がつ・ね・に・「成功」すると、イチジクが絶滅して、寄主を失い、自分の存続が危うくなる。
イチジクは、自分がつ・ね・に・「成功」すると、イチジクコバチが絶滅して、花粉の媒介者を失い、自分の存続が危うくなる。
・・・

出典は、「メジロの眼」橘川次郎(海游社)。グレートバリアリーフ沖合いの「ヘロン島」、そこに生息するメジロ数百頭、数十年間にわたって、その大部分に脚輪をつけて屋外調査を続けた、という、鳥類の生態学、遺伝学の国際的権威。
「性転換する魚たち」桑村哲生(岩波新書)に紹介されていたつながりで、読んでみたのだ。

そこに掲載されている美しい写真や、記述のここかしこからうかがわれる「楽・園・の・島・ヘロン島」の植生は、すでに私にとって馴染み深い、サンゴ礁の島固有のものである。
ここでの「イチジク」は、「サンドペーパー・フィグ」と呼ばれている。「研磨紙・イチジク」ということだ。
沖縄には、クワ科イチジク属で無花果を持つものが山ほどあって、区別がつきにくいのだが、ホソバムクイヌビワ、多分これ(↓)、は図鑑に「昔は葉を研磨紙の代用として使った」との記述が見えるから、ひょっとしてこれの近縁種が「サンドペーパー・フィグ」なの?と想像をたくましくしている。

では、さっそく、「無花果・研究」。


「無花果」の研究:ホソバムクイヌビワ(クワ科)、「葉を研磨紙の代用として使った」とあるから、これが「サンドペーパー・フィグ」なのであろうか?


「無花果」の研究:イヌビワ(クワ科)?


「無花果」の研究:オオバイヌビワ(クワ科)?


「無花果」の研究:アコウ(クワ科)、これもクワ科なのだが、無花果は見当たらない?


「無花果」の研究:そして、ガジュマル(クワ科)。

・・・

この本の著者は、生涯の大半、以上を、メジロの研究に用いることに、なるだろう。
人が「一生をかけた」事柄について、「部外者」が何の関心も持たない、という事態はさして珍しいことではない。
私も、ほんの半年前まで、「メジロ」という鳥を、「見た」ことがなかったのだから・・・。


メジロ。私が、は・じ・め・て・、「メジロ」という鳥を「見た」、時の写真だ。

今では、どこでも、メジロの姿が見え、メジロの声が聞こえる。公園を歩いているときでも、窓を開けた部屋で横たわっているときでも、「授業中」でも、車を運転しているときさえも・・・。
どうして、こんな「愛らしい」生き物に、今まで、・・・、おそらく沖縄に来る以前もずっと、メジロは私のすぐそばで鳴いていたのだろうに、目を向けることがなかったのだろう?
そ・れ・は・、そのときの私に、メジロを、見・る・「必・要・」が、なかったからだ。

今、私には、メジロもヒヨドリもシロガシラもダイサギも、・・・、ベニアジサシも、そ・の・存・在・が・、ぜひとも「必要」である。
「知る」、ということは、きっと、そういうことに、違いない。

・・・

ところで、「矛盾の上に咲く花」は、もちろん、モンゴル800、私が、最・後・に・買・っ・た・、「音楽」である。無論、単なる「語呂合わせ」に、過ぎない。

☆★☆「トウダイグサ科」談義

トウダイグサ属の植物は、世界中に九〇〇種もあると言われる大一属で、アフリカ大陸にはサボテンのような多肉化した種類が多くあり、・・・
「柳宗民の雑草ノオト2」(ちくま学芸文庫)
・・・
とは聞いていたが、「クサ」といいながら、草本ばかりではなく、こんな大木ともいえる木本も含まれているのだった。すっかり忘れていたが、前にご紹介したことがある。


アカギ(トウダイグサ科)

6月頃、こんな実をつけていた。確かに、実の「つき方」は、例えば「キダチコミカンソウ」と、似・て・い・る・。数十倍の相似拡大、ではあるが・・・。
植物に限らず分類学では、今や遺伝子の変異のありさまを数量化して、「種」相互の「距離」を測定する、といった手法が用いられ、その結果、従来「観察」に頼っていた分類が修正されることもしばしばなのであろうが、そのような「有無を言わせぬ」技術登場のはるか以前から、このように、
一見したところ似ても似つかず、大きさも全然異なるもの同士の間に、「共通の構・造・」を見抜いていた博物学者たちの「視線」には、まことに驚・嘆・を禁じ得ない。

☆★☆「水鳥」談義

一番上の写真は、「今度は、ベニアジサシ(カモメ科)だぁ♪」
前にエリグロアジサシを見たのと同じ海岸で。近くを通り過ぎた瞬間、真っ赤なくちばしがはっきり見えた、気がしたから、確証はないけど、ベニアジサシ。


左端の水際に、シロチドリ(チドリ科)、2羽。


クロサギ(白色型)、そばに「黒色型」いないけど、多分・・・。左から♀、♂、♂、と思われる。この後、三角関係を匂わせる行動が見られたのだ・・・。

☆★☆「さかな」談義


いつもよく見る魚なのに、こんな、どアップで写真撮れたのに、名前決められない、何の仲間かも、わからない・・・。


こちらを「みつめる」(左)、あちらを向く(右)、底生ハゼ類二態、名前は特定できず。右端はルリスズメダイ。


トゲチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)の幼魚。


ルリスズメダイ(スズメダイ科)。近くで見ると、おもろい顔やね。

☆★☆「カタバミ」談義


カタバミ(カタバミ科)、の、実

2009年08月13日

「夢・の・、蝶」



くどくならない程度に、「貧乏自慢」をしよう。
私の家は、多分、本当に、そこそこ貧乏だったと思うのだが、あの時代は、まだ、誰もが貧しく、少なくとも誰もが自分は「貧しい」と感じていたのだし、日々「ひもじい」思いをしたわけではないから、「自慢」できるほどのものじゃない。
「さかあがり」などができず、他に特にとりえのない、愚図でのろまな子供だったから、このままでは生き延びること自体が危ぶまれ、「せめて、あんた、勉強でもしなさい」ということになって、幸い「めきめき」できるようになったから、今度は、愚図でのろまが勉強だけできたりするとますますボコボコにいじめられそう、という心配が持ち上がり、父親がそこの教師として雇われていて授業料が半額になるから、という理由で、今で言う「偏差値」の高い、六年間一貫私立男子校に行くことになった。
行くんじゃなかった、と思わないではないが、今となっては人生、他にも「悔やまれる」ことだらけだから、別にいいけど、まわりが医者や弁護士等のお坊ちゃんが多数派を占める環境だったから、後に私の「ひねくれた」性格が形成される一因となったことは否めないだろうな。

来ている服、持ち物、自転車とか・・・、そういったものの「値段」が、いちいち他の「クラスメート」のと私のとでは、ワンランク、違っていたんだろうな。悲しいことに、その「違い」すらわからないことが多かったんだけど。
1:「友・達・が持っている○○を私も、欲しい」と、おねだりをして親を困らせることも、一つの「親・孝・行・」でもありうる、ということに決して気づくことのできなかった、可愛くない卑屈な子供と、
2:子供が「買ってくれ」と難題を吹っかけてきたときに、気の利いた冗談でも飛ばして、明るくさりげなく拒絶する、などという技術を持たず、眉根に浮かべた悲しげな表情を子供に読み取らせてしまうような芸のない親だったから、
中途半端な「貧乏」が、「暗い家庭」を加速した。

人を「不幸」にするのは、「事実」ではなく、「事実」について人がつむぎだす「観念」なのだな・・・♪

・・・

昆虫が好きだったから、「生物部」というのに入ったのだが、・・・、夏休みに家族で沖縄、復帰前だからパスポートがいる時代よ?、旅行して、沖縄にしかいない珍しいミドリシジミがあるんだけど、それを採集してきました♪、みたいな、「同級生」がごろごろいるのに恐れをなし、そう、日高敏隆先生の「昆虫図鑑」を眺めるだけで満足することにした。
暗い子供にありがちの「鉄道」オ・タ・ク・でもあったのだが、そう、東海道線大垣から山陽線西明石くらいまでなら、今でも、駅名全部言えるかもよ?、自分専用の一眼レフのカメラを持って撮影に行くか、「自室」に鉄道模型のレール敷き詰めるかしないと、相手にされないようだし、年に一度「ダイヤ改正」のときに「時刻表」買って、すみずみまで「読む」ことで満足することにした。

そうして、印刷された紙の上の知識だけで、では「不幸」だったかというとそうでもない。「読む」だけなら、眺めて想像をめぐらすだけならタダだし、生命力の希薄な子供にはむしろその方が向いていたわけで、
もはや、本物の「ヒサマツミドリシジミ」を見たい、のか?、本物の「東北本線はつかり号」を見たい、のか?、いつの間にかわからなくなっていたのだろう。

☆★☆

だから、アサギマダラは、「夢の蝶」だったのだ。
マダラチョウ科の仲間は一般に南方系の種で、前にご紹介したカバマダラも日本では、沖縄にしかいない。アサギマダラだけは、本州、北海道にも生息するそうだが、もちろん、部屋で昆虫図鑑眺めているだけの子供に、めぐりあう機会はない。


リュウキュウアサギマダラ(マダラチョウ科)

琉球王朝時代の城(ぐすく)跡、密林の中にあって程よく切り開かれて明るくなっているから、吸蜜に来た蝶を見るには最適の場所なのだろう、今日は、「新種」発見、リュウキュウアサギマダラを見つけた。アサギマダラとはちょっと柄が違うんだけどね、すぐにわかった♪
何十年間もの間、あるいは「抑圧」されていたかも知れない!「ときめき」が、今、よみがえった、気がしたね。

隣にいるのは、てっきり「リュウキュウムラサキ(タテハチョウ科)」だと思ったんだが、調べてみると違うようね。ほら、胴体の部分にアサギマダラやカバマダラと同じ「まだら」模様があるし、・・・、ツマムラサキマダラ、ガジュマルが食草で沖縄には近年土着した種、とのこと。


ツマムラサキマダラ(マダラチョウ科)

幼少期の記憶が、ない分、「ときめき」は、少なかったですけどね。羽の表は、確かに紫色で、シャッターきりまくったつもりだったんだけど、写ってなかったのが残念である。
とすると、ずっと前に「スミナガシ(タテハチョウ科)」だと言ってご紹介した蝶(↓)も、これかも知れない。


だとすれば、ほら、羽の表の色、こんな感じだ。

そうそう、言い忘れるところだった。どちらの蝶も、蜜を吸っているのは、おなじみ、「シロノセンダングサ」、ですわよ♪

2009年08月15日

「どこにも辿り着かない、道。/We_Are_on_the_Road_to_Nowhere.」



ほぼ満潮。足の「届かなさ」と、その先のあやふやな目測によれば、水深3メートル。その底に定着した「ハタゴイソギンチャク類」とおぼしきイソギンチャクに、クマノミ一家が♪。
・・・
もとい、すでにお勉強したように、正確に言うと、
いちばん身体の大きい雄であったものが性転換して「母」となり、2番目の大きさでったがゆえに、性転換して雌になるチャンスのなかった雄が「父」となって、繁殖行動を行っている「住居」に、どこか別のイソギンチャクの近辺で孵化し、その後海中を浮遊してプランクトンを捕食しつつ成長した幼魚が、つまり「父母」とは何のつながりもない「どこの馬の骨」とも知れぬ未成熟個体が、たどりついて同居している、・・・、それを「一家」と呼ぶのなら「一家」が、
・・・
と、言うべきであった。

で、そのクマノミ「一家」、海面から覗き込んでいたのでは、このカメラのズームでは心もとない。「3メートル防水」だからカメラも限界なのだが、もちろん私も潜るのが得意なわけではないから同じく限界なのであるが、・・・、やってみることにした。
勢いをつけて沈み、海底に沿って懸命に泳ぎながら、イソギンチャクに最も接近した瞬間、シャッターを切る♪、・・・、その頃にはすでに息も絶え絶えだから、あわてて浮上。
ピントを合わせる余裕などあるものか、画面にイソギンチャクが入っているだけでも僥倖といえる。
海面に浮かんで、撮った写真を再生してみる。イソギンチャクがちゃんと写っているのに、・・・、クマノミの姿が、な・い・。

そうか♪、こいつら、その名も「カクレクマノミ」やったんやぁ!ほんとに、「隠れ」るとは、意表を突かれたぞっ♪


カクレクマノミ(スズメダイ科)、しまった、もう少しカメラを下に向けていれば・・・。

しばらく海面で息を整えては、10回ばかり「出撃」を試みた。「健康」でもない御老体が、無茶をすると、「死んで」しまう恐れもあるのだが、多少むきになっていて、また、少しでも「熟練」すると「液晶画面」ちゃんとを見る余裕もできて、それはそれで嬉しく、「ハイ」にもなってくる。
そんな、成果です。生きて帰れて、よかったです。

☆★☆

本日の、その他の「新種発見」。


チョウハン(チョウチョウウオ科)。

変わった柄のチョウチョウウオだね。図鑑には、「丁半」とそっけなく漢字表記が添えてあるものの、それについては何の説明もない。「丁半」って、あの、さいころの目が奇数か偶数か?の話でしょ?どういう由来なんだろうね?


左:ミツボシキュウセン(ベラ科)、右:ヤマブキスズメダイ(スズメダイ科)?


クロスズメダイ(スズメダイ科)、とおぼしき魚、顔、正面。

ちなみに、これがもしクロスズメダイとすると、以前ご紹介したように、その幼魚は、これ(↓)。


クロスズメダイ(スズメダイ科)、の幼魚。

☆★☆

今日も、波打ち際には、クロサギ(黒色型)さん、シロチドリさんの群れ、さらに、イソヒヨドリさんまで現れて、にぎわっておりました。


クロサギ・黒色型(サギ科)

イソヒヨドリは、その名も「磯」であるから当然なのだが、うちのベランダで猫の餌あさったりもしているから、てっきり「都会」の鳥なのだと思っていたら、潮目にもよるのだろうが、海岸近くの木立から、しばしば飛来するようだ。


これは、多分、イソヒヨドリが飛んだのだ♪

☆★☆

沖縄本島の国道は、58号があって、それから、329号、330号、331号、と、続き番号、あとは、たしか400番台か500番台かが一本あったかも知れない。58号は、復帰前は「軍用1号」と呼ばれていたそうで、だから、1972年時点で日本の58番目の国道だったんだろう。私の故郷の「第二阪神国道」が43号線で、できたのが60年代中葉以降だろうから、計算合うんじゃない?
329号、330号、331号は、1975年「海洋博」に伴う建設ラッシュのときのものでは?と推測しているのだが、どうだろうか?
で、那覇から本島南部をぐるり一周して帰ってくるには、331と329の二本で足りる。ただ、ずっと前を向いて走っていれば、「円環」を描いて、戻ってこれるのだ。
島と言うものが、海で隔たれた「閉鎖系」なのだから、ある意味あたりまえなのだが、まことに、「どこにも辿り着かない、道・Road_to_Nowhere」である。

このタイトルは、「トーキング・ヘッズ」の1980年代の曲の名前。「さかあがり考」でお話した東京に住んでいた頃、ジョギングをしながらウォークマンで聴いていたりした筈なのだが、でもメロディーがうまく思い出せなくて・・・。

カクレクマノミやリュウキュウアサギマダラを見た、それだけのことで、不思議なくらい「しあわせ」な気持ちになれてしまうのだが、
だからと言って、私の「問題」が、何か解・決・したわけでは、ないし、私の「病気」が、治・癒・したわけでもない。
これもまた「出口」がないのであるが、「しあわせ」もまた、「症状」の一局面であるならば、ゆっくり循・環・して、また少し色合いを変えて戻って来てくれることも、あろう・・・。

2009年08月15日

「年寄りの『潜水』」、もしくは、「世界に必然性がな・い・こと、の認識」



予想通り、クマノミ「一家」を追っての潜水の「荒行」がたたって、寝込んでしまいました。
まことに、慣れないことはするものではありません。「年寄りの『冷や水』」ならぬ、「年寄りの『潜水』」であります。

身体を動かしたんだから、「健康」な気持ちのよい筋肉疲労、かと思いきや、とんでもない、最悪の「うつ」症状と寸分たがわず、
餌を催促する猫たちの絶叫をよそに、ベッドの上に「鉛のかたまり」であるかのような身体を横たえ、ありとあらゆる「不幸」な想念に身を任せ、
身もだえしておりました。

リュウキュウアサギマダラや、クマノミや、シロチドリの群れや、・・・、それらがもたらしてくれたはずの「つかの間の」、プチ・幸福感も、すっかり、消し飛んでしまったかのようだ。

夕方、やっとの思いで、掃除、猫トイレ掃除などを片付け終わり、いよいよ、「暴動」寸前の猫たちに餌を出そうというその矢先、「びー」ちゃんがウンチ、おもらししてしまった。
空腹を紛らせようと、与えた「煮干」、あわてて飲み込むように食べたからかしら?敷き直したばかりの新聞紙、また、換えなければならない。

食事の準備を中断して、久しぶりの、「お尻のまわり・シャンプー」。
写真は、ウンチおもらしして、落ち込み気味の?、でもないか?、「びー」です。

「悪いことは立て続けに起こる」などと嘆いて、「不幸感」を加速させないためには、正しい「確率論」の理解が重要です。
さいころを3回立て続けに投げて、「1」の目が3回続けて出ることは、ザラに、あります。少しも珍しいことではありません。
それは「216分の1の確・率・でしか起こらない、大変珍しいことなんだよ♪」としたり顔で教えてくれる人がいたら、鼻で笑いましょう。
もちろん、得意になっている相手に気づかれないように・・・。そういう時、私は、本気で「鼻で笑って」しまう正直者だから、「人間関係」にもろもろの「障害」を生じ、もって、発病したりするのですから・・・。
「確率が216分の1」というのは、「さいころを3回投げる」という試行を、もちろん「無理」なのですが、もし、「無限回」繰り返し、その結果を逐一記録していったとして、3回とも全部「1」だった回数が、それまでの全試行回数のうちの216分の1に、「近づいていく」ことを言っているだけのことであって、
だから、「常温常圧で牛乳パック22本の空間に含まれている気体分子」、みたいに、10の23乗と言う、やはり私たちが「一生かかっても」数え切れない、途方もない数の世界を問題にするときには、それは、役に立つだろう。
「数億人の人間の挙動」、はこれに比べたらまだまだ高が知れている、かなりおおざっぱな話になるけれども、少しは役に立つかも知れない。
でも、「あなたが今から、まさに、投げようとしているさいころ」、という、た・だ・一・度・き・り・の試行について、それは、
徹頭徹尾、終始一貫、完全無欠、・・・、なにも教えてくれません。

「悪いことばかり起こったから、これからは、きっと、いいことあるよね!」
「こんなしあわせでいいのかしら、あとから『罰』が当たるんじゃないかって心配・・・」
これも、「局所的」に、そのような「保存則」が成立する「理由」は、何一つ、ありません。
「さいころの目の期・待・値・が、3.5だ」というのは、これまた無限回の試行の結果を逐一ご丁寧に記録して、一回ごとに平均値を計算しなおしていくと、紆余曲折を経つつも、だ・ん・だ・ん・、3.5に近づいていくで、あろう、ということだから、
「有限」でしかない私たちの「生」は、まさにその「紆・余・曲・折・」の真っ只中で、終・わ・ら・ざるを得ず、したがって、非常に「偏った」結果に終わったとしても、何の不思議も、ないのであります。

私は皆さんに「得意になって」お説教しているのでは、ありません。ほかならぬ私が、「言うことをきかない身体」、「おもらしをしてしまった『びー』」、「明日から始まる仕事の憂鬱」、・・・、その他もろもろの、実は偶・然・に過ぎない「1」の目に、身も心も、翻弄されているから、なのです。
何度でも言ってみましょう。「世・界・」に「因・果・」は、ない♪

マルクス主義は、「自・由・とは、必・然・性・の認・識・のことである」と、教えてくれました。今でも、悪くない、言葉だと、思っています。
でも、同時に、「自・由・とは、世界に必然性がな・い・こと、の認識である」と、言ってみたい気もしている。

ベッドに昏倒していると、上流の森の方から、下流の方水路の方に向かって、
「くぇ〜ぇっ♪、くぇ〜ぇっ♪」という鳴き声が、聞こえてくる。私は、身を起こしてその姿を探さなくても、それが、「夜勤」の「出勤途上」のゴイサギさん、であることを、知・っ・て・いる。
すこし、プチ・幸福感、が、戻ってきました。
ほら、夕立が降り始めた・・・。

2009年08月16日

ふたたび、「雪・加・」を探して・・・。



寝苦しい「熱・帯・夜・」を、クーラーのない部屋で汗まみれになりながらも、それでも昏々と眠り続けたら、
地面も、そこに生える植物も、久しぶりに息を吹き返した「雨上がり」、
私も、少し「回復」していました。

陽が高くならないうちに犬の散歩、・・・、などとテキパキと身体を動かせるのも嬉しく・・・。
いつもの遊水地、ペペちゃんがウンコしている間に、ふと、金網のフェンスに止まっている小鳥、
「セッカ」ではないの?
実にすばしこい鳥で、「ちっ、ちっ、ちっ・・・」という声はいつも聞こえていたし、上空を縦横に飛び回るのも何度も目撃しているのに、間近に見ることができなかった。
犬が邪魔しないように、腰にリードを結びつけ、カメラのズームを最大にして、少しだけ近づいた。

結局、草むらしか写っていないような写真が2枚残っただけなのだが、無理やり拡大して、ほら、これ(↓)。


これが、「セッカ(ウグイス科)」だぁっ♪1。


これが、「セッカ(ウグイス科)」だぁっ♪2。

「雪加」という漢字が当てられているのだが、どういう由来なのであろう?
図鑑には、いかにも、すばしこい、やや「ずるがしこい」風の顔が描かれていて、フェンスに止まっていたときに、ちらりとこちらを向いた、その顔が、そっくりだったから、間違いない♪、と思われます。

☆★☆

その他の「散歩」の収穫。
そう、また、オオゴマダラが二匹ほど、飛んでいたのだが、写真は取れなかった。

「俄・か・」トウダイグサ科・マニア。公園の芝生に埋もれるようにして咲いているこの花(↓)、まさに、「トウダイグサ科」的「房状花序」ではないの?種名は、まだ不明です。


「トウダイグサ科」的花序、ではないか?

・・・昔から、夏花壇を彩るポピュラーな草花にマツバボタンがあるが、これがスベリヒユと同属の植物だといってもなかなか信じてもらえない。・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)
スベリヒユも、この(↓)ヒメマツバボタンも「平凡」な、「雑草」で、同属のマツバボタンは「園芸用」として売買される品種だ。前に、ヒメマツバボタンだと思ってご紹介したのは、他人様の庭先に植えられていたものだったし、花や葉の形状はそっくりなのだけど、もう少し大振りだったから、マツバボタンの方かも知れない。


ヒメマツバボタン(スベリヒユ科)。

そして、オジギソウ(マメ科)。


オジキソウ(マメ科)、手前の葉には、「お辞儀」していただきました。

上の写真は、本日の、沖縄雀瓜「売り」日記。まもなく夏も終わり、この愛らしい植物ともしばしのお別れと思うと、淋しい。でも、まだ、新しい実もつける。

2009年08月17日

「狂気」を、「受け入れた」、記・憶・



私は、およそあらゆる「狂人」がそうであるように、
「狂って」いるのは「世界」の方であって、「自分」だけが「正常」なのである、
と思っている、いた、のですが、
例えば月曜日だから、仕事に出かけなければならない。
乗り物に乗れば、・・・、傍若無人に走り回る子供、マナーに反した座席の占有、携帯電話越しの大声、イヤフォンからもれ聞こえる単調なリズム楽器の音、・・・、
そういった、普通の頑固な老人が普通に怒るような事柄に、私もまた普通に怒ってしまい、
街の中心のスクランブル交差点の信号を待つ間、対岸の巨大な液晶スクリーンの中で、男女が踊りながら歌う、
「夢を持ち続けぇ、・・・、」、とか、「きっと、明日からは、新しいぃ、・・・、」、とか、
イデオロギー的である、とか言う以前に、文法的にもすでに破綻したような歌詞を繰り返し聴かされて、辟易し、
目的地に到着したときには、すでに、それだけで「息も絶え絶え」なのであった。

「自分」もまた「世界」の一部であるはずなのに、多くの人が「世界って、なんてバカなのかしら?」と鼻・で・笑・い・ながら生きているわけで、
私もそうしてやってきた。やっていける、・・・、はずだったのに、
こうも、毎日、時々刻々、「世界」に向かって牙を剥き、また「世界」から牙を剥かれているようにひりひりと感じさせられ、・・・、していたのでは、
文字通り、生きていけなかった、から、

「病理学的」に、そのような「説明」が可能なのかどうかは知らないが、
私は、「発症」に至るどこかの時点で、
「いや、ごめんなさい。狂っているのは、やっぱり、『世界』の方ではなくて、『自分』の方でした。」
と「狂気」を「自分」の方に、「受け入れた」、記・憶・が・あ・る・、という気がしている。

☆★☆

新種発見。そんな「息・も・絶・え・絶・え・」後、街中のガジュマルやホウオウボクの繁茂した公園。
「ぴぃいぃいぃ〜ぃ♪、ぴぃいぃいぃ〜ぃ♪」
みたいな、ヒヨドリの絶叫に混じって、
「ホーッ、ホーッ」だったかな?「ポーッ、ポーッ」だったかしら?
聞きなれない鳥の鳴き声、というのは、まことに「法・法華経」のように「牽強付会」な、「聞き・做し(ききなし)」でもしない限り、「言葉」にできないから、覚えられないのね、・・・、
足音をしのばせ、息を殺して、デジカメの電源を入れ、・・・、ゆっくり近づいた。

見ると、ハト並の大きさの鳥がぽ・つ・ね・ん・と、比較的目立つ枝に止まっている。くちばしも尾も長くない。腹が白くて、横縞がある、それがハトらしくない。


新種発見。その拡大図。

鳴き声を録音しようと動画のスイッチを入れた矢先、ゆったりと飛び去ったその後姿はまるでハトで、今のは、何かの錯覚だったのかしら?といぶかってしまうほどであった。

「息・も・絶・え・絶・え・」、だったことも忘れて、意気揚々と帰宅し、図鑑を隅から隅まで繰るのだが、いまだ、種名はもちろん、何科に属する鳥かも決めかねている。

2009年08月17日

「希望」という名の、公園。



週明けの最初の仕事は、たいがい無理矢理な「躁」状態で臨むから、空転して落ち込むのであって、二日目ともなると、少しは調子付き、そうそう日々「息も絶え絶え」ているわけでもない。
折からの激しい夕立、しばし涼感漂い、亜熱帯ではあっても「夏の終わり」が感じさせられる、そんな夕方、
雨宿りに立ち寄った公園。ここは、もう、ずっと以前にも、来たことがある。

「発病」したのが2002年の夏だから、そう、その翌年の4月だな。
その後改正されたと聞いたから、今は名前も違っているのかも知れないのだが、「精神保健福祉法」32条に基づく「医療費公費負担」制度の適用を受けていた。
受診にかかる費用はすべて無料、薬剤費は、本来は、一部自己負担が生じるのだが、沖縄県では「復帰特例」の適用があって、これも無料だった。
つまり、私は丸々二年間、料金は一銭も支払わず、そう、「国民の皆様の血税」を浪費して、当時最先端だったはずのSSRIの薬物療法を受けていたわけだった。
年に一度、市役所に出向き、「継続申請」という手続きをしなければならない。こればかりは税込み3150円だったかを支払って、通っている病院の先生に書いていただいた「診断書」を提出するだけのいたって簡単なものだ。

那覇市役所には、「健康」を銘打つ部署が二つあって、その一方が最近「ちゃー・がんじゅう課」という名前に改名したとかで、沖縄方言で「ちゃー」は「とても」的な副詞、「がんじゅう」は「頑丈」で「元気」くらいの意味、私はどちらに出向いたらいいのかわからず、窓口の係員に尋ねるも要領を得ず、つまり、私は、窓口を「たらいまわし」にされたのだが、
「おらぁ、責任者出さんかぃ!」とキレて暴れるでもなく、
「いえ、介護ではなく、私本人が、精神病の患者でして、『32条・公費負担』の申請に参りました・・・」と、落ち着いて何度でも同じ説明をすることができた。

その頃は、今よりひどく、一日の大半を、本当に昏睡に近い眠りで過ごしていたのであろうから、こうして街中に出かけてくることも珍しく、緊張もしていたのだろう。無事に手続きを終えて帰る途中、市役所の階段を降りながら、涙がとめどなくはらはらと流れてきたのは、そんな緊張のせいもあったのだろうが、決して窓口をたらいまわしにされた「口惜しさ」なんかではなく、
「沖縄」という土地と、私との「出会い」は、決して幸運なものとは言えなかったが、こうして何年かたって、はじめて、
「自分が、こ・の・土・地・に、その一部として、帰・属・し・て・い・る・」、
という感覚を持つことができた気がして、う・れ・し・か・っ・た・からなのだ・・・。

その後、この公園にやってきて、まだ日差しも少しは柔らかい季節だから、ベンチに寝転んで、野良猫と遊んだりした。きっと、そんな感情が珍しかったんだろう、「しあわせ」だったと、ちゃんと記憶している。

この公園は、「希望が丘公園」というのだ。
What_kind_of_Hope,_do_you_mean?

☆★☆トウダイグサ科・研究・など。


トウダイグサ科・研究。新種発見か?「シマニシキソウ」と葉は似ているような、花の付き方がやや異なるような。

先日の「トウダイグサ科的な新種発見♪」は誤報でした。


トウダイグサ科・研究。何が「トウダイグサ科・的花序」だ?タカサブロウ(キク科)であった。そう言えば「舌状花」。

タカサブロウ(キク科)のようです。よくみれば、とてもキク科らしい、舌状花ですわね。
調べたのですが、「この植物に関する、ウンチクは、・・・(検索中)・・・見当たりません。・・・。」
タカサブロウなる名の由来も、不明。熱帯、亜熱帯系の植物であるらしい。水田や湿地に多く生息し、種子が水によって散布される、とのことだが、あの、生えていたのは公園の芝生の中、なのですが・・・?


やはり美しい、ヒメマツバボタン(スベリヒユ科)。

姫・「松葉・牡丹」。「ヒメ」は「小さめの」、葉が「松葉」のようで、花が「牡丹」のようだから?そのまんま。これでは「ウンチク」に、なりません。

☆★☆「ねこログ」、なんだし・・・、たまには・・・。


食後、まもなく入眠予定の、「ちょび」さん。

☆★☆鳥、も。


真ん中に、見えますか?イソヒヨドリ、の、シルエット。

一番上の写真は、キジバト。「希望」という名の、公園、にて。

2009年08月18日

「容器」、「もののあはれ」を論ず。



八月も中旬となれば、激しい夕立の後など涼風が立ち、そこかしこに「秋」の気配が漂う、今日この頃、・・・、
子供の頃、そんな風に「夏」が終わってしまうのが「悲し」かったのは、
朝から友達と遊ぶことができなくなる、とか、まだ夏休みの宿題ができてないから、とか、そんな「健全な」子供も言いそうな理由ではなくて、私の場合、もっぱら、九月になってふたたび、
跳び箱が飛べない、と笑われ、給食を食べるのが遅い、となじられ、・・・、
る、「学校」という名の「地獄」が始まるからなのであったが、・・・、

別に八月であろうが九月であろうが、ある意味、ずっと「地獄」である今の私にも、「夏」の終わりの「悲しさ」が感じられるのは、
来年も、海に潜ってクマノミを見ることができるであろうか?
来年も、オキナワスズメウリが実ってくれるであろうか?
・・・
来年の「夏」も、まだ、生きているだろうか?
という本源的な「不安」の故なのであり、ということは、これって、つまり、「もののあはれ」ってやつなのだ♪

冬を種子で過ごす一年草は、秋には次世代に遺伝子を譲り渡して、「容器」は死滅する。
冬を生き延びるものでも、夏の間に活発に栄養分を根に蓄積しておいて、葉や茎のような身体部分は「枯死」させて消耗を回避する。
・・・
「蛹」のような殻で外気を遮断する部屋で、「仮死」状態ですごす昆虫があり、
餌の枯渇する北の土地を離れて、遠く「渡り」をする鳥がいる。
・・・
「冬」は、それほどまでに厳しく、「死」に最も近い季節だったのですね。

☆★☆新種発見

以前も、犬の散歩中、ばさばさ、と音がして頭上を見上げると、真・緑色のハト様の鳥が・・・、ということがあった。
そんな色のハトを見るのは初めてだから仰天して、図鑑を調べると、「ズアカアオバト(ハト科)」。
「琉球列島固有亜種」であるから、私が今まで見たことがなかったのは当然だが、留鳥であるから年中見られるし、それほど希少でもなさそうな記述である。

上の写真、ここは、前にヒヨドリが「水浴び」していた公園。この木は「モクマオウ」であったか?その樹上に、黒っぽいかたまり、メジロやヒヨドリよりは明らかにでかい、かといってあまりハトらしくもない・・・。


ズアカアオバト(ハト科)

拡大してみると・・・、緑色に見えなくも、ない。それに、確かに、図鑑にあるように、くちばしは青い。だから、間違いない♪、ことにしよう。

☆★☆続・「スベリヒユ科」・研究


前にご紹介した、ヤマトシジミがま・ど・ろ・ん・で・いる、この植物は、ハゼラン(スベリヒユ科)。


ヒラバマツバボタン(スベリヒユ科)。「平葉・松葉・牡丹」、なるほど、その通り♪

☆★☆「タンポポ」

今日、「タンポポ」を、は・じ・め・て・、見た。子供の頃から知っていたはずだ。写真を見せられたら、「あ、タンポポだ」と言えたはずだ。
ベランダに奇妙なつる草が生えて、それが「オキナワスズメウリ」なる名・を・持・つ・ことを知・っ・た・、ことからはじまった「俄か(にわか)・園芸熱」のおかげで、立ち止まっては道端の雑草を、ありがたそうに撮影する習慣がついてから、これでかれこれ二月ぐらいになるのだが、その間、実際に「見かけなかった」のだから、まわりには、そんなにたくさん生えてはいなかったのだろうけれども、
それにしても、「あ、たんぽぽだ」と、実物のタンポポを見て、「あ、タンポポを見た♪」と意・識・し・た・のは、無論記憶があるわけではないが、これで、実に、半・世・紀・近くぶり、ということになるのだ。
このように、私たちは、身の回りに現に「存・在・し・て・い・る・」ものを、何も「見・な・い・」でも、特に不都合なく、平気で、生きていられるのである。


セイヨウタンポポ(キク科)

・・・
現在、わが国に野生するタンポポは、二つのグループに大別できる。ひとつは、わが国の固有種でニホンタンポポと総称される。野生地域によって微妙に異なるため、細かく分けると、この中にもいろいろな種類があるが、もっともよく見られるのが、関東を中心とした地域に多いカントウタンポポで、ニホンタンポポ一族の代表格というところ。中部以西には、タンポポ類には珍しいシロバナタンポポという、白い花を咲かせる種類が多い。
・・・
もう一つのグループは、ヨーロッパ原産で、明治時代に渡来し、猛烈な勢いで野生化したセイヨウタンポポだ。花はニホンタンポポより舌状花の重ねの多い八重咲きで、春の花後もボツボツと長期間花を咲かせ、受粉しなくとも種子をつけるなど、その繁殖力はすさまじく、お陰で、在来のニホンタンポポが駆逐されて激減してしまったという。
・・・
ニホンタンポポでは総苞片は立って真っ直ぐに伸びるが、セイヨウタンポポの方は外側に反り返るので、この部分を見れば簡単に区別がつく。
・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

☆★☆ツユクサ

「つゆくさ」の名前も、その5弁の花びらが、2枚、2枚、1枚、と異なった形をしていて、「蝶のように」見えること、湿り気の多い環境に育つからか、気孔が大きく数も多いから、その葉は、気孔の観察に適していること、・・・、
こんなことも、多分、子供の頃から、「知って」いたはずだ。「夏休み」に、標本をつくったことも、あったはずだ。
なのに、この花(↓)を見かけても、何も、思い浮かばなかった。


シマツユクサ(ツユクサ科)

・・・
この植物の英名は「dayflower」であり、花が朝に開き、夕方には萎れる一日花であることに因んでいる。この花には、萎れるときにオシベとメシベが寄り添って受粉、受精するしくみが備わっている。一日花であるから、タネを確実につけるために、ハチやチョウチョウが他の株の花粉を運んできてくれなかった場合の保険をかけているのだ。
・・・
花の色は美しいコバルトブルーで、この色の正体は「コンメリニン」という色素である。この名は、ツユクサの学名「コンメリナ」に因んでいる。
・・・
「雑草のはなし」田中修(中公新書)

☆★☆新「科」・発見

「キツネノマゴ科」、初登場ではないだろうか?「狐・の・孫」?これに関するウンチクも、・・・、見つかりません、・・・。


ヤナギバルイラソウ(キツネノマゴ科)

犬の散歩の道すがらの、少し湿り気のある日陰などには、ほら(↑)、この通り「群生」している。お隣の邸宅の庭にも生えていた。刈り取られてしまったけれど。
そんな「普通」の雑草であるはずなのに、小さな図鑑には載っていなくて、今日、本屋さんで立ち読みした分厚い図鑑でやっと、発見。この写真も半月ほど前のものだけれど、
ヤナギバルイラソウ(キツネノマゴ科)、と申します。どこで区切って読むのかもわからない不思議な名前でありますが、「Ruellia brittoniana」とあるから、「柳葉・ルイラ・草」なのね?

