公園の・タマ
ジェリーとポンのことにまぎれて、ほぼ、「忘れていた」けど、こんなやつもいつの間にか増えてたのだ。去年の暮れ、クリスマスの頃かな、ポンを拾った直後だ。同じ公園に、今度こそは、明白に、ロコツに、捨てられていた。

バケツ一杯くらいあろうか?大量のエサとともに、こいつは、公園の屋根のあるベンチのそばに、そう、捨てられていた。飼っていた猫を捨てるのに、心の痛まない人はいない、だろう。だから、その「心の痛み」から逃れるために、その「心の痛み」を抱えつつも、明日からも生きなければならない。まさに、明日からも生きなければならない何らかの事情があったからこそ、猫を捨てなければならなかったんだろうから、その「心の痛み」を和らげるために、「ごめんね〜!」って涙をいっぱい流してみたり、せめてお別れのときにおなかいっぱいにしてあげようと思って、たくさんエサをおいてあげようって、それをいちいち責めようとは思わない。思わないけど、・・・仕事の帰りに真夜中に公園通りかかって、あれっ?見かけない猫だな?

なんじゃ?この大量のエサは?・・・こんな「わかりやすい」捨て方するな〜!!発見したこっちの身にもなってみてね。

猫を捨てる人は、その猫が「死んだらいい」と思って捨てるわけじゃないでしょ?「死ぬかもしれない、そしたらかわいそうだけど、・・・でも、誰かが拾ってくれるかもしれない!」って考えて捨ててるんでしょ?で、拾ってくれる人は超・大富豪で、猫の百匹や二百匹くらい放し飼いにしてられるお屋敷に住んでいる、わけ?捨てられた猫を見かねて拾ってしまう「心の弱い」人は多分、やむをえない事情で猫を捨てざるを得なくなったあなたと同じくらい、貧しくて、余裕がなくて、小心で、・・・。猫一匹引き受けたら、お金もかかるし手間もかかる、近所迷惑にならないか?、大家に文句言われるんじゃないか?あなたがかつて猫の飼い主であったとき、引き受けていたであろうすべてのストレスを、ひょっとしたらあなたよりずっと貧乏で、弱虫の人間に押し付けてしまっているかもしれないのよ!!?

でも、もう、それも、いいよ・・・。
ともかく、こいつは、公園のベンチの上に、逃げもせず、多分「呆然と」座っていた。近寄ると、少し離れる。でも明らかに「野良」的な警戒心は欠けているね。こんなつやつやの毛並み、昨日までふかふかのソファで眠ってたんだろ?こんなひ弱な飼い猫、ここで生きていけるわけないよ。

はいはい、わかりました。つれて帰ればいいんでしょ?・・・家に戻ってかごを取ってきた。ベンチの近くにかごを置いて、ふたを開けたら、近づいてきて、・・・自分から入った。
ちょっと涙出た。「やっぱりお迎えにきてくれたんだ!」って思ったのかなって・・・。

タマって、呼ぶことにしました。面白い顔でしょ?アビシニアンていうの?そのグレイの被毛がバブル的な高級感かもし出していて、「シーバ」って言う高級キャットフードのコマーシャルに使われている。赤いドレスに金ぴかのアクセサリーじゃらじゃら付けたヨーロッパ系白人の女が、不機嫌そうなこのアビシニアンとキスするの、見ている方が恥ずかしくなるような時代錯誤。なんだけど、このタマちゃんの顔は、どこをどう間違えたのか、「高慢」といったステレオタイプな猫的属性とはかけ離れてしまったようだ。

自分から付いてきたくせに、家に着くと、見知らぬ猫がたくさんいるからとても怖かったんだろう、丸々2週間ばかり、ほかの猫だろうが、エサや水を換えに来た私だろうが、小屋の窓から全身で威嚇し続けた。でも、怒りと恐怖に震えながらも、ご飯はたくさん食べ、健康なウンチもいっぱいして、ジェリーとポンの介護で手一杯だった私は、あんまり相手もしてなかったんだけど、いつのまにか、甘やかされた飼い猫の気分を取り戻したのか、今では私のおなかの上で眠るようにもなった。

何日かたって、公園に犬の散歩に行って仰天した。タマちゃんとそっくりなアビシニアンが、もう2匹いたのだ。放置された大量のエサの意味がわかった。3匹同時に「捨てた」というわけだったのだ。

これらの2匹は、タマに比べると多少は警戒心があって、公園の野良生活にも、それなりに適応しているようだ。近所のボス猫と「同席」しているところも見かけたから。
心が痛んだ。兄弟を引き離してしまった、のかも知れない・・・。でもオレのせいじゃない!黙れ!わかっている、そんなこと。もはや、そういう問題、じゃ、ない。
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