2009年08月19日

「正鵠を得る」、を論ず



雷まじりの強い夕立が、何度か続いたから、干からびかけていた遊水地の池も水位が少し戻り、水鳥達、そう、「鴻鵠」系のみなさんもあわただしく動き始めたようで、
ボタンウキクサ(サトイモ科)にすっかり覆い隠されてしまった水面ではあるが、バン(クイナ科)達に混じって、ダイサギさんが、採餌されていた模様。カメラを向けると、いつもどおり、どうして、カメラを向けられたのが「わかる」のか?と思えてしまうタイミングで、ゆっくり飛び去って行かれた。
写真は、その後放水路で発見、遠景ですが・・・。
「ダイサギさん、そろそろ、夏も終わりですね♪」
「ええ、私はここが気に入りましたので・・・。」
・・・
ゴイサギさんも、間近を「優雅に」羽ばたいていかれたのだが、撮影は失敗・・・。


ボタンウキクサ、バン、ゴイサギ(写真は「参考」)

☆★☆

本を読んでいて「正鵠を得る」という表現を見かけ、あ、これも「トリ」ネタじゃない?と調べてみたが、・・・、

【正鵠】「せいこく」「せいこう(慣用読み)」:1 弓の的の中心にある黒点。2 物事の急所・要点。
【鵠】「くぐい・くぐひ・くくい」:白鳥の古名。
【正鵠を射る・正鵠を得る】 物事の急所を正確につく。

と、「故事」そのものには触れられてなくて、典故は、「礼記中庸」にあるというが、まぁ、「何羽も『鵠』が飛んでいましたが、うまく、目的の一羽を打ち落としました」という話なんだろうな?、と、あきらめた。

☆★☆

オニタビラコ(キク科)?と思ったのだが、いくら沖縄でも、8月に「春の七草」が咲くか?だから、間違ってるかも知れない。


・・・
タビラコとは「田平子」の意で、その葉が田面(たのも)に平たく張りつくように茂るところから付けられた名だろう。その花は、タンポポの花を一重咲きにして小さくしたような花で、春早く一0センチメートルぐらいの茎を伸ばして、あらく枝分れしてその先に花をつける。コオニタビラコともいうが、これは近縁の丈高く育つオニタビラコに対して、小型であるところから付けられたものと思う。だが、オニタビラコとは別属であるから、こちらは、ただタビラコと呼んだ方がよいと思う。
このタビラコも春の七草の一つであるが、七草の歌では「ほとけのざ」と呼ばれている。ところが、植物学上でのホトケノザという植物は、タビラコとは無関係のシソ科の植物で、よく混同されて始末が悪い。
・・・
このオニタビラコは各地の空地、路傍、庭などによく見かける雑草の一つだが、タビラコとは別属の植物で、タビラコより大型、花時には五0センチメートル以上となる茎を伸ばし、茎頂がこまかく枝分かれして小さな黄色頭状花を咲かせる。茎葉共に大柄だが、花だけはタビラコより小さく、径一センチメートルにも満たない。花だけ見ると鬼どころか姫である。七草の選にももれ、役立たずの雑草だが、・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

☆★☆


トキワギョリョウ(モクマオウ科)
先日ご紹介したズアカアオバト、が休んでいた木。「針葉樹に見えるが、実・は・広葉樹。葉に見えるところは、実・は・茎で、その先に小さな葉が、・・・」と、「実は」が多い木である。

☆★☆


マメ科風の雑草、突然の花盛り。名前知らず・・・。

☆★☆

ドバトは、「家禽」だから、ということで「野鳥」には数えられず、図鑑にも載っていない。そんな「差別」は、申し訳ない、ほら、こんなに愛らしいし・・・。


ドバト(ハト科)。「家禽」化されたカワラバト、とのこと・・・。

☆★☆

・・・
ピュウリタンは天職人たらんと欲、し、た、――われわれは天職人たらざ、る、を、得、な、い、。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強大な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接経済的営利にたずさわる人々だけではな、く、――の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。
・・・
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ヴェーバー、大塚久雄訳(岩波文庫)

「夢を持ちつづけぇ―」、なければな・ら・な・い・のも、
「きっと、今日と違った、あしたがぁ―」、を信じなければな・ら・な・い・のも、
出来ない「さかあがり」のために、地面を蹴り続けなければな・ら・な・い・のも、
・・・
「努・力・が・実・を・結・ぶ・」、という、つねにある割合でかならず存在するはずの、「実・を・結・ば・な・か・っ・た・」人々、にとっては、脅迫にしかならない「因果論」は、
資本主義のイデオロギーなのだ!
と、「決めつけて」いたから、この本も、「死ぬまでには、読んでおきたい本リスト」の一冊だったのだ。今日、読み終わったから・・・。

2009年08月21日

我家没有・・・(私の家には、・・・がありません)。



私の家には洗濯機がない。前にも話したかな?
風呂場の、洗濯機を置くべき場所に、ずっと以前、「とも」ちゃんという病気の猫を隔離するための特製の小屋がしつらえてあって、もう「とも」ちゃんはずっと前に亡くなったんだけど、小屋はそのまま、物置になっているのだ。
「とも」ちゃんは「FIV(Feline_Immunodeficiency_Virus)・猫免疫不全ウィルス」感染猫、いわゆる「猫エイズ」で、拾ったときには既に、「日和見感染」なのだろう、口内炎や風邪様の症状が慢性化していて、それでもうちで1年2ヶ月、生きた。
その1年2ヶ月は、私の「SSRI・薬物療法」の一年目とちょうど重なっていて、私の方が、薬の副作用やらなんやらで、通常の意味で「意・識・」が・あ・る・とは、とても言えないような状態だったから、「とも」ちゃんの介護として行わねばならない、口内消毒、抗生剤投与、等の日々のルーチンワークも、決しててきぱきとこなせたわけではなかった。
今なら、もっと上手に世話出来ただろう。それに、口内炎の薬なども、当時よりもっとすぐれたものが出来てきているようだし・・・。

というわけで、私の家には洗濯機がない。洗濯機を置く場所がないからだ。もっとも、洗濯機を買う気もない。だから、コインランドリーに行く。
乾燥機が回っている間、近くを散歩しようと思った。小さな公園があって、ガジュマルやホウオウボクが植わっていたことを、ずっと前に犬の散歩で通りかかったことがあったから、覚えていたのだ。メジロやヒヨドリでも、観察しに行こうと思ったのだ。

小さすぎる公園で、遊具のところでは小学生が大声で遊んでいるし、ベンチに陣取った老人達のトランジスタラジオは「民謡」を流しているし、選挙の宣伝カーは通りかかるし、・・・、とても「バードウォッチング」向きの環境ではないことが判明したので、早々に立ち去ることにした。

どこかで町内会主催の夏祭りでもあるのだろう、地元のヤンキー風カップルが二組、この公園を待ち合わせ場所にしたらしく、人待ち顔で「ヤンキー座り」。
通り過ぎようとしたとき、ヤンキー風女の一人の悲鳴が聞こえた。振り返ると、地面になにやら毛むくじゃらの物体・・・。
聞くともなしに聞こえてきたヤンキー風女の述懐によると、ピアスか何かを落として拾おうとして地面を見たらこんなものがいる、今まで気づかんかった、うわぁー、びっくりしたぁ、・・・、とのことであって、遠目に定かではないが、明らかに鳥、それも、何らかの事情で飛べない状態の、鳥、・・・、は、しばらく前から、そこに「座って」いたことになる。

とんだ「バードウォッチング」になったものである。すでに「亀」を「助けた」こともあるのだから、「浦島太郎」をまた演ずるにやぶさかではないのだが、ヤンキーの間に、
「どれどれ、おじさんにかしてごらん、」
と、割って入るのも気が引けるから、彼らがその「毛むくじゃらのかたまり」に速やかに興味を失い、さっさと「お祭り」に出発してくれるのを、物陰から、何・気・な・さ・そ・う・に、待つことにした。

メジロやヒヨドリではないことは明らかだ。大きさは小ぶりなハトくらい。「バードウォッチング」歴、半年、ではあっても、鳥というものは樹上など離れた場所にいるかもしくは飛んでいるところしか通常見ないものだ。こうして、間近に見ると、「動転」もしていたのだろう、一体何の「トリ」なのか、皆目見当がつかない、ように思われた。

手元にあったのは、スーパーマーケットに行った時に使う「マイ・バッグ」だけだったから、とりあえず、それに載せて運ぶことにした。「トリ」をどうやって持・て・ば・いいか?も、わからない。
両手の手のひらで両側から翼を覆うようにして持ち上げてみた。少し羽ばたこうとしたが、飛べるわけではないらしい。また、脚で立ち上がろうともしたようだが、うまく歩けないのか、おとなしく手のひらの上に座りなおした。
そうやって、暴れもせず、「身を任せて」もらえると、急に自信がついて、気も大きくなって、
「よっしゃぁ♪、おとーちゃんが、たすけたるさかいになぁ♪、もう、安心やでぇ♪」
まことに、「危機」は人を強くする。本当を言えば、今日は、とても調子が悪かった。週末だから、久しぶりだから、と、無理矢理海に出かけたが、何かとげとげしい、泣きたい気持ちがしばしば襲ってきて、少しも楽しめなかった。洗濯が終わったら、さっさと帰って寝よ♪、とあきらめていた矢先だったのだ。

行きつけの動物病院に電話。「あのぉー?、いつもお世話になってる○○ですけどぉ、今度は、突然、『トリ』なんですけどぉ?」、どうぞ、連れてらっしゃい!、と、頼もしいお返事。
「希少な野鳥や渡り鳥が怪我をしているのを発見したとき、・・・、マニュアル」、みたいなのがそういえば動物病院の待合室に貼ってあったものだ。つくづく獣医さんというのは、すごいお仕事だと、感心するね。トリもカメも猫も、・・・、身体の構造も全然違うだろうに、それなりの治療法を心得ていなければならないのだから・・・。

各地で「夏祭り」的行事が行われるのだろうか?道路がひどく混んでいて、でも、おかげでその合間に、上の写真を撮った。
むろん錯覚に過ぎないが、何か「安心」してくれているような表情に見えて、うれしかった。
落ち着いてみると、これは、ハトの、そう、正しくは「ハト科キジバト」の「ヒナ」ではないか?羽の模様は、まさしくその通りである。頭にくっついているのは、後でわかったのだが、「うぶげ」なのだろう。

車の中で、私は、もう、トリの「飼い主」になる気でいた。なんと言っても、猫はトリの天敵であるから、籠に入れて、どこに隠そう?やはり「とも」ちゃんを隔離したときのように、風呂場しかないかなぁ?などと、しかし、楽しく、想像をめぐらしていた。そして、怪我が無事に治って、「飛び立っていく」、美しい涙の別れの日の情景まで・・・。
名前は、「ピヨ」ちゃん、に、決めてある。現在までのところ、このトリは「ぴよ」どころか、一言も発していないのだが、・・・、
前にご紹介した、「メジロの眼」橘川次郎(海游社)。世界的な鳥類生態学者、橘川氏、人生の過半をオーストラリア等海外で過ごされ、本人もあとがきでおっしゃるようにすでに日本語での執筆に困難を感じるほどの「国際」級のインテリなわけだが、彼がニュージーランドでメジロの研究をはじめた頃、はじめて育てた、巣から落ちたメジロのヒナの名前が「ピヨ」ちゃん、なのだった。「ピヨ」ちゃんの愛らしい写真も、同書には掲載されている。

でも、私・の・、「ピヨ」ちゃんは、亡くなってしまった。病院に着いたときは、元気そうだった。先生が、羽を広げたり、骨格を調べたりしている間も・・・。
「外傷はないようですから、しばらくお預かりすれば、元気に、・・・」、その矢先、嘔吐し始めて、急にぐったりした。消化されていない食べ物が、食道のあたりに一杯つまっていて、だからそこが異常に膨れていたから、私にも「新種」の鳥にでも見えたのであったが、それを吐き戻して気管につまったのかもしれない。あんなふうにアスファルトの地面に「座って」いたのなら、暑さで体力も消耗していただろうし・・・。

ほんの30分前まで、無関係な「生き物」だったのに、死なれてしまうと、やはり、悲しい。名前まで付けたしね!
先生まで、こころなしか涙ぐんでくださっているみたいで、でも、それがうれしかった。
ありがとうございました。じゃあ、うちでお葬式することにしますね・・・。

さっき、先生が、「ピヨ」ちゃんの羽をびろーんとひろげて検査しているのを見ながら、思いついたのだが、鳥類図鑑の巻末には絵入りで翼の構造が説明されている。今まで図鑑の記事を読んで、「『初列風切』はやや褐色がかるが・・・」とか言われても、写真だけ見ててはイメージ湧かないし、・・・、
だから、「ピヨ」ちゃんは亡くなってしまったけれど、だから死体をいじくりまわすことにもなるけど、
おとーちゃん、「ピヨ」ちゃんの身体使って、鳥さんのお勉強させてもらうわな♪


鳥の翼のしくみ。

これが、その、「お勉強」の、成果である。
「ピヨ」ちゃん、ありがとう♪

☆★☆

ちなみにタイトルは、陳凱歌の「子供達の王様」から。この映画を見たころ、私はNHKテレビの中国語講座で勉強中だったから、そのスキットに出てきた、
「今、何時ですか?」「すいません、私、時計持ってないんです」、
だけはちゃんと覚えていて、だから、映画の中で、下放青年が教師となって教えていた中学生がはじめて書いた作文を読み上げる、もちろん感動的なシーンなのだけど、その作文の出だしが、
「僕のうちには、時計がない」、
だったので、そこだけ字幕が出る前にはっきりと聞き取れたから、とてもうれしかったので、今でも、覚えている、・・・、ただそれだけのことなんだけどね。
もちろん、「洗濯機」を、中国語でなんというのかは、知らないから・・・。

2009年08月22日

「性・の・饗・宴・」、など・・・。



先日「夢・の・蝶」を目撃したのと、近い場所ではあるが、別の、「城(ぐすく)跡」。林が切り開かれて明るく陽光が差し込む場所は、例外なく「シロノセンダングサ」の大群落となっていて、これまた例外なく、蝶たちの格好の食事場所となっているらしい。
ものすごい「密度」であった。ここにご紹介できたもの以外にも、「ツマベニチョウ(シロチョウ科)」も、「アオスジアゲハ(アゲハチョウ科)」も飛来されたのであるが、あまりの「混み合い」方に、う・ん・ざ・り・されたのであろうか?と、思われてしまうほどに、そそくさと立ち去ってしまわれた。

特に、ツマムラサキマダラは、「うじゃうじゃ」、いて、こうたくさんいると、「希少性」に基づく「ありがたみ」もやや失せてしまうのもまた「人情」であって、・・・、
ところで手元の図鑑には詳しく記載されていないので想像であるが、前回目撃した、表は羽の先端に向かって鮮やかな紫色、裏は全般に茶色で白い斑点、・・・、なのは、「雄」で(↑↓)、


ツマムラサキマダラ(マダラチョウ科)、こちらが雄だろう。

表も裏も地味な茶色系、しかし、マダラチョウ科らしい、筋がよりくっきり見える、のが「雌」なのであろう(↓) 、と思われる。


ツマムラサキマダラ(マダラチョウ科)、雌、と思われる。表面、雄より青色系が少ない。


ツマムラサキマダラ(マダラチョウ科)、雌、と思われる。裏面は特に雄と柄が違う。

またしても、配偶者をめぐる「雄間競争」の結・果・、このように「派手」にな・っ・た・、いやいや、たまたま「派手」なやつが突然変異で現れ、それが、配偶者をめぐる「雄間競争」に有・利・であったか・ら・、その遺伝子を分け持つ子孫を、より多く持つことが出来た、云々・・・、訳だ。
確証はないが、大量の「雄」と思しきものの中にわずか二匹くらいの「雌」と思しきものがいて、いかにも「雄間競争」でも生じていそうな(?)様子であったし、現に、
「繁殖行動の誘引」、ならびに、「繁殖行動」そのものが、ばかばか行われており、蜜を吸いながら覆いかぶさるもの、尾を接合させ、交尾しながら飛び去るもの、まさに「性の饗宴」・・・、
「用なし・遺伝子・容器」、としては、いささか辟易させられる光景ではあったが、これで、この茶色い蝶が、ツマムラサキマダラの雌でなかったら、こんなに白昼堂々と「異種交配」が行われていることになろうから、だから、きっと、これが「雌」なんだろう、と、断定した次第である。

「夢・の・蝶」、リュウキュウアサギマダラも、依然として「ありがたみ」が減殺されるほどではないものの、何匹かは見かけた、ので、もはや、それほど、「ときめく」こともなかった。


リュウキュウアサギマダラ(マダラチョウ科)

次はタテハチョウ系。ミスジチョウは、沖縄に来る以前も、少し山間に行けば見かけることの出来るグループだから、知っていた。


リュウキュウミスジ(タテハチョウ科)

記憶によれば、このグループにもたくさんの種があって、羽の紋の微細な違いにより識別するのであるが、沖縄にはこの種しかいないのであろうか?手元の図鑑にはそれしか載っていないから、何の確証もなく、「リュウキュウミスジ」と断定しているのである。
何でも「リュウキュウ・・・」という呼び名がつけば、ありがたく感じられるから、おかしなものであった。

アゲハチョウ系。黒っぽいアゲハチョウの仲間も、個体ごとの模様の変化があったりするらしく、「同定」が難しいものなのだと思われる。だから、確証はない、ということで。


ジャコウアゲハ(アゲハチョウ科)、であろうか?「麝香揚羽」。


ベニモンアゲハ(アゲハチョウ科)か?これはうちの近くの、生垣で。

ジャコウアゲハは、沖縄に来る前も、一度か二度は見たことがある、と思う。でも、山地にしかいないはずだ。ベニモンアゲハ、みたいな、こんな「派手な」模様のあるクロアゲハ系は、まことに、「熱帯」ならではのものであろう。

☆★☆

【麝香揚羽】[学名:Byasa alcinous]昆虫綱鱗翅(りんし)目アゲハチョウ科に属するチョウ。本州北部より南西諸島の八重山(やえやま)にわたって広く分布するが、その発生地は局部的であることが多く、どこにでもみられるチョウではない。ジャコウアゲハの和名は、これをとらえると強いじゃ香様の芳香を出すことからきている。

【麝香】musk/動物性香料の代表的なもの。ヒマラヤ山系を挟んでチベット、雲南、四川(しせん)、インド、ネパールなどの山岳地帯に生息するジャコウジカ、および朝鮮半島などに生息するシベリアジャコウジカMoschus moschiferus sibiricusの牡(おす)の生殖腺嚢(せんのう)分泌物であり、発情期に入ったジャコウジカが食餌(しょくじ)を求めて夜間行動をしているところを捕獲し、生殖腺嚢を切り取って乾燥したものである。・・・ジャコウジカの生殖腺嚢中の分泌物は暗褐色の顆粒(かりゅう)状であり、ときには白色結晶として析出することもある。加温すると軟化し、水には溶ける。じゃ香は、そのまま嗅(か)ぐと不快臭であるが、希釈すると佳香を感じる。大部分は動物性樹脂質や色素であるが、約2%の香気成分を含有する。香気成分の主体はムスコン(muscone)C16H30Oという大環状ケトンで、調合香料として賞用されてきた。ジャコウジカの人工飼育は非常に困難であるといわれていたが、中国では飼育計画を進めている。・・・非常な高貴薬で、近年ジャコウジカの保護が国際的に論議され、ワシントン条約などによる取引制限がなされている。丸(がん)剤、散剤、膏(こう)剤として用いられることが多く、わが国でも家庭薬製造原料としての需要が多く、六神丸(ろくしんがん)、奇応丸(きおうがん)などに配合される。

2009年08月23日

「一。煩悩を消除す。」



京都の祇園をちょっと「下がった」所に、「建仁寺」というお寺があって、開祖は禅宗の「栄西」、だったと思う、茶道とも縁の深い寺だ。
宇治茶の老舗に「辻利」という店があって、今は「JT」がそのブランドを使ってペットボトル入りのお茶を売り出したりしているが、
そうでなくても有名だったのは、やはり祇園、四条通八坂神社少し手前の、「辻利」には二階に喫茶室があって、そこの「抹茶パフェ」はたいそうな評判で、いつも階段の下の歩道上まで行列が出来ていた。どんなガイドブックにも載っていたはずだ。
「特選辻利パフェ」というのが、最高額商品で、そうね、20センチ以上の高さのグラスに、バニラアイスクリームと抹茶アイスクリームをベースに、小豆と白玉団子は当然、そこに、抹茶シャーベット、抹茶ゼリー、抹茶ババロア、あげくは抹茶カステラ(!)まで、一回の店舗で販売しているだろう「抹茶」商品がことごとく、ふんだんに盛り付けられており、見るからに豪勢で、お値段は当時、1,100円くらいだったかな?むろん、もう十年前のこと。今も、その店があるのかどうかも知らない。
私はアイスクリームが好きでね。子供の頃あまり食べれなかったから、欲望が「固着」してしまったのだろう。今日も、「ファミマ」で「井村屋」の「小倉抹茶最中アイス」を食べたから、思い出したのだ。
その喫茶室の壁には、「建仁寺」にあったものの模写なのだろう、「栄西」による「茶の十徳」なる巨大な額がかかっていた。お茶、および、茶道の精神生活上の効能を十か条、列挙したもので、大半は忘れたが、
・・・
「一。煩悩を消除す。」
・・・
という条があった。「辻利」のこと、「特選辻利パフェ」のことを思い出すとき、いつも一緒に、思い出される。

「世界」はすでにして「地獄」なのだから、何をこの上他人を「憎悪」し、また他人を「憎悪」した自分を恥じて、「落ち込む」必要があるか?
私もまた、かかる「煩悩」を「消除」いたしたく、今日も「伊藤園」の「ほうじ茶」を大きな薬缶に作っては、飲んでいるのであったが・・・。
「ほうじ茶」といえば、二条の「一保堂」、香ばしい匂いが店舗の近辺まで漂っておりましたな・・・。
いや、「都」のことは、忘れましょう・・・。

☆★☆


朝露を載せた、シマツユクサ(ツユクサ科)の花。

早起きの「効能」。「症状」としての「早朝覚醒」なのか?単に「年寄り」のゆえなのか?3時や4時という時刻に一度目は覚ますのだが、身体を動かせるようになるまでに数時間を要し、猫トイレの片付けなど最小限の掃除が終わると、もう日が高くなっている。暑さに弱いはずの、犬の散歩には、もっと早い時刻を選んであげるべきなのだが、いつもこうなってしまう。
だから、ごくまれに、そう、シロガシラとヒヨドリ、メジロが隣家の庭木で「トワイライト・ソング」を歌い始める頃に、気持ちよく起きだすことができた日は、特別、「しあわせ」であった。

まだ車も少ないから、犬のリードを引きながら神経をすり減らすこともない。路傍の雑草たちは、そもそも朝しか花をつけないものも多いし、朝露を冠していっそう美しく感じられたりもするものだ。これが、早起きの「十徳」。


オシロイバナ。これは覚えている、幼少期、私の家の庭にもあった。ブーゲンビリアと同じ科(オシロイバナ科)なのであった。

☆★☆引き続き、「スベリヒユ科・研究」。


スベリヒユ(スベリヒユ科)

☆★☆いまだ「名もなき」・花。


どこにでも生えているが、いまだ名称不詳。花のときに葉がなく、ということは、葉のときには、単なる単子葉的な平凡な緑の草が生えているだけであろうから、目にとまらず、気がつかない、というのも一因であろう。花には不釣合いなほどの、大きな実と種が3個、相互に120度の角度をなしてひろがる。これが特徴的。

☆★☆「平凡」、と呼ばれるものへの「偏愛」。

前にもご紹介したが、柴田敏隆「カラスの早起き、スズメの寝坊」(新潮選書)に、バードウォッチャー達は「探鳥会」のあと、「今日は○○を見ました」と報告しあう「鳥合わせ」だったっけ?をされるらしいのだが、そのようなある場で、柴田氏が「ドバト」を挙げると、会場から失笑が起こった、というエピソードが書かれていた。
ドバトは「家禽」だから、現に今そこらを飛んでいるドバトは、屋外に自・分・で・「営巣」場所を選び「育雛」して、生きているにもかかわらず「野鳥」に数えてもらえない。
わが「シロガシラ」も、もともと愛玩動物の「篭脱け」だからと、掲載していない図鑑もある。龍譚池の「アヒル」も、正しく種類が知りたいのだけど、何の図鑑を調べたらいいのか、わからない・・・。
私も、「野良猫」とか「雑草」とか、「平・凡・」な・、ものを「偏愛」しようと思う。
さる文学者が「名もなき野の花」と書いたのに、牧野富太郎が「この国に名前のついていない植物が、あるものか!」と激怒したという話を読んだことがあるが、
まことに、あらゆるものに「名前」があること、それは、「煩悩」まみれであるかも知れないが、かつて「ヒト」がそこに「目を向けた」ことの証なのである。
「名前」があるか・ら・、「花」は、「美しい」。

だから、ドバト。ところで、わが「ピヨ」ちゃんは、キジバトであり、これは立派に「鳥類図鑑」にも掲載されているのだ。


ドバト(ハト科)。少し変わった柄だね。

☆★☆

一番上の写真は、これも、早起きの「効能」。カタバミ(カタバミ科)、朝早くだからなのか?天気がいいからなのか?元気よく、立ち上がっているように思える。
「そうか、こうやって太陽の方を向いて、懸・命・に・、光を浴びようとしているのだ!」と、振り返ると、必ずしも太陽の方向ではなかったし、だから、「擬人法」的な「解釈」は、控えましょう。

2009年08月24日

「名前」を知ることが出来ないという、耐え難い、もどかしさ。



「カクレクマノミ」を追って、老体に鞭打って3メートルほどもの「潜水」を繰り返したため、案の定寝込んでしまったのが先々週の末。その翌週は、天気がよくなかったのもあって、一度も海に行かなかった。
魚の体表は、鱗があったり、ないものもあるのだが、いずれにしても水をはじくそれなりに堅い構造物だろうから、光の反射のさせ方もさまざまで、光の当たり方次第でずいぶん見え方が変わる。赤や黄色の「派手」な模様が、「保護色」になりえているのは、熱帯の強烈な陽光と、屈折率の大きな水という媒質が流動することによって生じるゆがみや乱反射のもたらす錯覚の故だろう。
だから、魚の写真を撮るには思いっきり晴れている日が望ましい。半ば以上「気分」の問題であるが、曇った日の海底は暗く、魚たちの姿もはっきり見えない。そうなると、「シュノーケラー」たる人間にもまた、「捕食者」の影におびえる「野性」が残っているのだろうから、不安で、落ち着かない気持ちにもなろうというものなのだ。

☆★☆


屈折率の関係か?水の中でまっすぐに向けているつもりのカメラが、こういう風に上向きにずれていることがしばしば。ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)か?顔だけ見える?


光の加減で色合いが違うが、以前「大群」に遭遇したアミアイゴの幼魚、ではないか?

☆★☆

土曜日は久々の快晴だったから、意気揚々と、出かけた。腰の深さにも満たない干潮に取り残された「礁池」にしゃがみこんで、大量の稚魚たちが「避難」しているところを、「お邪魔」したわけだ。
で、こうして写真を並べて、「海中生物図鑑」(誠文堂新光社)と「首っ引き」で調べるのだが、まぁ、なんと、見事なほどに、・・・、見つからない。
例えばこの図鑑には、スズメダイ科だけで、50種くらいの魚の写真が掲載されており、もともと熱帯系の種類であるからして、そのほとんどが沖縄に生息しているものであるのだが、私の様など素人が撮影してきた写真に写っているスズメダイ類と思しき魚が、その「どれでもない」、などということがありうるのだろうか?スズメダイなら、他にも山ほどある、というのなら、それはどこで調べればよいのだろう?あるいは、私の「見方」が、何か根本的に、「間違っている」とでも言うのだろうか?

そうなってくるともう、跳び箱が飛べない、さかあがりが出来ない、・・・、子供の絶望がよみがえってきて、「お前は、図鑑を調べて魚の名前を決めることくらいの簡単なことすら出来ない、駄目な人間なのだぁ〜・・・」と落胆が始まり、おいおい、これでは何のために海に行くのか、わからないだろ?

☆★☆


左:シマスズメダイ、右:オヤビッチャ、いずれもスズメダイ科、いずれも幼魚。


ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)。よく似たオヤビッチャ(左下)と並べて写したつもりだったが・・・。オレンジがかっていないこと、尾びれに沿って黒い筋があることが、違い。


これが、オヤビッチャ(スズメダイ科)。見えにくいが、尾びれに沿った黒い筋がなく、少しオレンジがかっているでしょ?

☆★☆


こんな派手な色合い、すぐ見つかると思ったのに、・・・。名称不明。スズメダイ科と思うが、それも自信なくなってきた・・・。


これも、スズメダイ科と思われるが、頭部だけかすかに青みがかった、そんなの、見つからなくて・・・。


並んで泳ぐ、スズメダイ系、だから、どちらも、名称不詳。

☆★☆

いくつか名前も覚え識別もつくようになったはずのスズメダイ類ならば、明確に指し示すことは出来ないのだけれど、何らかの特徴が把握できたことになっているのだろう、未知の魚を見ても、これ、スズメダイっぽい、くらいのことは言えそうなのだが、スズメダイ類以外だと、全くお手上げ、なに科なのかも、図鑑のどのあたりを探せばいいのかも、見当がつかない有様である。


上の「さかな」、としか言いようがない。「科」すら、わからない。尾の近くに黒点一つ、というデザインは、どういう「機能」なのか、いろいろな「科」の魚に見られる。


上、多分、スズメダイ系、下、なに系、かもわからない。あぁ、もどかしい・・・。

☆★☆

「これ、きれいな『花』ですね。あら、こちらも、きれいな『花』ですね。わぁー、こちらも、すんごい、きれいな『花』ですねぇー・・・、」
という風に、人間は「花」を愛でることが出来ない。言語を獲得した動物は、もはやこんな貧・し・い・語彙に耐えられないのだ。これはキク科であるとか、これは単子葉植物であるとか、この花に見えるのは実は「がく」で、とか、より精緻に、過剰な言葉を積み上げていくことなしに、そもそも「見る」ことが出来ないのだ。
だから、これらの魚たちの「名前」を知ることが出来ないのが、「このさかな」としか、「名付ける」ことが出来ないのが、耐え難く、もどかしい・・・。

☆★☆

上の写真:右端に固まっている、フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)の稚魚、オレンジ色に青のスズメダイ系と思しき何かの稚魚、そして、やはり名称不明スズメダイ系。

2009年08月24日

新・捨て子四兄弟、あらわる!



仕事の前に、「ひ・と・泳・ぎ・」って、「ジム」の「プール」、なんかじゃござんせん、これが「海」なんですから、そんなことできるのは「沖縄」ならでは、であって、・・・、もちろん、「沖縄」でも、誰も、普通、そんなこと、しません。
海岸に通じる路傍、そう、シロノセンダングサ(キク科)やギンネム(マメ科)が繁茂するような木立の下から、・・・、鳴き声が聞こえる。
「何の鳥かしら?イソヒヨドリ(ツグミ科)にしては声に『艶』がない・・・」
などと考えて、4ヶ月ほど前のこと、ありありと思い出した。鳥の声が木の「下」から聞こえるわけがなかろう。同じ、寸分たがわぬ光景だ。
段ボール箱に、子猫が、・・・、今度は、四匹。

ね、申し上げましたでしょ?「さいころを振ったら、三回立て続けに『6』が出た」、なんて、別に、珍しくもなんともないことなんです。
有限な生を生きる私たちの「ミクロ」世界には、「大数の法則」に基づく「平準化」の作用が及ばないから、とんでもなく「偏った」と思える結果が出ることも「普通」なんです。
「私だ・け・が、不幸な目にあう」ことも、普通なんです。

三日前、コインランドリーで乾燥機回しながら、「そうだ、近所の公園、散歩してみよう♪」と「思い立った」のは、鳩の「ピヨ」ちゃんが、私を「呼んでいた」からなのでは・・・?
著しく「偏った」結果を見せ付けられると、人は、そこに「運命」や「神秘」を読み取り、「すぴりちゅある」な物語を組み立てたりします。
だから、こう何度も何度もくり返し、弱った猫たちが私の眼前に現れるのは、同じく「弱った・動物」である私が、猫たちに「愛・で・ら・れ・た・」のだ、と「解釈」しています。


新・捨て子四兄弟。「しろ1」。後頭部に黒斑がある。・・・たぶん。実は、私にも、あんまり区別はついていない。

「今回」は、ほとんど、「迷い」はなかったね。
今・もし・この子猫を・拾わなかったら・、今、このまま、この場を逃げるように立ち去ったとしたら、・・・、私は、この浜辺に、そんな、子猫が干からびて死ぬのを「見過ごした」記憶の付着する場所に、・・・、二度と来ることが出来なくなる。
「拾わない・で、いること」の方が、はるかに大きな「ストレス」を、抱え込むことになる。
だ・か・ら・、はじめから「選択」の余地は、なかった。
「自・由・」とは、他に「選択肢」が、な・い・、ことなのだ。


新・捨て子四兄弟。「しろ2」。後頭部に黒斑がない。・・・たぶん。

ダンボールの底が少し濡れている。「猫を捨てる人」の気持ちを、「忖度(そんたく)」してみれば、いくらこんな、観光客も土地の人もめったに来ないビーチでも、「捨てる」という行為の性質上、「白昼堂々」では、なかろう、とすれば、今、3時半、直射日光こそ差さないが、この暑さの中にこれほどの時間放置されれば、ほぼ限界と思われたし、
これらの子猫たちが、「生き延びる」か否かは、もはや二次的な問題であって、ただ、私は、
これらの子猫たちを、「生き延びさせる」ために、なすべきことをなさなければならない、ことだけが、明らかであったのだ。

「生きる」ことに「理由」はない。生命、というシステムは、「差分方程式」で与えられている。それが「解ける」保証はない。
私たちは、ただ、わけもわからず、「第n項」にしかるべき処理を施して「第(n+1)項」を生成することで、「生きて」いる。つまり、「生きて」き・た・、から、「生きて」い・る・、のである。


新・捨て子四兄弟。「ちゃとら」。

お仕事の時間まで、きっかり一時間しかない。家にとって返してふたたび出かけるとしたら、猫の世話にかけられる時間は、ジャスト20分。
まことに、またしても、「危機」は人を強くする。
もと「びー」専用の、そう、「捨て子三兄弟」も入っていた、おなじみオレンジ色のバスケットに新聞紙を敷き詰め、新聞紙をちぎって撒き散らし、10mLシリンジ、そうだ、これは「捨て子三兄弟・クロ」ちゃんのために病院からいただいてきたものだ!、に猫用ミルク、四匹を順次左手でつまみあげ、右手に持った注射器の先で口をこじ開けて飲ませる、・・・、などの作業を、とても「うつ病患者」とは思えぬ機敏さで、こなした。
・・・


新・捨て子四兄弟。「とら」。

「出来ることはやりました・・・、でも、すでに衰弱がひどかったから、・・」という、お涙頂戴的エンディングの「予想」を裏切って、ミルクを飲むとめきめき元気になってきて、今までぐったりしていたものも、一斉に、「ぴーぴー」騒ぎ出す。

籠のふたを開けるときは、いつも、もう、ど・れ・か・が冷たくなっているのでは、と、覚悟を決めるものなのだが、
今、翌朝午前6時現在、・・・、全員、無事、・・・、である。

2009年08月26日

生キテイルウチガ花ナノサ・・・。It's_good_to_be_alive!



子猫はすぐに死んでしまうものだから、ミルクをたっぷり飲ませておいても、今日などお仕事で家を8時間ばかりあけることになるから、その間はとても心配である。
帰ってきて部屋のドアを開ける。子猫たちの鳴き声は聞こえない。一日の大半を眠って過ごす生き物であるから、眠っているのではあろうとは思うのだが、
籠のふたを開けるときは、一瞬、どれか、あるいは、いくつか、が冷たくなっているかも知れない、と、覚悟を決める。
ふたの振動で目を覚ましたのだろう、いっせいに鳴き始めた。ちゃんと四匹とも、暖かい、ちゃんと四匹とも、鳴いている。少し拍子抜けする瞬間、これからしばらくの間、毎日これを味わうことになる・・・。

ママから引き離されてしまっても、暖かい、軟らかいものにしがみつけ!、と、本能が命じているのだろう、ほら、こんな風に(↑)お互い同士絡み合って、引き離して一匹ずつ写真撮ろうと思っても、手のひらの上で動きまわり、うまく撮れない。


新・捨て子四兄弟、二日目。おっぱいじゃないよ?

アーウィン・シュレディンガーという物理学者が、「生命とはなにか?What_Is_Life?」の中で、「原子や分子は、どうしてこんなにも小さいんだろう?」、逆に言えば、「生物の体は、原子、分子のサイズに比べて、どうしてこんなに途方もなく、でかいんだろう?」という問を提起している、という話は、一度、したな?

生物の身体が、10の23乗、などという「途方もない」桁数の原子や分子の集合であることではじめて、そこに「大数の法則」が作用して、「安定化」が生じるからだ、というのだ。
さいころを5回や6回投げて平均値をとっても、それは2であるかも知れないし5であるかも知れない、ランダムで不安定なものになるが、試行回数を無限化していくと、それは3.5という、決まった数に近づく、それが「安定化」ということだ。
生命が持続できるには、それが「確率論的」、「統計学的」に把握できる程度の「数」で、出来ていなければならなかった、というわけだ。

進化の過程を見れば、恐竜の絶滅、みたいな例外もあるが、確かに、次第に身体のサイズを大きくしていく方向に進んでいるように見える。
個体の発生は、進化の歴史を「なぞっている」と言われるが、一個の受精卵という単細胞、その段階で、原子や分子に比べればすでに充分「途方もない」数になっているものの、それが1からスタートして「大人」の身体になるまでの細胞分裂の回数も、やはりそれなりに「途方もない」ものであろうから、より「子供」であるほど、「大数の法則」に基づく「安定化」の効果が期待できない、ことになるのだろう。

哺乳類でも、鳥類でも、ある程度は魚類でも、子供の身体はおとなの「ミニチュア」、「相似縮小」のように見える。だからこそ、これは○○の子じゃないか?と言えるのだから・・・。似ても似つかなくて、言えない場合もあるけどね。
模型飛行機をどんなに上手に作っても、その実験結果から、本物の飛行機に作用するであろう空気抵抗などを算出することが出来ないのは、飛行機や流体を構成している物質の原子や分子のサイズは、「縮小」出来ないからだ。だとすれば、その環境に適応した「大人向き」にデザインされた身体を、ただ「縮小」しただけの子供の身体は、不適応を生じやすいのも当然だと言うことになる。

例えば、「表面積/体積」比は、半径rの球体で考えると、
4πr^2/(4/3)πr^3=3/r
で、半径、その物体の「長さ」に反比例する。身体が小さいほど、表面積の影響が大きく現れることになるから、例えば体が冷えやすい。
また、同じ種類の細菌に感染したとしても、細菌の大きさと身体の大きさの比、細菌によって犯された細胞の数の全身に占める割合、なども子供のほうが大きくなるから、より、危険、と言うことになるのだろう。

・・・

ともあれ、そんなわけで、・・・、二日目、「新・捨て子四兄弟」は、全員、生・き・て・いる。

☆★☆新種発見♪「ムナグロ(チドリ科)」なのか?

「ぴゆぃっ♪」みたいな鳴き声、磯辺をちょこまかと結構なスピードで走り回り、近づこうとすると群れをなして飛び立ち海上を大きく旋回して別の餌場に移る。
だからシロチドリは、なかなか写真が撮れない。

今日は、シロチドリもいるが、その近くに、ほれ(↓)、こんなに群れをなして、シロチドリよりはちょっと大きめ、全体に黒っぽい、しかし顔かたちは明らかにチドリ系。
今、図鑑を調べてみて、ひょっとしてこれが「ムナグロ」なのか?


新種発見♪「ムナグロ(チドリ科)」なのか?


「ムナグロ」なのか?拡大してみた。確かに腹面は黒っぽい。シロチドリよりは明らかに大きい。

シロチドリはチドリ類の中でほぼ唯一の「留鳥(Resident_Breeder)」で、それ以外はほとんど冬鳥(Winter_Visitor)だから、今頃見かけるチドリ類はシロチドリに決まっている。
ムナグロは、「旅鳥(Passage_Visitor)、または冬鳥」だそうで、8月以降はいてもおかしくはないようだ。
図鑑によれば、かなり派手な図柄の羽で、肉眼でもっとていねいに見ておくべきだった、と、悔やまれる。

☆★☆「白鳥は、悲しからずや、海の青、空の青にも・・・」


クロサギ(白色型、サギ科)、と、思われる。今日は一羽だけで、「あのペリカンさみしそう〜♪」、とも言う。

☆★☆初登場、「ブドウ科」。


テリハノブドウ(ブドウ科)

仕事の途中に空き時間が出来ると、以前は、ファーストフードとかでコーヒーとか飲んで、まめに「仕事の準備」したり、あるいは「時間つぶし」たりしていたものだが、・・・、え、何で会社にいないのよ?いや、だから、同僚や顧客らと「あたりさわりの・ない・世間話」をする、ということが、「苦痛」だからさ、・・・、「バードウォッチング」と「雑草ウォッチング」という「趣味」を手にした今は、そういう時は、散歩に出かける。何を「発見」しなくてもいい、シロノセンダングサや、オオバコや、ギンネムや、ど・こ・に・で・も・あ・る・草が生え、ヒヨドリや、イソヒヨドリ、シロガシラやメジロ、そんな、ど・こ・に・で・も・い・る・鳥が鳴いてさえいれば、私はそれらの「名前」を呼ぶことが出来るから、それだけで、私は、ど・こ・に・で・も・あ・る・風景に溶け込み、そこに「帰属」することが出来る気がして、満足なのであった。
「世間」の方には、私は「帰属」しているような気がしないので、口を開けば、つねに、なにか、言・い・間・違・え・て・しまうのだ・・・。

最晩年の阿部謹也が、ほとんど執念のように「世間」について語り続けていたことを、鴻上尚史「『空気』と『世間』」(講談社現代新書)ではじめて知った。
まだ発病するずっと前、私は、「越境できない言葉」と「越境できる言葉」となどということについて、考えをめぐらしていたはずだ。そんなことをするから、「病気」になった、とも言う。
それは、「『世間』に向けられた言葉」と「『社会』に向けられた言葉」のことだったのかもしれない、と、ハタと膝を打った次第である。・・・。

で、そんな散歩の途中の発見(↑)。

2009年08月26日

「世俗化」される、「世界」。



読んだこともないキュルケゴールを援用するまでもなく、生きている身体に拘束された人間の思惟は、原理的に「死」を、その中に組み込むことが出来ないから、
私たちは、そ・れ・を決して「理解」することが出来ず、したがってそ・れ・は「漠然とした不・安・」として、放り出されたままだ。

もちろん♪、「意気地なし」、「弱虫」な子供だったからか、「死」にまつわる事柄が、怖・く・て・仕方なかった。
お葬式を出している家の前を通り過ぎるのが怖く、遠回りをしなければならなかったりした。
両親は、両親とも、北陸地方の浄土真宗のお寺の生まれなのだが、だから夏休みなど、彼らの「実家」のお寺に泊めていただいたりしたものだ。本堂の裏手に物置のような細長い畳敷きの部屋があって、日陰の庭に面して風通しもよく、とても快適な部屋で、「子供」の私はその部屋をあてがってもらって、「夏休み・絵日記」を書いたり、私立中学「お受験」勉強をしたりした。
お気に入りの部屋だったが、トイレに行くにも、食事のために母屋に向かうときも、本堂の巨大な仏壇の前を通らなければならないのが、特に夕暮れ時などは、怖くて怖くて、「目を合・わ・さ・な・い・」ように、首をまっすぐに早足で通り抜けたものだ・・・。

背後に聳え立つ高い山、同じく、入道雲、・・・、こいのぼりさえ、・・・、怖くて後ろを振り向けなかった。
「大人になる」ということは、「畏怖」する対象が一つ一つ消えていくこと、いわば、世界が「世・俗・化・」されることなのであった。

それでも、依然として「死」の想念は、人を疲れさせる。
「死」に近いところにいるかも知れない「不安定」な生き物を引き受けていることが、つねに「漠然とした不・安・」を醸しだしてしまう。

だから、私が、仕事から帰ってきて、ドアを開け、明かりをつけ、子猫の入っている籠のふたを開け、眠っていた「そ・れ・ら・」がうごめき始め、四つの毛むくじゃらの物体の一つ一つがちゃんと生き物としての温度を有しているかを指で確認して、全員が大声で泣き始めるまで、・・・、わずか数分の間に過ぎないが、息が止まるほど不安なのは、・・・、
私がこの子猫たちが生き延びることを、切に願っている、・・・、というのとは、ちょっと違う。

・・・

まだ目も開いていない状態だということは、前の「捨て子三兄弟」と同じぐらいの生後日数と思われるのだが、とすると、今度の四匹の方が、「元気がいい」かも知れない。
明らかに鳴き声も「う・る・さ・い・」し、飲むミルクの量も多いように思われる。いちばん小さくて弱そうなのが、「トラ」だが、それでもオレンジ色のバスケットの壁面を這い上がろうとしたりもするのだ。
母親と引き離されてからの時間とか、放置されていた間のコンディションとかで衰弱の度合いも異なろうし、生得的・遺伝的な「強さ・弱さ」もあるのだろう、・・・、まことに、生き物は「多様」なのであった。

あまりに「元気」に動き回るので、うまく写真が撮れなかったから、写真は、ない♪。替わりに、動画、作ったから・・・。

☆★☆「新種」発見。

前から、日陰の湿り気のある塀の隙間などに、生えているのを、しばしば見かけ、気になっていたのだが、なにせ小さな草で、老眼にはよく特徴をつかむことが出来ず、名前を決めかねていた。閉店間際の書店で、植物図鑑隅から隅まで繰って、発見。コゴメミズ(イラクサ科)。今は、花の季節ではないようだから、なお、わかりにくかったのかも・・・。


名前、わかった♪、コゴメミズ(イラクサ科)。

☆★☆「イポモエア」日記。


モミジバヒルガオ(Ipomoea_cairica、ヒルガオ科)、道路の中央分離帯に「野生」。

☆★☆無花果・研究。

たくさんのヒヨドリ、メジロが、お食事中の、クワ科・無花果、の木。


そんな木の下に落ちていた「無花果」を一つ拾って、割ってみました。「雄果」なのか「雌果」なのか?いや、そもそも「雌雄異株」なのかどうかも、わかりませんが・・・。


☆★☆

今日も、仕事の合間のお散歩。上の写真は、夕暮れ、見上げると、ハトの、「集会」?


イソヒヨドリの、集う、公園。

近くのお宅のおじさんが、二階のベランダにやってくる鳥たちに、パンくずを投げてあげている。たちまち、スズメ、イソヒヨドリ、キジバトたちが、集まってくる。

2009年08月28日

「海草藻場」、で、つかまえて・・・。



27億年前の海底に、光合成細菌・シアノバクテリアが登場した。その産生する酸素は、まず、海水中に存在していた鉄の単体やイオンを、ことごとく「酸化」して、Fe2O3酸化鉄(III)に変えた。水に溶けない酸化鉄(III)が海底に沈殿し、もはやまわりに「酸化」すべきものがな・く・な・っ・て・しまってはじめて、「気体」としての酸素が残存し、地球の周りにこれを含む「大気」を作り始める。
酸素は、あらゆる元素の中で、ただフッ素を除いて、もっとも強力な「陰性元素」であって、その電子を奪う力、これが「酸素」に因んで「酸化力」と呼ばれることになるのだが、は、強力で、これを利用することの出来ない生き物にとっては致命的な「毒ガス」なのであった。
しかし、その酸素の関与する酸化還元反応に伴うエネルギーは破格に大きいから、この危険な気体を「呼吸」システムに取り込むことが出来た生物のみが、大きな身体サイズをささえるまでのエネルギーを得ることが出来るようになったのであった。

シアノバクテリアや、それが進化して登場した緑色植物が、延々と「光合成」を続け、地球大気がある程度の安定した酸素濃度を持ってはじめて、酸素呼吸を獲得した生き物たちが、「陸上」に進出し始める。

・・・

一方、海底に沈殿した酸化鉄(III)は、「縞状赤鉄鉱」と呼ばれる鉄の鉱脈を作り、「ヒッタイト」から今日に至るまでの、人類の「鉄器文明」はほぼ全面的に、この鉄鉱石の鉱脈に、依存してきた。


これらの写真、なんだかわかります?「朝露を置いた草」では、ありません。遠浅の「リーフ」内の海底には、ところどころこんな緑の草の「畑」のような、「海草藻場」になっている。
そんな「畑」の「上空」を泳いでいると、ここかしこから、「泡」が立ち上っていく。「葉」の表面にも、ほら、気体の「泡」がくっついている。
そうだ、今日みたいに晴れて、太陽光が存分に差し込むときは、これらの植物の、「光合成」を、「見・る・」ことが出来るのだ・・・。


それにしても、陸上の単子葉植物とそう変わらない外形、二酸化炭素は、どうやって取り込むのだろう?
疑問は尽きないが、・・・、

私たちもまた、「海」に由来する生き物であることを、感得することができる、「しあわせ」な一瞬で、あった・・・。

・・・

今年の海は、これで最後になるかも知れない。来週の中ごろが「旧盆」、沖縄では、死者たちは、海の向こうの「ニライカナイ」からやってくる。そんなときに海に入ると、「ひっぱりこまれるぞ!」と、土地の人たちは海に近づかないようだ。
それに、今日あたりはもう、水から上がるとやや肌寒いほど。「夏」も、終わりなのですね・・・。

「旧盆」には、死んだ猫ちゃんたちも、やってきてくれるのかなぁ?そうならば、「旧盆」の休みは、彼らを「お迎え」して、部屋でごろごろ昼寝でもして、過ごそう。


ムラサメモンガラ(モンガラカワハギ科)


手前:サザナミハゼ(ハゼ科)かな?、奥:種名不詳、おそらくハゼ科、おそらく、ペア?


ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)、の幼魚。


これまた、名前が、わからない、おそらくスズメダイ科。


トゲチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)の幼魚。珍しく、ゆっくり泳いでくれたので、きれいに、撮れた♪

☆★☆

四日目の、「新・捨て子四兄弟」。


新・捨て子四兄弟、左:「ちゃとら」。後姿・・・。右:「とら」。後姿・・・。


新・捨て子四兄弟、左:「しろ1」、たぶん?。横顔・・・。右:「しろ2」、たぶん?。正面・・・。

2009年08月29日

「小人の国の、ガリバー」または、「釈迦入滅図」・・・?



週末、また寝込んでしまった。五日間働いただけで、より、正確に言うと、五日間、人間と接触しただけで、毎回これほどまでに「疲弊」してしまうとは、やはり、「ひきこもり」も立派な「治療行為」なのであって、さぁ、これから一週間、「旧盆」のお休みは、ゆっくり「治療」に専念させてもらおう♪

私が昏々と眠り続けているあいだ、猫たちも、大概は眠っているのだが、時に目を覚まして、「あれ、今日まだごはん出てないぞ?」と気・づ・い・た・りしたのだろうか、そんなときは、私の身体の周りに、ぞろぞろと集まってくる。
「小人国のガリバー」、の、ようでもあり、そう、釈迦が死の床に臥せっているとき、犬や猫や猿や鳥や兎や蛙や魚までありとあらゆる生き物が、そのまわりに集まってその死を嘆き悲しむ図、というのがあっただろ?、あれは日本のどこかの寺に所蔵されている絵だったのだろうか?、だとすれば「日本史」の教科書で見たのかな?・・・、それらを思い出して、「ガリバー」や「釈迦」になった気持ち(?)である。


アメリカハマグルマ(キク科)、と、ヤマトシジミ(シジミチョウ科)。

その釈迦の「入滅」図の巨大な模写が、いつもお世話になっている「ペットの葬儀屋さん」の祭壇に掲げてある。
人間が苦手で、接触しただけで寝込んでしまう私でも、猫のお葬式のときには、生前その猫ちゃんがどんなに愛らしかったか、とか、誰か、もちろん人間に、「語り」たくなるものであって、そんなとき、この葬儀屋さんの従業員のみなさんの心のこもった、しかもプロフェッショナルな、応対に、どれほど心が休まったことか!


海を見つめる(?)、キジバト(ハト科)。

だから、その「入滅図」の前で、焼香のあと、いよいよお別れというときに、「では、合掌、お願いいたします」、と厳かな声で命じられると、
「宗教は阿片である」と断ずる「マルクス主義」の徒である私も、お・も・わ・ず・、手を合わせてしまうのであった・・・。

☆★☆新・捨て子四兄弟・日記

えっと、特に、何も言うこと、ない、くらい、全員、元気、な、わけです・・・。今のところ、どれも死にそうにない。でも、目を覚まして、あわてて籠のふたを開けて、・・・、1,2,3,4、ちゃんとどれも動き回っていることを確認するまでは、やはり、息が止まるほど、緊張する・・・。


新・捨て子四兄弟。「ちゃとら」、一人だけ、おめめ、あきまちた♪


新・捨て子四兄弟。「トラ」、壁、這い上がり中。


新・捨て子四兄弟。右下、「しろ1」、あごにちっちゃな黒い天、これで識・別・。


新・捨て子四兄弟。左「しろ1」、右「しろ2」。「しろ1」には頭に黒い模様あり、「しろ2」にはなし♪

☆★☆このごろの、「びー」


このごろの、「びー」。なぁ?わし、「主人公」、やろ?

今日は、小屋の外にほっぽり出したまま、おとーちゃん、寝てしもて、台所の板の間でウンコしてしもてんなぁ〜。ごめんごめん。
写真は、その後、「お尻のまわり・シャンプー」後、少し、不満そう、かも知れない・・・。

2009年08月30日

「26_Colors/26色の色鉛筆」



「新学期」だし、いや、それはどうでもいいが、ひょっとしたら、たちまち「30色の色鉛筆」になってしまうかも知れないから、・・・、「出席」をとっておこう。
毎日欠かさず、この猫たちに、餌を出したり、ウンコの掃除などをしているのに、振り返ってみると、「ちゃんと全員いるのか?」と、ここしばらく「確認」していなかった♪
ひどい「親」である。


「にょろ」・「キキ」・「テン」・「ロッシ」


「みけどん」・「ちー」・「リー」・「エマ」


「ココ」・「おー」・「チェリー」・「モモ」


「ぷー」・「ココビー」・「にこびー」・「いちこぷー」


「にこぷー」・「さんこぷー」・「ムー」・「ぼうず」


「とら」・「トン」・「クー」・「たま」


「ちょび」・「びー」

はぁ〜い、ちゃんと26匹、いました。

☆★☆

夏が終わるのが悲しいのは、歳を取ってしまうのが切ないのは、
「まだ、しなければならないこと」、に比して、「残された時間」、の、絶望的な「足りなさ」が、次第に明らかになっていくからだろう?
「夏休み宿題ノート」の真っ白なページを前にため息をつく小学生みたいに・・・。

お酒やタバコや、テレビを見ることや、音楽を聴くことを、「やめる」より、ずっと以前に、私は「何・者・か・になる」、いわゆる「自己実現」ってやつを、すっかり「やめて」しまっていたから、
よく考えれば、私には、何も「時間を惜しむ」理由が、ない。

「読み終わるのが惜しい」、ような小説や、「観終わってしまうのが残念だ」、というような映画など、めったにあるものではない。大概は、あと何ページ、あと何分くらい、と「終わり」を心待ちにして退屈さを紛らすものだ・・・。

少しだけ、気がかり、と言えば、
この世に存在しているすべての「スズメダイ科」の名前を「知る」こと、
この世に存在しているすべての「キク科」植物の名前を「知る」こと、
・・・などなど、
かも知れない。
前にお話したでしょう?自然数が「無限」にあるのなら、5の倍数だって「無限」にある。その「濃度」は同じだ、と証明できる。
もし「スズメダイ科」の魚の種類が、「無限」にあるのなら、私もまた、「無限」に、生きれば、よい。・・・。簡単なことだ♪

☆★☆


「新種」発見、コケセンボンギクモドキ(キク科)、「苔・千本・菊・擬き」、ですか?きわめて小さいので、老眼にはピントが合っているのかどうかも、わからない、のだ。


カタバミ(カタバミ科)の花と実。これも、かなり小さい。これらを見るために、100円ショップで「虫眼鏡」を買ったのだが、持ってくるのを、忘れた。まさに、老人、である。

一番上の写真は、夏が、終わっても、・・・、シロノセンダングサ(キク科)。一年中咲くらしいからね♪

2009年08月31日

I_Read_a_News_Today,_Oh!_Boy...・「今日、新聞で見たんだ・・・。」



冷蔵庫からミルクを取り出そうとすると、決・ま・っ・て・、容器を倒してしまう、猫の餌をカップに取り分けようとすると、決・ま・っ・て・、カップをひっくり返してしまう、お茶を薬缶からペットボトルに移し替えようとすると、決・ま・っ・て・、あふれさせてしまう。
少し注意すれば回避できるミスが、回避できない。自分でも、あぁ、こんな持ち方したら、き・っ・と・、取り落とす、と、知りながら、や・っ・ぱ・り・、取り落とす。
自分は、「元来」、そんなに大・雑・把・な、雑・な・性格ではない、と思っている、几・帳・面・だからこそ、こんな病気になる、・・・、だからこそ、そんなことすら出来ない自分がふがいない。
「うつ病」の症状として、注意力が散漫になったり、手先の動きが鈍くなったりすることは、ありうる。でも、単なる「年のせい」、「更年期障害」、「自律神経失調」かも知れず、だが、もはや、「原因」の究明が問題なのではなく、事実として「出来ない」ことが、「落ち込み」を加速する。

そんなときは、「眠る」しかない。さいわい、横になれば、い・つ・で・も・、眠りはやってきてくれる。奇妙奇天烈な「夢」をたっぷり見て、汗びっしょりにうなされて、・・・、それでも、目を覚ませば、少し回復している。

☆★☆新・捨て子四兄弟

はやいもので、もう一週間になる。おめめが早々と開いた「ちゃとら」だけ、特別扱いで、「巻頭」(↑)を飾ってもらおう♪
200ミリリットルの「子猫用ミルク」、2パック目に突入。10ミリ・シリンジ、私・が・もう少し「回復」したら、動物病院に新しいのをもらいに行かなければ・・・。


「しろ2」:あごに黒い点が、ないでしょ?


「とら」:一番からだが小さい、と思われたが、ミルクもたくさん飲むし、あまりかわらなくなってきた?


「しろ1」:あごの黒い点、が、特徴。

☆★☆Good_News!!

以前ご紹介した、不明瞭な写真で、「科」もわからない「新種」のトリ、・・・、名前判明♪


ツミ(タカ科)、雌、と思われる。

地方紙の日曜版に「こども」欄みたいなのがあるでしょ?
えっと、私は新聞を取っておらず、読みもしないのですが、猫トイレ用に職場から古新聞いただいてきているので、
だいたい、一週間後、ぐらいに、おしっこのしみこんだ新聞紙取り替えながら、「へぇー、選挙があったんだ?」、みたいに世の中につ・い・て・い・く・、わけですが、・・・、

「ツミ」、日本に産するもののうちではもっともサイズの小さいタカ科の猛禽類であって、沖縄では唯一の留鳥、Resident_Breeder、で、近年では都市部の松林などに巣をかけて繁殖する。育雛期が4月から7月、ということで、6月下旬の日付のこの記事には雌が雛に餌を与えている写真が掲載されているのだが、私はもちろん、今日、それを発見し、猫がおしっこをかける前にあわてて回収した、次第、なのだ。
雄はヒヨドリより少し大きい、雌はキジバトより少し小さい、なるほど、的確な表現である。記憶では、ハトより少しでかそうな気がしたのだが、高木の上でもあったし、・・・、雄の「脇」から「腹」にかけて、ほら、「ピヨ」ちゃんのおかげ、ちゃんと鳥の部位について「テクニカル・ターム」が使えるようになった♪、・・・、はオレンジ色で、雌には細かい横縞、とあるから、雌だったのであろう。


ツミ(タカ科)、拡大図。

図鑑によると、これでどうやって「ツミ」と読めと言うのかわからないが、漢字表記は「雀鷹・雀鷂」。なるほど、「雀のごとく小さな鷹」であるか?「鷂」というむずかしい、多分JIS第二水準の漢字は、「ツミ」より少しサイズの大きい同じくタカ科の、「ハイタカ」であるそうだ。これが英語ではsparrow_hawk、「雀鷹」なのだから、困ったね。

・・・
はいたか【鷂】(European) sparrow hawk:《「はしたか」の音変化》タカ科の鳥。雌は全長39センチくらいで、上面が灰褐色、下面は黒褐色の横斑がある。雄は全長32センチくらいで、このりとよばれ、上面が青灰色、下面は橙褐色の横斑がある。ユーラシアに分布。日本では低山の林にすむ。
はしたか【鷂】ハイタカの別名。《季 冬》
はしたかの【鷂の】[枕]ハシタカの羽や尾、また、鈴をつけ鳥屋(とや)に飼う意から、「端山(はやま)」「尾上(をのへ)」「すず」「外山(とやま)」などにかかる。
・ 「―外山の庵の夕暮れを」〈新勅撰・恋五〉
・ 「―端山がくれの露なれや」〈新続古今・恋一〉
・・・

「はしたか」の「枕詞」の説明(↑)から察するに、これは「鷹狩り」に用いられていた、ということなのか?久しぶりに「ウンチク」が広がった♪♪

ちなみに猛禽類なのだから当然だが、餌は、「スズメ、メジロ、シロガシラなど」、・・・、ということだから、そういえばあの時、まわりで小鳥の声がしなかったかも知れない・・・。

・・・

猛禽類、つながり、ということで。ずっと以前、うちの屋上にお越しいただいた、「サシバ(タカ科)」、「旅鳥、または冬鳥」であるのに、6月ごろにもお見かけしたから、渡りをしなかった「落ち鷹」と思われるのだが、その後、いかがお過ごしであろうか?


サシバ(タカ科)、うちの屋上で、ぽつねんと休んでおられた・・・。

2009年08月31日

loneliness_is_the_very_condition_of.../ 「孤独について」



今日から三日間が、「旧盆」であるらしい。今日が「うんけー」、明日が「なかぬひー」、明後日が「うーくい」、だったっけ?こちらの言葉では、そう呼ぶらしいことを、ジャスコの入り口の「旧盆の過ごし方」みたいな貼紙を見て、知った。
何日目には、何を食べ、何をお供えする、などの決まりごとが、説明されている。こんな紙が貼ってある、ということは、この島でも若い人たちには、すでにこの「伝統行事」につして、いろいろわからないことがある、ということなのだろうね。

初日の今日は、ご先祖様が、やって来られる日なので、間違いなく目的の家にたどりつけるようしるしになるものを飾ったり、おもてなしの品を並べたりする。
ただし、「無縁仏」や「餓鬼」が、紛れ込まないように、生姜の匂いをさせておくのだそうだ。でも、すでに紛れ込んでしまった「無縁仏」や「餓鬼」にも、なにがしかのおすそ分けがあてがわれるシステムであるらしいことが、ほほえましい。

この島に、何の係累もない私は、この聖なる三日間、何もすることがない。亡くなった猫たちのことでも、思い出しながら、こころ静かに、読書にでもふけることにいたしましょう♪

☆★☆

・・・しかし「世間」とうまく折り合うことができない人は「世間」の本質を知り、歴史と直接向き合うことができる。そのような意味で歴史はまず「世間」とうまく折り合えない人が発見していくものである。
「日本人の歴史意識」阿部謹也(岩波新書)

私は漠然と(『異邦人』の)ムルソーのような生活、(『分別ざかり』の)マチウのような生活、あるいは(『変身』の)ザムザのような生活を思い描いていた。平凡な会社員だが、何かつきつめたところがある。譲れないところがある。そんな男。そうなりたいと願った。だが、私は甘かった。それが、幻想の産物であることを知ったのである。ムルソーにもマチウにもザムザにも、事務所や学校や会社がある。そこには他人たちがいる。他人たちとの生活がある。どんな組織に入っても「つき合い」はある。それは無性に恐ろしい。誰ともつき合わずに、しかも金をくれるところはないか?私は考え続け、当然答えを見出せなかった。
「孤独について」中島義道(文春新書)

☆★☆本日の、「新・捨て子四兄弟」


新・捨て子四兄弟。左から、「ちゃとら」、「しろ1」、「しろ2」、「とら」。


新・捨て子四兄弟。今度は、左から、「とら」、「しろ2」、「しろ1」、「ちゃとら」。

☆★☆26_Colors・補遺


「びー」、新しいお友達?、「たま」です。

今は、昼間家にいることが多いので、「びー」を小屋から出して、そこらへんに「転がして」おくことにした。閉じ込めておくと「うぇーお♪、うぇーお♪」と、「出してくれぇー!」ということなのか、うるさくてしょうがない、から、でもある。
後足が不自由でも、前足を使って器用に動き回る。でも、お尻を引きずるから、段差があるところは危ないし、どこかに後足が引っかかったりはさんだりしないかと、心配だから、眠るときや出かけるときは、申し訳ないが、閉じ込めるんだが・・・。
これは、そんな「お出かけ」の、ひとこま。

☆★☆

うちには、犬も、あと、カメも、いるのでした。「かめお」は、またのちほど・・・。


左:「ペペ」、右:「はな」

☆★☆とりログ




上:ササゴイ(サギ科)、した:ゴイサギ(サギ科)。どちらも、「夜行性」と言われているが、まだ日はこんなに高いのに、獲物を待って「待機」されているようである。
何ごとにも「例外」があり、「偏り」があり、「個体差」がある。「多様性」と言うものがある・・・。

☆★☆花ログ


タイワンクズ(マメ科)か?葉は三枚の小葉からなる3出複葉、・・・、なるほど。

葛の花は、山上憶良が秋の七草に詠んでいるそうだが、ここでは、秋までには「雑草」として刈り取られてしまいそうだ・・・。

雑草と云えば雑草だが、名前はクズでも屑にならないほど有用な植物でもある。まず、その太く長く伸びる蔓は強靭な繊維を持ち、昔は縄代りに用いられていたし、その繊維を利用して葛布が作られていた。地下には太い根があり、良質の澱粉を含むため、葛粉として食用にもされる。葛餅は、この澱粉を加工したもので、黄粉と糖蜜をかけて食べるその味わいは、独特の舌触りと風味があって喜ばれる。この根を刻んで乾かしたものは「葛根」と少子、薬用として用いられる。風邪薬として有名な葛根湯(かっこんとう)の原料である。・・・
「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)

クズの根から澱粉をとってクズコを作るのは、うっかりすると日本だけのように考えがちだが、じつはたいへんな誤りである。最近になって、だんだんわかってきたが、クズは南太平洋のメラネシアの島々に案外ふつうに見いだされる。・・・
クズはさらにシナの南部から日本にわたって、同じように根から澱粉をとるのに使用されている。クズという植物は温帯植物だから、シナ、日本の場合は不思議ではないが、それがメラネシアまで伝播したことは、温帯の原産地でクズ利用を含む文化複合が熱帯へ伝播をおこすまえに成立していたことを示すものである。
・・・
「栽培植物と農耕の起源」中尾佐助(岩波新書)

☆★☆

一番上の写真は、もちろん、シロノセンダングサ(キク科)。舌状花が太陽に透けて見える。

2009年09月01日

「生き物」の「生き方」。



四日間ほど、犬の散歩以外には、外に出ていない。「消費」活動、「購買」活動、もしていない、ことになる。財布を最後に開けたのは何日前だろう?お金を使わないのは結構なことではあるが、
コーンフレークにかける牛乳がなくなり、台所の棚の中を漁ったら、袋入りのスープが固まって変色しているような「スープはるさめ」発見、これで飢えをしのぐ。
学校や会社だって三日も休むと四日目はなおさら「顔出しづらくなる」ものだろ?そうやって、そのまま学校や会社、やめちゃった人だって、きっとザラにいるよな?
もはや、外に出ることが「恐怖」である。
犬の散歩の時だって、
路上駐車の車を避けて、道路の真ん中に出ると、ほら、次の曲がり角から左折車が、突っ込んでくるんじゃないか?・・・、
そんな「気遣い」だけで、もう、「動悸・息切れ」であって、
車のエンジン音、クラクション、歩行者信号、ゴミ回収車、子供の声・・・、そんな「ありふれた」都会の音たちが、衰弱した神経を「逆撫で」する・・・。
こんな「怖い」世・界・、人々はよく平気な顔をして生きていられるものだ・・・。

スーパーマーケットの硝子の壁に映るわが身は、「旧盆」の「送り」の日にふさわしく、まことに「この世」のものとも思えぬ「やつれ」ぶりである。
この「恐怖」に満ちた「世界」に、私は、牛乳を買うために、「命がけで」出掛ける。
月曜日になればまたふたたび、この「恐怖」に満ちた「世界」に、牛乳・猫の餌・その他の代金を稼ぐために、「命がけ」で出掛けて、働かねばならない。
でも、きっと、「生き物」は、そうやって生きてきたんだ♪

☆★☆

一昨日の朝、新・捨て子四兄弟「しろ1」ちゃんが亡くなった。拾ってから一週間、仕事の間ずっとほっぽり出して置いても大丈夫だったし、前の日なんか、籠の壁よじ登るほどの元気さだったから、油断しすぎたんだな。
毎日夕立が降って、気温もそんなに高くなかったから、自分の出したおしっこで下半身がぬれて、身体が冷えてしまったみたいだ。
脱脂綿で拭いて、新しい脱脂綿にくるんで、「ペットボトル湯たんぽ」ほどの寒さでもないから、左手の手のひらに載せて暖めた。指で身体をマッサージすると、力弱く前足を動かしてくれる。注射器のミルクを咥えさせると、少しは飲み込んでくれる。
小刻みな心音が手のひらに伝わってくるし、呼吸のたびにゆっくりとおなかが上下して、ちゃんと、「生きて」いる。
でも、もう、頭をまっすぐに支えることができなくなっていて、「時間の問題」であることも、わかった・・・。


新・捨て子四兄弟・さようなら、「しろ1」ちゃん。

ごめんね、こんな写真しかなくて・・・。昼間、明るいときに撮りなおそう、と思っていたのにね。それから、あごに黒い点がある、なんていったけど、うそ。新聞紙の上はいまわったから、汚れがついていただけみたい・・・。

☆★☆

その翌日、新・捨て子四兄弟「とら」ちゃんも、亡くなった。朝、ミルクはちゃんと飲んでくれたが、すでに動きが少し鈍くなってきていたから、・・・。
ずっと左手の手のひらの上で暖め続けた。時折、頭を起こして足をばたつかせたりしたものだから、そんなときは「ぜひ、生き延びてくれ!」と念じたものだが、
結局、私はそうやって、やがて必ずやって来る「とら」ちゃんの「死」を、ひたすら「待ち」続けたことになる。
昼過ぎぐらいだったか、脱脂綿の枕の上に寝かせて、少し私が目を離した間に、亡くなったみたいだった。
いつも、「生」と「死」の境目の「瞬間」は、わからないものなのだ。


新・捨て子四兄弟・さようなら、「とら」ちゃん。

そうそう、亡くなる日の朝、他の二匹も、「とら」ちゃんも、目が開いたんだよ・・・。

☆★☆

上の写真は、これまた、シロノセンダングサ(キク科)。花から種になる途中。
一番初めに「名前」を「知った」、からかも知れないが、私は、この花が、好きだな。

以前は子猫のお墓には、花を「手折って」、供えたものだが、「雑草ウォッチャー」となった今は特に、折ってくるのが申し訳なくて、すでに落ちてしまったブーゲンビリアの「花」などを拾ってきてお供えにする。何度も言ったが、ブーゲンビリアの「花」は、「花」ではなく「がく」だから、しおれにくく、かさかさに乾いて落ち葉のようになるから、なお、よい♪

2009年09月04日

「わたしの魂のせいだ」



久しぶりに快晴だったので、「社会復帰」・「リハビリ」の手始めとして、散歩に出かけた。九月になってすっかり観光客もまばらになった龍譚池から首里城の裏手に出る新しい道を見つけて、メジロもイソヒヨドリも鳴いている、ウラナミシジミも飛んでいる、シロノセンダングサも咲いている、・・・、ほら、ちゃんと上機嫌になれたから、一応仮の目的地のつもりにしていた図書館が、ね・ら・い・す・ま・し・た・ように、「休館日」であっても、それほど「落胆」せずに、すんだ。


龍譚池の、新・新・ダッキー。


龍譚池の、新・新・ダッキー、ママの後ろに隠れよう♪

☆★☆

「自分」のことを書くのは、「恥ずかしいこと」だと思ってきた。
自分の持っている自転車や着ている服が、「友達」のものより安物で、母親の作ってくれる弁当が、「友達」のものより彩りに乏しく、貧しく見える、だから、「隠さなければならない」・・・、が習い性となっていて、
だからせめて文章を書くときは、そんなみじめで恥ずかしい「自分」から遠く離れて、「大所・高所」から論じなければならない、と、友達に手紙書くのさえ、まるで「アジビラ」みたいな文体だったのだね。

「病気」になって、「病気になった自分」について考えなければならなくなって、「書く」こと以外に「考える」方法が思いつかなかったから、書き始めたとき、
あ、ここでは、どうせ、誰も見てないし、「自分」のことについて書いてもい・い・んだ♪
と、気がついて、たいそう嬉しかったのを、記憶している・・・。

「みじめ」で、「恥ずかしく」て、実は「愚鈍である」ことがばれないかといつも不安であったのに、偉そうに「世界」を論じていたことが、「間違い」だったわけでは別になく、
偉そうに論じている自分の「裏側」にぴったりと、「さかあがりができないよぉ〜」、「給食のおかずが食べれないよぉ〜」と泣いている自分が貼りついていることを、ちゃんと知っているのに、気づかない振りをしているストレスが、「病気」と、少し、関係があるような気がしたから、それを解除するには、
お〜よしよし、みじめでもいいんだよ♪、恥ずかしくてもいいんだよ♪、と、自分で自分に言ってあげなければならなかった・・・。

で、7年たった。あれ、書くことが、ないよ?、ってことがこの頃時々あって、この二三日もそうだったんだが、・・・、
先生!、これって、ひょっとして「治った」ってことなんでしょうか?

・・・

新・捨て子四兄弟、二兄弟になってしまったが、生きているよ。不安でしょうがないから、一時間ごとに籠のふたを開けて指で触って体温を確認する、そのたびに、昼寝を中断させてしまっている・・・。ごめんね♪

☆★☆

魚の個体のふるまいは、つぎのように遺伝的にプログラムされているとしよう。進行方向に対して、左右に仲間がいる場合には、直前の仲間に続いて泳ぐ。左右のうち一方(例えば左)にしか仲間がいない場合には、斜め前方(斜め左)の仲間に続いて泳ぐ。各個体の(ベスト)レスポンスがこのようなものである場合には、魚はおのずからひとつのかたまりになって泳ぐであろう。
・・・
「ゲーム理論を読みとく」竹田茂夫(ちくま新書)

この本の主題にとっては本質的な部分ではないのだが、過日遭遇したアミアイゴの幼魚の大群のことを思い出して、なるほど、と・・・。


無花果・研究。ガジュマル(クワ科)かなぁ?当然、メジロがたくさんいた♪


無花果・研究。ガジュマル(クワ科)かなぁ?無花果、割ってみた。

☆★☆

なんにしろ、わたしが並外れて不器用なのは、わたしの趣味のせいではなくわたしの魂のせいだ。
・・・
「君は永遠にそいつらより若い」津村記久子(ちくま文庫)


今度は、ウラナミシジミ(シジミチョウ科)、と、アメリカハマグルマ(キク科)。ウラナミシジミの食草は?、・・・、マメ科植物、とのこと。

☆★☆

一番上の写真は、枝の上で歌う、イソヒヨドリ(ツグミ科)。

2009年09月04日

「瓜の蔓にゃ、茄子は生らぬ」



「しろ2」も、あたま起こしてられないみたいだし、やっぱりだめなのかなぁ?と、悲観的になっていたのだが、
昨日一日、何とかもってくれたし、ミルクもゆっくりだがちゃんと飲むし、ときどき鳴き声もあげるし、・・・、
何とか、生きてね♪

気が気じゃないから、出かけることもできない。もちろん、出かけるべきところがあるわけではないし、「気が気じゃない」こと自体が、「しろ2」も、また、わたしも、「生きている」証なので、それはそれで、よい。
生き物は、もちろん、いつでも、いつ死ぬかわからないのだが、こんな小さな子供の成長においては、どこかの段階で、もはや「後戻り」しにくくなるような「安定的」な「大きさ」を獲得することになるのだろうが、それが「いつ」なのか?どのくらいの「大きさ」なのか?がわからない以上、当分の間、「気が気じゃない」、ままなのであろう・・・。


新・捨て子二兄弟、「しろ2」。頭がふらふらして、あぶなっかしいけど、ミルクは飲むし、・・・、生きてね♪


新・捨て子二兄弟、「ちゃとら」。たくさん食べるし、たくさん、歩く。

「ちゃとら」の方はといえば、なにか身体が「丸み」を帯びてきて、コロコロした、「子猫」らしい身体つき、のようにも思えるから、これでもう大丈夫、なのかも知れないが、・・・。

今日は、それしか言うことは、ないよ♪

☆★☆


「瓜の蔓にゃ、茄子は生らぬ」、オキナワスズメウリ(ウリ科)。そろそろ、今年最後の実かな?

上の写真は、キダチイヌホウズキ(ナス科)。まだ、花が咲き、実をつける。
昔から、「瓜の蔓にゃ、茄子は生らぬ」、「鳶は、鷹を生まぬ」と申しますが、・・・、
わが家の「菜園」は、主にそのウリ科とナス科が、からみあってできているのであった。

2009年09月05日

「城壁の、鳥」、または、「トリビアル」な、「努力」



「しろ2」が心配だから、2時間おきくらいに、ミルクを少しずつ飲ませることにして、そのたびに様子を見る。
その「授乳」が終わり、他の猫たちもみんな「昼寝」モードに入ってしまうと、しばらく私は、何・に・も・す・る・こ・と・が・な・い・、から、また「リハビリ・散歩」に出かけた。

本当に、「何・に・も・す・る・こ・と・が・な・い・」のだろうか?歩きながら考えた。
「こころ」、というものがどこにあるのか知らないが、そのどこかわからない「こころ」のそのまた「奥」のどこかにもやもやとわだかまったものが、いつでもあって、そこが漠然とした「不安」、「焦燥」、・・・、といったものの「源泉」になっている。
いつも、「何かし・な・け・れ・ば・な・ら・な・い・ことがあるはずだ」、と急き立てられてきた。いつも「なすべきことを、し・て・い・な・い・」ことを悔いている状態だった。

でも、その「なすべきこと」は、おそらく「よりよい仕事をする」とか、それを通じて「より、愛される『私』になる」とか、に関わることで、そんな「努力」をしてしまったから、
今度は「『努力』したのに、成果が上がらない」ことがストレスとなって、また「発病」したりするわけだから、そういうのは、やめよう。


何を見ているのだろ?キジバト(ハト科)。

「努力」をするとしたら、なるべく「トリビアル」な、・・・、つまらないこと、
決して、「市場」や「世間」で「因果応報」の関係を生み出すようなものではなく、

たとえば、
捨てられていた猫が生き延びて、うれしい、とか、
どこにでも咲いている花の名前を覚えられて、うれしい、とか、
そういうことだけにしておこう、
と、決めたのだった。


夕暮れ時、川の上を飛び交う、リュウキュウツバメ(ツバメ科)

一番上の写真は、城壁の、イソヒヨドリ(ツグミ科)。「城壁」って、もちろん、首里城ですわよ♪
うちから歩いて30分もかからないのに、もう10年、観光客だったとき以来、一度も中には入っていないけれど・・・。

☆★☆ついに!、オオゴマダラ、撮影♪

いつも犬の散歩のときに通りかかる同じ場所で、何度か見かけたことがあるのは、食草のホウライカガミがここに植わっているのだろうか?ホウライカガミとは何ぞ?(↓)、なるほど・・・。あったかも知れん。しかし、他人様の家の庭だから、「葉腋に短い集散花序、高坏形で深く五裂・・・」、などとじっくり観察できるかどうか?
当然、無闇にカメラを向けるわけにもいかず、隣接する畑に飛来したところを撮影。なかなかとまってくれないので、こんなボケボケではあるものの、・・・。
翅をひろげた面・積・では、沖縄で見られる蝶のうち最大、と言われる。「長さ」で見ると、後翅の先端に「尾」みたいなもののついたアゲハチョウ類のほうが、でかかったりするのだろう、・・・。たしかに、でかかった♪、夏も終わりだから、翅もかなり傷んでいるようであった。


オオゴマダラ(マダラチョウ科)

・・・
ホウライカガミ【蓬莱鏡】Parsonsia laevigata (Moore) Alston
キョウチクトウ科の多年生つる草。葉は対生し、卵円形または広楕円(だえん)形で長さ6〜8.5センチ、毛はない。夏、葉腋(ようえき)に短い集散花序をつくり、多数の白色花を開く。花冠は高坏(たかつき)形で深く五裂し、長さ約7ミリ。雄しべは5本、葯(やく)は互いに接し、花柱を囲む。果実は2個の細長い分果からなり、長さ7〜10センチ。種子は一端に長い毛がある。沖縄、および東南アジアに分布する。

2009年09月05日

「渡り鳥」・の・「孤独」



「あら、ダイサギさん、お久しぶりです。そろそろ、涼しくなりましたね。」
「ええ、私はここが気に入りましたので・・・。」


ダイサギ(サギ科)、と、バン(クイナ科)。ボタンウキクサ(サトイモ科)、の上で・・・。


ダイサギ(サギ科)、と、バン(クイナ科)。ボタンウキクサ(サトイモ科)、の上で・・・(拡大図)。

暖かい越冬地を求めて南へ旅する「冬鳥(Winter_Visitor)」が、夏に北に戻らなかった、ということは、そこでの「繁殖行動」に加わらなかった、ことを意味するんだろうな。
「渡り」をしない、というのはその直前に、長距離飛行に耐える体力を蓄えることができなかった、とか、いろいろ事情があるのだろうから、・・・、
「彼」か「彼女」か存じ上げないが、「あら、あなたも『孤独』が好きなのですね?」などと、「擬人的」に「共感」している場合では、ない。

で、例によってカメラを向けると、まるでそれを察知したかのように、ぷぃ、と飛び去ってしまう、その先に、・・・、


アオサギ(サギ科)。おゃ?もう渡って来られたのですか?

こちらは、おやっ?、アオサギさんでは、ないですか?
図鑑の記述によれば、「冬鳥」は一般に9月からでも見られるようであるが、まだ上旬、こんなに暑いのに?
市内の別の干潟で、クロツラヘラサギさん、らとともに目撃したのが、7月初旬だったから、こちらも、同じく「渡り」に参加されなかったのかも知れないが、
この遊水地でお見かけするのは、4月ごろ以来はじめてだから、あるいは、もう「渡り」が始まっているのかも知れない。悩ましい・・・♪


アオサギ(サギ科)。おゃ?もう渡って来られたのですか(拡大図)?


飛び去る、アオサギ(サギ科)、拡大図。

☆★☆「ホウライカガミ」・続論


これが「ホウライカガミ(キョウチクトウ科)」、オオゴマダラの食草。

「夏、葉腋に短い集散花序をつくり、多数の白色花を開く」とのことだが、花は見つかりませんでしたね。
この植物も「毒草」で、これを食して育ったオオゴマダラもまた、カバマダラなどと同様「毒蝶」、そうやって捕食者から防衛しているのであった。

☆★☆「新種」・発見


アオイゴケ(ヒルガオ科)、と思われる。

日陰のアスファルトの隙間に貼り付いているような、ものすごく小さな植物なので、「つる性」のようにも見えないし、見ただけでは、とても「ヒルガオ科」とは思えない。

☆★☆

一番上の写真は、もちろん、「渡り」とは関係なくて、・・・、ホウオウボク(マメ科)の中で、「ぴぃ〜ぃ♪」と絶叫する、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)。

2009年09月06日

待ち続ける、以外に方法がない、事柄、について



一昨日の晩から、「しろ2」も、それにあんなに元気だった「ちゃとら」も、急に弱ってきて、
「しろ2」はもう起き上がれない。二人ともミルクはまだ飲み込めるが、飲める量は激減してしまった。
それでも、手を触れるとちゃんと体温はあって、かなり大きな声で鳴いたりするから、時々「希望」を持ってしまう・・・。

だから、「リハビリ・散歩」なんて言ってたけど、うそだ。
近い将来、確実に発生することは明らかであるが、その発生が「いつ」であるか特定できないから、ただ、待ち続ける、以外に方法がない。
それは、実は私たちの「生」そのものの、ミニチュアみたいなものなのだが・・・、
そうやって、次第に近づいてくる、決して「後戻り」することはない、「死」、の兆候を見つめながら、「しろ2」のそばにい続けるのが、とても、息詰まる思いがしたから、
外に出てみたのだけれど、でも、今度は、ほら、ちょうど、今、息を引き取るところではないか?、などと気が気でなく、早々に帰ってくる。

もう目も閉じて、横様に倒れてぐったりしているけれど、それでも、おなかをさすると、「ぴぃ〜ぃ!」と声を上げ、手足を動かしてくれる。


さようなら、「しろ2」ちゃん。まだおめめが開いていないときの写真だけどね・・・。

それから、数時間、「しろ2」は、生き続けた・・・。

一番上の写真は、オジギソウ(マメ科)。写真で申し訳ないけど、これもお供えにするね♪それから、ご近所から、落ちたブーゲンビリアの花、ちょっと干からびてるけど、拾ってきたから・・・。あんたたち、ミルクしか飲めなかったから、「お土産」、何にしようかね?

☆★☆とりログ・「鴻鵠」編

ササゴイ(サギ科)と思しき鳥、近接撮影に成功。


これは、ササゴイ(サギ科)、でしょう?

近くで見ると、柄は「ササゴイ」のようにも見える。ただ、気になるのは、図鑑の記述によれば、「ゴイサギ」は「冬鳥、一部留鳥」だから、一年中いてもおかしくない、現に一年中、いた、
のに、「ササゴイ」は「冬鳥」となっている点だ。とすると、これも、依然として「ゴイサギの若鳥」、という可能性もある、悩ましい・・・♪


ダイサギさん、また、飛んでいかれた・・・。

☆★☆「新種」・発見


オオアレチノギク(キク科)。「ど・こ・に・で・も・生えている雑草」として有名なはずだが、こちらでは、同じキク科の「シロノセンダングサ」に押されて、それほど多くは見かけない。


これは、ジシバリ(キク科)、か?

2009年09月07日

「私」は、「あなた」が生きていること、に、依存、している!



「弱り」はじめてから、丸一日、でも、「ちゃとら」♪、ま・だ・、ちゃんと、生きてるゾ!!
真夜中に、鳴き声で目を覚ました。おしっこで新聞紙がぬれたから、かな?
ミルクは、ほんの一二滴ごとにむせ返ってしまうけれど、ちゃんと、「ぴちゃ、ぴちゃ」と舌を動かして、飲み込む♪
手のひらの上で、暴れ、手のひらにしがみつく「力・」も、ちゃんと、伝わってくる・・・。
「ごろごろ・・・」、甘・え・た・声さえ、出してくれるじゃないか!

もっとも、「ごろごろ・・・」が「甘えた」徴なのかは、人間の思い込みなのかも知れない。
「ごろごろ・・・」の音が、「骨密度を高める振動数」を持っている、だから、身体が、自ら「治癒」する機・能・、なのだ、という話もある。
はじめてうちにやってきたとき、つまり腎不全で「死にかかって」いたとき、「びー」も、さかんに「ごろごろ・・・」したものだ。

ともかく、ま・だ・、生きている、から、・・・、喜びの余り、一筆啓上、だ♪
「私」が、していることが、「あなた」が生き延びるた・め・に・、「役に立っている」、とは、もはやあまり思えなくて、というか、それはもうすでに二次的な問題で、
「あなた」が、生きていることが、「私」の行動を条・件・付・け・、規・律・している。「私」は、「あなた」が生きていること、に、依存、している!

2009年09月08日

「自由軒のラ、ラ、ライスカレー」



小難しい本を読む集中力がなかったので、何か気楽に読めそうなもの、と、そこらへんの本、といってもうちには本棚はない、「紙」でできたものはすべて潜在的に猫のおしっこのターゲットとなるから、プラスチック製の衣装ケースにしまってある、に手を伸ばすと・・・、

・・・
重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけが会うてくれた。たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。自業自得、そんな言葉も彼は吐いた。「この家の身代は僕が預かっているのです。あなた方に指一本・・・・・・」差してもらいたくないのはこっちのことですと、尻を振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。
・・・
「夫婦善哉」織田作之助(ちくま日本文学・織田作之助)

私は大阪と神戸の中間で生まれ育ったけれど、両親は北陸地方からの「移住者」だったから、かならずしも大阪弁が「母語mother_tongue」というわけでもないのだが、
川上未映子、にせよ、津村記久子、にせよ、関西弁で書かれた小説は、どうしても「ひいき」にしてしまう。

「自由軒(ここ)のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあ・ん・じ・ょ・う・ま、ま、まむしてあるよって、うまい」(同上)、の「自由軒」には、二度ほどいったことがある。
注文のとき、何も言わなければ、「ご飯にカレーが『まむしてある』」、「まぜカレー」が出てくるから、
とくに別・々・に・して欲しければ、「別・カレー」を注文しなければならない・・・。

☆★☆とりログ・「鴻鵠」編


今日も、同じ場所にいらっしゃいました。お顔をじっくり拝見すると、やはり、ゴイサギ(サギ科)の若鳥、のようである・・・。

☆★☆とりログ・「燕雀」編


セッカ(ウグイス科)、だぁ〜♪

珍しいこともあるものだ。あんなにすばしっこいはずのセッカが、金網にじっととまっていたぞ!


セッカ(ウグイス科)、拡大図。

☆★☆「ホウライカガミ」・続々論


ホウライカガミ(キョウチクトウ科)、の花、らしきもの?、発見♪

☆★☆沖縄雀瓜「売り」日記


本屋で図鑑を立ち読みしていたら、・・・、オキナワスズメウリには、「オキナワクロスズメウリ」なる近縁種(いずれもウリ科)があるらしい。葉の色つやが違うし、これ、ひょっとして・・・?

☆★☆

一番上の写真は、ピンク:「ヒメマツバボタン」と、黄:「スベリヒユ」(いずれもスベリヒユ科)、の、「寄せ植え」。
これは、朝、犬の散歩の途中に写したものなのだが、もう一度見ようと思って一時間後くらいに立ち寄ったら、もうしぼんでいた。「花の命は短くて・・・」ってか?・・・

2009年09月08日

「錯覚」、としての、人生。



「ちゃとら」は、もう足で立ち上がることができないほど弱っているのに、ときどき「おぁえっ♪、おぁえっ♪」みたいな大声をあげる。
私が立ち上がったりして何か物音を立てたときなど、そんな風に鳴かれると、まるで、「呼びつけられている」、みたいで、う・れ・し・い・。

今日は、高級ペットフードで有名なメーカーの「離乳食」を買ってきたゾ♪
うちの猫たちには、缶入りの餌などほとんど与えたことがないのに、缶詰のプルタブが「ぱちんっ!」、と、はずれる音に、・・・、全・員・が色めき立つ。
「缶」、すなわち「えさ」、と、音に反応すべく既に進化の過程(!)で「生得的」に組み込まれているかのごときである。

そんなまとわりつく猫たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、・・・、お皿にほんのひとかけらスプーンでとりわけ、ミルクをかけてほぐす。
これを、そう、マクドナルドのコーヒー、かき混ぜるために付けてくれる、耳かき、ほどではないが小さなプラスチック製のスプーンあるだろ?
ファースト・フードなどに行かなくなってもう一年以上になるが、「ものを捨・て・ら・れ・な・い・」老人は、何でもとってあるのだ!

そういえば・・・、神戸の震災のあと、ボランティア、ってやつで体育館に避難している一人暮らしのおばあさんの依頼、倒壊しかかった家屋の中に、おばあさんの結婚指輪だったかなぁ?
「たんすの二番目の引き出しの左の方に入ってるはずやから、たのむわ♪」、みたいな感じで頼まれて、意気揚々と探しに行った。
たんすの引き出しいっぱいに、信用金庫のポケットティッシュがきっちり並べてしまってあったの見て、・・・涙出た・・・。


15日目の、「ちゃとら」。「離乳食」食べた後。

そう、その耳かき様スプーン、「ちゃとら」のお口にはぴったりだ!
とてもゆっくりだけど、一さじずつ流し込むと、その刺激で口がぱくぱく動き始め、こぼしながらも、飲み込める。
やるじゃないか♪「ちゃとら」!
こいつは、ひょっとしたら、回・復・す・る・んじゃないか?・・・そんな「錯覚」さえ、持ってしまう。いや、むしろ積極的に「錯覚」の中で、生きようと思っている。

☆★☆「スベリヒユ」・研究

昨日もご紹介しましたが、ここは遊水地の芝生で、雨水が溜まって芝がはげてしまった露地にこんな風に「スベリヒユ」系が繁茂している。
こんな近縁種が、隣り合ってはえているのは、ちょっと珍しい気がしたので・・・。ピンクが「ヒメマツバボタン」、黄色が「スベリヒユ」。


ヒメマツバボタン、と、スベリヒユ(いずれもスベリヒユ科)、芝生の中で「共存」。


ハゼラン(スベリヒユ科)の、実。

☆★☆キク科・シリーズ


オニタビラコ(キク科)、か?


オオアレチノギク(キク科)

2009年09月09日

そんな複雑極まりない「生き物」の機能・・・。



昨夜は、3コマ連続で授業だから、長く家を空けることになる。この状態だと、帰ってくるまでもたないかも知れないから、さいごのお食事のつもりで、離乳食をミルクでとき、スプーンでふた口ほど流し込んだ。のどに流れ込んできてやっと気がつくみたいで、あわてて両手、もとい、両前足をばたつかせるが、同時におめめも開いて、口も動かせて、だからちゃんと飲み込めた♪

本当は仕事もサボってこのままそばにいたい、と思わなくもない。でも、「子猫が死にかけているので、会社休みます」、が「世間」に通用しないことを私はちゃんと知っているし、
また、たとえ、そ・ば・に・い・た・、としても、「確実にやって来ることはわかっているが、それが『いつ』なのかが確定できないに過ぎない」も・の・を、ただ待・ち・続・け・る・、ことに変わりはないからだ。

帰り道、特に急いで歩く、というわけでもない、私には、死にかかっている「ちゃとら」を「救助する」能力があるわけでないし、「間に合った」から、何ができる、というわけでもない。でも、籠に手を差し伸べたら「生暖かい」かたまりがあったら、それは掛け値なしに「うれしい」だろう、ひょっとしたらいけるかも知れない。でも、過大な期待をすると落胆が大きいから、期待しないで、・・・などと計算しているところがすでに「期待」の一部なのであって、・・・、いつもどおりの「堂々巡り」をしているうちに、家に着いた。

・・・

ちゃんと、「生暖かい」かたまりが、後ろ足を動かしたゾ♪「小躍りしたい」気持ちだった♪♪
左手の手のひらに載せると、口をあけて「一鳴き」した。おなかをさすると、おしっこがぼたぼたと流れ出し、私のズボンの上に落ちた。
私が昨日か今日か、シリンジで流し込んだミルクや離乳食から、タンパク質や脂肪のコロイドを濾しとって吸収し、それを、今の今まで生き延びるための「エネルギー」に変え、あまった水分に老廃物を溶かし込んだこ・ん・な・透明な尿を排出する、そんな複雑極まりない「生き物」の機能を、こんな長さ10センチほどの小さな身体がちゃんとこなしているんだ!!


さようなら、「ちゃとら」♪、まだ元気な頃の写真だけどね・・・。

でも、それが、「最後」みたいだった・・・。
体温はまだちゃんと、ある。でも、いつものことだけれど、手のひらに載せていると、「私」の血管の拍動や、「私」の手のふるえと、混じりあってしまうから、「ちゃとら」の呼吸のリズムも、心臓の拍動も、はっきりとは、わからない。

まことに、「他者」が「生きている」ということは、「私」と異なる波長の「振動」が存在することであり、「観測者」たる私は、自らの「振動」を「ノイズ」として除去することではじめて、その「存在」を「知・る・」ことが、できるのである。

今までも、病気で死にかかった猫が、私が仕事から帰ってくるのを「待・っ・て・」いてくれていた、ことが何度かあった。そのような「擬人法」は、心温まるものであはあるが、
一方で、「生き物が死ぬ」という経験の、「取り返しのつ・か・な・さ・」、から、むしろ私たちを遠ざけてしまう。

私が「ちゃとら」を左手の手のひらに載せて、いつまでもそれを手放せずに、「途方に暮れ」ているのは、その、急速に冷えていくかたまりが、「死」について何も教えてくれないからだ・・・。
何度でも同じことを言うが、生きている私たちは、原・理・的・に、「死」を想念に取り込むことができないから、そ・れ・は、いつまでも漠然とした不安と恐怖の源泉で、あり続ける。
その不安と恐怖に耐えられなくなって、人は「饒舌」によって空虚を埋め尽くそうとするのだが、もちろん、かならず、失敗する。

「結・局・、何の役にも立たなかったじゃないか?」、
「はじめから、『死ぬ』運命だったんだよ」、
・・・、
「結果」から「行為」を「評価」することは出来ない。もしそうであるならば、人は「現時点」において何事もなしえないことになる。このような「逆・帰納法」の起点は、誰にでもかならず一度だけ、あ・る・、「死」に置かざるを得ないからだ。

「権利」の「存在証明」はそれ自体としては不可能で、「滅失」して初めて生じる、「損害賠償請求権」の存否の争いのなかでしか議論することができない、のに、それは、似ている・・・。

・・・

・・・などということを、「ちゃとら」を手のひらに載せたまま考えていたわけでは、なく、・・・、
唐突に、私は、空腹を覚え、「ちゃとら」を元のままの籠にしまって、外に出た。
ある種の、「解放感」、が、あったのは、私が「ちゃとら」や「新・捨て子四兄弟」を心から「愛していた」ということと、特に、矛盾しない・・・。

上の写真は、カタバミ(カタバミ科)、の、花。これも「お供え」にするね♪
たくさんあまった「離乳食」は、それでも26匹分にはとても足りないから、そんなことしたら無用な「争闘」の原因になってしまうから、やめて、
「黒猫一家」にご試食いただくことにした。さすが、「ママちゃん」は舌が肥えているわね♪ぺちゃぺちゃ、それはそれはうまそうに、食べておったわ♪

☆★☆とりログ

「ぴっぴょ、ぴっぴょ、ぺぃっぴょぴょぺぃっぴょぴょ、ぴっぴょ♪」、が、頭上高くから降ってくる・・・。見上げると、・・・。


ここが私の「ソング・ポスト」♪、あんな高い椰子の木のてっぺんで、シロガシラが鳴いておった。

☆★☆「自縄自縛」・談義


「自縄自縛」犬・はな

犬におやつをあげようと思って、お皿に煮干を入れたら、あらっぁ?「はな」ちゃん、どうしたの?
「係留用」のワイヤーがぐるぐる巻きに絡まって、かわいそうに、自分の被毛まではさみこんでしまって、・・・、あらあら、口がお皿に届かないようぉ〜(泣)♪

二十年ほど前、私がまだ、「サラリーマン」だった頃、・・・って、今でも「サラリーマン」だが、もすこし「ノーマル」な、そう、ネクタイして9時5時出勤してデスクに座って残業もして、・・・えっと、月間残業200時間越えて歯茎から血ぃ吐いて倒れて・・・、みたいな、ど・こ・に・で・も・あるような普通な「サラリーマン」だった頃、
デスクの電話機は、今みたいにワイヤレスの子機ではなくて、向かい合わせのデスク4つくらいに一台、電話の本体がでんと置いてあって、その本体からあのぐるぐる巻きの、「コイル」状のワイヤーが生・え・て・いて、その先に受話器がくっついていたものだ。
電話が鳴ると、デスクのこちらに座っている、例えば「私」が右手で受話器を取り、「はいっ、○△課っ!」などとさわやかに応答、しかる後、ふたたび右手で受話器を置く。
このとき「右利き」である「私」は、受話器のワイヤーに対して、えっと、これまた「アサガオの右巻き、左巻き問題」と同様だが、「私」・か・ら・見・て・、「反時計回り」を一回転加えてしまっているのだろう。
次に、「私」の向かいのデスクに座る「某」が電話をかける用事を思い出し、電話の本体ごと自分の側に向け、受話器をとる。「某」もまた「右利き」であった場合、受話器に対して、同じ方向の「ねじり」が加えられるであろうことは、想像に難くない・・・。
こうして、不均等な、一方向に偏った回転が、蓄積され、やがて、コイルがコイルとしての「弾性」を失ってしまうまでに、短く萎縮してしまうのだった。
そんなとき、もはや手元に引き寄せることもかなわなくなった受話器を救い出すべく、あちこちのデスクから、すっくと人が立ち上がり、頭上高く電話機本体を掲げ、その下に受話器をぶら下げ、重力の助けを借りて「ねじれ」を解きほぐそうとしている光景が、しばしば見受けられたものだった・・・。

「はな」も、私が近づくと「食べ物が来た♪」と思・う・のか、口をあけて、3回ほど回転する。回転し・た・い・、わけではなく、本人は、まっすぐ行きたいのだがワイヤーが邪魔するからだ、ともいえる。その後、1回、反対方向に回転することもある。
いずれにしても、このような「不均等」回転の、蓄積の結果、このような事態になったのだろう。

子犬は何でも口に入れて噛んでしまうから、このワイヤーを被覆しているビニールも、ずたずただし、そろそろ買い換えよう♪
「消費活動・購買行動」への「動機」ができた、飼い主にとっても、喜ばしいことである・・・。

☆★☆虫ログ


ウラナミシジミ(シジミチョウ科)_on_シマニシキソウ(トウダイグサ科)。「裏」波・シジミ、の「表」を見たのは初めてだ!


ウラナミシジミ(シジミチョウ科)_on_ジシバリ(キク科)、か?

2009年09月10日

「繁殖」する、「生き物」たち。



散歩の途中、カバマダラが集まってきる植物が合って、仔細に眺めてみると、おぉ!腹部を突き出して、まさに産卵しようとしている様子であった。
食草は「トウワタ(ガガイモ科)」、とのことだが、これがそうなのだろうか?
飛んでいるときは気づかなかったが、こうして写真で見ると、確かに腹部が大きく膨れて産卵間近なのが、わかる!!


これがトウワタ(ガガイモ科)、なのか?カバマダラが産卵しようとしていた。


トウワタ(ガガイモ科)と思しき植物と、カバマダラ(マダラチョウ科)。腹部が大きくふくれていて、産卵寸前と思われる。

・・・
アスクレピアス[学名:Asclepias]ガガイモ科トウワタ属の属名。南北アメリカ、アフリカに約100種分布する多年草で、半低木の種類もある。名はギリシア神話の英雄で医術の神アスクレピオスAsklpiosからつけられたともいわれる。日本で多く栽培されているヤナギトウワタA. tuberosa L.は、宿根パンヤとも称し、高さ50〜80センチメートルで、茎に粗毛があり、葉は柳葉に似て長楕円(ちょうだえん)形でやや互生する。根は太く塊根状となる。6〜9月、茎頂に鮮やかな赤橙(せきとう)色の小花を散形状に密につける。そのほか、代表的な種類にトウワタA. curassavica L.がある。形はヤナギトウワタに似るが、やや大柄で葉は対生し、つやがある。和名は、種子に綿毛がつくことによる。
・・・
(ガガイモ科は、)キョウチクトウ科に近縁で、同様に乳液を含むもの、アルカロイドを含むもの(有毒種もある)が多い。
利用価値のあるものは多くないが、観賞用に栽培されるもの(サクララン、トウワタや多肉植物など)がある。ギムネマはインドで薬用に用いられ、糖の吸収を抑える効果があるといわれる。
・・・

☆★☆


オオゴマダラ(マダラチョウ科)、静止中撮影に成功♪


飛び去る、オオゴマダラ(マダラチョウ科)。

☆★☆「自縄自縛」・犬、続論

新しい「係留用・ワイヤー」、買ってきた。もう子犬じゃないんだから、噛まないでね。


「はな」ちゃん、新しい「係留用・ワイヤー」、オレンジ色です♪

「はな」との「馴れ初め」は、話したっけ?
ちょうど二年前、だ。い・つ・も・の・公園に、・・・、リードで柱にくくりつけられ、そばには水の入ったお皿、ノートを引きちぎったと思しき紙になぐり書きの字で「もらってください!」、その紙が水の入った2リットルペットボトルで飛ばないように押さえられている、・・・、という状態で「発見」、された。
例によって私は「葛藤」し、まずは「見なかったこと」にして立ち去り、
落ち着け、落ち着け、今、君が拾わなくても、ひょっとしたら、君よりもっとお金持ちで、庭付き一戸建ての豪邸に住んでいらして、「あら、子犬の10匹や20匹、いくらでもよござんす、引き取って差し上げますわよ、ホホホ♪」、みたいな「篤志家」が、現れることが絶対にない、とも限らないじゃないか?まぁ、もう少し、待とう・・・。
仕事が終わって、深夜、公園を通りがかる。・・・、やはり、おとぎ話のような「篤志家」はいらっしゃらなかったようで、この黒い、臆病そうな、ちっこい、犬は、ちゃんと、そこに、いた・・・。
昼間はさんざん子供たちとかになでまわされ、「まぁ、かわいそうに・・・」と同・情・され、だから、気まぐれにいろんなものを食べさせられはしただろうが、なおかつ、依然として放置し続けられたそいつは、・・・、近寄ると気弱そうに牙を向いてうなり声を上げたが、リードを解いて歩き出すと、おとなしく、付いてきた・・・。
家に着くと同時に、すでに接近していた、何号だったか忘れたが、台風の余波で、激しい雨が降り始めた・・・。
そうやって、「はな」は、「うちの子」、に、なった・・・。

☆★☆とり・ログ


within_arms_reachと申しますが、これは「離間型」スズメ(ハタオリドリ科)。


ダイサギさん、おはようございます♪背景の紫の花は、ヤナギバルイラソウ、相変わらず読みにくい名前の花だこと・・・。

☆★☆沖縄雀瓜「売り」日記

図鑑もう一回見たら、「オキナワクロスズメウリ」じゃなくて「クロミノオキナワスズメウリ」、山地性で、葉の形も切れ込みが少ないみたいだから、残念、これは「新種」では、なかった。


「クロミノオキナワスズメウリ」ではなかった!、オキナワスズメウリの花。

2009年09月11日

早起き「十徳」



週末、今日は一日、「何・も・しなくて、いいんだ♪」と思うと、いつも「何・か・」大したことをしているわけでもないのに、早くから起き出せたりする。
こんな風にブーゲンビリアを見事に咲かせている邸宅があるのだが、毎朝早くに掃除をされているらしく、地面には一つも花が落ちていない。
そうだ♪、今朝は、せっかく早く起きたから、あのブーゲンビリアの花を拾ってきて、そうして、「新・捨て子四兄弟」の「お葬式」にしよう♪


イソヒヨドリ、の、「トワイライト・ソング」。

早朝の散歩は、いい。朝しか咲かない花もきっとたくさんあるし、ほら、イソヒヨドリの「トワイライト・ソング」も聞こえてきた!

☆★☆とりログ


芝生での、「シロガシラ」集会。右上には「リュウキュウツバメ」も・・・。

「シロガシラ」の、集会。
遊水地の芝生、まだ朝早い時間、老人達が、あの、なんという名称なのか、棒で球を打つ「球技」のために、あるいは週末の「サッカー少年達」が、ここを「我が物顔」に占有し始める前の時間、「燕雀」系小鳥達が、しばしばこんな風に集っているのを見かける。
一体、何の「目的」、なのであろうか?
シロガシラに、イソヒヨドリが混じっていたり、雀も「参加」していたりする・・・。
ほら、リュウキュウツバメもやってきた・・・。


「シロガシラ」集会、拡大図。


芝生上を低空飛行する、「リュウキュウツバメ」。

☆★☆「食草」談義・やはり「トウワタ」、だった♪


これが「トウワタ(ガガイモ科)」、の、花だ♪ここにも、カバマダラが集う。

☆★☆新種・発見


新種発見♪、葉は「モミジヒルガオ」のよう、でも、花が小さく赤みがかる。朝しか咲かないようだ。


新種発見♪、「トウダイグサ科」的?


次々新種発見♪、「ツユクサ」的な・・・?

2009年09月12日

「卒業してしまった、学校のような気が、・・・」



朝、散歩をして、そのあとぼーっとしていたら、あっという間に夕方になってしまった。

猫のトイレを片付ける、つまりウンコを拾い上げて、バケツ半杯くらいにもなるそ・れ・を、水洗トイレに流す。その際、水を節約するために、同時に亀の「かめお」の水槽の水を替え、その汚れた水でウンコを流すわけだ。砂トイレを利用してくださらない方々のために用意してある新聞紙トイレについては、汚れた新聞紙を取り替える。これも資源の無駄を避けるべく、汚れた部分だけをちぎりとろうとしたりして、「うゎぁ、ウンコが、手についてしもたぁ!」という事・故・も起こる。
・・・
それがすんだら、どうせ掃いても掃いても、たちどころにすぐに毛だらけになってしまう、とはいえ、掃かないでいたらもっとひどいことになるかもしれないし、半ば以上、「今日も、ちゃんと、掃除をしたゾ♪」と、自分に言い聞かせて、安心する、「メンタル・ケア」の意味合いなのだが、・・・、部屋の掃除をする。
・・・

毎日泥酔するまでお酒を飲まなければな・ら・な・い・、と思い込んでいた日々は、二日酔いでふらふらの身体にこれらの仕事は、いつまでたっても終・わ・ら・な・い・、膨大なものに感じられたものだ。
自律神経失調かなんだかで、やはり依然としてふらふらではあるものの、今では、「あれっ?もう、終わっちゃったの?」みたいにあっさり簡単に片付いてしまうこともしばしば・・・。


モクマオウの向こうの、夕日。

あとは、猫たちにご飯を出すだけだ。といっても、なんといっても相手は、「26匹」という「群・集・」なのである。茶わんの並べ方、とか、「気が弱い」、「あつかましい」、などのそれぞれの猫の個性を勘案しつつ盛り付ける順番、量、などを決めたり、とか、・・・、幾多の失敗例から学んださまざまな「プロシジャー(手続き)」に従わねばならないのであって、それほど簡単では、ない。
一度「びー」も合流させてみたのだけれど、一斉の食事の興奮に巻き込まれて、動かない後ろ足で、茶わんをなぎ倒しかねない勢いだったから、やはり食事中は「独房」に戻ってもらうことにした。
このほかに、やはり足が悪くて、それだけでなく、極端に「気が小さい」から、一緒に食事すると警戒するあまり、全然食事にありつけない「クー」、
ストルバイト尿管結石にかかりやすいから、隔離して「特別療法食」を与えなければならない「ココ」、
も、別扱い。これらが、隣室で餌が出されている音を聞きつけては、「こっちはまだかぁ〜ぁっ?」とばかりに、天も裂けよとばかりに絶叫するから、
こちらも気が気でなく、あせればあせるほど、たとえば、餌や水の容器をひっくり返してしまったりの失敗を犯してしまう。

それらすべてが一段落して、全員に食事が当たり、さすがに「黙々と」食べ始めると、
「しゃく、しゃく、しゃく、しゃく、・・・」というドライフードを噛み砕く咀嚼音と、ときおり陶器の食器に「牙」が触れる「かちり」というかそけき音以外は、何も聞こえてこない、
おそらくは、この部屋がいちばん「静かな」ひと時が、訪れるのだ・・・。

☆★☆

それが終わると、もう、何もすることが、ない。
いや、本当は、何か、ぜひともす・べ・き・こ・と・が、あったはずなのだ。
「人生において」、し・な・け・れ・ば・な・ら・な・い・、ことが、あったはずなのだ。
あまりにも長い間、「しなければならない」とだけ、思・い・つ・め・て・きたから、一体、そ・れ・がなんだったのか、もう思い出せないようだ。

・・・
おまえの涙♪、くるしんだことが、卒業してしまった、学校のような気が、する、夜♪(RCサクセション、「ダーリン・ミシン」)
・・・


夕方、お散歩、「はな」、「ペペ」。

あまりに、ぼーっ、としすぎてしまって、犬たちを散歩に連れ出すのはすっかり夕方になってしまった。
一番上の写真は、もちろん、シロノセンダングサ、と、夕日♪

☆★☆「スベリヒユ科」・研究


ハゼラン(スベリヒユ科)、「実」と思っていたのは「つぼみ」だったのだろうか?夕方に咲くようだ。


ハゼラン(スベリヒユ科)。花の中にアリがいるね?アリを媒介昆虫にして「他花受粉」は、なかなか効率が悪かろうに?

2009年09月12日

「放蕩息子の帰還」



毎朝、ベランダの手すりのところに寝転がって、私が出てくると、「ふにゃぁ〜ほにゃぁ〜」みたいな声とともに身をすり寄せてくる、「黒猫一家・ぼうや」の姿が、見えない。
男の子は、「なわばりの管理」とか、「配偶をめぐる雄間競争」とか、いろいろ大変なことがあるから、これまでも、「外泊」はしばしばあった。そんな翌朝は、たいがい、顔面に喧嘩傷をつけていたものだ。このごろは、少し「老成」したのか、傷をつくることもなく、もっぱらうちのベランダで一日を「ぬくぬく」過ごしていることが多かったので、だから、たいそう、心配した・・・。


黒猫一家「ぼうや」、の、大あくび。

昨夜、丸一日ぶりに、ちゃんと帰ってきて、どこにも怪我はないみたいだし、では、さっそく、「グルクンのからあげ」をご馳走してあげましょう♪

沖縄で「グルクン」と呼ばれる魚は、スズキ目タカサゴ科の「クマザサハナムロ」なのだそうだが、この魚を、海の中でお見かけしたことがあるのかどうかは、わからないのだ。

☆★☆とりログ


ゴイサギさん、今日はこちらでしたか?


ボタンウキクサ上のゴイサギさん、拡大図。


やはり、ゴイサギの若鳥、さん、ということにしておこう。


ゴイサギの若鳥、さん、拡大図。

放水路の「ゴイサギ、若鳥」さんの写真を撮ろうとしていると、そのわきを、コチドリがすばやく飛び去っていった。
やはり、もう「冬鳥」が渡ってくる季節なのだろうか?


コチドリ(チドリ科):参考画像、春に撮ったものだ。

「ゴールデン・ウィーク」、「忘年会」、「新学期」、「契約更新」、・・・、とかによって、ではな・く・、
ちゃんと、季節が、繰・り・返・し・、め・ぐ・っ・て・くる、ことを、「感じる」ことができて、
なにか、「私」もまた「生き物」であることの「共感」、とでも申しましょうか?、少し熱いものがこみあげてきた気がいたしましたッ♪

・・・
「世間」の中に生きる人々の行動の原理は三つの原則によっている。贈与・互酬の原則と長幼の序、共通の時間意識である。
・・・
共通の時間意識とは「世間」の中で生きている人々は皆一つの時間の中で生きていると信じていることをいう。私たちが日常の挨拶として「今後ともよろしくお願いします」といい、「先日は有難うございました」というのは共通の時間の中で生きてると思っているからである。
・・・
「日本人の歴史意識」阿部謹也(岩波新書)

☆★☆

上の写真は、・・・、明け方、少し雨が降ったらしい、・・・、だから、朝露か雨滴を載せた、オジギソウ(マメ科)の花。これも、朝しか咲かないようだ。

2009年09月13日

「Lexicon_of_love.../愛の語彙(?)」



メジロやヒヨドリとともに、「ごく、ありふれた野鳥」と、どの本にも書かれている「シジュウカラ」であるが、私はまだ見たことがなかったのだ。
またしばらく雨が降って、それが上がって、本日二度目の「トワイライト・ソング」♪
隣家の電線で、ヒヨドリが「ぴぇ〜ぇ♪」、みたいに絶叫している。ベランダに出てみると、・・・、


この「ネクタイ様ストライプ」、こ、これはっ、!、シジュウカラではないか?

電線や梢をちょこまかと飛び移っている小鳥、シロガシラの声も現に聞こえたしてっきりシロガシラと思っていたら、・・・、
メジロ並みに小さくって、ほっぺたが白い?


確かにシジュウカラ(シジュウカラ科)、だ♪(拡大図)。

ほら、間違いない♪で、鳴き声を聞・き・做・し・て・、「・・・」とか、聞き覚えたはずだったのに、急いでうちの中に戻って図鑑のページを開けた瞬間、・・・、忘れた。
図鑑には「ツツピーツツ」なんて、平凡なことが書いてある。もっと違った感じだった!、はずだが、思い出せない。

でも、うれしい。「普通の」鳥を、もう一つ、知ることができた。鳥の「語彙」が、増えた、ってわけだ♪
それにしても、何故「四十雀」?、「検索バカ」するも、不明・・・。

☆★☆

上の写真は、記事とは無関係であるが、未だ名前のわからないマメ科植物、クローバーとともに芝生の中に生える。

☆★☆

しじゅうから【四十雀】スズメ目シジュウカラ科の鳥。全長約15センチ。頭が黒く、ほおが白い。背は暗緑色で、白い腹に黒い太線がある。平地・山地の林にみられ、都会の公園にもすむ。《季 夏》「老の名の有りとも知らで―/芭蕉」

2009年09月13日

「ネコババ」の起源



「ラング・ド・シャ(langue de chat)」と呼ばれる、バターをたっぷり含んだ舌触りのよいクッキーがあるが、この名は「猫の舌」のことであって、本物のそれは、肉食動物が獲物の肉を剥ぎ取るべく「進化」したものであろうから、たいそう強力な突起に満ちており、うちの子たちも時々、「サービス」のつもりなのか?、私の頭髪や皮膚を「毛づくろい」してくれるのだが、ほとんど「痛い」くらいに気持ちよいものだ、という話は、前もしたな?

猫の身体は、相当に「しなやか」ではあるものの、やはり構造上の制約から、首より上の部分を自分の舌で「毛づくろい」することは出来ない。お互い同士、頭の上部を舐めあう「相互毛づくろい」というほほえましい光景がしばしば見受けられるのも、そのせいであろう。
直接舐められない顔面や頭部は、今度は「手」、いや、「前足」をまず舐めて唾液に浸しこれでふき取った後、ふたたび汚れを舐めとる「洗顔」のしぐさも、見れば見るほど「器用」にできており、感心してしまう。

猫が「きれい好き」といわれる所以は、このような「毛づくろい」や「洗顔」を一日中飽かず繰り返しているからなのだろうが、捕食者たる自分の体臭を「消す」ことで、「被捕食者」の警戒を解除するた・め・の工夫、なのであろう。

「ネコババ」という言葉は、占有離脱物横領など、正当な権原に基づかずに自己の占有に帰した財物を、ほしいままに把持することを言うのだが、
ウンコをしたあとの猫が、砂を「ざっ、ざっ」と掻いて「隠そう」とするかのごとき「動作」をすることに由来している。
もちろんこれは、私たち人間が、屋外で例えば立小便をするとき、知らず電柱のような、「印」となるものを探すように、遺伝的に組み込まれた行為であるから、
実際にウンコが「隠れて」いるか否か?は、彼らの関心事ではない。実際、うちの猫、26匹の「調査」によっても、ほぼ7割くらいが、ウンコを「隠さず」に、立ち去る。
しかし、この習性もやはり、「元来」は、ウンコの臭いから存在を推認されないた・め・の工夫であったはずだ。


そろそろ、かたまっても、暑苦しくない季節・・・。前列左:ココビー、右:びー、その後ろ:ニコビー、さらに後ろ:ムー。

「びー」を小屋に閉じ込めなくなって、半月ほどになる。長時間の外出時以外は「パンパース・新生児用」もしないから、なおかつ、飼い主がめったに「長時間の外出」をしないので、「パンパース・新生児用」の減りも少ない。
私が寝過ごしてしまった間に、ウンコをしてしまうこともしばしばあるのだが、板の間の上に固いウンコがいくつか転がり、よ・け・損・ね・た・、いくつかの塊をお尻に付着させたまま移動した際に、被毛が若干汚れてしまうくらいで、予想されたほど、ひどい状態ではなかったので、安心しておる・・・。

転がったウンコを拾い、お尻のまわりをウェット・ティッシュでぬぐい、汚れがひどいときは、お尻のまわりシャンプーをして、・・・、
そうやって気がついたのだが、猫は「洗顔」によっても、舌による「毛づくろい」によっても、届かないエリア、すなわち、あごから首にかけての部分、汚れたりかゆかったりしたとき、これを後ろ足で掻き取っているのだった。後ろ足の動かない「びー」は、これができないから、この部分の被毛がいつも汚れたままになってしまっているのであった・・・♪

さっそく金属製の「蚤取りコーム」で、梳る。「びー」も、気持ちよさ気にゴロゴロ喉を鳴らし、それを聞いて私もだんだん眠くなり、気がつくと「びー」のあごを腕に乗せたまま、二人とも眠っていた・・・♪
「しあわせ」、というものがあるとしたら、きっと、こうゆうものであるに違いない。

こんな「大人」になったら「しあわせ」であろう、と思っていたわけではない。そもそも、子供の頃から「何になりたいか?」と問われることが苦痛だった。
本当に「何にもなりたくない」、というか、「『何かになりたい』、わけではない」のだから、「ない袖は振れない」のだが、「ある」振りをしなければ、「世間」が許してくれない、「空気」を壊してしまう、ことは知っていたから、困惑し、困惑したまま、気がついたら「大人」、だった。

「AO入試対策」、とかで、私の職場でも「模擬面接」みたいなことがしばしば行われているのであるが、
「私の夢はぁ、国際的な舞台でぇ、自分の能力を発揮できるぅ・・・」、
「私の長所はぁ、だれとでもすぐ友達になれる明るさとぉ・・・」、
他人様が、「人生賭けて」努力されていることを、ゆめゆめ「嘲笑」しているわけなんかではなく、
ただ、こんなことを「いけしゃぁしゃぁ」と口にできる「能力」が、たかだか「大学生になる」ために必要とされているのならば、私は、とっくに脱落者であり、いやすでに脱落者なのだが、
もう人生も過半を過ぎたから、あとはたとえ「三周遅れ」でも終わればいいだけなのだから・・・、と、胸をなでおろしている次第、なのであった・・・。

☆★☆いつでも、花、を♪


オニタビラコ(キク科)、か?


シロツメクサ(マメ科)、芝生の中に繁殖。

2009年09月14日

「生きる目的を考案したりこの世界に意味をみいだしたり・・・」



「結局きみの思想というのは、絶望を、したがって死を避けるための安全装置なのだ」
「いや、それはちがいますよ。スミヤキズムは・・・・・・」とQは死体の回転を止めようと手をのばしながらいった。
「スミヤキズムのことではありませんよ」とドクトルはQの手を払いのけようとしながらいった。「そんな、どこかの書物に書いてある理屈のことではなくて、きみのその灰色だか桃色だかの脳のなかにあってきみを動かしている装置のことを、ぼくはいっている。それは、いかなる場合にもきみを、きみがもっとも恐れていること、つまり自己破壊ということから守るための装置なのだ。人間は自分を破壊しないで、つまり死を避けて生きていくためには生きる目的を考案したりこの世界に意味をみいだしたりしなければならない。きみの場合にもそういうことをやってくれる装置があって、・・・
「スミヤキストQの冒険」倉橋由美子(講談社文芸文庫)

R-COOH「カルボン酸」は、carbonic_acidのラテン語風読みなのだ、英語で言うならカーボンであって、炭素、炭(すみ)のことだ、
「スパゲッティ・カルボナーラ」は、「スパゲッティ・『炭焼き』風」、いや、スパゲッティを炭焼きにするわけではなく、これは、炭焼き職人のことをイタリア語で「カルボナーリ」と呼ぶのであって、・・・、
そういえば、イタリア独立運動のところで「カルボナリ党」ってのが出てくるだろう?
・・・
みたいなウンチクのつながりで、倉橋由美子「スミヤキストQの冒険」を思い出したわけだったが、ずっと昔に読んだはずなのに何の記憶もなくて、そうなってみると気がかりで気がかりで、本屋さんで探しても見つからない、・・・、「アマゾン」で注文して、読み直したわけだった。一気に読みきってしまえたが、さて、この本、本当に読んだことがあったんだろうか?「革命」の首領となる「アジタ」という少年の名前にだけ、わずかに記憶があるから、きっと読んだんだろう。「青年期」の読書体験、とは、むなしいものであることよ・・・。
ま、あと30年も生・き・る・の・な・ら・ば・、30年後もきっと同じことを言うことになるだろうが・・・。

☆★☆

古本屋で、「植物学のおもしろさ」本田正次(朝日選書)、というのを見つけた。1921年東京帝国大学理学部植物学科卒、その後、ずっと東大教授、東大理学部付属植物園園長、だった人らしいから、かの牧野富太郎の教えを受けた一人なのでもあろう。

コンニャク(サトイモ科)の学名の属名は「アモルフォファルス」って言うんだって!
「モルフォ」はmorphology形態学、のように「形」の意味、「ア(a)」という接頭辞は、「〜を欠く」の意味、amoral「道徳観念のない」、asexual「無性的」など・・・、
で、「ファルス(phallus)」は、「陰茎」、ち○こ、のことでした。
こんな「うんちく」しか、書くことないんですか?

☆★☆虫ログ

こうして、繁殖行動の最終段階たる「産卵」を終えれば、「現世代」は、「次世代」を残して、まもなく死滅していく・・・。やはり、秋なのでございますな・・・。


トウワタ(ガガイモ科)、と、カバマダラ(マダラチョウ科)。


トウワタ(ガガイモ科)、と、カバマダラ(マダラチョウ科)。拡大図、産卵中、か?

☆★☆とりログ


本日のダイサギさん。


本日のダイサギさん。美しい飛び姿、拡大図。


本日も、シロガシラ「集会」。


本日も、シロガシラ「集会」、拡大図。

☆★☆花ログ


本日の、沖縄雀瓜「売り」日記。


ハイニシキソウ(トウダイグサ科)、これは「花」なのだろうか?


コケセンボンギクモドキ(キク科)、覚えにくい名前だ。茎の高さは2センチくらい。


ハルノノゲシ、では季節がちがう、葉の形もちがう。同じキク科の「タイワンハチジョウナ」か?全景。上の写真は、この、花の部分の近影。

2009年09月15日

「世界」の「一部」



九月になってからはじめて、海に行ってきた。満潮に向かって潮の流れの大きい時刻だったからなのかも知れないが、魚が少しも見・当・た・ら・な・い・。
「生き物」に近づくには、じっと動かずに、「こちら」の気・配・を消さなければならない、動かないでいることに、「目」が慣れなければならない、そんな「コツ」を、たった半月くらいのご無沙汰で忘・れ・て・しまった、かのようである。


フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)


岩礁の植物、ウコンイソマツ(イソマツ科)。その手前の岩に貼り付いているのは?、不明。


砂浜の植物、ハマゴウ(クマツヅラ科)。

☆★☆「新種」発見

あたりまえのこと・・・、なんだろうが、「花」というのは、ある日突然、唐突に、一気に、「咲く」ものなのだ♪
毎日犬の散歩で、同じ道を通りかかる。昨日、「何もなかった」場所に、今日は見慣れない「花」が、咲いている、のを、発・見・する。
今までも、ずっと、そうだったはずなのだが、何も「見ていなかった」・・・、


「新種」発見、ブドウ系かな?

繰り返すが、単にそれは「見る」、必・要・がなかった・・・、
からであって、「花を愛でる心・の・余・裕・もなかったのだ」、と「反省」しているわけではないし、


「新種」発見。こちらは、いや、「何」系、かも、わからん・・・。

今では、「花」を見・る・ことが、是非とも「必要」だと感じている、からと言って、
それがなにか「癒し」を必要とするような精神の「衰弱」を表している・・・、とも、言っていない。


メジロがお気に入りの、マメ科の、街路樹、種名は不明。花が咲いた。

私たちが、その「中」に生きている、と、信じて疑わない、「世界」、の、ごくごく一部分しか、私たちは「見て」いないのだが、
それでも、特に不都合なく、「安心」して、生きていられることに、ただちょっと「びっくり」している、だけだ・・・。


これは、海に出かける途中の道路沿いで。自生ではなく、栽培されているものかも知れない。クズか?フジか?、そんな感じの、突然の、花盛り。

☆★☆鳥・ログ

ダイサギさん、ダイサギさん。このごろは、毎日、お会いしますね♪
ええ、私はここが気に入りましたので・・・。


本日の、ダイサギさん。

一番上の写真は、・・・、「ここはソング・ポスト、ではない」、私はイソヒヨドリ(♀)、さえずりません、から・・・。

2009年09月16日

四十雀の「聞き做し(ききなし)」。



また、シジュウカラが来ているようだ。姿は見えないのだが、声が聞こえる。

ぴーぴゃぴゃぴゅぴーぴょ、つつつつ。

「本当はそうではないのだけれど、諸般の事情から、そうであることにする」、ことを、「見做す」と、言う。
「做」という字の意味がよくわからないのだけれど、これまた、「擬制」であり、おなじみ、「擬く(もどく)」、「擬する」・・・、関連、ですな♪
「バードウォッチャー」や鳥研究者の間では、「法、法華経♪」のように、鳥の鳴き声を似せた言葉で書き表すことを、「聞き做す(ききなす)」というようである。
で、私もやってみた。

ぴーぴゃぴゃぴゅぴーぴょ、つつつつ。

うっかりすると、すぐ忘れてしまうから、今、ベランダで聞いたばかりの「声」を、こんな風に「復唱」し、急いでそこらへんのレシートかなんかの紙切れに鉛筆で、

ぴーぴゃぴゃぴゅぴーぴょ、つつつつ。


シジュウカラの写真は、ないよ。だから、「見返り」キジバト図。


「見返り」キジバト図、拡大。

と、書いてみた。書いた瞬間に、安心して、・・・、音を、忘れた。繰り返してみても、口から出てくるのは、もはや、シジュウカラの「声」ではなく、私がひらがなを読む艶もなければ抑揚もない、「音」になってしまった・・・。
「聞き做す」ことで、「言葉」にすることで、それは記録され、ほら、こうして「伝達」することさえ出来るようになる。
句読点込みで全角18文字、というきわめてコンパクトな「情報」に圧縮する過程で、「ニュアンス」などというデリケートな情報はすべて脱落する。

「言葉」を用いて「世界」を「描写」する、とは、こうゆうことだ、
「アナログ(analogue)」というのは「類比(anlogy)」的に対象をとらえることであって、で、「とらえる」のはさしあたり人間なのだから、「言語」を用いてそれを行う。
「言語」の間接性こそが、例えば「伝達」を可能にするが、対象の「切り出し方」そのものは、ほとんど「恣意的」なのであった。
・・・大げさに言うのならば、きっとそういうことなんだろう♪・・・(奥田民生「イー・自由・ライダー」)。


沖縄雀瓜「売り」日記。

図鑑のシジュウカラの鳴き声の項を見て、「ツツピーツツ」、そんなんじゃないよ♪、と思った、
で、「ぴーぴゃぴゃぴゅぴーぴょ、つつつつ」、と書いてみて、やっぱり、そんなんじゃ、なかった、と思う、わけだ。

☆★☆いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや?


コサギさん、お久しぶり、ですね♪


コサギさん、お久しぶり、ですね♪、拡大。

早朝、遊水地を歩いてみたら、・・・、
いつものダイサギさんに加えて、「渡り」を終えて「帰って」こられたのかもしれないコサギさん、アオサギさん、
それに「留鳥」のゴイサギさんまで、各種「鴻鵠」がおそろいでいらっしゃった。


ダイサギ、滑空。


ダイサギ、滑空、拡大。

カメラを向けると、それを「機」に、次々に飛び立ち、近くの森に退散されていった。また、お邪魔をしてしまった・・・。


ゴイサギ、滑空。


ゴイサギ、滑空、拡大。


アオサギ、滑空。


アオサギ、滑空、拡大。

☆★☆

一番上の写真は、「黒猫一家・ママちゃん、おはよう♪」

2009年09月18日

キジバトさんの、「表敬訪問」



キジバトさんが、わが家のベランダを訪問してくださった。


キジバトさん、わが家を「表敬訪問」・・・。左側面。

「うちの『ピヨ』ちゃんが、お世話になったと聞きまして・・・」
「残念なことになりました・・・。お役に立てなくて、申し訳ありません・・・」


「うちの『ピヨ』ちゃんが、お世話になったと聞きまして・・・」

「私たちは、『客観的』には確・率・論・的・過・程・を生きているのに、『主観的』には、ただ一度きりの試行を行っていることしか知り得ないのですから、
『因果』を論じてもしょうがない、と、思っているんですよ・・・」


「キダチイヌホウズキ」の実でも、お一ついかがです?」


電線上の、キジバトさん。

「そうですね・・・。そこの、『キダチイヌホウズキ』の実でも、お一ついかがです?メジロさんやシロガシラさんはよくお食べになっているようですよ♪」
そうして、キジバトさんは、電線の方に飛び移られ、ていねいに「羽づくろい」をされていらした。


電線上で、羽づくろい中の、キジバトさん。

☆★☆「虫」・ログ


タテハモドキ(タテハチョウ科)、表。


タテハモドキ(タテハチョウ科)、裏。


カバマダラ(マダラチョウ科)、トウワタに産卵中か?


ウラナミシジミ(シジミチョウ科)。

☆★☆「びー」、みんなと一緒に、「会食」。


「びー」、みんなと一緒に、「食堂」にて、会食中。手前は、「トン」ちゃん♪

2009年09月18日

「恒常性」への「確信」



また、週末、「寝込ん」だ。金曜日の夜、お仕事を終えて帰ってきて、猫たちもおとなしくしているみたいだし、そのまま寝て、翌朝、鳥たちが鳴き始める時刻、気持ちよく起きだして、「びー」の排尿・排便を済まし、ベランダで「待ち焦がれて」いらっしゃった「黒猫一家」に、「半額セール」のグルクンから揚げ、焼きさば、などをお出しして、路地にウンコなど転がしていないか点検して、・・・、そういったことを「てきぱき」処理して、さて、一息、というところで、・・・、
ぐらりと倒れてしまって、そのまま夕方まで眠った。
夢も見ずに、昏々と「熟睡」した。おなかをすかせた猫たちが、ときどき、「釈迦入滅図」みたいに周りに寄ってきて様子を伺いに来るのを、目を閉じたまま適当に撫で回し、ふたたび眠りに落ちる・・・。

「疲れていたか・ら・、眠いんだ」
「ゆっくり休んだ・ら・、きっと、元気になる」
という「因果論」的な物言いができるのは、現状が「異常」な状態であることと認識し、そのような「偏った」状態を修正して、「中心」に戻す力の作用、「恒常性」、といったものが必ず存在する、ということに確・信・が持てるからであろう。
そもそも、何が「正常」で、どこが「中心」であるか?、それ以前に「中心」というものがあるのかどうかすら、わからなくなっているから、
ひょっとしたら、このまま、ずっと、「眠り続・け・る・」、ことになるのではないか?、という不安を、決して打ち消すことができない・・・。

自然界によく見られる「変化」を記述する、とても単純な「微分方程式」は3種類くらい。
1:増加速度が、現在量に比例する。dx/dt=kx
この式をみたす関数は、底が1より大きい指数関数。無限大に発散する単調増加関数。
「たくさんあればあるほど、もっと増える」、栄養がたっぷりあって、空間にも余裕のある培養器の中のバクテリアの増殖、みたいな感じ。

2:減少速度が、現在量に比例する。dx/dt=-kx
この式をみたす関数は、底が1より小さい指数関数。ゼロに収束する単調現象関数。
「たくさんあると、思わずたくさん使ってしまう」、「タンクの水抜き」モデル、水かさが大きいときはたくさん流れ出し、残りが少なくなると流れ出す量も減る。

3:現在量の2階微分に負号を付したもの、が、現在量に比例する。d^2x/dt^2=-kx
この式をみたす関数は、sinまたはcosという三角関数。「無限」に持続する「振動」。
これは復元力に関する「フックの法則」で、中心からの「偏り」に比例した大きさの力がこれをつねに「修正」する方向に作用すると、かならず「振動」を生じることを表している。

ちなみに、1、2、ともに2階微分すると、そのまま、負号をつけずに、現在量に比例することになるから、
「世の中」は、「現在量の2階微分」が「現在量」そ・の・も・の・に比例するか、そのマ・イ・ナ・ス・に比例するか、どちらかだ、と言ってよい♪(まさか!)

私たちは、不幸なことが立て続けにおこると、「きっといいこともあるさ♪」などとなだめておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、「きみ達には無限の可能性がある♪」とけしかけたりもしているのであった。

☆★☆「虫」・ログ、オオゴマダラ

朝早く、いつもの、ホウライカガミ(キョウチクトウ科)の植えてある邸宅の庭先。「産卵後」なのであろうか?樹上でじっとしたまま、近づいても、動かない。


オオゴマダラ(マダラチョウ科)、もう、衰弱しているのでしょうか?ホウライカガミの近くの樹上で、じっと動かない・・・。

「個体の適応度(fitness)」を「高める」という、「遺伝子の容器」としてのただ一つの「仕事」が終われば、あとは「死」を迎えるのみ。
それが、「秋」という季節の「あはれ」なのでございましょうか・・・?

☆★☆「鳥」・ログ、「サギ」の「渡り」問題

「コサギさん、コサギさん?、あなたも、『渡り』はされなかったのですか?」
「えぇ、私はここが気に入りましたので・・・。」


ほら、仲良し(?)だ♪ダイサギさん、と、コサギさん。


ほら、仲良し(?)だ♪ダイサギさん、と、コサギさん。拡大図。

と、近くの森から、「ぐぇーっ!」、と、これはアオサギさんの鳴き声、
そうして、全員で、どちらかへ飛び去って行かれました・・・。

☆★☆「鳥」・ログ、「燕雀」系、「集会」の謎。


シロガシラ、スズメ、「集会」。


シロガシラ、スズメ、「集会」。拡大図。

「拡大図」、ご覧ください。手前から順に、シロガシラ、スズメ、シロガシラ、スズメ、シロガシラ、シロガシラ、シロガシラ、シロガシラ、・・・
という感じです。カメラを向けただけで、だいぶ飛び去ってしまったから、「最盛期」はこんなもんじゃないです、もっと、「びっしり」並んでいたわけです。

☆★☆「花」・ログ、次々、「新種」・発見。

「新種」・発見(↓)。名前は、まだ、「ない」・・・。
細長い「枝」上の先端に小さなキクのような花。いくつかの「個体」が集まっているのだろう、全体が高さ一メートルくらいの茂みを作る。花が咲くまでは、そんな植物が「ある」ことさえ気がつかなかった。


「新種」・発見。全景。


「新種」・発見。花、拡大。

次々、「新種」(↓)。イヌビユのすぐそばに生えていて、これまた、花が咲くまで気がつかなかった。そして、そういう目で、つまり、これとこれとは、「違う」植物かも知れない?という「目」で・・・、「見ない」と、例えば葉の、葉脈の様子の「違い」とかも、「見えて」こない、のであった・・・。


「新種」・発見。少し青みがかった、キク科のような花。全景。


「新種」・発見。少し青みがかった、キク科のような花。近影。

☆★☆「花」・ログ、ヘクソカズラ談義

うちのベランダの「つる性」植物、3種、のうち、オキナワスズメウリ(ウリ科)、シンツルムラサキ(ツルムラサキ科)、と残りもう一つ、ヘクソカズラ、か?と思っていたのだが、
ヘクソカズラは、子供の頃暮らした社宅の物置の屋根にも生えていて、夏休み絵日記、とかにも書いたのだろう、その花の形状は覚えていたから、
違うような気もしていたのだ・・・。


これがヘクソカズラ(アカネ科)。遊水地のフェンスに絡み付いていた。「幼少期」の記憶の中の花もこれだ。

とすると、うちのベランダのつる性植物は、なんだろう?一向に花は咲かないし、よく見ると葉の形状も全然違うね♪
またひとつ、「宿題」が、できた・・・。


ヘクソカズラ(アカネ科)、一日中咲いているのか?、これは翌朝。

あ、ヘクソカズラの蔓の巻き方、調べるの、忘れた。牧野富太郎、柳宗民、両説の真偽を判定せねばならぬ、のであった・・・。

☆★☆「花」・ログ、「新種」・発見(↓)。名前、多分、わかった♪


ツルノゲイトウ(ヒユ科)。「葉腋(葉の付け根)に小さな花が球形に集まって、・・・」、これだ♪

☆★☆「花」・ログ、沖縄雀瓜「売り」日記。


プランターの隅で、双葉から本葉展開。ひょっとして、これは「オキナワスズメウリ」?、だったら、うれしい♪

☆★☆その他の、「花」・ログ

上の写真は、ヒメジョオン(キク科)、かな♪、と思われる花・・・。

2009年09月20日

「家族」の「食卓」



「びー」は後足が不自由だから、どこかに足が引っかかってしまって動けなくなるんじゃないか?、とか、上から物が落ちてきてもうまくよけられないのではないか?、とか、心配でしょうがないから、私が出かけるときは、小屋に閉じ込める。
うちに来てから10ヶ月、ずっと食事も小屋の中でとってもらっていたのだが、最近、すっかり仕事の減った私がいつも家にいるから、小屋の外で「遊ぶ」のに慣れてしまったのだろう、いざ、食事の時間に閉じ込めようとすると、この世も終わりか?と思えるくらいの悲鳴を上げて全力で抵抗するのだ。
まだ、ちょうど一歳になるかならないか、「食べ盛り」の頃とはいえるが、それにしてもかなり「意地汚い」、「他人」の皿の中身が非常に気になるらしく、自分の目の前のお皿にまだまだ残っていても、すぐ他のお皿に目移りして、動かない後ろ足を引きずって、器用に移動する。その際、その後ろ足でもってブルドーザーみたいにお皿も一緒に運んでしまうから、他の猫にとっても大迷惑、「食卓」は混乱のきわみとなる。


家族の食卓・「びー」も、参加。左から、「モモ」、「びー」、「ちー」、「みけどん」・・・。

お皿の位置を元に戻したり、ひっくり返った餌を拾い集めたり・・・、私の負担も増えるのだが、「家族」の「親睦(?)」こそ何より、であって、そのくらいの苦労は、喜んで引き受けようじゃないか♪

☆★☆

こちらも、「家族」だ♪
バン(クイナ科)に雛が生まれたらしい。ボタンウキクサに覆われてしまった水面ではあるが、餌をとるのか、あるいは泳ぎの練習なのだろうか?
ほほえましい光景のはずだが、すでに日も傾いていたし、遠すぎたし、うまく写真は撮れなかったけどね。


今日の「ダイサギ」さん、それとも「コサギ」さん?夕暮れだからよくわからない。手前にいるのは「バン家族」、最近雛が生まれたようですね♪

☆★☆

もうじき、「秋分の日」、つまり「彼岸」なのだな。亜熱帯でもさすがにときには「肌寒く」感じる季節となった。
季節の変わり目、適応力の衰弱した身体は環境の激変についていけない。
そんなときは、目立たない片隅で、なるべく動かないようにして、体力の消耗を避けてじっと時が過ぎるのを「待つ」のだ・・・。「弱い」生き物はそうやって生き延びる。
あんたがこんな風に「世界」に牙を向くのは、きっと「世界」に対する恐・怖・の裏返しなのだから、だから、・・・、「世界」になるべく触れないようにしておきなさい・・・。

2009年09月20日

「用なし」遺伝子・容器、「子育て」を、語る。



昨日の夕方見かけた、「バン」一家を探して、早朝からビデオカメラかかえて出かけたのに、いらっしゃらなかった。
親鳥が、「子育て」をどのように分担するかは「種」によってまちまちだから、一概には言えないし、「擬人的」な教訓話にしても的をはずしていることが多い。
「バン」の子育てについて読んだ記憶はないが、見かけたところ、両方の親鳥が「付き添って」いるように見受けられた。


バン夫婦。雛は見当たらない。あと3組くらい「夫婦者」がいたから、どれが雛の親達なのかも不明、だが・・・。

さて、ボタンウキクサに埋もれた遊水地の池で、何組かの「夫婦者」らしきペアが餌をついばんでいるようであったが、近くに雛たちは見当たらない。
どこかに「隠して」あって、まだ眠っているのかもしれない・・・。


ダイサギさん。

で、当てが外れたので、おなじみのダイサギさんでも撮るか?
と、そこへアオサギさん、ゆっくりと滑空して近づいたものの、バンやダイサギやで「混みあっている」のを嫌ったか、着水せずそのまま森の方へ帰られていった。
森の中で一番高い木のそのてっぺん、朝日を受けて神々しいお姿・・・。


梢の上のアオサギさん、首伸ばし編。


ダイサギさん、超・拡大図。


梢の上のアオサギさん、首縮め編。


梢の上のアオサギさん、首伸ばし編。


梢の上のアオサギさん、首縮め編。

☆★☆

それからしばらくたって、今度は犬の散歩で・・・同じ場所を通りかかる。ずいぶん閑なこって?、えぇ、「ご隠居」ですから・・・。そんでもって今日は「敬老の日」でしょ?夕方から一応仕事はあるんですけどね♪

やっぱりいた。草むらの陰、とかに隠れていた、あるいは「隠していた」んだね?
ちゃんと、少し小さめの雛が3羽出てきて、ボタンウキクサの上を器用に歩き回って、餌を探す練習をしているようである。


あ、見つけた♪「バン」の雛3羽♪

その両脇を「守る」ように、「両親」が、テリトリーを侵して進入してきたのであろう、ほかの成鳥たちを、「くぇーっ!」みたいな声で威嚇して、羽をばたつかせて、追い払っている模様。


あ、見つけた♪「バン」の雛3羽♪拡大図。

「ほほえましい」、ことばかりではないね。「個体の適・応・度・を最大化する」のも、なかなか大変だね。
「子育てをしたこともないものに、何がわかるものですか?」、あぁ、わかりませんとも、・・・、と、織田作之助風に、戯・れ・て・みました・・・。

と、そこへ、ふたたび、アオサギさん、ゆらりと、飛来・・・。


アオサギさん、やはりお美しい飛び姿♪拡大図。

☆★☆「ヘクソカズラ」、「右巻き/左巻き」問題


ヘクソカズラは、「身入れ法」による「左巻き」であった。

もう一度復習しておくと、「植物の身になって」自ら蔓をはえさせるところを想像して、「左巻き」すなわち「反時計回り」であるから、
客観的に観察する「植物学者」の立場からは、これとは逆に「右巻き」すなわち「時計回り」である。
したがって、やはり柳宗民説が正しい。

2009年09月21日



「遅きに失する」、ことについて・・・。



どこへ行っていたの?もっと南へ旅を続けるのではなくて、ここで冬を越すのでしょ?
あれは、台風の大雨の直後だったっけ?、久しぶりに、セイタカシギ(セイタカシギ科)たち、四羽、戻ってきたぞ♪
やはり「バレリーナ」たちは、「派手」であるから、こんなに陽光がまぶしい水面(みなも)も、なおいっそう活気を帯びた様子であった。

こんなに気持ちのいい「快晴」、猫だって幸せそうにまどろんでいるのに、・・・、
特に何の「不満」も、ない、もうじきやってくるこの「業界」の「農繁期」、「センター試験対策直前・・・」とかいったものの、「準備」が重く心にのしかかっていたのも、昨日、やっつけ仕事でたいがい片付けてしまった(♪)のだから、・・・、
もっと、こう、「晴れ晴れ」としてもよさそうなものなのに、なにか、重たい石を呑み込んだいるみたいな、威圧的な「不安」は、・・・、やはり、「死」に関わるものなのだろう。

こんなぽかぽかした陽気には、きっと屋上で「昼寝」をしていたはずの、ママちゃんの姿が見えないのだから・・・。

☆★☆帰って来た、「バレリーナ」?、たち。


帰って来た、「バレリーナ」?、たち。セイタカシギ四羽。ステージの上みたいに、整列?


左:横に並んだり、・・・。右:縦に並んだり、・・・。


左:いろんなところ掻いたり、・・・。右:片足あげてみたり、・・・。いろいろ、忙しい。

☆★☆

そんな、何を見ても心弾まず、さめざめと「悲しく」思える日は、・・・、猫と「たわむる」、もいいけど、・・・、私は、「勉強」を、するのだ♪

ちくま学芸文庫から森毅の「ベクトル解析」、が、出た。
森先生の、「解析学続論」、だったっけ?、教養部の単位はちゃんと取得したんだよ。
いつも「集会」の後の方で、古株の学生「活動家」達と、「昨日、うちの研究室に、■●派のやつが来よってなぁ!」みたいに、どこで「獲得」したのかあやしい「関西弁」で、「新左翼」ゴシップに花を咲かせているところしか見たことなかったから、・・・、こんなに偉い数学者だとは、知らなかったのだ。もったいないことだ。
「履修登録」の定員制だとか、単位取得の「優・良・可」の評価だとか、およそ「差別・選別の教育システム」とか、いえばいえそうなもの全部、「全共闘」がぶち壊してくれたあ・と・の時代だったから、・・・、そんな「確信犯」の「シンパサイザー」だった森先生の数学の授業には、多分数百人が登録し、定期テストはちゃんと実施されるのだけれど、答案用紙にどんなマンガみたいなこと書きなぐって出てきても、「単位」がもらえたのだ。

「数学」の何たるかを一切知らず、かけらも知・り・た・い・とも思わずに、大学を卒業でき、「一応、理系だったんすけど・・・」と「仕事」でもお茶を濁して「生きて」こられたのは、これらのすばらしい先生方の「おかげ」、なのだが、・・・、今頃になって、痛切に、「時間を取り戻し」てみたくなる、ことも、あるのだ。
その、「解析学続論」だったか?のテストの問題が、
「gradとrotの違いについて論じよ」
だったのを今でも覚えているのだ。だから、もう一回、「gradとrotの違い」について、ノートをとりながら、鉛筆を動かして、・・・、勉強してみよう、と、思ったわけさ!
もちろん、「遅きに失し」ている、もう、「間に合わない」、え、でも、何に?、・・・、かも知れない、のだけれども、ね♪

☆★☆


今日も水面が美しい。オナガガモたち・・・。


今日は日差しが明るいから、くっきり写る。左:なかなか「派手」なお召し物の、アオアシシギ。右:これも、お美しい・・・、イソヒヨドリのメス。

一番上の写真は、久しぶりのセイタカシギを迎えて、「遊水地オール・スターズ」、手前に、コサギさん、奥のほうにはバン、左端の小さいのは、イソシギ、・・・。

☆★☆「ねこ」ログ。


陽のあたる場所で、・・・、昼寝・・・。右、「びー」と、左、「トン」。元来「マガジンラック」だったの?猫は、こんなプラスチックの肌触りが、好き・・・。

2009年11月11日

一日の大半を、まどろんで過ごす、者たち・・・。



また何日か激しい雨に降り込められて、それが「何日」だったのかも、記憶が朦朧としているのだが、犬の散歩にも出られないほどの降りの日もあったので・・・、どこにも出かけず、いや、仕事にはちゃんと出かけただが、雨が降ると体調もひとしお悪いようであって、やはり一日のその他の大半を眠り続けて過ごしたから、・・・、気が付いたらもう四日も経っている。

雨が降っただけで「寝込んでしまう」とは、君は「紙」で出来ているのか?、「撥水加工」でもしてもらったらどうだ?、自分で「嫌味」の一つも言ってみたくなるほど情けなく、
人間は、一日に8時間労働して、8時間睡眠をとって回復し、「労働力」再生産を行うよう、百年も前から「期待」されている、どころか、大多数の人々が、もっと厳しい環境で、・・・、その中で、ばたばた死んでいく人も多いけど、ちゃんと「バリバリ」と、生き延びている人もたくさんいるというのに、
一日二時間ばかりしか働きもせず、なお、こんなにくたびれてしまっている自分が、・・・、
「病気」であることを、それを「権利」と呼ぶべきかどうかはいざ知らず、「病気」であっても、生きていてもよ・い・、と、胸を張って主張したい、気持ちも山々なのであるが、・・・、
さすがにこの衰弱ぶりは、我ながらふがいなく感じられ、・・・、
文章も書くことができなさそうだから、そんなときには、「トリビアル」なことに「熱中」すべく、数学の問題を解く、などして、過ごしていた・・・。


ママちゃんいないと淋しいけどね・・・。黒猫一家、左「ぼうや」、右「べび」。

「体調」というのは、さまざまな要因が関与しているものの、現に一つの「状態」であるのだから、それらの相互に影響を及ぼしあっているかも知れない数々の要因を、独立または従属な「変数」として記述されるところの、「関数」と呼ぶことが出来るであろう。
ところが「観念言語」を扱うことを得た、「人間」という「種」においては、
「体調」がどうであるか?に関して、身体が発しているはずの、そう、例えば発熱、とか、痛み、といった形での、メッセージを「解読」する者、「観測者」の立場をも、「私」が兼ね備えてしまっているから、客観的な身体の「状態」が、私の「心理」に「投影」されるというもう一段階の「関数」関係が、出来上がってしまっている。
それは、「言語」の間接性、そのものに対応しているのか?、「存在」と、「認識」に、齟齬を生じることにもなる。
現に「健康」である人が、自分は「元気」だ、と言い、
現に「健康」であるにもかかわらず、「病気」だと主張し、
現に「病んで」いるにもかかわらず、そうは感じず、
現に「病んで」いて、やはり「病気」だと思っている、
一体、誰が「健康」で、誰が「病気」なのだろう?

「痛いっ!」と思ったら、どこかに傷をしたのか、とその場所を探す。現に傷があれば、それで痛みが和らぐわけではないが、「原因」があることがわかって、安心するのであって、むしろ何も「見つから」なかったら、それはたとえようもなく不安であろう。
自分がものすごく「不幸」だ、という胸を締め付けられるような想念がしばしば襲ってくるのだが、
起き上がって一つ一つ数え上げてみると、・・・、
私には雨露をしのぐ家があり、貧しいけれどもまだ雇ってくれる会社があり、特に手ひどい「いじめ」を受けているわけでもなく、・・・、
あれぇ?、「不幸」の「原因」が、ないよ♪

もはやココロのなかで「因果関係」の束をたばねるヒモがほどけてしまっていて、それこそが重篤な「病気」のような気もするのだが、
よくわからないから、・・・、また、眠ることに、しよう。

上の写真は、・・・、私に「付き合って」、ともに、一日の大半を、まどろんで過ごす、者たち・・・。左から、みけどん、ちー、たま。

☆★☆「鳥ログ」、「鴻鵠」系?


左:雨上がりの芝生にやってきた、ダイサギさん。右:雨上がり、増水した川で餌を探す、コサギさん。

遠くから眺めると、同じくらいの大きさで、どちらもちょこまか、茶色いし、よく間違える。コチドリ、と、イソシギ。


左:同じぐらいの大きさだから、よく間違える。左下、イソシギ、お尻を上下に振るのが特徴、右上二羽、コチドリ、首の周りに白い輪があるから・・・。
右:さっきまで座ってたのに・・・、イソシギ、飛ぶ。

飛び立つと、わかる。コチドリは、翼の中央だけが白いから、「千鳥格子」になる。シギ類は、翼だけが茶色で、身体はまっ白、なのだ。

こうやって写真を撮ってみて、初めてわかることもいろいろあるのね。ほら♪、鳥、って、こんなに、片・足・で・休んでいることが多いのだ。


左:片足あげて、羽づくろい。天気がいいから、気持ちよさそう♪オナガガモ。右:やはり片足あげて、日光浴?天気がいいから、気持ちよさそう♪オナガガモ。

☆★☆「ドメスティック」な、「留鳥」シリーズ。


左:イソヒヨドリ、こんなに派手な色なのは、雄。
中:ヒヨドリ、さえずっていたから、多分、雄。ミカンの木かな。
右:そして、シロガシラ。おなじみの、お隣の、電線。


メジロ、左:ほぼ正面。目のまわりの白い輪が、前方で「切れて」いるのが、よくわかる。中:少し首を傾ける。右:横顔。

☆★☆「虫ログ」

琉球王朝時代の建物を囲むうっそうとした森が自然公園として残されていて、これまた徒歩5分くらいでいけるのだから、私の住んでいる場所は、あるいは、とても「恵まれた♪」環境、というべきなのだろう。
身体はふらふら、心も「よれよれ」、・・・、なのだけれど、少し「気分」でも盛りたてようと、散歩に出かけた。三月ごろ、ビデオカメラを購入して「バードウォッチング」をはじめたばかりの頃、シロハラ(ツグミ科)、という「冬鳥」がたくさん来ていて、ちゃんと写真も撮れたし、図鑑を見て名前も決められたものだから、とても嬉しかったのだ♪
でも、今日は一羽も見かけなかった。ま・だ・、渡って来ていない?ということなのか?、はたまた、どこか別の場所にいる?ということなのか?、・・・、むずかしい・・・。


左:ウスイロコノマチョウ?、違うかも知れない・・・。右:リュウキュウミスジ。

蝶の越冬の形態、というのは、日照時間を感知する体内時計と、その後の気温、など、複雑な要因で決まるそうなのだが、もう11月も半ばだというのに、例えば今日は、
ツマベニチョウ、イシガケチョウ、オオゴマダラ、リュウキュウアサギマダラ、と、「そうそうたるメンバー」たちを、すべてこの森の中で見かけた。全部、写真は撮り逃した、けどね♪
撮れたのは上の二つ、のみ・・・。
これらの蝶が、どんな冬の過ごし方をするのか?今度、調べてみよう。もう少し、「元気」が出たら、ね。

☆★☆「花ログ」

スズメノエンドウ、カラスノエンドウ、カスマグサ、問題。お、実莢が「黒熟」、し始めたか?


実莢が「黒熟」、しているから、カラスノエンドウ、だろうか?

2009年11月15日

「ブリコラージュ」で、行こう♪



昼間四時間くらいも眠ったのに、夜も八時間ちゃんと、眠る。それでも、申し訳ないのだが「寝足りた」感じは一向にせず、どんよりと「絶望的」な気持ちで目を覚ます。
ベランダに出ると、餌の皿がすっかり空になってしまっていて、「黒猫一家」の父と子、「ぼうや」と「べび」が、ドアのすぐそばでかたまって眠っていたらしく、首を持ち上げてこちらを向いて、「不満そう」な表情をする。
すまんすまん♪、それにしても、一週間ほど前のめっぽう寒い夜、すっかり弱ってしまった「ママちゃん」が、暖を取るようにと敷いておいた古着の上で、「残された」父と子が「抱き合って」眠っている、・・・、思わず、「涙を誘って」しまう光景なのだが、・・・、こっ、これは、なにか、「間違って」いるぞ♪

猫には「家族」という「概念」は、ないはずだ。オスは交尾をしたあとは、一切「子供」に「関心」を持たない。メスだって、子猫が「乳離れ」をすると、次の「繁殖機会」を確保すべく、子猫を「追い払う」は・ず・だ。子猫がオスである場合、「父親」にとっては、同じ「なわばり」を争う「ライバル」になるのだから、血なまぐさい「闘争」になることもまれではない、は・ず・だ・・・。

一体、ここの、「黒猫一家」、は、どうなっているのだ?
動物行動学、進化生態学、社会生物学、等々が、教えてくれる「原則」に反して、「友愛・協調」へ向けた「進化」を、たった一世代で、遂げた、とでもいうのか?


「ムー」、青いおめめが片方閉じかかって、眠いの?

動物にとっては、「餌」を確保すること、・・・、が、「できる限り多くの、自己の遺伝子を残す」という「究極目標」にとっても、文字通り「死活的に」重要なのであろうから、
こんな風に「ヒキコモリ」でずっと家にいる「主人」が、日がな一日、餌の皿が空になっていないかとおろおろ心配し、つねに補給してくれる、などという環境は、「願ってもない」、・・・、
余程の「リスク」を負ってでも、ぜひとも「確保」すべきものなのだ。
だ・か・ら・、下手をすると自分が「追い出される」ことにもなりかねない「喧嘩」をしてまで、この場所を「独占」しようとするよりも、「原則」を曲・げ・て・、「共存」する道をやむなく「選択」した、という風に「理解」すべきなので、あろう・・・。


「びー」、一年たつと、やっぱり、でかくなった?

生き物は、つねに「最・適・化・」しているわけじゃ、ない。所与の環境から得られる「ありあわせ」の材料をかき集め、つなぎ合わせて、「間に合わせ」て、「その日暮らし」を、生きている。
これをレヴィ・ストロースは、「ブリコラージュ」と呼んだ、そうだ。私は、この言葉が、・・・、好きだ。


うちの「最高齢」猫、にょろりん、8歳。

【ブリコラージュ、bricolage】日曜大工。器用仕事。転じて、持ち合わせているもので、現状を切り抜けること。

その、「ぼうや」と「べび」の仲のよい写真は、撮れなかったのだ。カレイのから揚げ、ヨーグルト、等、を含む朝食が済むと、さっさと別々の場所に散っていったから・・・。

☆★☆「鳥ログ」

セイタカシギは、翌日、また、どこかへ「旅立って」しまったようだ。
この街の南の境に、「ラムサール条約」指定の有名な干潟があって、クロツラヘラサギなどもやってくる、というお話は前にもしたな?
この遊水地にときたま「顔を出す」水鳥たちも、「そちら」へ行っているのかも(?)と思うから、私も、カメラをかかえて出かけたい(!)と思うのだけれど、
こう、毎日「昏睡」状態では、それも果たせないでいる・・・。
だから、これら(↓)は、数日前の写真だ。


「銭湯」のごとき、混み方?、セイタカシギを迎えて、オナガガモ、アオアシシギも・・・。


コサギさんも、参加。お互い「無関係」そうな、集団。


左:ゴイサギ、成鳥、みぶるいしたの?中:羽を広げる、セイタカシギ。向こうは、オナガガモ。右:芝生の上を滑空する、ダイサギさん。


左:なにか、もの問いたげ?な、コチドリ二羽。右:整列、コチドリ。

☆★☆「花ログ」


芝生の間に生える、オジギソウ(マメ科)。
シロノセンダングサなど、背の高い「雑草」が刈り取られてしまっても、こんな芝生の間に挟まって、「地を這う」ような草花は、「難」を逃れるのかも知れん・・・。


刈り取られてしまっても、すぐ伸びてくるのは根が残っているから?、シロノセンダングサ(キク科)。

うちのプランターにも、「採取」してきたシロノセンダングサの種をまいてあるのだが、なかなか発芽しない。「雑草」というやつは、相当「老練」な生き残り戦略を持っているそうで、種子は何年も生きている、どんなところに飛ばされているか「わからない」から、よほどベストな環境条件、土をかぶっていること、水分があること、日照があること、・・・、などが「確認」できない限り、いつまでも発芽せず、何年でも「待つ」こともあるらしい。
一方で、そのような「不安定」な「生殖成長」による「次世代形成」のみに「期待」することが出来ないので、同一「個体」が伸び続ける、という「栄養成長」による繁殖を併用するのだろう。
こんな風に「刈っても刈っても」どんどん生えてくる、のは、残った根や茎から「同じ個体」が、ふたたび「顔を出して」いる、ということに、なるね♪
そういえば、池のボタンウキクサも、・・・、もう、面積を半分くらい覆うまでに「繁殖」している・・・。

一番上の写真は、・・・、ハゼラン(スベリヒユ科)。花があまりに小さいので、写真を撮るのがむずかしい。ちゃんと雄蕊まで写っているから、・・・、うれしい♪

2009年11月16日

紙コップに注ぐ、降りやまない雨のような、言葉・・・。



この時期になると、「思わず」、がんばって働・い・て・しまったりするものだから、また発・病・してしまったりするのかもしれないけれど、・・・、
残念ながら「しほんしゅぎ」の世の中では、働いていない、こともまた「ストレス」とならざるを得ないから、危険を冒して、おそるおそる、「頑張って」みる、ことも、あるのだ。
そして、錯覚かも知れないが、いやいやもちろん錯覚に違いないのだが、「充実感」めいたものもあったりして、・・・。


これが、「友愛」と「協調」を「進化」させた、黒猫一家・父と子♪

そんなわけで、「ブログ」といったものを相手に「愚痴」をこぼしていなくても、生きていけそうな日々だったから、ほら、こうして、4日ほど、ご無沙汰だった。
天気がよくないことも多かったし、天気がよくても、散歩に出かける真を「惜しんで」仕事に励んだり(!)もしたから、これといった写真も、なかったから・・・。


左、ペペ、と、右、はな。

☆★☆「鳥ログ」、「『夢』の鳥」二題。

一つは、ウグイス。今度ばかりは、何度図鑑を眺めても、まだ、違うような気がして、確信が持てないんだけどね・・・。そんな「私」の「不安」をよそに、「特に珍しい鳥でもない」風情で、公園に群れ集っていた・・・。


またも、ウグイス、と思しき鳥たち。左:イネ科植物の穂をついばむ。右:桜の木の枝で・・・。

そして、カワセミ。イソシギの写真を撮っていたら、画面に唐突に「割り込んで」来たのだ。目を射るような「コバルト・ブルー」は見まがいようもない。急いでシャッターを切りまくるものの、「緊張」が手に伝わってしまうのであろうか、やはり、あまり鮮明ではないね。


イソシギを撮っていたら、・・・、うわぁっ♪、カワセミ(カワセミ科)だぁ!、背中の青い色は、オスの特徴。

いつもそうなのだが、川筋に沿って、移動していくものらしい。今日は、上流から、下流へ・・・。あっという間に飛び去ってしまって、ほんの、1分にも満たない、「邂逅」であった。


左:キセキレイ(セキレイ科)。中:イソヒヨドリ(ツグミ科)、雌。右:ふたたび、猛禽類、ミサゴ(タカ科)、上空を、飛ぶ。


アオサギさん、二態。左:あれ、アオサギさん、足を折りたたんで、べたっと、すわってる?、手前は、コサギさん。右:アオサギさんも、片足立ちする。左の方に、イソシギ三羽。

☆★☆

Words_are_flowing_out_like_endless_rain_into_a_papercup....
という唄がありましたな。ビートルズ、「アクロス・ザ・ユニバース」。
そんな風に、言葉が、「流れ出て」来ない、としたら、それは、むしろ、「葛藤」が、ない、ということなのだろう。だったら、それは「回復」している、ってことなのか?

上の写真は、ウスベニニガナ(キク科)。

2009年11月20日

どうして、こんなに、ね・む・い・の・?



すいみん、すいみん、すいみん、すいみん、すいみんぶ・そ・く・!、・・・、だ。
「キテレツ(奇天烈)大百科」、「ドラえもん」と同じ作者の作品だが、次々と「発明品」をポケットから出してくるドラえもんと違って、電気掃除機から作られた「コロスケ」は、特になにか超人的なことができるわけでもなく、「何のために存在しているか?」が不分明なのであったが、・・・、
あれはいつの頃だったか?、平日の夕方に放映されていたそんなアニメ番組を、口を開けて呆然と見ていられたのだから、やはり、まともに働いているとは言い難い、
ある程度の技能を要する「専門職」だから時間給が高く、しかし局所的には供給過剰で雇用機会が少ないから、つねに半失業状態、という、つまり今と同じ、下・等・「遊民」だった頃だろう、同じく、自分が「何のために存在しているか?」に漠然とした不安を払拭できなかったからか、
「拙者も、武士なりぃ!」
などと主張するばかりで何もできない「コロスケ」に、「共感」を感じていた。


「びー」ちゃんのあくび。さすが、肉食動物♪、牙がちゃんと、あるね。

少しも「睡眠不足」なわけではないが、つねに、眠い。そして、横になれば、かならず、眠れる。
「うつ病」を初めとする「精神病」は、概して「不眠症状」を特徴とするはずなのだが、
ここでもまた、自分が「普通ではない」ようであるからこそ、「病気である」と認定して、「安心」を得ようとしていた矢先なのに、
またしても、その「病気」の「普通の症状ではない」、・・・、という「疎外」を味わうことになる。

一生の大半を「眠って」過ごす生き物は、山ほど、ある。それは、彼らが「怠惰」だからではなく、身体のシステムの成り立ちがそれほど「効率」よくできていなくて、わずかの「活動」で消費されたエネルギーを補充するのにより多くの時間を要するからなのだろう。
きっと、私も、そうなのだ。ほら、「生物学」は、いいことを教えてくれるだろ?
「出来が悪い」事を、いまさら恥じようとは、思わない。ただ、「怠惰」である、という認定は、「資本主義」のもとでは、致命的なのだ・・・。

今日は少し、「活動」をしたぞ♪
猫たちの「ノミ駆除」。「亜熱帯」で、気温が高いからなのか?、こんな冬場でもノミが発生する。いや、むしろ、記憶では真夏の方が発生は少ない。
ノミにも「宿主特異性」があるようで、猫に付くノミは人間を刺したりしないようだが、どいつもこいつも、後ろ足で器用に顔を掻いたりしているのを見ていると、また実際にノミの糞や卵が、「ハウスダスト」として充満しているのを想像すると、体中がかゆくなってくる、気がする。


窓際で、まどろむ、ものたち・・・。

「フロントライン」、という勇ましい名称、(「前線」、「戦線」、だからね)の駆虫薬、スプレー式で猫の全身に噴霧する。
薬剤がアルコールに溶かしてあり、エタノールでなく2-プロパノールCH3-CH(CH3)-OH、なのはエタノールより分子量がでかいから揮発性が低く薬剤を体表になじませるのに都合がよいからかしらん?、その、エタノールよりは少し毒性が高いはずのアルコール臭は、こうして26匹もの猫たちに振りかけているとこちらのほうまでむせ返ってしまうほどであるから、ぶっかけられる猫にとってはもちろん、不愉快極まりないものであるらしく、激しく抵抗する。


ちょび。

彼らは、「もの」の印象からその後に引き続く事態の記憶をかなり正確に引き出せるようで、たとえば、私が彼らに食事を出す前には、埃で汚れた食器を拭くためにトイレットペーパーを取り出すのだが、それを「知って」いる彼らは、私が別の目的でトイレットペーパーを手にしたときも、どうやってその「気分」が「伝えられる」のか不思議なのだが、期待に満ちた熱いまなざしで、いっせいに「集まって」来るのだ。
だからもちろん、「フロントライン・スプレー」の容器の形状もちゃんと記憶していて、私がそれを手にして現れるや否や、そう、こんな風に(↑)まどろんでいたときであっても、あっという間に、ベッドの下など、各所に隠れてしまう。
私だって「動物」だから、経験から学ぶことが、少しはできるから、スプレーの容器を隠し持ち、比較的「大人しい」者から順に、「血祭り」にあげていく。大声で騒がれると、「恐怖」が伝染してしまうからだ。
どうしても捕まえられない「臆病者」には、走り過ぎる「的」に向かって液滴を「撃ち込む」ことで満足しなければならない・・・。


左、「みけどん」、右、「ちー」ちゃん。

人間と違って(!)、「根に持たない」、ところが、「動物」のいいところ、かも知れない。さっきまで全身で抵抗し、爪を立て、噛み付いてきたものが、今ふたたび、喉を鳴らして一緒にまどろんでいる。
ノミがいなくなったはずの被毛はさらさらで、より気持ちよく感じられるから、私も、ふたたび、・・・、眠くなる。

2009年11月22日

聞き分けのない女のほほを・・・。



久しぶりだな。また、「仕事」に没頭しておったのだ。
センターテスト数学IIBに「統計資料の整理」という選択問題があるのだが、普通の学校ではそんな余裕ないから教えない分野なのだが、「標準偏差」の計算、くらい、ほんとは理系文系問わず、できる「べき」なのだし、実際、問題もごく簡単なので、
私のような「人気のない」講師であっても、「得意分野」を「強調」して「他との差別化」をはかっていかないと、この時代生き延びれないし、私が生き延びれないのはたいして問題ではないのだが、ひいては、私を「信頼」して、同居してくれている犬猫たちを飢えさせることになってはいけないから、
ここは一つ「がんばって」見よう、と、何年か前から「特別講義」などをしているのだ。
ベクトルや数列が「嫌いで嫌いでしょうがない」数学「アレルギー」の文系の生徒達が、一年に一度だけ私の授業を受けに大教室をいっぱいにしてくれるから、思わず張り切ってしまう。

といって、「統計学」が、得意なわけではない。森毅氏の同僚で河合良一郎先生、という方の「数理統計学」の単位をちゃんと「取得」しているが、もちろん、一度も講義は受けたことはない。この先生も、森先生ほど、「くどい」タイプの新左翼「シンパ」ではないものの、全共闘時代の「確認」事項を律儀に守って、履修登録、単位取得ともに「フリーパス」だったからだ。
確かレポートを一度提出した記憶があるが、それは、教養部D号館の河合先生の研究室のドアにぶら下げられていた「レポート提出用」の封筒から、見知らぬ他人の、よくできそうな学生のレポートを、こともあろうに「盗んで」、もちろんあとで返すけど、当時はコンビにはもちろん、フォトコピーの技術すら普及していない時代だから、貧乏だし、その他人のレポートを書き写すのだ。
老人が言いそうなことだが、確かに「筆写」というのは、勉強にも、なる・・・、などと、まことに「盗人、猛々しい」。
「正規分布確率紙」というのがあって、正規分布の累積分布関数の目盛りに従って横軸が設計されているから、実験データなどの累積度数をプロットしていき、直線に載ったら、正規分布に合致していることが一目でわかる、という、今だからこそ私にもわかるし、今ならエクセルのグラフツールで5分で作れるだろうけれど、当時は、そんな用紙、どこで売ってたんだろう?
「丸善」くらいに行けばあったのだろうか?、私は、その赤の他人のレポートの添付してある用紙の名称すらわからず、結局、そのレポートをどうごまかしたのかは不分明だが、ともかく単位は、取れたのだ。

その後、例の「月間残業200時間で歯茎から血を噴き出してやめた」、会社、とか、そこでは環境アセスメントの報告書作りなんかしていたわけだから、仕事の上で多少の統計学の知識も必要になったから、独・学・で・、学んだりもしたわけだけど、だから、今でも、河合先生の「数理統計学入門」という、学生の時にはついぞ一度も開いたことのない教科書が、多分そこらへんで猫が昼寝をしている衣装ケースのどこかに、大事にとってあるはずだ・・・。

私がその講義の準備などの、「仕事」に没頭している時に限って、猫たちは、身勝手なもので、「遊んでくれ♪」とばかりに騒ぎ出す。


黒猫一家・べび。

で、表題のように、

「聞き分けのない女のほほを、♪
ひとつふたつ、張り倒して、・・・、♪」

と、沢田研二を口ずさみながら、まとわりつく猫の腹を、や・さ・し・く・、蹴っ飛ばしたりしているわけだった。
厳格な「ポリティカル・コレクトネス」の時代を生き延びてきたから、
家父長制下の女に対する「良妻賢母」的「役割期待」の補完物に過ぎない、「雌猫のような・・・」みたいなステレオタイプな形容は、決して用いないし、
「ボギー、あんたの時代はよかった♪、男がぴかぴかのキザでいられた♪」
などとは、決して思わなかったけれど、・・・。
はんふりー・ぼがーど、の映画なんて初めて見たのは、蓮実重彦の「年間400本は見ないと、映画見たことになりません」などという修辞法を真に受けて、映画館通いをしたもう30過ぎの頃、あれは「武蔵野館」だったか、「三鷹オスカー」だったか、・・・。

ちなみに、「雌猫」が特に「甘える」、ということは、ないね。亡くなった黒猫一家のママちゃんなんて、一生を通じて、人間に対して喉を鳴らしたりは決してしなかった「気高い」雌猫だったし・・・。


イソシギ。

そんなどうでもいい話題で、お茶を濁して、今から、仕事に、出かける。
上の写真は、「トックリキワタ」には、白い花も、ある。

2009年11月26日

やはり、それだけのこと、だ・・・。



「分散」、「標準偏差」は、「分布の広がり具合」を知るために用いる。
「分散」は「偏差の2乗の平均」で、計算できる。
各データから集団の平均値を引いたものが「偏差」、これをそのまま全員分足せば当然0になってしまうから、2乗してから足す。人数分足したから、ふたたび人数で割っておく。
2乗した数は全部「正」だから、足せばどんどん増える。その数が大きいほど、平均値からの「隔たり」の度合いが大きい、つまり「広がった分布」であるはずだ。ことがわかる。それを人数一人当たりに換算しているから、同種のデータなら比較して、「おぉ、こちらの方が『広がっている』」とか、議論ができる。
でも、「分散」の示す数の「意味」は、よくわからない。それは当然で、例えばもとのデータがテストの「点数」なら、「分散」の数値は「点数の2乗」、であって、そんな「単位」の数の意味が、わかるわけがない。
そこで、2乗したものはもう一度平方根をとって、もとの「点数」なら「点数」という、理解可能な「単位」に、戻す。これが「標準偏差」。


おまえが、一番、「聞き分けのない」、猫、だっ♪、「ぼうず」。

コインを投げるという「試行」を何回も繰り返す、ことを考えよう。「仕掛け」のないコインなら、「表」と「裏」が出る「確率」が、それぞれ2分の1だ、と、いわれているが、
それは実のところ、どういう意味だろう?
10回くらい、立て続けに、「表」ばかりが出ることだって、ザラにあるじゃないか?
今、まさにコインを投げようとしている人に向かって、「あ、それ、2分の一の確率で、表か裏かです」と言ってあげることは、100パーセント意味がない、というのは、「誰でも知っている」事柄だからではなくて、確率論の適用の仕方を「間違えて」いるからだ。
例えば受験生に向かって、「あなたは来春大学に、合格するかしないか、どちらかだ」と指摘しても、ぶっ飛ばされるかも知れないが、だからといって「○○社の模擬テストで『A』判定だったから、あなたが合格する『確率』は高い!」と言ってくれる人の方が「ありがたい」ことを、少なくとも「理論的」には、意味しない。
コインを投げる「試行」を、繰り返す回数を「無限」化していくと、「表」が出る回数はその膨大な試行回数の2分の1に次第に「収束」していくであろう、という確信が、もちろん有限な生命しか持たない人間にそれを「確認」する方法はないものの、「確率2分の1」の、「意味」であって、だから有限な、どころか「無限」の対極にある、「ほかならぬ次の1回」の「試行」の結果がどうなるかについて、それは、な・に・も・、教えてくれない、と申し上げたいだけでございます・・・。


雨粒を載せた、オキナワスズメウリの葉。

今度は、「コインを10回投げる」というワンセットを、100回くらいやってみる、ことを考える。別に考えなくてもいいのだけれど、特に他にすることがないので、・・・、考える。
その結果、「表」が出た回数、を几帳面に記録していくと、多分、5回でしたぁ!、ということが、かなり多くて、それ以外に、2回だったり、8回だったり、いろいろの結果が出るであろう。
それを「度数分布表」にまとめて、「ヒストグラム」を作ってみれば、まん中、0から10のまん中は5ではないんだけどね・・・、5のあたりが高くて、5から離れるにつれだんだん、山の「裾野」のように広がっていく「分布」形が得られるであろう。
上にくどくどと述べた「確率」の意味からして、今度はこの100回、という回数をどんどん増やしていくならば、この「山」の形、お寺の「釣鐘」のような、とも言うが・・・、は、ある「一定の形」に「収束」するであろう、との「確信」が持てそうではないか?
それが、「正規分布」なのだよ♪、と言っても、たぶん、ぶっ飛ばされるほどの大きな間違いではない、と思う。


満腹、後、の、「びー」。眠いねぇ〜♪おめめ、開いてませんよ♪

話がやっと戻って、「標準偏差」。その「正規分布」の理論値によれば、「平均値」プラスマイナス1「標準偏差」の範囲に68.2パーセント、それより外側、「平均値」プラスマイナス1「標準偏差」と、「平均値」プラスマイナス2「標準偏差」の間に、それぞれ13.6パーセントずつ、・・・、ここまでの合計が95.4パーセントだから、残り約4.6パーセントは、「平均値」プラスマイナス2「標準偏差」の外側、ということになる。
もちろん、あくまで、データが「無限」だったらば、というのが、元来の仮定であったはずであるから、「数えられる」程度の対象を相手にそんな厳密な数字を当てはめても意味がないものの、「標準偏差」という「尺度」で、な・ぞ・ら・え・る・ことは、できる。

「標準偏差」が「教えてくれる」事柄は、多分、その程度なのだが、一方私たちは、幼少の折から、実はこの数値の「脅迫」を絶えず受けてきたのであって、たとえば、
1:「5段階評価」というのは、「平均値」プラスマイナス2「標準偏差」より「外」に「5」と「1」、「平均値」プラスマイナス1「標準偏差」と「平均値」プラスマイナス2「標準偏差」の「間」に「4」と「2」、その間に挟まれる約7割の膨大な「普通の」人々に「3」、を「あてがった」ものであるし、
2:「受験産業」が「発明」した「偏差値」は、「平均値」を50「点」、「標準偏差」を10「点」と「読み直し」て、あたかも100点満点のテストであるかのごとき「錯覚」に依拠して、あ・な・た・が、「60」以上の「上流」、「成功者」、「勝ち組」なのか?、「40」にも満たない「下流」、「敗残者」、「負け組」なのか?、はたまた、その「間」の、膨大な、さして「特徴」すらない、「普通の人」なのかを、『わからせて』くれる、親切なシステムなのだ・・・。

「人生」は「100点満点のテスト」ではない、と、言いたいのではない。それで、何かがわかるのなら、「100点満点のテスト」のテストに「見立てて」も、「なぞらえて」も、「擬して」も、よい。
でも、それはそれだけのことなのであって、
「イデオロギー」という「擬制」もまた、「文化」の隅々を覆い尽くしたその束縛から諸個人がも・が・き・出るためには「病気」になってしまうほど、強力なものであったとしても、・・・、
やはり、それはそれだけのことなのだ、ということが、多分、「声を大にして」、言いたい・・・。

・・・

せっかく作った「おすそ分け」、たった5件のデータですけど、「分散」、「標準偏差」、「相関係数」、計算してみる?

http://www.miyagawasusumu.com/works/math/corr/corrjava.html

「相関係数」の説明は、また、今度ね♪、誰も「待って」ないって・・・。

上の写真は、「空」。おかあちゃん、忙しかったさかいにこんなもんしかないけど冷蔵庫入ってるからチンして食べてね、みたいな感じですが・・・。

2009年11月29日

Friends_and_Enemies



年のせいであるのだろうが、昔の歌がしばしば口をついて出てくる。

Ain't_it_good_to_know_that_you've_got_a_friend,
when_people_can_be_so_cold?
They'll_hurt_you,_yes,_then_desert_you,
and_take_your_soul_if_you_let_them.
Oh!_but_don't_you_let_them.
You_just_call_out_my_name,
and_you_know,_wherever_I_am,
I'll_come_running_to_see_you_again.
Winter,_spring,_summer_or_fall,
all_you_have_to_do_is_call,
and_I'll_be_there,_yes,_I_will.
You've_got_a_friend.

という、キャロル・キングの感動的な歌だったりするのだが、・・・、これは、「間違って」、いるね♪
「誰か」があ・な・た・を傷つけ、そこに「友」がやってきて、あ・な・た・を救出する。
救出してくれるものが「友」であり、傷つけるものは「友」ではない、
「友」ではないものは、「敵」であり、「敵」でないものは、「友」である。
70年代のアメリカ合衆国と、それが「領導」する「世界」は、きっとこんな風にできていて、私たちも、その点に関しては、特に「不満」は、なかった・・・。

「世界」を二つの基準で、切り分ける。
1:Aであるか、Aでないか?
2:Bであるか、Bでないか?
そうすると、通・常・は、4つの部分ができる。
1:Aであり、Bでない、
2:Bであり、Aでない、
3:AでもBでも、ある、
4:AでもBでも、ない。

「対概念」というのは、通・常・、このような構造を持っているのであり、いっぽうを他方の「否定」として、「A」に対して「否A」という風に、「否定文」として、「消極的(negative)に」定義しない限り、かならず、
どちらでも、ある、もの、
と、
どちらでも、ない、もの、
という、「グレイゾーン」が生じる。「グレイゾーン」が存在していることこそが「多様性」の根拠であり、「グレイゾーン」の存在を「寛恕」することこそが、「文化」の作用なのである、

・・・、大げさに、言うのならば、きっと、そういう感じ、だろう♪・・・
(奥田民生「イー自由・ライダー」)


「千鳥格子」、コチドリ(チドリ科)。

あ・な・た・を傷つけ、あ・な・た・を見捨て、あ・な・た・の魂を奪い去ってしまいかねないのが、ほかならぬ「友」であるかも知れないからこそ、・・・、
私たちは、こんなにも、「病み」ながら、生きているのだろ?

私には今、ただの一人も「友」がいないから、こんなことを安・心・し・て・、言える。
「友達がいないと、性格がゆがんでしまう」と、心配でしょうがないから、みんな「友達作り」にいそしむのであろうが、
現に「友達がいなかった、結・果・、性格がゆがんでしまった」人達、も、同じく「病み」ながらではあるが、ち・ゃ・ん・と・、生きている。


では、こちらは、「鶯格子」、ウグイス(ウグイス科)、たぶん・・・。

「生きる」ためにぜひとも必要である、そ・れ・がなければ、「生きていけない」と思われていたもの、が、
実は、なくても、大・丈・夫・なのだ♪、と気づくことは、
むしろ、そ・れ・を持っていないことの「恐怖」から「解放」される、という意味において、
「希望」と、呼んでも、かまわない。

ヴァルター・ベンヤミンは、どこで読んだのか一向に思い出せないのだが、
なにかを「失う」ということは、それが占めていた「空間」が「空けられ」、別のものをそこにおくことができる、という意味において、
それは「希望」にほかならない、
という風なことを言っていた、と、思う。

魯迅は、
「『絶望」の虚妄なること、『希望」に相同じい」
と、言った。


コサギさんの作り出す、「波紋」。

無論、何の関係もない話だ。「ウンチク」だと思って聞き流してくれ♪
私にも、ま・だ・、「友達」がいた、頃の話をしようと思って、はじめたのだが、「時間」のようである・・・。「次回」に、続く・・・。

訂正:前回の記事で、・・・、0と10のまん中は、そりゃ、5だろう?、1と10なら、5.5だけど、やっぱりぼ・け・てるわね?

上の写真は、「風波」の中の、アオサギさん。

2009年12月02日

「おまえの頭を開いて少し身軽になって楽しめ〜♪」



三年半ほども、「大事に」使っていた携帯電話の受信機が、ついに液晶画面の「明かり」が切れてしまって、使えなくなったから、「機種交換」することにした。
「テレビ」は見ないし、「音楽」も聴かない、・・・なんで、電話機にテレビがついてなきゃならんのだ?、などと老・人・ら・し・く・「暴れ」ないのは、はじめて携帯電話機に「カメラ」が付いたとき、同じことを思ったけれど、いざ使ってみると、「お、こりゃ、便利だわい♪」、だったからで、・・・、画面表示やキーボードの文字が「でかい」だけが特徴の、老・人・向・け・の、シンプルな値段の安い機種を、「タダ」同然で購入した。
それでも、「もの」、特にこういう「ガジェット」めいた贅沢品を購入したときは、見せびらかして自慢したくなるのが「人情」で、まして、携帯電話機は「通信機器」なのであるから、「携帯、買い替えたん♪」ということを、「携帯」を通じて「誰か」に伝・え・たくなったのだが、そこで、・・・、
改めて、私には「友達」がいない、という事実に思い至り、前回のような記事に相成ったのだ。

寿命が一年といわれている充電器をだましだましでも、こんなに長くもたせられたのも、単に、「使わなかった」からだ。
その「長寿」の電話機を三年半前に購入したのは、
酔っ払って、公園で眠り込み、鞄ごと「紛失」した、・・・、からであった。
それまでも私は、携帯電話を「円満に」機種変更したことがほとんどなく、いつも泥酔して意識を失い、気がついたら持ち物一式消えていた、みたいな愚行を繰り返してきたのであるが、
そのたびに、携帯電話の「電話帳」とともに、私と「世界」との「係累」も、「リセット」され、それでもたいして不都合なく暮らしてこれた、ということは、かつて私の「電話帳」に「登録」されていた「人々」は、そもそもの初めから、実は「友達」などでは、「なかった」のでは、・・・、などと思い知らされつつ、今日に至る・・・。


昼寝。左:ちーちゃん、と、右:びーちゃん。

その夜、・・・、二月頃であるから、「亜熱帯」とはいえ真冬であるが、缶ビールを片手に、遠浅の砂浜を布靴のまま濡れるのもいとわず、なにか叫びながら走り回っていた、・・・、記憶は途切れて、次に思い出すシーンは、どこかのカラオケボックス、「ジンライム」だか「ウオッカライム」だかの、コップを蹴飛ばして顰蹙を買いつつも、シートの上を「踊り」回りながら、忌野清志郎か奥田民生を熱唱していた。で、次が、「明け方の」公園だ・・・、きっとメジロが鳴いていたことだろう・・・。
どうして「公園」なのか?、どれだけ「飲んで」も、いつも必ず「飲み足りない」と感じてしまうのは、アルコール依存でめっぽう酒が「強い」こともあるが、「楽しい」時間を「永続化」させたい、と切に願ってしまう幼児性、「大人げ」のなさ、なのだろうな?、だからその夜も、お酒を一滴も飲まないのに根気よく付き合ってくれている「友達」が、車でうちのすぐ近くまで送ってきてくれているのに、
「ありがとう♪、もう大丈夫、ここから、歩いて帰れるから♪・・・、そこのコンビニでビール『補充』してから帰るから・・・」
とばかりに、少し手前で降ろしてもらってしまって、言葉通り、コンビニでビールを買い込み、公園や道端で一人で「宴」を「継続」し、ついには動けなくなったからなのだ・・・。


昼寝。左:ちー、右:びー、そこに、中:とら、が、無理矢理、割り込む・・・。

お気づきだろうが、そのとき、私には、まだ、・・・、「友達」が、・・・、いた。
その後の三年半、前半の二年間は、そうやって時にはそんな私を「面白がって」飲みに誘ってくれていた人々も、「日々に疎く」なり、もっぱら一人で部屋にこもって、「泣きながら」、毎晩「日本盛」や「月桂冠」の2リットル紙パックか、カリフォルニア赤ワイン「カルロロッシ」1.5リットルの「尿瓶のような」ボトルを一本丸々空けていたのだし、
後半の一年半は、さすがにそんな愚かな暮らしの繰り返しで「衰弱」も限界に達したようで、きっぱりと禁酒、今度はミルクを飲んで、猫と抱き合い、やはり「泣きながら」眠り、暮らしてきたわけだった・・・。


昼寝。で、また、眠る。左:ちー、中:とら、右:びー。

どうして、その「友達」は、去っていったのだろう?
きっと私には、自分でも気づいていないような、人をうんざりさせるような「暗部」があり、彼らはそれに嫌気がさして、・・・、という「因果論」には、とても説・得・力・があるから、無論それでもいいのだが、
あの夜の海岸も、カラオケボックスも、私にとっては「掛け値なし」に楽しかった「記憶」なのだし、そんな愚かな私を眺めている「彼ら」もきっと、そのときは、「楽しかった」に違いないのだから、・・・、
その「珠玉のような」思い出を、大・事・にしようとするのならば、「友達」というものは、そんなものなのだ!、と、思えば、いい。
つまり、私たちは、「友達」が「友達」である間は、「私たちは、利害関係、などといった『下賤』なものを超えた、『高貴』な人間的な『絆』で結ばれているのよ♪」と夢想しがちだが、いざその「友達」が離れてしまうと、「やっぱりあいつには、どうしても耐えられない部分があってね・・・」などと言い出す。それは、自分が相手を「遺棄」しているかも知れない、というありうべき「罪悪感」から逃れるために、「責め」を相手に負わせるために「捏造」されたロジックであるかも知れず、事実は、単に、「飽きたから」、もはや「退屈だから」、「他にもっと面白いことがあるから」、だけのことで、ならば、この「友達」は、もはや私に「利得」をもたらしてくれないから、「友達」ではなくなりました!、と言えばいいじゃないか?、そのほうが「お互い」すっきり、気が楽になれるじゃないか?、と思うのであった。


トックリキワタ(パンヤ科)、の花と実と、つぼみ。

それって、もうずっと昔の記憶のかなたにかすんでいるけれど、「恋愛」、ってのと、おんなじなんじゃ、ない?
タイトルは、町田町蔵改め町田康、曲名は忘れたが、「INU」の中の一曲。町蔵氏の話題は次回、・・・、この「ブログ」はタイトルや本文中の用語の選び方に「次」が暗示・予告される、という高度な修辞法が用いられているのである・・・。

そうそう、猫トイレに敷く古新聞で、「携帯を変えよう!、人生を変えよう!」という電機メーカーの広告を見つけ、苦笑を禁じえなかった。
ほな、なにかい、古い「人生」の方は、販売店で「リサイクル用」に引き取って「処分」してくれるんかい?

上の写真は、・・・、オニタビラコ(キク科)か?、植物図鑑がしまってあるプラスチック製の「衣装ケース」の上で、猫たちが熟睡しているから、じゃまをしないように・・・。

2009年12月04日

He_is_not_what_he_was.彼は昔の彼ならず・・・。



唐突に、「ヤンバルクイナ」を見たくなって、・・・、名護市の郊外に「ネオパーク」という自然動物公園があって、名護に住んでいたころだから、もう十年前になるかな?、だから、「セプテンバー・イレブンス」の前だし、私も「発病」してなかったし、・・・、「ふれあい広場」みたいなところで、ヤギやラクダ風の動物を間近に眺めてまどろんだりできて、しあわせな時間を過ごせた記憶があったから、・・・、ここから北方に50から60キロくらい、車を運転していくしか方法はないのだが、珍しくそんな「遠出」をしてみたくなったのだ。


ネオパーク名護の、「エキゾチックな」鳥たち。

でも、「駄目」だった。「岩山」を「模した」ハリボテのゲートをくぐるや否や、家族連れやカップルや、「関西弁」の観光客や、・・・、「週末」を楽しむ、それらの無論「罪のない」人々の、会話や笑い声が、本来ならば「ほほえましい」はずの、「間の抜けた」園内アナウンスなども、・・・、いちいち耳に「突き刺さって」来るようで、少しも落ち着けなかった・・・。
だから、ほら、こんな、「アマゾン」や「アフリカ」を「擬した」庭園に放し飼いにされている「エキゾチック」な鳥たちの姿にも、心弾まず、・・・、出かけることを「思いついた」のがもう昼過ぎだったから、到着したのはもう閉園間近で、光量が足りないせいもあるが写真を撮るのもそこそこに、鳥たちの「種名」を立て札で確認することさえ怠った・・・。

まことに、「病む」ということは、「病変」というくらいだから、「昔の私」と「今の私」のつ・な・が・り・が、ちぐはぐに途切れてしまって、こうして「思い出」に浸ることさえ、できなくなってしまうことなのであった・・・。


ネオパーク名護の、「エキゾチックな」鳥たち。あれっ?、まるで、「クロツラヘラサギ」みたいね?


ネオパーク名護の、「エキゾチック」な鳥たち、名前を見るのも忘れた・・・。右後は、アマサギ(サギ科)が、紛・れ・て・いる・・・。

アマサギ、夏羽はその名の通り「亜麻色」だが、冬羽はダイサギ、コサギ同様真っ白で区別がつきにくい、という。コサギ並の大きさで、くちばしが黄色い。山間部の田畑などにやってくることが多いというから、私はまだ見たことがない。これは、きっとアマサギだ!、と、少しは調子が出てきた、かな?

十年前にきたときは、小屋の前に「国道に迷い出てきて事故にあったヤンバルクイナを、保護しています」、とかそっけなく書いてあるだけだった、ように記憶するのだが、何年か前に改装されたらしく、今は、きっと空調や採光の管理なんかもきっちりとできるんだろう、「国際希少動物保護センター」だったか?そういった感じの名称の、立派な建物ができていてもっぱら「ヤンバルクイナ」の保護、人工繁殖にあてられているようだ。ちょうど「繁殖期」が迫っているそうで、人目にさらされるストレスを軽減すべく、立ち入り禁止になっている区画がほとんどで、だから、ほら、「見世物」になっているのは、君(↓)一人だってば・・。


「ガラス越し」の、ヤンバルクイナ(クイナ科)

私としては、同じ「クイナ科」の「バン」には、毎日のように会っているし、その「子育て」の様子さえ、多少は観察してきたから、「なんだ、そっくりじゃん♪」、てな感じで全然「他人のように」思えなかったヨ♪
こうして、念願のヤンバルクイナにも会えたし、少しは「元気」を取り戻してきた。きっと高速道路を50キロも走る、なんて慣れない緊張が、衰弱した神経を逆撫でしてたんだろう、ということにして、・・・、次回は、・・・、いつになるか知らないが、平日の午前中にでもやってくることにして、そうして、マダガスカル産の「ワオキツネザル」とかとも、ちゃんと、お話をすることに、しよう♪


「クイナ科」つながり。放水路の「新」バン・ファミリー、子供たちもすっかり大きくなって・・・。

沖縄本島という島は、とても小さな島であるにもかかわらず、「山原(やんばる)」と呼ばれる「北部」と、例えば私の住んでいる那覇市などが位置する「中・南部」とでは、地形も植生もまるで異なる。
「第三紀(170万年前)」以前の砂岩、頁岩等の堆積岩からなる起伏の激しい山間部と、「第四紀」以降(2万年前まで)に浅い海のサンゴの「遺骸」が堆積してできた「琉球石灰岩」が地表を覆っている平坦な地形の違いなのであるが、(参考:「沖縄の自然歳時記」安座間安史、沖縄文化社)、
なるほど、南部にはまるで山がない。北部の山もせいぜい標高500メートル程度であるから、決して「急峻」というわけではないが、イタジイという、遠くから見るとまことに英名の「ブロッコリー・フォレスト」の通りの丸みを帯びた木々に覆われた山々が延々と続き、その懐深くにこそ、ヤンバルクイナのような希少種たちが、奇跡のように生き延びたのであった。

カラスこそは、スズメ、ハト、と並ぶ代表的な「都市鳥」だろうが、「バード・ウォッチャー」歴半年の私は、家の近くでカラスを見たことがない。本土では、山間部に「ハシブトガラス」、都市部に「ハシボソガラス」が「住み分けて」いるようなのだが、沖縄に生息する「留鳥」としてのカラスは、「ハシブトガラス」のみで、その上こうして「南部」にはまったく山がない、というのもその一因なのだろう。


ハシブトガラス(カラス科)。ネオパーク名護入り口にて。

名護にやってくると、街中のいたるところをカラスが飛んでいる。途中の高速道路の道路わきでも見かけた。
京都では、東山連峰のふもとに住んでいたから、墓地の上空を徘徊するこの「不吉」な鳥たちをいつも見ていたに違いないのだが、今日は、むしろ「アマゾン」や「アフリカ」の珍しい鳥たち以上に、カラスに「久しぶりに」会えたことがうれしく、もっぱらそちらにカメラを向けていたのだ。


ネオパーク名護の、厩舎の周りに集う、ハシブトガラス(カラス科)。

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「うつ病の脳科学」加藤忠史(幻冬社新書)を読んでいる。ここ十年の「めざましい」脳科学の進展によって、「うつ病」の「原因」についても多くのことがわかってきたらしい。
神経突起の「成長」の抑制、だとか、シナップスの「出芽」のメカニズム、とか、あるいは、「双極性障害」の場合、第何番だかの遺伝子上に「因子」が存在している可能性がある、とか、母親から長時間引き離された「ラット」がストレスを引き起こしやすいことからも、哺乳類全体を通じて、養育環境が「うつ」発症の因子の一つである可能性がわかってきた、とか、・・・、
私にとっては、とても興味深く、楽しく熟読してしまうのだが、・・・、

しかし一方で、「病歴」7年の「すれっからし」ともなってくると、少し感じ方も変わってきたようで、今でもありありと思い出せるのだが、はじめて「精神病院」で診察を受けた日、
・・・この耐え難いまでの、焦燥、不快感、絶望、それらが、決して、私の「生き方」が「間違ってきた」ゆえの、私の「責めに帰すべき事由」ではなく、
・・・私の身体の生化学的な「変調」のもたらす現象、ど・こ・に・で・も・あ・る・、「普通の」症状である、ことを、
「他者」がはじめて「太鼓判を押して」、保証してくれた、あの日の、突き抜けるような「幸福感」を、決して忘れたわけではない、・・・、
ものの、やはり一方で、

「私」が「世界」と「折り合い」が付けられないとき、「私」のどこかに「病変」が発見できる、と確信するというのなら、・・・、それと全く同じ根・拠・で、「世界」の方・に・、「病変」がある可能性を排除できないじゃないか?
「空」という漢字の部首が、「うかんむり」ではなく「穴がんむり」であると主張する者が、クラスにたった一人しかいないからといって、それを「間違い」だというのは、単なる「多数決」ではないのか?
などとも、考えてしまうのだった・・・。

「精神病」などというものは、ない。資本主義システムに対する「適応不全」を「病者」として排除する、「イデオロギー」に過ぎない!
精神科医の「卵」達がヘルメットをかぶってアジり、精神病院には赤旗が林立していた時代を通り抜けてきた私たちには、
ちゃぶ台をひっくり返して、「振り出し」に戻してしまうがごとき、「社会病因論」への誘惑は、断ち切りがたいのかもしれない・・・。

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タイトルは、確か太宰治にそういう名の作品があった。授業を聞かずに文庫本を読みふけっている「嫌な」子供だったが、おかげで、「先行詞を含む関係代名詞what」の用法は、すっきり、理解できた・・・。


そうそう、二日続けてカワセミを見かけたのだよ♪、青っぽい左はオスで、赤っぽい右の方はメスではないかと思うのだが、確証はない。

一番上の写真は、ネオパーク名護の入り口の池にいらっしゃった、アオサギさん。真正面♪
足もとには、モミジバヒルガオの花・・・。

2009年12月06日

「無力」を「学ぶ」ことについて、など・・・。



ラットを水槽に入れたり、マウスのしっぽをもって吊るしたりすると、ネズミはもがいたり、じっとしたりする。じっとしている時、おそらくネズミは「絶望」しているのではないか、と推測されている。「三環系抗うつ薬」を事前に注射してから、この実験を行うとネズミが絶望してじっとしている時間よりも、もがく時間が長くなる。・・・
また、ラットは、通常、水と砂糖水の両方が自由に飲めるようにしておくと、砂糖水のほうを好んで飲む。ところが、ラットに慢性的にストレスを加えると、その後、普通の水と砂糖水を同じように飲むようになり、喜んで飲むはずの砂糖水を飲まなくなる。この現象から、ストレスを与えられたラットは、快楽を感じることができなくなっていると想像された。・・・
・・・
3つの並んだケージにラット3匹(A,B,C)をいれる。うち2匹(A,B)には電気ショックが加えられる。
Cには電気ショックは与えられない。
電気ショックを受けるラットのうち、Aは目の前の輪を回すと電気ショックを止めることができる。
Bの前にも輪があるが、これを回しても自分では電気ショックを止めることが出来ず、Aが止めるまで待つしかない。・・・
このセッションを1時間行った後、ホームケージに戻し、24時間後に、別のケージに入れる。ブザーがなった後すぐ逃げれば大丈夫であるが、逃げないと電気ショックが加えられる。
AやCでは、ブザー音により隣室に逃げるようになるが、自分では電気ショックを止められず、隣のラットに頼るしかないというストレス状況に置かれたラットBは、ブザー音によって逃げるという行動を示さない。
これが、前日の「自分で電気を止められない」という経験により、「無力」を学習したと解釈され、「学習性無力」と呼ばれている。・・・
・・・
「うつ病の脳科学」加藤忠史(幻冬社新書)



イソヒヨドリの雄、四態。

例えば私が二年間にわたってお世話になったSSRI、選択的セロトニン再受容阻止薬、も、こんな風に、「絶望」させられたり、「無力」を「学ば」されりした無数のネズミ達のおかげをもって、開発されたてきたのであり、
そんなわずか数ミリグラムの「吹けば飛ぶような」錠剤を飲んだだけで、さっきまで生きるの死ぬのと「のたうちまわって」いた「絶望」がみるみる緩和され、自分が「無力」ではないかも知れないとの、「錯覚」でもいいからもつことができたから、こうして生き延びてくることができたのだ。
どんなに複雑、精緻に見えたとしても、私たちの身体もまた、単なる「化学反応の器」に過ぎない、という、これまた少し異なった意味の「無力」感こそが、「希望」であった・・・。


左:ダイサギ、芝生上を滑空。右:堤の上の、ハクセキレイ。

☆★☆

一日が「飛ぶように」過ぎていく。生きているうちに何事かを「成し遂げ」なければならない、との感覚を失ってすでに久しいから、「最終目的地・final_destination」である「死」に向かって「時間」が見・る・見・る・失われていったとしても、特に「不都合」はないはずなのであるが、・・・、
こうして日々、冬が深まっていく、などという「変化の相」を「環境」が示しているときにはとりわけ、私の身体がそれに「ついていけない」ことが、とても「残念」に思われるのである。


キジバトの「夫婦」、「ミルク飲み人形」?

何日か前に、カワセミの「ホバリング」を、目撃したよ♪
遊水地の池でサギ類などにカメラを向けていたら、ウォーキングをされているご老人が近寄ってきて手招きされて、
「あちらの石の上に、『かわしぇみ』がいますよ!」
と、教えてくださったのだ。
水面を「見渡す」ことのできる、特定の「お気に入り」の場所にいつも止まる。何度も飛び立っては同じ場所に戻ってくる。「獲物」を発見すると、羽を目まぐるしく振動させ「滞空」、長いくちばしをまっすぐに伸ばして水面に急降下・・・。
ずいぶん距離が離れていたから、鮮明ではないけれど、その様を動画に収めることもできた♪、・・・、
そういったことがうまくできると、その「残念」さも少し緩和され、つまりは、「生きていてよかった」と思えたりもするのであった・・・。

一番上の写真は、・・・、「甲羅干し」中のヤエヤマイシガメ(上左端、と、中央)、そして、ゴイサギ(手前)。

2009年12月10日

私たちは「恋する惑星」に、生まれた・・・。



カネシロ・タケシ主演で、ウォン・カーウェイだったっけ?、香港の映画監督、の作品。たわいもない、ラブ・コメディーだが、好きだったな。前も言ったかな?
ラストシーン、どんなだったか覚えてないけど、同じく主演のフェイ・ウォン、王靖文って北京出身の女性歌手だが、その「夢中人」ってタイトルの主題歌のイントロ、
甘ったるいイフェクトの効いたギターが、じゃかじゃーん♪、と始まると、身も心もわくわくして、・・・、何度も見に行ったものだ。

京都の新京極、マクドナルド・ハンバーガーが一階にあるビルの地下に入ったところにある映画館は、「弥生座」だったっけ?

・・・

嗚呼、「関西では、み・ん・な・、『マック』のこと『まくど』って言うんでしょ?」、「えぇ、言いますよ」、「関西では、み・ん・な・、こんにちわ、の代わりに、『まいどっ!』ってあいさつするんでしょ?、やってみて!」、「まいどっ」・・・、
会社の「飲み会」でこんな「受け答え」をしなければならない「理由」がよくわ・か・ら・な・く・て、ある埼玉県の会社を早々に「退職」したこともあった・・・、嗚呼、
が、それはさておき、・・・、

・・・

その新京極「弥生座」のレイト・ショーの「恋する惑星」。閉店間際の近くのダイエー系スーパーで、安い缶ビールと、売れ残り半額引きの寿司かなんかを山ほど買い込んで、最前列に座る。
その頃だってすでに、「世界」と「折り合い」がついているようには感じられなかったし、「恋する」ことももうとっくに「廃業」していたはずなのに、その「たわいもない、ラブ・コメディー」に、ちゃんと「腹を抱えて」泣き笑いが、できた。

いや、今だってできるかもね?、「開演時間」に合わせて映画館に出向き、並んで切符を買ったり、「どこに座ろうかしら?」と見回したり、・・・、と言った「作業」のストレスに、すでに耐えられないであろう、ことを除いては、ね♪


「焼きおにぎり鳥」、ヒヨドリ。「散髪したての丸坊主」みたいな、ばさばさの、「悔い改めない」老「パンクス」みたいな頭が・・・、好きだな♪

で、いささか、「牽強付会」ではあるが、この「惑星」の地殻を構成する元素を重量によって順位付けたものを、「クラーク数」と呼び、1位、酸素、2位、ケイ素、で、あと、アルミニウム、鉄、・・・、と続く。
「土」の大部分はケイ酸(珪酸)化合物であって、ケイ素の「最外殻電子」は四個であるから、これに「最外殻電子」六個であと二個の電子を受け取って安定化しようとする力(「陰性」と申すが、「酸化力」といってもよい)がものすごく強い酸素が結びつくとき、少なく見積もっても、一個のケイ素あたり二個の酸素が必要であるから、酸素の原子量16、ケイ素の原子量29、なるほど酸素が1位になるのも「計算」に合う。
「最外殻電子」が四個であることが、空間でほぼ対等な四方向に広がりを持つことの根拠になっており、あれっ?、空間は「3次元」ではないか?、とも言うがそれは原点から見てプラスマイナスを考えれば六方向なのであって、「同一直線上にない」三点を選べば、かならず一つの平面が「決定」でき、ということはその「平面上にない」あと一点を選べば、空間を構成できる、
つまり、空間を生み出す最小数は「四」なのであって、
「近代」の人間は直方体の建物を建てたりするが、それは空間の有効利用という「経済性」を優先した結果であって、その構造は「ずれ」の応力にとても弱い、ことはピラミッドを建てた古代エジプト人がよく知っていたはずだが、ピラミッドの底辺が正方形の正四角錐なのも実は「経済性」への妥協の産物で、本・当・は・、一点から空間に向かって完全に対等な四方向に、その「余弦cos」がマイナス3分の一、という「美しい」数字にしたがって、広がる正四面体こそが、「最強」の構造物であることは、この「惑星」でもっとも固い物質がダイアモンドであることが「証明」している。
そのダイアモンドを構成する炭素は、「周期表」でケイ素の上に並ぶ、同じく「最外殻電子」四個の元素なのだが、思・え・ば・、この「惑星」上に、「エントロピー増大則」の強大な「圧力」に抗して「生命」が発生したとき、その骨格が炭素原子であったからこそ、・・・、その「生命」は炭素の組み合わせ如何によって、あるものは「ヤンバルクイナ」、あるものは「ジンベイザメ」、あるものは「シアノバクテリア」、そしてまたあるものは「ヒト」や「ネコ」にもなって、それぞれの「空間」の「占め方」を示す「ケータイ」、もといっ、「形態」をもつことができたのだ♪


「クイナ科」つながり。やっぱり、「ヤンバルクイナ」、似てる、でしょ?、左:「新」バン・ベィビー、右:「元祖」バン・ベィビー。

「最外殻電子」が「安定化」を示すマジック・ナンバーである「八」、二個ずつペアの四方向、に近いほど、また「最外殻」が原子核に近いほど「外部」から電子をひきつける力が強くなり、これを「陰性」と申す。「周期表」では、一番右端、すでに単独で「安定化」してしまっている「希ガス元素」、

ヘリウムHe、ネオンNe、アルゴンAr、クリプトンKr、キセノンXe、ラドンRn、だからといって、
「へ〜じょのね〜ちゃんある日車でせ・っ・く・す・の練習」、
京都には「平安女学院」というカトリック系の素敵なお嬢様学校があり、で、「希ガス元素」の順位など暗記する必要も全くないのだが、その品のない悪辣な語呂合わせがあまりによくで・き・て・い・る・ので今でも思わず口をついて出てきそうになって困るのだが、・・・、閑話休題、

を除いて、右、および、上、に行くほど「陰性」が強い道理になる。「この世」でもっとも「陰性」が強い元素は、「フッ素」であり、そ・れ・に・次・ぐ・のが「酸素」である。
そんな風に、隣接する元素から次々に電子を「引き抜いて」しまうような、強力な陰性元素は、とんでもない「毒ガス」であったはずで、
現に、太古の海で「シアノバクテリア」が、二酸化炭素という、それ自体一個の炭素が二個の酸素と結びついているのだから、炭素の「最外殻電子」がすべて酸素に「持っていかれている」、酸・化・状・態・にある炭素から、今度は逆にまわりの水素達から一個や二個の電子を「引き抜いて」しまえる、還・元・状・態・の炭素となって、「糖」などの有機化合物を作るために、周りに山ほど存在している「水」の中の還・元・状・態・にある酸素を利用しよう!、つまり、「酸素」を「酸化」しよう!、などという「暴挙」を思・い・つ・い・た・とき、その副産物として生じた「毒ガス」たる、酸素分子、酸素単体によって、多くの生物が絶滅した、といわれておる。

ということは、酸素の強力な「酸化力」、つまりは電子を引き抜く力、を利用して、有機物を分解して「生きる」た・め・の、エネルギーを取り出すという、こ・ん・に・ち・圧倒的多数の生き物が採用している「酸素呼吸」というシステムは、この「この世」ではじめて「光合成」を行った生き物たる、シアノバクテリアの登場に、はるかに遅れて開発されたことになる。


やっぱり、「仲がいい」、としか見・え・な・い・、「黒猫一家」父と子。左:子(♂)、べび、右:父、ぼうや。

久しぶりに、週末だし、ようけ、しゃべったら、・・・文字数多すぎるって♪、いったん、切るわ。

上の写真は、お昼寝中の、チェリーさん。「水墨画」のような、淡い、「三毛(tri-colours)」でしょ?、だ・か・ら・、♀。

2009年12月12日

ヤマタノオロチ、の、ひどすぎる借金???



で、やっと話が「クラーク数」に戻って、今度はその第3位以降の、アルミニウム、鉄に話題を移すと、「陰性」とは反対に、「周期表」の左、および、下、に行けば行くほど、今度は電子を放出して、電子という「負」の電荷を失って「正」に帯電する性質であるから、「陽性」と呼ばれる性質を強く持つようになる。金属は一般に「陽性元素」であって、その順位が「金属のイオン化傾向」として、
「貸そうかな?、まぁ、あてにするな。ひどすぎる借金」、
などという、今度は口にしてもなんら不都合はないが、一方少しの面白みもない語呂合わせで知られているが、
ところで、電子の電荷はなんで「負」なんすかぁ?
それはね、ベンジャミン・フランクリン、が、電流の向きを決めるとき、そのときはまだ「電子」の存在が知られていなかったから、「こっちだ!」と決めてしまって、電子の流れとは逆であることが後にわかった、という歴史的な「誤り」を「訂正」しないで済ませるための、方便なのでした・・・。

アルミニウムや鉄は、かなり「イオン化傾向」すなわち「陽性」が強い元素ですから、シアノバクテリアが光合成によって放出する酸素によって、こ・と・ご・と・く・、「酸化」されてしまった。それらの金属がすべて酸化しつくされて、もはやまわりに「酸化」すべきものが何もなくなってしまったからこそ、気体の「酸素分子」を含む「大気」が形成され、水生生物が陸上に「進出」することが可能になった、とも言う。
だから、「この世」に存在するアルミニウムも鉄も、すべて、ことごとく、限界まで酸化された、酸化物なのであって、天然には、アルミニウムも鉄も、たったのひとかけらも、「金属単体」としては、存在していない・・・。


屋上に「先住者」が放置したプランター、以前は「ハマスゲ」(カヤツリグサ科)が繁茂し、その「枯れ草」の上で「黒猫一家・ママちゃん」が休んでいたものだ、・・・、
今新たに、ほら、こんなぎざぎざの葉の植物が生え、白い小さな花までつけ始めた。種名は、まだ、・・・、不明である。

一年半前にお酒をやめるまでは、「エコ」を標榜しながらも、毎週○曜日の朝、空き缶回収の日の早朝には、毎週♪欠かさず、「大」のゴミ袋がいっぱいにあふれるほどの、すべてぎっしり缶ビールのアルミ缶の空き缶、を、路地の入り口に出し、・・・、廃アルミニウムを業者に転売して身銭を稼ごうとする人々が、耳ざとく音を聞きつけ、そうね、「ハシボソガラス」のように集まって来られるのを複雑な気持ちで、眺めておったものであったが、・・・、それが今では、「貧乏」になったことも一因だが、アルミもスチールも、缶入りの飲み物を口にすることは、全くなくなったが、・・・、
何が言いたいかというと、各種自動販売機を見ただけでもわかるように、私たちの「近代文明」を支えている中核的な金属元素は、なんといっても、アルミニウムと鉄、これらに尽きる、といっても過言ではないのであるが、・・・、

ということは、「酸化物」以外には「ひとかけら」も存在していないこれらの金属を「利用」できるようになるためには、人類は、これらの金属酸化物を「還元」する方法を、どこかで、獲得しなければならなかった(!!)のである。
鉄の利用は紀元前の「ヒッタイト」にさかのぼる。日本でも、出雲地方の「たたら製鉄」が「神代」の昔から知られ、ヤマタノオロチは、鉄を生み出す「火」と、生み出された「刀」を、表象している、とも言われるくらいである。
アルミニウムはずいぶん遅れる。20世紀の初頭、水素よりもイオン化傾向が高い金属単体を水溶液の電気分解で取り出すことはできないので、金属酸化物、この場合酸化アルミニウム、の結晶を融解する必要があるのだが、数千度の高温にしてもこれが溶けない、・・・、アイスランドに産する「氷晶石」なるこれまたアルミニウム化合物を混合すると劇的に融点が下がることの「発見」が、「工業化社会」の開始を画するものであった、ことの「意・味・」を、私はこの歳になって初めて、・・・、
「氷晶石」はセンターテストに出るから暗記しなさい!、と命令されているであろう高校生を前に「化学」の授業をしなければならなくなって初めて、・・・、「理・解・」した。


水面を見つめるゴイサギさん、なにか、「考え」てる?、ような、表情。

イオン化傾向が水素より大きな金属は、ことごとく「酸」に溶ける。「酸」の本質は、用語・訳語の混乱にもかかわらず、「酸素」ではなく「水素イオン」であるから、金属側が電子を水素イオンに「押し付けて」しまうから、これは「理屈」から当然なのであるが、それなのに、・・・、
アルミニウムと鉄、だ・け・は、そこに濃硝酸をぶっかけても「溶けない」のはなぜか?、「不動態」という強力な酸化皮膜をすみやかに形成してしまうからだ、・・・、と受験生ならばすらすらと答えなければならないことになっている。
そんなこと「人生」の、なんに役に立つのだ?、と私も思っていた。でも、・・・、役に立つのだ♪

その「酸化皮膜」が強力であるからこ・そ・、「人類」は、鉄とアルミニウムだ・け・を、選択的に、「利用」できたんでしょ?、安心して自動販売機の飲み物飲んでいたりできるんでしょ?
「酸化皮膜」が強力であることが、鉄とアルミニウムが「選ばれた」理由である、と同時に、それを「還元」する技術に、「文明」を必要とした、理由でも、あるのである。
では、最後に、毎週○曜日の朝に、おじさんおばさんたちは、空き缶の中から、スチールを残して、アルミだけ持っていくのは、何故?、でしょうか?

「融解塩電解」にはものすごく電気代がかかるので、酸化アルミニウムを主成分とするアルミニウム原石(ボーキサイト)からアルミを作り出すよりも、すでに金属単体であるアルミ製品をリサイクルする方がコストが小さく、したがってアルミ廃材に「いい値段」がつく、からでした(^_^)

で、こんなことを考えているときだ・け・、私は、この「恋する惑星」に住んでいることが、少し嬉しくなって・・・、こんなどうでもいい話を早口でまくし立てているのを、笑顔で聞き流してくださる生徒さんも、ごくまれには、いらっしゃるから、・・・、私は「生きて」いけるので、ございます・・・♪

☆★☆


「ハクセキレイ」、水浴後、羽を乾かしているところ・・・。

・・・
中国地方では、かつて、たたら製鉄が盛んであった。たたら製鉄の原料となる砂鉄は風化した花崗岩から得られ、それを取り出す鉱山技法は「鉄穴(かんな)流し」と呼ばれる。この独特の技法は人力で掘り崩した土砂をあらかじめ引いておいた水路に落とし込み、三段の樋の中で比重の重い砂鉄を選り分けるというものである。
砂鉄は風化花崗岩類にごくわずかしか含まれないので、掘り出された莫大な量の土砂のほとんどはそのまま河川を流れて河口まで運ばれた。この地方では、一七世紀初めから大正期までこの製鉄の手法が盛んだった。鉄穴流しで廃棄された土砂の流出により、赤穂平野や岡山平野では、近世以降に三角州が急速に拡大したとされる。その副産物として、浜には花崗岩に由来した美しい白砂がもたらされた。
一方、瀬戸内海沿岸は製塩も盛んで、一七世紀ごろから入り浜塩田のための大規模な沿岸開発が進められた。当時は製塩の燃料に薪を用いていたので、大量の樹木が消費された。海岸の松はこの需要のために植林されたものだという。風光明媚な瀬戸内海を象徴する「白砂青松」も、もとはといえば鉄と塩を生産する人間の活動によって作り出された自・然・の・風・景・だったわけである。
・・・
「ふしぎの博物誌」河合雅雄編(中公新書)

一番上の写真は、アオサギさん。夕暮れ時、水面に映る「鏡象」と、長い影。

2009年12月12日

「完熟・パパイヤ泥棒」だぁっ♪



琉球王朝時代の王族の住居跡の石灰岩の石組みだけが残されて、周りは亜熱帯の植生の繁殖に任せたままの廃墟になっているような、そんな「昼なお暗い」うっそうたる森が、こんな街中なのに自然公園になっていて、いたるところに「ハブに注意」なる立て札も林立しているから、うっかり「深入り」はできないのだが、「探鳥」の名所でもあり、うちから5分とかからないにもかかわらず、「○○環状線」とか呼ばれる交通量の多い幹線道路を隔てているから、信号待ちだけでも神経が磨り減ってしまう、などと「うつ病」患者らしい言い訳をしないで、機嫌のいい日曜の朝など、カメラを担いで、出かけるのだ・・・、という話は、前もしたな?


シロハラ(ツグミ科)。冬鳥だから、これは、昨シーズン、2月ごろに撮ったもの。

今年の二月、「諸般の事情」で衰弱のきわみにあった頃、やはり、ものめずらしい「耐久消費財の購入」などを通じて、そう、まことに、「人生を変えよう!」というわけか?、特に目的もなく、旧型製品処分で投売りされていたハードディスク・ビデオカメラを「衝動買い」して、初めての「バード・ウォッチング」にこの公園にやってきたとき、いたるところに、この鳥(↑)がいたのだ。
シロハラ、ツグミ科、冬鳥、・・・、古本屋で購入したばかりの「野鳥観察図鑑」で、その「名」を知ることができたとき以来、大・げ・さ・に・言・う・の・な・ら・ば・、
私は、「世界」の新たな「切・り・分・け・方・」を手にすることが出来、まことに、あっさりと、「人生を変・え・る・」ことができてしまった。

「偶然」というものを馬鹿にすることはできないね。シロハラは、地面に落ちた枯れ枝に付着した昆虫類などを食するために、地上を「歩く」ことが多いから、こんな「ど素人」のカメラにもあっさり収まることができたのだ。そのときは、樹上はるか高くで鳴いているヒヨドリとの区別さえついていなかったのに・・・。

そのシロハラを、今年はちっとも見かけない。図鑑によれば、「年によって飛来数が増減するらしい」などとあるから、前シーズンにあんなに簡単に見ておくことができたのは、まことに「僥倖」だったというべきだろう。
それでも、足もとあたりを横切る鳥影をいくつかは、目撃した。ヒヨドリはそんなところを飛ばないから、あれはシロハラだったかも知れない。写真は撮れなかったけれど・・・。


だ・か・ら・、「おみやげ」は、ヒヨドリ。どちらも、逆光のおかげで、いつもはコミカルな「老・パンクス」、「焼きおにぎり」も、美しい「シ・ル・エ・ッ・ト・」。右の方は、モクマオウの木。

このところ、毎日のようにカワセミを見かける。夕暮れ時、水辺の近くにやってきて、じっと水面をうかがっているようなのだが、今回は、「いい獲物が見つからなかった」、というわけなのか?、一向に「ホバリング」を見せてくれず、数回わずかに位置を変えたくらいでほぼ草の上にとどまっていてくれたから、・・・、小一時間にもなったろうか?、カメラの電池がなくなるまで、たっぷり付き合うことになった。


カワセミだぁっ♪、左:対岸から、左側面、中:対岸から、正面、右:背後から、右側面・・・。

遊水地の池は、もちろん人がみだりに入れないように、フェンスで囲まれているので、こんな風に池のほとりの草の上にカワセミが止まっていても、フェンスの外の「観察者」からは、「米粒ほどの」オレンジ色の点にしか見えない。最大の「望遠」にしても、カメラの液晶画面に写るのは依然として「米粒」であるから、その「米粒」を画面中央に置いて機械が勝手に焦点を合わせてくれることを「願い」つつ、ほぼ「手探り」で、「やみくもに」シャッターを切るだけだ。
デジタルデータだからこそできる業で、何十枚もの中から、かろうじて「鑑賞に耐えうる」ものは、実にこのくらいなのである。
左の二枚は「対岸」から、30メートルほども距離があろうか?、もちろん撮影しているときは、老眼でもあるし、「対象」がどちらを向いているのかすらわからない。
「あれっ?青っぽいと思っていたら、今度はオレンジ色だ」、というのが、あとから確かめてみるとこの通り、向きを変えていたわけだ。
その間に飛び去ってしまわないでくれ、と念じながら、池の周りを半周、だから100メートルくらいになるか?、を息を切らせてまわり、ちょうど草むらの陰になってしまうが、何とか、10メートルくらいの距離から、その鮮やかな「背中」を撮影したのが、右の一枚。

☆★☆

私が「因果論」を「目の敵」にするのは、・・・、
「最近よく勉強しているの・で・、模試の『偏・差・値・』が上がってきました」、・・・、などという「罪のない」言葉を「鼻で笑って」見せないと気が済まないのは、
「未来」への「夢」を持つことを当然の権利として行使しようとする「子供たち」の若さを嫉んでいるからではなくて、・・・、

あんたの生き方が「間違って」いたからこそ、あんたは今のように「病気」だとか大騒ぎしたりして見せたりして、現にうまく「生きていけない」ことの「言い訳」をしなければならないんじゃないか?、と日々私を責めさいなんでくる、「因果論」というイデオロギーと、ぜひとも「闘・わ・」なければ、私は生きていくことさえできない、
と、もちろん「錯覚」なのだろうけれど、・・・、感じているからなのだ♪

「うつ病患者」は「両極端」なものの考えをしがちだ、「必要」以上に「悲観的」になりがちだ、という。なるほど、思い当たる節はあるね。
脳の「扁桃体」という部位は、危機に直面したときに「闘うか?、逃げるか?」といった「二者択一」的な、「知性」以前の「本能」的な決定に関与しているらしく、「うつ病患者」の脳の血流は、「扁桃体」の優位を示している、というデータもあるという。


左:ダイサギさん、右:アオサギさん♪

そういった研究成果を、「鼻で笑いたい」とは言っていない。
にもかかわらず、例えば私が、「今出掛けたら、きっととんでもなく不愉快な言葉を耳にしたり、とんでもなく無残な光景を目撃したり、することになるに違いない!」という「妄想」に身も縮み、スーパーマーケットに牛乳を買いに行くことすらできない、のは、
1:私の「扁桃体」に、異常があるから、
なのであって、決・し・て・、
2:「世界」が本・当・に・、「不愉快」で「無残」で、「無慈悲」なことに満ち溢れているから、・・・、
なの「ではない」と、断定されるとしたら、私はやはり「抗弁」しなければならない、と思うのだよ・・・。

私が遊水地で毎日のようにカワセミを見かけるようにな・っ・た・、のは、遊水地のカワセミの「個体数」が「増加」したか・ら・ではないだろ?
毎日のように、遊水地の周りを歩いていても、もう何年もの間、その奇天烈な色合いの小鳥を、一度も見たことがなかったのは、私がその存在を知らず、したがって見ようにも、見ることができなかったからだ。
今、「それ」が見えるのは、私がその「名」を知り、「それ」を「見たい」と、切に願っているからだ。
人は、自ら「見・よ・う・と」するものを、「対象世界」に「発見」する。

あらかじめ「存在」していたものが、「原因」となって、何ごとかの「変容」という「結果」をもたらす、
「結果」がある以・上・、「原因」となるものが、あらかじめ「存在」してい・た・に違いない、
というのは、したがって、時間の先後関係を転倒させており、だから「イデオロギー」だと、言っている・・・。

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上の写真は、ちょっと、「南国情緒」でしょ?、「エキゾチック」でしょ?、完熟パパイヤ泥棒だぁっ♪、シロガシラのペア。左の方は「見張り」なのか?

2009年12月14日

「関係」、の、「発見」・・・。



「幼少期」の音楽的環境、は、劣悪で、映画も大人になるまで観たことがなかった、のだが、「文学的環境」には恵まれておって、確か、文藝春秋の日本文学全集と、河出書房だったかの世界文学全集が揃っていた。その世界文学全集は、B5版くらいの大きさの3段組で、読んでも読んでも次のページに進まない、子供というのは所詮、いや子供でなくても、読書の「喜び」の半分くらいは「読み終わった」という事実だけに基づくものだから、その「達成感」を奪ってしまいかねない「全集」があまり好きではなく、同じ作品を文庫本で、えっと、「万引き」して、手に入れたりしていたものだ・・・。
「さかあがり」や「跳び箱」ができない子供だから、特に読書が好きだった、という記憶もないのだが、せめて「お勉強」ができるようにでもならなければ、「生きている価値」がない(!)という脅迫にも押されて、本ばかり読んで過ごすことになったから、自然、文章を書くほうも「得意」で、・・・、この子は末は「大作家」(!)、などとおだてられてもいたものだが、ほれ、このとおり、・・・、ついに何者にも「なる」ことなく、何事を「達成」することもなく、どころか、「普通」の人々が成し遂げているであろうことすら満足にできないまま、無事まもなく一生を終えようとしているのであるが、それはさておき、・・・、


とらちゃん、もう二歳ぐらいなのに、いつまでも子猫みたいにちっちゃいわね?、ちょっと心配ではあるが、ま、かわいいから、・・・、いいか?

作文を書いて人をして「おぉっ!」などと言わしめることは、実は簡単なことなのだ、などと今でも傲慢に考えているふしがあって、それは、
Aという事実に引き続いて、Bという事実があった、というとき、
「常識」は、Aが「原因」となって、Bという「結果」を生ぜしめた、と教えてくれるのだが、
いや、そうではない、
1:Bが生じたのは、「あなた」がそれを「念願」したからであろう、
とか、もしくは、
2:Bの発生後に、Aという「原因」を、遡及的に、「あなた」が「捏造」したのだ、
などと言えば、「あなた」は「憤慨」するかも知れないが、「憤慨」しているということは少なくとも、その指摘に「動揺」しているのであろうから、この「悪趣味」は、なかなかやめられない。
「事実」として存在しているものを、人間の「頭」の中から飛び出して来たかのように言うのは「観念論」であるが、
一方で、人間はつねに「無意識」と言う名の不気味で暴力的な「同居人」と連れ添っていることもまた、「近代」とともに明らかになってきたから、こんな「転倒」した「説明」も、つねに、可能になってしまう。
だ・か・ら・、AがあってBがあった、したがって、AがBの「原因」である、という「因果論」に対して、つ・ね・に・、論駁することが、可能である。


「黒猫一家」・ぼうや、「上で寝ておったんですが、音がしましたので、てっきりまた、お食事かと、思いまして・・・」

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仕事上、物理や化学の「法則」、「公式」などというものを黒板に書き並べるとき、・・・、

どうして「自然」というのは、かくも美・し・い・「正比例関係」をとっているのだろう♪

と、我知らず「感嘆」してしまうこともあるのだが、いや、そうではない、

人間は、「正比例関係」しか、見ることがで・き・な・い・から、「正比例関係」を満たすような「量」を、発見したのだ♪、・・・、
と、言ってみよう♪
私たちは「3次元・空間」の世界に生きている、と疑いもなく思っているけれども、私たちが「見て」いる「世界」は、どうがんばっても、網膜に映る2次元の像でしかない。
だから、私たちが「同時に」考えることのできる「関係」は、x-y平面上に「グラフ」として描ける、たった2つの「量」の間の「関係」でしかない。

「オームの法則」というのがございますでしょ?
V=IR
ちゃんと3つの「量」があるじゃないか?、ですが、実際は、おそらくその法則が「発見」されたプロセスにおいても、私たちがそれを「理解」するプロセスにおいても、つねに、どれか一つの「量」を「固定」して、他の「2量」の関係を見る、ことしかしてない、つまり、
1:抵抗(R)が一定ならば、電圧(V)と電流(I)は「比例」する。
2:電流(I)が一定ならば、電圧(V)と抵抗(R)は「比例」する。
3:電圧(V)が一定ならば、電流(I)と抵抗(R)は「反比例」する。
というわけだ。しかも、「比例」と「反比例」しか、な・い・のはなんでだ?、いや、それしか「わからない」からですよ。


「黒猫一家」・べび。しかし、ダイエーとかグリコとか、どこで盗ってきたんですか?

x-y平面上に「グラフ」を描いてみたら、なんだかよくわからん「曲線」になった。どうやら「増加」しているらしいが、それが、2次関数なのか指数関数なのか、三角関数の一部分なのか、はたまた、たとえば正規分布の確率密度関数の一部分なのか?、そんなことは、「素人」には、いや「プロ」にだって、わからない。それは人間の「目」という「ハードウェア」の「解像度」の限界なんだからしょうがない。
そうやって「困った」ときにどうするか?、「直線」にな・る・ようにす・る・んです。座標軸に加工を施せばよろしい。
「反比例」だって、中学生に「反比例」のグラフ書かせておいて、「ほら、反比例だろ!」っていうのは「暴力」です。xとyが反比例だということは、縦軸y、横軸にxの逆数(1/x)をとってグラフ描いてみて、「おぉ、正比例になった!」と、初めて「発見」できるに過ぎない。
同じように、「対数」を取ってグラフを書いて直線になったら、元の「量」が「指数関数」的に変化していることが、「わかる」わけです。前にお話した、「正規分布確率紙」も同じ仕掛けです。

「ボイル・シャルルの法則」ってのも、PV/Tは一定である、というのですから、「オームの法則」と同じ「三項関係」で、当然、歴史的にも、「二項」ずつ「発見」されてきたわけです。
1:温度が一定の元では、気体の圧力と体積は反比例する(ボイルの法則)
次に、「シャルルの法則」または「ゲィ=リュサックの法則」と呼ばれるものの初めの形は、「正比例」ではなくて、
2:圧力一定の元では、温度が一度上昇すると、体積は、摂氏0度のときの体積を基準にして、その1/273ずつ増加する、
というものだ。
これは傾きが一定の直線、だから、「目に見える」ものではあるが、「原点」を通ってくれないので、何かと扱いにくい。そこで、・・・、
その直線を負の温度の側に「外挿」していくと、摂氏マイナス273度のところで、「体積」が、な・く・な・っ・て・しまう、ことになる。
いかにも面妖なことではあるが、その摂氏マイナス273度が「原点」になるように、座標軸を加工する、単に平行移動するだけだが、そうすると「正比例関係」が、取・り・戻・せ・た・、ではないか?
こうして、「正比例関係」を満たすよ・う・に・、「絶対温度」という「量」が、「発見」され、・・・、
では、絶対0度で「体積」が「消えてしまう」ことになるのはなぜか?、ということから、はて、「温度」というものは気体分子の運動エネルギーの総和を「表象」しているのではないか?、などということも、多分、わかってきたわけだ。


イソヒヨドリは、屋上が、好き?、左:雄、右:雌。

ニュートンが、リンゴの実が落ちるのを見て、運動の法則を発見した、というのは、無論作り話であろうが、
運動方程式、
F=ma
が、その発見から数百年を経ても、依然として「わかりにくい」ものであるのは、いわば当然で、私たちは「加速度」などという面妖なものを決して「理解」することが出来ないからだろう。
ジェットコースターが降り始めるときに悲鳴を上げるのを、「加速度」がかかった、といってみたりするのは、ちゃんと「運動の法則」を知った上での後知恵であって、そのとき私たちの身体が「観測」しているのは、「加速度をもって移動する系に拘束された観測者」に作用する「慣性力」、というべきなのだろう?

サー・アイザック・ニュートン氏は、「外力」と「正比例関係」にたつものを、リンゴの木を見ながらでもいいが、おそらく必死で、探・し・た・、そうして、探し当てた「それ」を、「加速度」と、名付けた。

何が言いたいんだ?って?、えっ、「関係」というものは、「ある」ものではなくて、人間が「作る」ものなんだ、って、言いたい、多分・・・。
だって、「学歴」と「年収」が比・例・する、とか、「努力」と「成功」が比・例・する、とか、言われたくないもん♪

☆★☆

〈人間〉にとってこの〈乗法〉の了解のかなめになる正比例が、近代的な〈自然〉の法則のかなめにもなっていることは、かなり興味あることだ。・・・
おそらくそれは、この〈人間〉というのが近代的人間の了解の形式であり、その〈自然〉が近代的人間によって認識される自然法則だ、ということを物語っているだけのことだろう。
「数の現象学」森毅(ちくま学芸文庫)

一般的に言うならば、物理学の概念は、法則の成立とともに、ないし法則の成立の後に、他ならぬその法則的関係そのものによってはじめて明確に定義されるのである。法則の成立に先立って明確な概念が存在し、法則が事後的にそれらの概念を関係づけるのではない。
「熱学思想の史的展開・1」山本義隆(ちくま学芸文庫)

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一番上の写真は、春によく見かけたノアサガオが、また、咲く「季節」になったらしいのだ?、「亜熱帯」は、よくわからん、ということで・・・。

2009年12月16日

For the young, and the young at heart...



お金持ちの「子弟」の通う私立男子高校に、・・・それはたまたま父親がそこの教師をしていたから授業料が半額になったからなのだが、「間違えて」入ってしまい、「身分の違い」を痛感させられたものだった。
着ている服の値段が、私のと「級友」のとで、多分一桁違ったんだろうな?、それに気がついていないのが、本人一人だけ、というのが笑えるのだが、・・・、今でも、「塾の講師」などという仕事をしているから、そして、この時代になお「偏差値」の高い大学を受験しようとする子供たちは、「裕福」なご家庭の出身であることが多いから、そんな子供たちが、「貧しい」級友の持ち物を、それとなく上品に「鼻で笑ったり」するのを目撃すると、胸が痛むし、「義憤」にも駆られる・・・。

「バブル」の時代には、私のような者といえども多少の「小金」があったから、明らかに似合いもしない「デザイナーズ・ブランド」の服を浅ましく欲しがったのも、その「反動」だったのだろうが、今は「ユニクロ」みたいな廉価な服を着ていても「恥ずかしい」思いをする必要もなく、少なくともそれだけでも、「いい時代」だと思うよ♪

その頃、1970年代初頭の若い「男の子」の高級な服の「ブランド」は、「JUN」と「VANジャケット」と決まっていた。もちろん当時、着たことはないし、その名前すらおぼろげにしか知らなかったのだが、「VANジャケット」の方は、その後、全然異なる「文脈」から、その名に出会うことになる。

当時は左翼系の労働組合が、まぁ、今の感・覚・で言えば「好き勝手な」要求を掲げ始めると、それを嫌った小さな企業の経営者は「偽装倒産」をして全員解雇するみたいなことが頻々と行われていたのだろうが、実際に技術を持った組合員を追い出してしまえば生産ができなくなる、経営者が「逃げて」しまったあとも、工場をいわば「不法占拠」する形で、労働組合が「自主管理」している工場が、街のいたるところにあったりしたものだ。
「総評全国一般・ヴァンジャケット労働組合」の赤旗が翩翻と翻るのを、実際に三里塚かどこかの全国集会で見たのか、はたまた、左翼の機関紙に掲載された写真で見たに過ぎないのか、今となっては「時代考証」することもかなわない・・・。


にこぷー。

大学の四年生のときだったろうか?、すでに「何もやる気がない」病に取り付かれてはいたものの、漠然と「闘わ」なければならないとだけは急き立てられていたからだろう、「労働フィールド合宿」、南大阪のそんな労働組合「自主管理」中のごく小さな鉄工所に一晩泊り込んで、「労働」を「体験」したり、現場「労働者」と「交流」したり・・・、する企画なんだが、参加したことがあったな。
あんな長大な鉄板が、いとも軽々と肩の上に持ち上げられるのかがどうしても呑み込めず、「仕事」としては無論何の役にも立たなかったのだが、鉄板を研磨する削りかすが目に入ってしまって、もう高齢の無口な職人さんが、工場の中庭の日当たりのいい場所に私を座らせ、まことに信じられないくらい繊細な指先で、「魔法のように」、その小さな鉄片を取り除いてくださったのだけは、・・・、今でも、くっきりと覚えている・・・。

☆★☆

「アマゾン」で注文した本の帯に「レヴィ=ストロース、追悼」とあって、つい最近「闘うレヴィ=ストロース」渡辺公三(平凡社新書)で、100歳過ぎてなお執筆を続ける姿を伝え聞いていたばかりだったから、・・・、おかしな表現だが、「あぁ、間に合わなかった」などと感じてしまったものだ。
「資本主義を語る」岩井克人(ちくま学芸文庫)、で90年代の初めに書かれたものだが、網野善彦との対談があって、・・・、今「インターネット」で「検索バカ」してみたら、網野善彦も2004年に亡くなっているんだね。
わたしも・、ま・た・、「闘わ」なければ、と急・き・立・て・てくれたこれらの人々が亡くなっていくのは、時間の「取り返し」のつかなさ、を痛感させるけど、「生き物」は必ず一度は死ぬのであるし、それに関しては、「レヴィ=ストロース」に関してであっても、「私」に関してであっても、そう、野良猫の「ママちゃん」が亡くなって悲しい、というのと決して「選ぶところはない」のだ、とまでは、「達観」できるようになってきた、と思う。


いちこぷー。

・・・
私は、高校教師を十一年間していましたが、授業の最初に「教科書はひとつの参考書であり、ひとつの見方を示していると考えておいてほしい、自分は自分流に話すから、それぞれを参考にして自分できちんと勉強して欲しい」と言っていました。やはり自分の頭で考えた歴史しか話せないし、教育もできません。
・・・
「歴史の中で語られてこなかったこと」網野善彦、宮田登(洋泉社新書)

☆★☆

高校で歴史の教師をしながら「日曜郷土史家」であった父を、私はついぞ「愛せなかった」ようなのだが、「○○先生古稀記念出版」と銘打たれた、おそらく彼が単独で出版した最初で最後の書物だろう、その「前書き」に「歴史家」としての「矜持」を読み取って、私は生まれて始めて父を少しだけ、「尊敬」した・・・。
その本は今も押入れのどこかに転がっている。明治時代の北摂地方の鉄道敷設について詳細に論じられたその文章を、読むことは、もう、きっとないとは思うけど・・・。

冬の夜長はいろいろなことを思い出す。話し始めたのはそもそも、「VANジャケット」、・・・、うちから車で30分くらいの街にある「ジャスコ」に、開店当初は「VANジャケット」の店舗があって、過去を懐かしむ私のような年代向けなのだろう、円滑に「リタイア」する幸福な「中産階級」(?)、およびその子孫、・・・、みたいな商品構成だったな、バーゲンのときに買った確か1500円のトートバッグ、
For the young, and the young at heart...
のロゴも入っていたが、それが、前にお話した、泥酔して「鞄ごと」携帯電話なくした、ときの「鞄」だったから、・・・、思い出したのだ。

上の写真は、「家庭菜園」のカタバミの花。

2009年12月18日
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